「なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし」とは。
正行について、言葉だけは親鸞会でも教えているので御存知の方ばかりでしょうが、法然上人の説明を紹介すると、『選択本願念仏集』に
一には読誦正行、二には観察正行、三には礼拝正行、四には称名正行、五には讃歎供養正行なり。
第一の読誦正行は、もつぱら『観経』等を読誦するなり。すなはち文(散善義)に、「一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」といふこれなり。
第二に観察正行は、もつぱらかの国の依正二報を観察するなり。すなはち文(同)に、「一心にもつぱら思想を注めてかの国の二報荘厳を観察し憶念す」といふこれなり。
第三に礼拝正行は、もつぱら弥陀を礼するなり。すなはち文(同)に、「もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼す」といふこれなり。
第四に称名正行は、もつぱら弥陀の名号を称するなり。すなはち文(同)に、「もし口称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称す」といふこれなり。
第五に讃歎供養正行は、もつぱら弥陀を讃歎供養するなり。すなはち文(同)に、「もし讃歎供養せばすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす」といふこれなり。
とあります。説明は不要と思いますが、一応前回のことも踏まえて言っておきますと、布施に代表される六度万行は雑行です。
この正行の中で正定業と助業とに分かれることも、御存知とは思いますが、法然上人のお言葉で
一には正業、二には助業なり。初めの正業は、上の五種のなかの第四の称名をもつて正定の業となす。
とあります。これも説明は不要でしょう。
ですから三選の文の
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。
もそのままです。
しかし、親鸞聖人はこの部分を少し変えておられます。
『尊号真像銘文』には
「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。
とあり、法然上人よりも強い表現となっています。
念仏を専らにするということは、助業を捨てて、念仏一つと心を定めることだということです。
従って、親鸞聖人は、この念仏を真実信心の念仏、つまり他力の念仏となされているのですが、真宗ではこんなことは常識だと思います。それを取りたてて、「この念仏が自力か他力か」と質問する方が、おかしいでしょう。
それでこれまでのことをまとめると、
聖道門を捨てよ=聖道門の行を捨てよ=自力でさとりを開こうとする道を捨てよ
雑行を捨てよ=往生行の中で、正行以外の定散二善を捨てよ
助業を捨てよ=念仏一行を選べ=念仏1つと心を定めよ
ということです。
大きくは3段階に分けられているのですが、細かく分けると最後の
念仏一行を選べも、
自力の念仏を捨てて他力の念仏に帰せ
ということになります。
聖道門を捨てるのは、簡単にできます。同様に、雑行を捨てることも簡単です。助業を捨てて念仏一行も、親鸞聖人の教えを信じているなら簡単です。しかし、念仏一行となっても、信心が自力か他力かが問題ですので、ここが難しいのです。自力の信心から他力の信心へとなるのと、行において念仏一行となることとは同じではありません。
三願転入をしなければならないというものでもありません。最初から念仏一行を選択することはもちろん可能です。
ところが、法然上人、親鸞聖人の仰せを捻じ曲げて、いつまでも雑行である布施を強要しているのが高森顕徹会長だということをよく知るべきでしょう。
| 固定リンク
「三願転入」カテゴリの記事
- 三願転入の復活か?(2022.01.08)
- 『なぜ生きる2』の出版から7年ー5(2020.12.29)
- 『なぜ生きる2』の出版から7年ー4(2020.12.24)
- 『なぜ生きる2』の出版から7年ー3(2020.12.18)
- 『なぜ生きる2』の出版から7年ー2(2020.12.09)
「三選の文」カテゴリの記事
- 「因果の道理を知らんのか!」と法然上人・親鸞聖人を攻撃した聖道門、「因果の道理を知らんのか!」と退会者を攻撃する親鸞会、聖道門と同じ土俵で勘違いの親鸞会(2020.04.22)
- 「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」が絶対に理解できない高森顕徹会長(2018.01.19)
- 「往生の正因は念仏を本とす」という親鸞聖人のお言葉を全否定する高森顕徹会長(2017.07.23)
- 高森顕徹会長、教に昏くして浄土門の門戸を知らず(2014.08.17)
- 高森邪義は、「真宗の廃立にそむき、祖師の御遺訓に違せり」(2014.01.31)
コメント
雑行を捨てよ、はよく分かりますが、
助業を捨てて念仏一行と言われると、勤行はしないようにしたほうが良いのか、
という疑問が生じます。
よろしければ詳しく教えていただけないでしょうか。
投稿: 質問 | 2014年1月26日 (日) 19時38分
これについて、蓮如上人が以下のように教えておられます。
『御一代記聞書』
のたまはく、朝夕、「正信偈和讃」にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、「正信偈和讃」は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。
(現代語訳)
「朝夕に<正信偈和讃>をおつとめして念仏するのは、往生の因となると思うか、それともならないと思うか」と、蓮如上人が僧たち一人一人にお尋ねになりました。
