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2014年1月13日 (月)

一口問答(三願転入5)

雑行が信前に捨てられるのかどうか、なんか大騒ぎしている人がいますが、もし高森顕徹会長の言うことを信じた上でのことであれば、高森会長の言葉をよく知ってください。

今回の『なぜ生きる2』では、三願転入と蓮如上人との関係を敢えてぼかしていますが、『本願寺なぜ答えぬ』では

 如来の、これらの願心を、蓮如上人は、こう説かれる。
 獲信までの道程で、十九願(自力の善根)を励んでいるのを雑行、二十願(他力の中の自力)を雑修といい、二願の相手の共通点は、自力の心だから、
「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて」
十八願(他力の中の他力)まで進みなさい、と。

と言いきっていました。

平成23年7月号の顕真の「宿善と聴聞と善のすすめ」にも、

 弥陀に救われる(信心獲得)までの道程で、弥陀の救いを求めて行っている諸善(十九願)を「雑行」とし、名号を称える功徳(二十願)などで助かろうとしている五正行を「雑修」と説かれている。
 それらの雑行(十九願)や雑修(二十願)に共通するのが、自力の心(十八願を疑っている心)であるから、『御文章』には、
【もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて】
無碍の一道(十八願)まで進みなさいと、常に教導されているのが、蓮如上人である。

としています。

高森会長の説明によれば、

雑行=19願
雑修=20願


ですから、

19願を離れて20願に入った=雑行を捨てて雑修をする

となります。
つまり、20願に入るには雑行を捨てなければ入れないことになります。
それとも、20願に入っても19願を離れていない、言い換えると三願転入は間違いか。
あるいは、「雑行=19願」が間違いか。
いずれでしょうか。

説明するのが馬鹿らしくなりますが、雑行を信前に捨てることができないと拘っているのは、高森会長の主張に反する人ですよ。

今回紹介した高森会長のこの主張が間違いと思うのであれば、他も間違いだと思うべきでしょう。

長くなりましたが、一口問答です。

問い

弥陀はすべての人を、要門・仮門より誘導して、無碍の一道・絶対の幸福に救い摂ってくださるのです。その文証が「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)です。意味は、阿弥陀仏が十九の願に勧める善を、釈迦は『観無量寿経』一巻に定善・散善の二つで解き明かされている、です。

答え

定散諸機をすすめけり」が故意に省略されています。「定散諸機」について高森会長は「弥陀の救いを求めて、定善や散善を実行する人々」(なぜ生きる2)と言ってますよ。つまり、定散二善を実行できる人に対して、釈尊は定散二善を説かれたということですから、定散二善を実行できない悪人に対して定散二善を説かれたのではないことになります。
親鸞聖人は、定散二善を実行できない悪人のことを「逆悪の機」といい、「定散諸機」と区別されています。「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)。

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コメント

会長は本当に「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて
十八願まで進みなさい」と思ってるんでしょうか?
こんな解説は真宗では普通にあるものなので真似しただけじゃないでしょうか?
普段、先ず善をしなければならないとしつこいまでに主張する者の言うことと違うようですが。

投稿: | 2014年1月14日 (火) 02時06分


以前の記事へのコメントだから気づかなかったと言い訳されないように、
最新記事にもコメントしておきますね!

都合が悪いからって削除したり、変なコメントいっぱいつけてこの
コメントが見れないように煙幕はらないでくださいね(笑)

過去に、都合の悪いコメントを消したり煙幕はったりは何度も見て
きましたから。

では、質問です。
以下の部分の(たんぽぽさんとやりとりした)新人太郎さん

えっと、もうややこしいから、今後はたんぽぽさんとやりとりした

新人太郎さんは、「飛雲太郎さん」って呼ぶことにしますね。


いい直します。

飛雲太郎さんと、飛雲さんの意見は同じですね。

以下の部分が最終結論でしたね。

/////////////////////////////////////////////////////////

●たんぽぽさんのコメント


挑発には乗らないといっていますから、無駄ですよ。

今までは、それで成功したこともあったのかも知れませんけれど、

話を別のところに持っていって、色々な質問をいっぺんに出してきたり、

まったく関係ない一覧で煙幕をはったり。

もう、すべてお見通しなのですから、あがけばあがくほどみっともないですよ。

そう思われませんか?

