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2014年1月16日 (木)

一口問答(三願転入7)

『なぜ生きる2』には、高森顕徹会長は意味も知らないのに、七深信について載せていると、以前に紹介しました。高森会長は、七深信の5番目、第五深信を、『愚禿鈔』を引用して

第五には、唯仏語を信じ決定して行による。

と書いていますが、もちろん意味はまるで判っていません。
親鸞聖人は『教行信証』信巻に善導大師の深心釈を引かれています。

また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。

(現代語訳)

また、深く信じるものよ、仰ぎ願うことは、すべての行者たちが、一心にただ仏の言葉を信じ、わが身もわが命も顧みず、疑いなく仏が説かれた行によって、仏が捨てよと仰せになるものを捨て、仏が行ぜよと仰せになるものを行じ、仏が近づいてはならないと仰せになるものに近づかないことである。これを、釈尊の教えにしたがい、仏がたの意にしたがうという。これを阿弥陀仏の願にしたがうという。これを真の仏弟子というのである。

ここで「仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て」とは何かといえば、「行による」ですから、「行」である雑行雑修を捨てよです。「仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず」は念仏を行ずです。

前回の内容を再度言っておきます。

真実の行と真実の信がそろって、報土往生できます。
したがって、方便の行と方便の信を捨てよ、と親鸞聖人は教えられています。
真実の行とは念仏、真実の信は他力の信心、方便の行とは諸善、方便の信は自力の信心。

方便の信だけを捨てるのではありません。方便の行も捨てるのです。もちろん往生の為にです。

では前回と今回を踏まえて一口問答です。

問い

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということで、「諸善」や「万行」の「行」を捨てよではありません。

答え

親鸞聖人は「不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ」(教行信証信巻)と仰って、衆生の修する「諸善」や「万行」の「行」を捨てよと仰っています。
また高森会長は七深信中の第五深信を「第五には、唯仏語を信じ決定して行による。」(なぜ生きる2)と紹介していますが、この元は「仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て」(教行信証信巻)ですので、「諸善」や「万行」の「行」を捨てよと深信したのが、真実信心です。

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コメント

仏教とは、浄土真宗とは、なんとわかりやすい教えであることかと、飛雲さんの解説を読んで率直に思います。
でも、こんな解説のできている方を寡聞にして他に知りません。

私は、教えを分明に知らずに、それでも聞き分けさせて頂きました。思えば奇跡のようなものだったのですね。仏祖のお導きの賜物と言うより他はありません。南無阿弥陀仏。

高森さんの元を離れ、彷徨ったあの頃が懐かしく思われます。
「一心にただ仏語を信じて身命を顧みず」現会員さん達の行動されんことを、念じてやみません。南無阿弥陀仏。

投稿: 元会員です | 2014年1月17日 (金) 03時45分

深心釈は漢文を読み下し文にしたものですか?
「決定して行によりて、~」の意味がつかみにくいんですが。
決定して行において、といってもいいのかな。

投稿: | 2014年1月17日 (金) 13時28分

元会員です 様

>「一心にただ仏語を信じて身命を顧みず」現会員さん達の行動されんことを、念じてやみません。

全く同感です。

名無し 様

「行によりて」は「依行」です。行を依りどころとする、という意味です。行においてとは、違います。

投稿: 飛雲 | 2014年1月17日 (金) 20時00分

やはり漢文からですね。それなら判ります。

投稿: | 2014年1月17日 (金) 20時22分

真の仏弟子になりたければ高森会長に近づくな、離れろとの仰せですなあ
同じ愚禿抄にある外に賢善精進の相を得ざれ、というのは会員に崇高な人格者のように思わせている高森会長のこととも解せるし、あの会長はなにもかも教えとは逆のことをやってますね。
間違いの見本みたいな人物です。

投稿: | 2014年1月18日 (土) 06時56分

名無し 様

間違いの見本ですか、まさにその通りと言えます。

投稿: 飛雲 | 2014年1月18日 (土) 20時25分

それにしても、「○」「×」の区別がつかない人に分かってもらうのは
大変ですね。

不本意ですが、このレベルからいくしかないようです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

(例1)

【たんぽぽさん】

・Aについては「○」でいいですね。

【飛雲太郎さん】

 違うと言ってますが

【たんぽぽさん】

 飛雲太郎さんの主張が、

・Aについては「×」

 ということがやっと分かりました。


【飛雲太郎さん】

(後になって)

・Aについては「○」でも「×」でもいい。

(大分後になって)

・私がいつ、Aについては「×」といいましたか?