これに対して、「往生の因となると思う」というものもあり、また、「往生の因とはならないと思う」というものもありましたが、上人は「どちらの答えもよくない。
<正信偈和讃>は、衆生が弥陀如来を信じておまかせし、この信心を因として、このたび浄土に往生させていただくという道理をお示しくださったのである。
だから、そのお示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、ありがたいことだと親鸞聖人の御影像の前で喜ぶのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。
こういうことです。
お勤めをすることで往生できる、と思うのは間違いです。お勤めをすることで信心を頂けると思うのも間違いです。
聴聞も同じですが、お勤め、聴聞自体がそのまま信心だと思ってください。
投稿: 飛雲 | 2014年1月26日 (日) 19時50分
それにしても マインドコントロールってやつは本当に恐ろしいですね。
これだけ説明してもまだ 会長が正しいって思ってるんでしょうね。
いい加減に幹部講師で立ち上がる人はいないのか。
胸が痛みます。
投稿: あきれた | 2014年1月27日 (月) 01時13分
早速のお答え有り難うございます。
聴聞や勤行がそのまま信心であるというのは目からうろこでした。
以前から疑問に思っていたのですが、今回エントリーで話題になっていたので、
これは好機と思い質問しました。
投稿: 質問 | 2014年1月27日 (月) 18時45分
あきれた 様
講師部員は、保身のことしか考えられないのだと思います。
質問 様
また何かあれば、いつでもコメントください。
投稿: 飛雲 | 2014年1月27日 (月) 19時56分
YouTubeでこんなの見つけました
他人事なら笑えました
世界まる見え史上最大級のドッキリ『この世の終わり』
投稿: はなまるき | 2014年1月28日 (火) 13時43分
追記失礼します
ドッキリの方は立派な人間になってほしい、がありますしいい人たちみたいです
カルトは毒とトブばかりなので救いはありません
投稿: はなまるき | 2014年1月28日 (火) 13時46分
なかなか込み入ったところまで質問する機会がないので教えていただけないでしょうか。
弥陀一仏になりきれてない往生のための善が雑行というのはよくわかりましたが、
弥陀一仏に向かっての善も、三選文の雑行に入るのでしょうか?
投稿: Q | 2014年1月29日 (水) 14時29分
五正行
①読誦正行。浄土の経典を読誦すること。
②観察正行。心をしずめて阿弥陀仏とその浄土のすがたを観察すること。
③礼拝正行。阿弥陀仏を礼拝すること。
④称名正行。阿弥陀仏の名号を称えること。
⑤讃嘆供養正行。阿弥陀仏の功徳をほめたたえ、衣食香華などをささげて供養すること。
これ以外は、すべて雑行だと親鸞聖人がおっしゃってますので、その通りでいいのではないですか?
弥陀一仏に向かって布施をするのは雑行ではない! とかなんとか親鸞会ではいいそうですが、親鸞会や会長に布施をして弥陀一仏はおかしいでしょ。
投稿: A | 2014年1月29日 (水) 15時12分
Q 様
>弥陀一仏になりきれてない往生のための善が雑行というのはよくわかりましたが、
>
>弥陀一仏に向かっての善も、三選文の雑行に入るのでしょうか?
どうも、高森邪義に毒されて、正しい意味が理解されていないと思います。
弥陀一仏に向かっての善とは、何を指して仰っているのでしょうか。
もし、それが六度万行のことなら、雑行です。
Aさんのコメント通りで、会長や親鸞会などに布施をして、それで弥陀一仏に向かっての善と言われるのなら、間違いです。
五正行に六度万行は入りません。
弥陀一仏に向かって親孝行をするというのも、意味が判りません。
この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく。
これが雑行の定義ですから、正定業・助業以外の善は、すべて雑行です。
三選の文では、雑行である六度万行を捨てよ、です。助業でさえも捨てて正定業である念仏一行に帰せよ、が親鸞聖人の教えです。
親鸞会で教えていることは、ことごとく邪義と考えられた方が無難です。
投稿: 飛雲 | 2014年1月29日 (水) 18時15分
はなまるき 様
目の付けどころがおもしろいです。
投稿: 飛雲 | 2014年1月29日 (水) 18時16分
全然違うのですね!
人を法話に誘ったり、財施は六度万行なので、それは、親鸞聖人、法然上人共通して雑行なのですね、
弥陀一仏に向かってとか向かなないと関係なく。
投稿: Q | 2014年1月29日 (水) 22時17分
Q 様
弥陀一仏に向かって、というのが、そもそもおかしいです。
六度万行の相手は弥陀ではありません。布施をする相手は弥陀ではありません。
あくまで、往生のために六度万行をするというだけのことで、雑行は往生行ですからそれは当然なことです。
往生の為ということと弥陀一仏に向かっては、違います。
投稿: 飛雲 | 2014年1月30日 (木) 06時43分
失礼します。
念仏することが、「弥陀一仏に向かっている」ことになり、
往生のために六度万行、親孝行などの善をすること自体が、
「弥陀一仏に向かっていない」と理解しました。
正しいのでしょうか?
よろしくお願いします。
投稿: わかりません | 2014年1月30日 (木) 23時07分
わかりません 様
その御理解で正しいですが、揚げ足とりをしたい人が何人もいますので、補足すれば念仏を助ける業としての助業も「弥陀一仏に向かっている」ということにはなります。
しかし、「一向専念無量寿仏」=「念仏一行」ですし、「ただ念仏して弥陀にたすけまいらす」=「念仏一行」ですから、助業のことも考えなくてもよいと思います。
投稿: 飛雲 | 2014年1月31日 (金) 06時53分