「脳みそ」「小学生」云々の言葉づかいも、幼稚に見られますよ。念のためにお伝えしておきますが。。。

あくまで1つずつ順番に話します。

その方針を変える気持ちはありません。

まず、蓮如上人からです。

1つの根拠の○×さえ認められない人に、別の議論は出来ません。

ちなみに、その雑行の表も、あなたが勝手につくったものですし。。。

さて、ちょっと甘やかしてしまいましたが、今度こそ

★最終の忠告★

としましょう。

下記の二つの問題に、次のコメントでちゃんと答えなければ、

「新人太郎は間違っていました」

と認めることにします。

もう、他の読んでいる人たちもウンザリでしょうから。

【最終結論】

【1】

●親鸞聖人  「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力」
                      (自力に非ず)

    根拠:「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。
         明かに知んぬ。是れ凡聖自力之行に非ず」

                    『教行信証・行巻 304ページ』

●新人太郎さん「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

【2】

●蓮如上人  「雑行(往生のためにする善・五雑行ではない)は他力で廃る」       
         ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
         (雑行は、たのむ一念で廃る)     

●新人太郎さん「雑行(往生のためにする善・五雑行ではない )は自力で廃る」
         ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
        (雑行は、自力で信前に何度も廃る) 

 ★下記の蓮如上人のお言葉が一念でないことを明らかにしてください。
  できなければ、「雑行(往生のためにする善・五雑行ではない )は一念で廃る」
  が正しいと認めたこととします。

 (他のお言葉を出して、ごちゃごちゃ言い出た場合

  「すみません、答えられないので、他の言葉でごまかしました。
   逃亡しようとしていました。
   新人太郎が間違っていました」

 と認めたことにします。

蓮如上人の根拠

(もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、
 一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、
 御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
 【たのむ一念】のとき、往生一定御たすけ治定

      『領解文』真宗聖典 975ページ)

(「聖人の御流は、【たのむ一念】のところ肝要なり。
 故に、たのむということをば代々あそばしおかれ候えども、
 くわしく何とたのめということをしらざりき。

 然れば前々住上人(蓮如上人)の御代に『御文』を御作り候いて、

 「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」

 とあきらかにしらせられ候。
 然れば御再興の上人にてましますものなり」

    『蓮如上人御一代記聞書188』真宗聖典904ページ)

【要約】

【1】

○親鸞聖人   自力に非ず(他力)

○たんぽぽさん 自力に非ず(他力)
               
●新人太郎さん 自力

【2】

○蓮如上人   他力

○たんぽぽさん 他力

●新人太郎さん 自力

投稿: 玉見 | 2014年1月14日 (火) 20時06分

念のため、こちらにも証拠もあげておきます。

これも、消したり、煙幕はなしですよ!(^^)


//////////////////////////////////////////////////

●たんぽぽさんのコメント:

 それにしても終わりにしたい一杯ですね。

 ところで、

 「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力の称名

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時

 それでよろしいですね。

(返答日時: 2013/12/17 20:16:43:JST )


●新人太郎さんのコメント:

違うと言ってますが

(返答日時: 2013/12/17 20:18:41:JST )


●たんぽぽさんのコメント:

答えをいただき有難いです。

新人太郎さんの主張

【1】「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

【2】「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

ということがやっと分かりました。

投稿: 玉見 | 2014年1月14日 (火) 20時07分

玉見 様

すでに終わった内容を質問してくるとは、驚きましたが、いいでしょう御要望にお応えしておきます。

>【1】

>●親鸞聖人  「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力」
>                      (自力に非ず)

>    根拠:「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。
>         明かに知んぬ。是れ凡聖自力之行に非ず」

>                    『教行信証・行巻 304ページ』

>●新人太郎さん「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

これについては、明らかに否定されているのに、それをしつこく言ってくる気持ちが判りませんが、はっきり言っておきます。
法然上人が「称名はかならず生ずることを得」と仰った称名は当然他力です。
親鸞聖人もこれは他力だと仰っています。当然のことです。
そんなことを一々説明する必要があるのかということです。
ただし、これを自力と考える人も多いので、それを親鸞聖人が誡められた。


以上で何か問題がありますか。


>【2】

>●蓮如上人  「雑行(往生のためにする善・五雑行ではない)は他力で廃る」       
>         ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
>         (雑行は、たのむ一念で廃る)     

>●新人太郎さん「雑行(往生のためにする善・五雑行ではない )は自力で廃る」
>         ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
>        (雑行は、自力で信前に何度も廃る) 

これもすでに説明が有った通りですが、理解できないのか理解したくないだけなのかでしょう。

まず
>蓮如上人の根拠

>(もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、
> 一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、
> 御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
> 【たのむ一念】のとき、往生一定御たすけ治定

については、最新のエントリーで書いた通りです。
雑行=19願
雑修=20願
であるなら、20願に入った時点で19願を離れ雑行を捨てていることになります。
これが違うなら、三願転入は嘘だと言うことです。

「【たのむ一念】のとき」がどうなるかは、「往生一定御たすけ治定」ですが、何か難しい話ですか。

「【たのむ一念】のとき、」同時に雑行を捨てる、とは国語が判れば読めませんが。

証拠として出された

>●新人太郎さんのコメント:

>違うと言ってますが

>(返答日時: 2013/12/17 20:18:41:JST )

が明確に否定した証拠ですが、何か問題でもありますか。

投稿: 飛雲 | 2014年1月14日 (火) 20時27分

新人太郎さんの主張

【1】「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力

【2】「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

投稿: 飛雲 | 2014年1月14日 (火) 20時34分

ややこしくなってますが、こういうことですよね。

飛雲さんの雑行の解釈

1.法然上人・親鸞聖人
  正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。
2.蓮如上人
  正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。