(さらに後になって)

・Aについては「○」です。

 間違ったのではない、明確な否定です。


(例2)


【たんぽぽさん】

・Bについては「○」でいいですね。

【飛雲太郎さん】

 違うと言ってますが

【たんぽぽさん】

 飛雲太郎さんの主張が、

・Bについては「×」

 ということがやっと分かりました。

【飛雲太郎さん】

・Bについては「×」


【飛雲さん】

>・Bについては「×」

が明確に否定した証拠ですが、何か問題でもありますか。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


ありえない話なので、整理しても理解が難しいですが、
ありのままに展開をみると、こうなっています。


【たんぽぽさん】

・Aについては「○」でいいですね。
・Bについては「○」でいいですね。

【飛雲太郎さん】

 違うと言ってますが

【たんぽぽさん】

 飛雲太郎さんの主張が、

・Aについては「×」
・Bについては「×」

 ということがやっと分かりました。

【飛雲太郎さん】

(後になって)

・Aについては「○」でも「×」でもいい。

(大分後になって)

・私がいつ、Aについては「×」といいましたか?

(さらに後になって)

・Aについては「○」です。

 間違ったのではない、明確な否定です。

・Bについては「×」です。

【飛雲さん】

>・Bについては「×」

が明確に否定した証拠ですが、何か問題でもありますか。


★つまり、

【たんぽぽさん】が、

>・Aについては「○」でいいですね。
>・Bについては「○」でいいですね。

と質問したのに対して

【飛雲太郎さん】は、

>違うと言ってますが

と答えました。

そして、【たんぽぽさん】が

> 飛雲太郎さんの主張が、
>
>・Aについては「×」
>・Bについては「×」
>
>ということがやっと分かりました。

と確認し、すぐには反論がありませんでした。
ところが、後で色々いったあげく、結論は、

>・Aについては「○」
>・Bについては「×」

としたのです。

しかも、Aを「○」と答えるべきところを間違えて「×」と
答えてしまった訳ではない、と強弁するのです。


さて、困ったものですね……。


以下が具体的な内容です。


●たんぽぽさんのコメント:

 それにしても終わりにしたい一杯ですね。

 ところで、

 「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力の称名

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時

 それでよろしいですね。

(返答日時: 2013/12/17 20:16:43:JST )


●新人太郎さんのコメント:

違うと言ってますが

(返答日時: 2013/12/17 20:18:41:JST )


●たんぽぽさんのコメント:

答えをいただき有難いです。

新人太郎さんの主張

【1】「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

【2】「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

ということがやっと分かりました。


●たんぽぽさんのコメント

 称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに)

 この直後の親鸞聖人の解説のお言葉も紹介しておきましょう。

 「明かに知んぬ。是れ凡聖自力之行に非ず」『教行信証・行巻 304ページ』

 ※「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力に非ず。他力であることが
  明らかになる。


●飛雲太郎さんのコメント

「称名はかならず生ずることを得」の称名が自力であっても他力であってでも、

 雑行を捨てて正行に帰すのは、「称名はかならず生ずることを得」の前にあるから、

 正行に帰した時点で雑行を捨てていることになる。

 こんなことは、小学生でも判りますよ。

 ※自力でも他力でもいいと2、3回主張を繰り返す。


●飛雲太郎さんのコメント

私がいつ

新人太郎さん「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

と言ったか?言ってもいないことを言ったかのようにしか言えない卑怯者。


●たんぽぽさんのコメント

以下が証拠です。

 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 
前の投稿への返答(返答日時: 2013/12/17 20:14:58:JST )

たんぽぽさんのコメント:

 それにしても終わりにしたい一杯ですね。

 ところで、

 「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力の称名

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時

 それでよろしいですね。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

あなたの投稿に対する返答(返答日時: 2013/12/17 20:16:43:JST )

新人太郎さんのコメント:

違うと言ってますが

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

前の投稿への返答(返答日時: 2013/12/17 20:22:16:JST )

たんぽぽさんのコメント:

新人太郎さんの主張

【1】「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

【2】「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

ということがやっと分かりました。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

(反論なし)

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
 以上、根拠でした。

言い訳は見苦しいだけですから、やめたほうがいいですよ。


●飛雲太郎さんのコメント

【1】「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

まずこれは明確に否定しました。


●飛雲さんのコメント

「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力です。

 間違えたら問題があるから、親鸞聖人は誡められた。

 これなら理解できますか。


●飛雲さんのコメント

>●新人太郎さん「雑行(往生のためにする善・五雑行ではない )は自力で廃る」
>         ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
>        (雑行は、自力で信前に何度も廃る) 

証拠として出された

>●新人太郎さんのコメント:

>違うと言ってますが

>(返答日時: 2013/12/17 20:18:41:JST )

が明確に否定した証拠ですが、何か問題でもありますか。

          投稿: 飛雲 | 2014年1月14日 (火) 20時27分

投稿: 玉見 | 2014年1月18日 (土) 20時25分


 ここで、まとめておきましょう。


             ■まとめ■

●たんぽぽさんのコメント:

 「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力の称名

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時

 それでよろしいですね。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●新人太郎(飛雲太郎)さんのコメント:

 違うと言ってますが

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●たんぽぽさんのコメント:

 新人太郎(飛雲太郎)さんの主張

【1】「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

【2】「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

 ということがやっと分かりました。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●飛雲さんのコメント

「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力です。

 間違えたら問題があるから、親鸞聖人は誡められた。

 これなら理解できますか。


●飛雲さんのコメント

「【たのむ一念】のとき、」同時に雑行を捨てる、とは国語が判れば読めませんが。

 証拠として出された

>●新人太郎(飛雲太郎)さんのコメント:

>違うと言ってますが

>(返答日時: 2013/12/17 20:18:41:JST )

 が明確に否定した証拠ですが、何か問題でもありますか。

          投稿: 飛雲 | 2014年1月14日 (火) 20時27分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり、同じときの答え

>違うと言ってますが

を一方では、間違いと明らかになった後に、

「違わない」答えとし、

もう一方は、

「違う」と明確に否定した証拠

としている。

支離滅裂なので、ここまでまとめてもまだ分かりにくいのですが……。

投稿: 玉見 | 2014年1月18日 (土) 20時27分

★確認★

で、くどいようですが、飛雲さんも、

「一念ですてる(廃る)雑行などない」

という主張ですね。

新人太郎(飛雲太郎)さんは、そう主張していますから。


得意の煙幕はらずに、

「ある」「ない」でシンプルに答えてね(^^)


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


飛雲太郎さんが

「一念ですてる(廃る)雑行などない」

と言った根拠

 ↓↓↓↓


■たんぽぽさんのコメント:

「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、
 一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、
 御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
 たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定」

雑行が廃るのは、たのむ一念のときです。

信心決定まで、雑行は廃りません。

自力(信前)と他力(信後)は水際立ちますが、

自力(信前)に水際たつものはありません。

19願も20願も信前です。


■新人太郎(飛雲太郎)さんのコメント:

どこに、

雑行が廃るのは、たのむ一念のとき

とありますか?どこに同時とあります?
嘘を言わないように。


■たんぽぽさん

「聖人の御流は、たのむ一念のところ肝要なり。

 故に、たのむということをば代々あそばしおかれ候えども、

 くわしく何とたのめということをしらざりき。

 然れば前々住上人(蓮如上人)の御代に『御文』を御作り候いて、

 「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」

 とあきらかにしらせられ候。

 然れば御再興の上人にてましますものなり」

    『蓮如上人御一代記聞書』

■新人太郎(飛雲太郎)さんのコメント:

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は、
雑行を捨てて、その後で、後生たすけたまえとですが。
どこに、雑行を捨てたと同時に弥陀をたのめとあるのですか?


■たんぽぽさん

蓮如上人は「たのむ一念」のことを、

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」

といわれているのですから、一念同時ですよね。

一念に時間差があるのでしょうか?

雑行が廃るのは、たのむ一念ですから、信心決定するまで雑行は廃りません。

信前に、水際立つものはありません。

19願、20願は信前です。


※この後、新人太郎(飛雲太郎)さんは、

 五雑行のご文を出してきて、雑行は「一念で廃るものではない」と主張を始め、

 最後まで「一念で廃るのではない」と言い張る。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

【飛雲さん自身】

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

        投稿: 飛雲 | 2014年1月14日 (火) 20時34分

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


まあ、まさか宮田さんが、蓮如上人がいわれた雑行は一念で廃るものが多いと

いったからって、「一念で廃る雑行もある」なーんて言い出さないでしょうね。

言ったら、ほんとこっぱずかしいというか、敗北決定の上、人間としての信用はゼロ、

いや物凄いマイナスになりますからね。

投稿: 玉見 | 2014年1月18日 (土) 20時28分

何か長々と書いていますが、誤解を簡単に説明しましょう。

誤解のポイントは以下です。
********************************************
「称名はかならず生ずることを得」の称名が自力であっても他力であってでも、

 雑行を捨てて正行に帰すのは、「称名はかならず生ずることを得」の前にあるから、

 正行に帰した時点で雑行を捨てていることになる。

 こんなことは、小学生でも判りますよ。

 ※自力でも他力でもいいと2、3回主張を繰り返す。
*********************************************

「雑行を信前に捨てるのは、称名が自力であってでも他力であってでも結論が変わらない」

これを、

「称名は自力であってでも他力であってでもどちらでもよい」

と誤解した訳ですね。

「雑行を信前に捨てるのは」の説明のための「自力でも他力でも」であって、称名が自力だと言ったのでもなければ、どちらでもよいといったのでもないです。

投稿: 飛雲 | 2014年1月18日 (土) 20時34分

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

【飛雲さん自身】

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

        投稿: 飛雲 | 2014年1月14日 (火) 20時34分

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

これは変えるつもりはありません。

投稿: 飛雲 | 2014年1月18日 (土) 20時35分

玉見さんは、本当に日本語を理解する能力が無いのですね。
たとえば、新人太郎さんはこのように明確に言われています。最初から何も変わっていません。

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

前の投稿への返答(返答日時: 2013/12/18 14:02:29:JST )
新人太郎さんのコメント:
最初から私は言ってますよ。

愚問には答えないとね。

【1】「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

まずこれは明確に否定しました。今日のコメントでも分かるでしょう。
これに答えても答えなくても、「雑行を捨てる」の意味は全く変わらないから、答えなかった。
それだけのこと。
だって、論点ずらしは親鸞会の常套手段ですからね。

