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2014年1月22日 (水)

「しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし」とは。

親鸞会では、三願転入の文ばかり強調していますが、浄土真宗において強調すべきは法然上人の書かれた三選の文です。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

は、浄土宗はもちろんのこと浄土真宗でも極めて重要な御文です。
なぜなら『教行信証』は、この三選の文の解説書とも言われますし、『尊号真像銘文』でも解説がなされています。存覚上人も『浄土真要鈔』で引用されています。
一方で、三願転入の文は、『教行信証』化土巻以外では、全く見かけません。

にもかかわらず、親鸞会で三選の文を紹介することは極めて稀で、三願転入の文ばかり取り上げます。私の記憶では、三選の文を高森顕徹会長が説法で紹介したのは30年程前の1度だけです。

さて、三選の文は、文章としては難しくないので、普通に読めば普通に理解できる筈ですが、親鸞会の人は、普通に読まずに、高森邪義を絡めてとんでもない読み方をします。その典型例が南風さんでしょう。

まず、「しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。」は、そのまま、聖道門を捨てて浄土門に入れ、です。
聖道門とは、自分の力でさとりを開いて、最終的には仏になるという教えです。それに対して浄土門とは、浄土に往生して仏のさとりを開かせて頂くという教えです。
明らかに道が違います。浄土門を選ぶということは、諸善によってさとりを開く道をとらないことを意味します。

前回も言いましたが、聖道門における諸善は、雑行ではありません。なぜなら、往生の為にする善ではないからです。

再度紹介すると、『選択本願念仏集』

善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

とあるからです。
親鸞聖人も『教行信証』化土巻で以下のように仰っています。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。

雑行は、「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。」とあるように、もともとは往生の因ではない諸善を、浄土往生の為に修するのが雑行ということです。つまり、聖道門での諸善を、行はそのままで往生の為に修すると、雑行になるのです。

ということは、他の仏に向かっての諸善もそのまま往生の為にすれば雑行になるのですから、五雑行だけが特別な扱いになるのではありません。

『愚禿鈔』には、

上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず

と同じことが書かれています。
定善と散善の行自体は、元々聖道門で教え勧められる諸善ですが、それを往生の為にすると雑行になります。
ただし、正行になるものもありますので、それは除いてです。そのようにコメントもしたのに、敢えて無視する人がいますので、念の為書いておきました。

まとめると、聖道門を捨てて浄土門に入るとは、簡単に言えば、自力でさとりを開くことを断念して、浄土往生を目指すことをいいます。

雑行は聖道門の行」「散善である布施・持戒は雑行ではない」「定散二善は五雑行と対立する」という発想は、雑行の最低限の定義すら知らないところからくる誤解です。聖浄廃立云々言える立場にさえないのです。

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コメント

>聖道門とは、自分の力でさとりを開いて、最終的には仏になるという教えです。

というところは

聖道門とは、自分の力でさとりを開いて、最終的には【この娑婆世界で】仏になるという教えです。

としたほうがよいかもしれません。聖道・浄土の二門は「此土(娑婆)か彼土(浄土)か」という点で決定的な違いがありますから。

また『銘文』において、もとの「三選の文」で

~助業を「傍らにして」~

となっているところを

~助業を「さしおくべし」~

と註釈なさっているところには注意すべきだと思います。

投稿: 薄縹 | 2014年1月22日 (水) 21時39分

薄縹 様

コメント有難うございます。

>聖道門とは、自分の力でさとりを開いて、最終的には【この娑婆世界で】仏になるという教えです。

は、実は迷いましたが、敢えて抜きました。揚げ足取りの会員なら、弥勒菩薩は兜率天で修行しているではないか、と言いそうだからです。
くだらない議論を避けるための書き方ですが、一応このままにしておきます。

『銘文』の件は、注意しておきます。

投稿: 飛雲 | 2014年1月22日 (水) 21時48分

なるほど、心得ました。もう一度エントリーを読み返しましたが「自力聖道門・他力浄土門」という差別(しゃべつ)をされているわけですね。ここはそれでよいと思います。

それにしても「弥勒菩薩は~」などという挙げ足取りまで想定しなければならないとは、高森親鸞会(の関係者)が如何に仏教を「他人事」としてしか考えていないか知れますね。

投稿: 薄縹 | 2014年1月22日 (水) 22時02分

薄縹 様

まさに他人事です。

投稿: 飛雲 | 2014年1月23日 (木) 20時59分

親鸞会の諸善の定義が建築や畳の数なら少ないと思いますよ

創価学会は公明党を含むと万に近いんではないでしょうか
百も二百も年間に建てられない会がなんぼホラ吹いても誰も取り上げませんわ

その実諸善なんて目的ではないんですよね

新設の会館の数少ない=ハッパかける気がない=会員の諸善の事なんてどうでもいい=詐欺がばれる

ちなみに創価学会の墓園はすごくきれいで広いらしいです

一方親鸞会の墓はあるにはあるがペット霊園と同じような本棚に並べられ…

投稿: あん | 2014年1月25日 (土) 16時41分

あん 様

所詮はその程度ということです。
情けない会長と会です。

投稿: 飛雲 | 2014年1月26日 (日) 19時52分

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