宮田さんの雑行の解釈

1.法然上人・親鸞聖人
  正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。
2.蓮如上人
  a.正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。
  b.自力の心で、たのむ一念で捨てる。

宮田さんは、蓮如上人が雑行と仰った場合に2通りあるとしたところですね。それで問題となっているのは、善が信前にすてることができるかの話なので、

b.自力の心で、たのむ一念で捨てる。

は、当たり前のこと。

b.自力の心で、たのむ一念で捨てる。

をもって飛雲さんと宮田さんの雑行をすてることの解釈が分かれるのではない。
論理のすり替えがあることに注意が必要。

投稿: 論点は? | 2014年1月14日 (火) 21時55分

とどのつまりは、

雑行=自力の心

という意味であったなら、何も問題にならない。

善が信前に捨てられるのがどうかを問題にしているのに、いつのまにか自力の心が信前に捨てられるのかどうかにすり替えられている。

 ↑

ここに注目!!

投稿: 論点は? | 2014年1月14日 (火) 22時02分

まあ、とりあえずこんなサイトがあるからおさらいしてみてはいかが?

http://tanpopotohiuntarou.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

またまた消すなんてケチなことしないでね。(^^)

ちなみに、新人太郎さんは「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

を否定したのでなく、「間違った」っていったんだよ。

そして、「間違っても問題ない」っていったの。

飛雲さんも、問題ないって思ってるのね?

投稿: 玉見 | 2014年1月14日 (火) 22時16分

ちなみに、新人太郎さんは「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

を否定したのでなく、「間違った」っていったんだよ。

そして、「間違っても問題ない」っていったの。

 ↑

レビューを見てましたが、そんなこと書いてなかったと思いますよ。
具体的に教えてください。

投稿: 論点は? | 2014年1月14日 (火) 22時21分

「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力でも他力でも、雑行を捨てるの意味は変わらない、とはありましたが、
どこにも、「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力だ、とはありませんでした。

やっぱり捏造でしたか。

投稿: テラ | 2014年1月14日 (火) 22時36分

もう一度書きましょうか。

「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力です。

間違えたら問題があるから、親鸞聖人は誡められた。

これなら理解できますか。

投稿: 飛雲 | 2014年1月14日 (火) 22時53分

玉見さんは、何をいいたいのかさっぱりわかりません。
三選の文の「称名」は他力以外に解釈の余地がないと思いますが、なんで自力になるのか。
新人太郎さんも飛雲さんも自力ではないと明確に否定しても、それを認めないし、勝手に主張を捏造するし、なんなのでしょうか。

「雑行」=「自力の心」なら、「雑行」=「十九願」とした高森会長の説明は嘘になるし、
領解文で「雑行」=「十九願」なら、三願転入によって信前に「雑行」=「十九願」を捨てることになる。

どちらでも高森会長の説は間違いとなり、完全に詰んでいるのに、相手が詰んでいると勘違いした人が玉見さんです。

難しい教学を知らなくても、玉見さんがおかしいのは誰でもわかります。

投稿: あいび | 2014年1月15日 (水) 01時56分

あいび 様

親鸞会では日常茶飯事の勘違いです。

投稿: 飛雲 | 2014年1月16日 (木) 21時00分

「被害者」さん「論点は?」さんが、こう書いてますが、飛雲さんはこれで正しいという見解でしょうか?

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ややこしくなってますが、こういうことですよね。

飛雲さんの雑行の解釈

1.法然上人・親鸞聖人
  正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。
2.蓮如上人
  正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。

宮田さんの雑行の解釈

1.法然上人・親鸞聖人
  正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。
2.蓮如上人
  a.正行以外の諸善で、自力で信前に捨てることができる。
  b.自力の心で、たのむ一念で捨てる。

宮田さんは、蓮如上人が雑行と仰った場合に2通りあるとしたところですね。それで問題となっているのは、善が信前にすてることができるかの話なので、

b.自力の心で、たのむ一念で捨てる。

は、当たり前のこと。

b.自力の心で、たのむ一念で捨てる。

をもって飛雲さんと宮田さんの雑行をすてることの解釈が分かれるのではない。
論理のすり替えがあることに注意が必要。

投稿: 論点は? | 2014年1月14日 (火) 21時55分

とどのつまりは、

雑行=自力の心

という意味であったなら、何も問題にならない。

善が信前に捨てられるのがどうかを問題にしているのに、いつのまにか自力の心が信前に捨てられるのかどうかにすり替えられている。

 ↑

ここに注目!!

投稿: 玉見 | 2014年1月18日 (土) 20時29分

玉見 様

見落としていました。
これでいいと思います。

投稿: 飛雲 | 2014年1月18日 (土) 22時02分

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