【2】「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

これも明確に言っていますよ。
もう一度書きましょうか。
雑行という行を捨てて、その後で弥陀をたのめ

その根拠を三選の文で何回も記しているのにさ。

難しいことをいっても理解できないだろうから、簡単に書いてあげてるのに。

もう一度

ちなみに、法然上人の「正定業の道を進めばゴールにたどり着けます。」について、親鸞聖人は「ゴールにも2種類あって、法然上人の仰っている本当のゴールに行きなさい」と教えられたのですね。
化土と報土ですね。ところが高森氏は「正定業の道を進んでも、ゴールに辿りつくどころか無間地獄に堕ちる者ばかりで、宝くじが当たる確率よりも遥かに低い確率でゴールにたどり着ける」と言っているのですよ。

それなのに、高森氏が親鸞聖人と同じことを教えていると理解しているのがたんぽぽさんという訳ね。

つまりね、正定業を選んだ時点では、まだ報土往生が決していない訳よ。

と言うことは、報土往生が決する「たのむ一念」の前に、正定業を選択し、正定業を選ぶ前に正行を選ばないといけない訳。

わかる?

まだ2段階あるから、「たのむ一念」と雑行を捨てて正行に帰すのは、同時じゃないの。

小学生に教えてもらってきてね。

投稿: ウルトラ | 2014年1月18日 (土) 21時01分

皆さん何やら議論されてる中、すみませんね。ちょっと私用で。

飛雲さんにメールを送ったのですが、届いてますでしょうか。

お忙しいとは思いますが、返信お願いします(ノД`)

先日送ったメールについては別にもういいのですが、ちょっとまた他の用件がありまして。届いているのかどうかの確認を。。

投稿: 黒猫 | 2014年1月19日 (日) 01時27分

黒猫 様

連絡していなかったのですが、以前のメールアドレスが使えなくなったので、届いていません。
今後は以下にお願いします。
hiunto1@gmail,com

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 06時40分

有り難うございます。

登録しました。

投稿: 黒猫 | 2014年1月19日 (日) 10時21分

ああ、やっぱり論点がズレてますね。

苦しいから故意にずらしたのでしょうか、
それとも、読解力のなさでしょうか。

今度は短くいきましょう。


【1】

飛雲さんは、

「一念ですてる(廃る)雑行などない」

という主張ですね。

新人太郎(飛雲太郎)さんは、そう主張していますから。


得意の煙幕はらずに、

「ある」「ない」でシンプルに答えてね(^^)

【2】(少し修正してあげました)

同じときの答え

>違うと言ってますが

を一方では、間違いと明らかになった後に、

「答えなかった」と言い、

もう一方は、

「違うと明確に否定した証拠」

としているのは支離滅裂ではありませんか?

という質問。

※本当は、間違いが明らかになったあとで、
 「答えなかった」と言っているのでずるいの
 ですが、とりあえず100歩も1000歩も
 ゆずって「答えなかった」にしてみました。
 それでさえ、もう片方が「明確に答えた」と
 言っているのですからおかしいのです。

答えにくいなら【2】は後でいいですから、


まずは、【1】だけでもお答えください。

黒猫さんみたいに「ある」「ない」でズバッとお願いします!

投稿: 玉見 | 2014年1月19日 (日) 18時29分

懲りない人ですね。

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

        投稿: 飛雲 | 2014年1月14日 (火) 20時34分

この通りで間違いないと答えたのに、何が不足なのですか。

はっきり言っておきますが、19願から20願を通るという前提であるなら、ない、以外の選択肢はありません。

【2】(少し修正してあげました)

>>違うと言ってますが

>を一方では、間違いと明らかになった後に、

>「答えなかった」と言い、

>もう一方は、

>「違うと明確に否定した証拠」

しっかり読んで見られてからコメントしてください。


1.「称名は自力か他力か」に対して「答える必要がない、愚問だから」

2.「称名は自力ですね」に対して「違う」

3.しつこく「称名は自力ですね」に対して「違う」の繰り返し

4.それでも「称名は自力ですね」に対して「違うといったのが否定した証拠」

5.それでもなお「称名は自力でいいですね」に対して「雑行を信前に捨てることができるのかどうかに関係ないから答えなかっただけ」

6.ここまできてもなお「称名は自力でいいですね」に対して「他力以外の意味が有る筈がない、しかし自力と言っても雑行を信前に捨てることができるかどうかには関係のない話」

この流れが全く理解できていない。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 18時52分

あなた方は、とんでもない逃げ道を用意するから大いに不足ですね。

「違います」と答えたのに「答えていない」というぐらいだから。
いい加減、ズバッと答えたら?

飛雲さんは、

「一念ですてる(廃る)雑行などない」

という主張ですね。

「一念ですてる(廃る)雑行」が

「ある」か「ない」か。

「19願から20願を通るという前提であるなら」などの【前提をつけず】に、

「ある」か「ない」か。

黒猫さんは一発で答えられましたよ。

今度こそ、どうぞ!

投稿: 玉見 | 2014年1月19日 (日) 19時22分

新手の荒らしですね。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

【飛雲さん自身】

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

        投稿: 飛雲 | 2014年1月14日 (火) 20時34分

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

これでもわからないとは大した国語力ですこと。

また、新人太郎さんが「称名は自力だ」と言ったコメントを示してもらえますか?

それさえできなくて、何をほざいているのかね。

荒らしは排除に限りますよ。

投稿: | 2014年1月19日 (日) 19時22分

>「違います」と答えたのに「答えていない」というぐらいだから。

ということは、「違います」と答えたから、「称名は自力ではない」と答えていたことを認められた訳ですね。

だったら何も問題ないじゃありませんか。


>飛雲さんは、

>「一念ですてる(廃る)雑行などない」

>という主張ですね。

ない。
が、正確に言うと雑行が廃ったと同時に他力に入る人が絶対にないとは言えないので、例外はある。

こういうことですよ。なぜなら、阿弥陀仏のお仕事ですから。

問題が故意にすり替えられていますが、私が言っているのは、

「信前に雑行を捨てることができる」

です。ということは、「信前に雑行を捨てるのが大多数ですが、一念で廃る人も絶対にないとはいえない」の意味ですよ。
誤魔化しでもなんでもなく、「できる」≠「それしかない」ですが、理解できますか。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 19時30分

では、この雑行は?

■帖外御文 138(7)

無善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてて、

一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する衆生が

如来の仏心となりき、やすくたすけすくいたまうことは

不思議なり


。。。。。。

まさか、臨終切れ際の人への待機説法だなんていわないでくださいよ。

念の為にいっておきますが、得意の三選の文を出してもだめですよ。
あれは、五雑行ですからね。
それに「五雑行は諸善万行を収めたもの」との主張も今は関係ありませんよ。

私は、一念で廃る雑行と、信前に捨てれる雑行(五雑行。三選の文の雑行も含む)と二つあると言っているのですから。

あなたは、(例外的な状況を除いて)、雑行は、信前に捨てれる一種類しかないという主張です。

それを破る根拠をあげました。

この

「われらが一念にもろもろの雑行をすてて」

の雑行は一念にすてる(廃る)雑行ですか?そうではありませんか?

お答えください。

投稿: 玉見 | 2014年1月19日 (日) 19時42分

>ということは、「違います」と答えたから、「称名は自力ではない」と答えていたことを認められた訳ですね。

笑いました。
「称名は自力ではない」と答えていたのに、新人太郎さんの主張は「称名は自力だ」と言い続けたたんぽぽさんは愚か者、それを支持している玉見さんも愚か者。

投稿: | 2014年1月19日 (日) 19時43分

もう一度言いましょうか。

私の主張は

「信前に雑行を捨てることができる」

です。ということは、「信前に雑行を捨てるのが大多数ですが、一念で廃る人も絶対にないとはいえない」の意味ですよ。
誤魔化しでもなんでもなく、「できる」≠「それしかない」ですが、理解できますか。

もっというと、
「信前に雑行を捨てることができる」≠「信前でしか雑行を捨てることができない」

こういうことです。


それで以下は問題なしと認められた訳ですね。

>「違います」と答えたのに「答えていない」というぐらいだから。

ということは、「違います」と答えたから、「称名は自力ではない」と答えていたことを認められた訳ですね。

だったら何も問題ないじゃありませんか。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 19時46分

分身でごまかすのはやめてもらいたいですね。

●たんぽぽさんのコメント:

 「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力の称名

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時

 それでよろしいですね。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●新人太郎(飛雲太郎)さんのコメント:

 違うと言ってますが

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

●たんぽぽさんのコメント:

 新人太郎(飛雲太郎)さんの主張

【1】「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力

【2】「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」は一念同時ではない。

 ということがやっと分かりました。

//////////////////////////////////////


を何度もアップしています。いい加減にしてください。


●たんぽぽさんのコメント:

 「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力の称名


●新人太郎(飛雲太郎)さんのコメント:

 違うと言ってますが

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


新人太郎(飛雲太郎)さんは

 「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力の称名ではない、自力

と答えたことになっているじゃないですか?

いい加減まわりの人はあきれてますよ。


でも、こちらのほうが大事なので、しばらく上記のことでごまかすのはやめてもらいたい。

↓↓↓


では、この雑行は?

■帖外御文 138(7)

無善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてて、

一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する衆生が

如来の仏心となりき、やすくたすけすくいたまうことは

不思議なり


。。。。。。

まさか、臨終切れ際の人への待機説法だなんていわないでくださいよ。

念の為にいっておきますが、得意の三選の文を出してもだめですよ。
あれは、五雑行ですからね。
それに「五雑行は諸善万行を収めたもの」との主張も今は関係ありませんよ。

私は、一念で廃る雑行と、信前に捨てれる雑行(五雑行。三選の文の雑行も含む)と二つあると言っているのですから。

あなたは、(例外的な状況を除いて)、雑行は、信前に捨てれる一種類しかないという主張です。

それを破る根拠をあげました。

この

「われらが一念にもろもろの雑行をすてて」

の雑行は一念にすてる(廃る)雑行ですか?そうではありませんか?

お答えください。

投稿: 玉見 | 2014年1月19日 (日) 19時50分

それと最新のエントリーを見てもらえましたか?

問い

「無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。」(なぜ生きる2)の通りではありませんか。

答え

これは20願の行者のことではないですか。
「弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」(三経往生文類)と、念仏を選んで諸善を捨てるのが20願の行者です。
また「経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。」(教行信証化土巻)と、諸善ではわずかな功徳しか積めないと嫌い貶めて、一心に念仏に励むのが20願の行者です。
20願まで進んだ行者を「なんと素晴らしいことであろうか」(なぜ生きる2)と褒め讃えると言ったのは嘘ですか。


20願では諸善万行を捨てるのですよ。五雑行ではないことは明らかでしょう。違うならどこが違うか言ってください。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 19時51分

なるほど、途中ですり替わっていたのですね。最初の質問はこれでした。

*********************************************************
投稿者により編集済み(最終編集日時:2013/12/17 20:05:43:JST)
たんぽぽさんのコメント:
強引な展開で、★★結論★★ですか(笑)

「正定業に帰すことではない」なんて、私がいつ言ったのでしょう?

言ってもいないことが結論なんて。。。

うーん、二つの質問にどうして答えてくださらないのでしょう?

あまり展開をふやしたくないのですが、

これによりて一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、ふかくたのみたてまつりて、もろもろの雑行を修する心をすて、また諸神・諸仏に追従申す心をもみなうちすてて、さて弥陀如来と申すは、かかるわれらごときのあさましき女人のためにおこしたまへる本願なれば、まことに仏智の不思議と信じて、わが身はわろきいたづらものなりとおもひつめて、ふかく如来に帰入する心をもつべし。

は【心】を捨てなさいと書かれてますね。。。

2つの質問に答えたならば、正定業に帰すについてもお話ししましょう。

「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力か

「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」

は一念同時か、お答えください。
***************************************************


>2つの質問に答えたならば、正定業に帰すについてもお話ししましょう。

>「称名はかならず生ずることを得」の称名は自力か

>「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」

>は一念同時か、お答えください。


これが途中で

「称名はかならず生ずることを得」の称名は他力か

にすり替わって、それに気が付かなかった。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 20時03分

しかし、一貫して

「称名は自力」という主張に対して否定しかしていない。

だったら、「称名は他力」と答えたことになるというのが玉見さんの意見と言うことで宜しいですね。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 20時10分


最後の質問は、ごまかさないように何度もしつこいくらい確認しましたからね。
逃げられないので観念したほうが男らしいですよ。

そして、
他のご文を出しても無駄だと但し書きをしたのを読んでないのですか?

下記のお言葉について、答えられないのですね。
ごまかしてばかりなら、そう理解します。

(少しは理解しやすいように修正してあげました)

↓↓↓

では、この雑行は?

■帖外御文 138(7)

無善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてて、

一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する衆生が

如来の仏心となりき、やすくたすけすくいたまうことは

不思議なり


。。。。。。

まさか、臨終切れ際の人への待機説法だなんていわないでくださいよ。

念の為にいっておきますが、得意の三選の文やその他のご文を出してもだめですよ。

私は、一念で廃る雑行と、信前に捨てれる雑行(五雑行)と二つあると言っているのですから。

あなたは、(例外的な状況を除いて)、雑行は、信前に捨てれる一種類しかないという主張です。

それを破る根拠をあげました。

この

「われらが一念にもろもろの雑行をすてて」

の雑行は一念にすてる(廃る)雑行ですか?そうではありませんか?

お答えください。

。。。。。

あなたも飛雲太郎と一緒で負けたと分かったら関係ないことを言い始めるのですね。

とても分かりやすいです。

自信あるなら、ちゃんと答えてくださいね(^^)

投稿: 玉見 | 2014年1月19日 (日) 20時10分

帖外御文の質問以外は、帖外御文に飛雲さんが答えたらちゃんと答えてあげるから、

先に、帖外御文の雑行についての質問に答えてね(^^)

余計な煙幕は、負けのしるしってことにしますよ。
いい加減にしてくださいね!

投稿: 玉見 | 2014年1月19日 (日) 20時14分

理解できないようなので、わかりやすく書きます。

玉見さんの主張

>私は、一念で廃る雑行と、信前に捨てれる雑行(五雑行)と二つあると言っているのですから。

私の主張

>私は、一念で廃る雑行と、信前に捨てれる雑行と二つあると言っているのですから。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 20時14分

「称名は自力」という主張に対して否定しかしていない。

だったら、「称名は他力」と答えたことになるというのが玉見さんの意見と言うことで宜しいですね。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 20時10分

については全くよろしくないから、念の為

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 20時15分

で、■帖外御文 138(7)

無善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてて、

一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する衆生が

如来の仏心となりき、やすくたすけすくいたまうことは

不思議なり


この雑行は、「信前に雑行を捨てることができる」んですか?

投稿: 玉見 | 2014年1月19日 (日) 20時18分

まず、「称名は自力」については否定しかしていないですよね。

次に帖外御文については、一念の時に廃る雑行という意味で仰っています。
しかし、信前に雑行を捨てることができないという意味にはなりません。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 20時20分

>まず、「称名は自力」については否定しかしていないですよね。

さっきもコメントしたように、こちらは後にしましょう。
下の内容が大事なので。


>次に帖外御文については、一念の時に廃る雑行という意味で仰っています。
>しかし、信前に雑行を捨てることができないという意味にはなりません。

ちょっと意味不明ですね。
どういうことですか?
まさか、例外の場合を例外的に言われた御文なんていわないですよね?
まともな答えで、どうぞ!

投稿: 玉見 | 2014年1月19日 (日) 20時27分

そのままですが判りませんか。

「一念にもろもろの雑行をすてて」は、一念の時に雑行を捨てるの意味です。

しかし、他の御文章では「雑行をすてて」が、信前に雑行を捨てるの意味です。

再度書きます。

玉見さんの主張

>私は、一念で廃る雑行と、信前に捨てれる雑行(五雑行)と二つあると言っているのですから。

私の主張

>私は、一念で廃る雑行と、信前に捨てれる雑行と二つあると言っているのですから。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 20時32分

だから、あれだけ丁寧に確認したでしょ。

あなたの主張はこうだ。

「信前に雑行を捨てるのが大多数ですが、一念で廃る人も絶対にないとはいえない」の意味ですよ。

例外的に、そういう「人」もいる、という答え。

この帖外御文の「雑行」は「教え」でしょう。「例外的な人」のことではない。


■帖外御文 138(7)

無善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてて、

一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する衆生が

如来の仏心となりき、やすくたすけすくいたまうことは

不思議なり

投稿: 玉見 | 2014年1月19日 (日) 20時38分

手紙は「人」に対して書かれるものです。その相手の「人」は、共通ではありません。当然例外もあります。
その例外に相当すると言っているのですが、お判りになりませんか。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 20時40分

あなたは、雑行は、聖道仏教やーめた。善で助かろうとするのやーめた。
で簡単に捨てれるという主張を繰り返してきましたよね。
なら、なぜわざわざ「一念」といわれる必要があるのですか?
今すぐ捨てれるのでしょ?簡単に、あなたの主張では。

この手紙は、例外中の例外のある特定の一人に出された、という理解???

投稿: 玉見 | 2014年1月19日 (日) 20時46分

例外は当然あるでしょう。
たとえば、親鸞会でよく使う死後に無間地獄に堕ちると蓮如上人が仰ったのは、
「それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。」
「この信心を決定せずは極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」
の2箇所しかありません。
他所では、
「されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。」
「ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして」
「されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを」
と明らかに違うことを仰っています。
手紙を出された相手が共通ではないからです。

なぜ「一念」と仰ったのかは、蓮如上人に尋ねてみないと判りませんが、そういう必要があったから仰ったとしか言い様がありません。
あなたは後回しにされていますが、蓮如上人以外の方は、雑行は信前に捨てることができるという言い方しかされていません。
それを敢えて「一念」に限定されたのかは、これだけの条件では判断が付かないと言うことです。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 20時57分

荒らしの玉見さんへ。

「称名は自力」に対して否定された新人太郎さんの主張は、「称名は他力」というのが玉見さんの見解でしょ。

それと飛雲さんが答えられたのですから、20願について親鸞聖人が仰った御文についてのコメントを約束通りしなさいよ。

投稿: | 2014年1月19日 (日) 21時22分


飛雲さん、やりとり見てきましたが正直みっともないです。
逃げれば逃げるほどみっともないです。
もう詰んでるので、もがくほど醜態をされすことになります。
武士のように、潔さが大事でしょう。

ちなみに宮田さんは、
蓮如上人の書かれた「雑行」は一念ですたるものがほとんどと書いていますが、
それが普通の理解でしょう。
(ただ、雑行=自力心は問題ありと思うけれど、雑行が一念で廃ると書かれているのは決して例外的ではないというところは賛成)

ギブアップするか、いっそ生き恥さらすなら、このサイトを今日中に消滅させて証拠させるか、どっちかじゃないかなあ。

投稿: 南風 | 2014年1月19日 (日) 21時53分

書きそこねたのであげなおしますね。


飛雲さん、やりとり見てきましたが正直みっともないです。
逃げれば逃げるほどみっともないです。
もう詰んでるので、もがくほど醜態をされすことになります。
武士のように、潔さが大事でしょう。

ちなみに宮田さんは、
蓮如上人の書かれた「雑行」は一念ですたるものがほとんどと書いていますが、
それが普通の理解でしょう。
(ただ、雑行=自力心は問題ありと思うけれど、雑行が一念で廃ると書かれているのは決して例外的ではないというところは賛成)

「一念にもろもろの雑行をすてて」は例外的じゃなくて、決定的なんですよ。
「たのむ一念」の解説が「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」
だから、帖外御文で決定的に書かれてあるように、
「一念に、雑行をすてて後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」
って意味でしょう。

聖人の御流は、たのむ一念のところ肝要なり。
故に、たのむということをば代々あそばしおかれ候えども、
くわしく何とたのめということをしらざりき。
然れば前々住上人(蓮如)の御代に『御文』を御作り候いて、
「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」
とあきらかにしらせられ候。
然れば御再興の上人にてましますものなり。
    ~『蓮如上人御一代記聞書』(真聖全三―五七七)~
http://ameblo.jp/mugenkairi18/entry-11574204179.htm

ギブアップするか、いっそ生き恥さらすなら、このサイトを今日中に消滅させて証拠隠滅させるか、どっちかじゃないかなあ。

投稿: 南風 | 2014年1月19日 (日) 21時59分

南風 様

御意見有難うございます。

私の立場は明確です。

蓮如上人以外の方は、雑行を信前に捨てることができるとされています。
それが蓮如上人だけ例外と考えることは考えにくいということです。
ただし、「雑行雑修自力の心」と仰った箇所が何箇所かありますが、その省略形で「雑行」と仰ったことはあり得ると思っています。
それでも、「雑行」の意味が変わったとは考えておりません。

帖外御文につきましては、これこそ例外ではなかろうかということです。

どう思われるかは皆さんの御判断です。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 22時02分

この部分がよくわかりませんでした。

>「雑行雑修自力の心」と仰った箇所が何箇所かありますが、その省略形で「雑行」と仰ったことはあり得ると思っています。
>それでも、「雑行」の意味が変わったとは考えておりません。


「雑行雑修自力の心」と仰った箇所、その省略形で「雑行」と仰った箇所はどういう意味の「雑行」なのでしょう。

投稿: 南風 | 2014年1月19日 (日) 22時09分

本来は「雑行雑修自力の心」と仰る所を「雑行」で代表させて仰った、ということです。
普通は省略される時に「雑行等」と書かれるでしょうが、蓮如上人はそれを単に「雑行」で顕わされたのではないかというのが私の考えです。
その根本にあるのが、「雑行」の意味が、蓮如上人だけ変わるのは如何なものか、という発想です。
「宿善」なんかは親鸞聖人と使い方は違っていますが、それでも覚如上人、存覚上人の意味を踏襲されています。完全な蓮如上人オリジナルではありません。そのようなことから、善導大師から覚如上人、存覚上人まで一貫してきた「雑行」の位置付けを蓮如上人が変えられたとするのには、私は抵抗があるということです。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 22時19分

すみませんが、まだよく分かりません。
今の文章だと幾通りかの解釈の余地を含んでいますので、もう少し突っ込んでもらえませんか?

>本来は「雑行雑修自力の心」と仰る所を「雑行」で代表させて仰った、ということです。
>普通は省略される時に「雑行等」と書かれるでしょうが、蓮如上人はそれを単に「雑行」で顕わされたのではないかというのが私の考えです。

蓮如上人だけ意味が変わるのはどうかという意見には私も賛成です。
そこの矛盾と思える部分は、とりあえずおいといて、上記の言葉の説明をお願いします。

「雑行雑修自力の心」は「一念で廃る」ととれるのだけれども、そうすると、他の善知識方との整合性がとれなくなるからそんなはずはない、ということでしょうか?

投稿: 南風 | 2014年1月19日 (日) 22時27分

>「雑行雑修自力の心」は「一念で廃る」ととれるのだけれども、そうすると、他の善知識方との整合性がとれなくなるからそんなはずはない、ということでしょうか?

これは順番に「雑行」を捨て「雑修」を捨て、最後に「自力の心」を捨てるで、最後の「自力の心」を捨てるが「一念」であるということです。これで他の善知識方と整合性をとれます。
本来は蓮如上人はそう仰りたいのではないかと。それをまとめて仰ったということです。更にそれを省略して「雑行」だけで仰ったところもあり得るということです。

もう一つ蓮如上人の愛読書であり、蓮如上人の『御文章』にも大きな影響を与えた『安心決定鈔』では

まづ雑行をすてて正行をとる、これ一重の専なり。そのうへに助業をさしおきて正定業になりかへる、また一重の専なり。またはじめの専は一行なり、のちの専は一心なり、一行一心なるを「専復専」といふなり。

とあります。明らかに、信前に雑行を捨てることが書かれています。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 22時35分

なるほど。

>順番に「雑行」を捨て「雑修」を捨て、最後に「自力の心」を捨てるで、最後の「自力の心」を捨てるが「一念」であるということです。これで他の善知識方と整合性をとれます。
>本来は蓮如上人はそう仰りたいのではないかと。それをまとめて仰ったということです。更にそれを省略して「雑行」だけで仰ったところもあり得るということです。

ということは、雑行雑修自力の心を省略した「雑行」は、自力の心も含んでいますから、一念で廃るのですね?

それ以外は蓮如上人がいわれた雑行も信前に捨てることができる、と。

投稿: 南風 | 2014年1月19日 (日) 22時43分

>ということは、雑行雑修自力の心を省略した「雑行」は、自力の心も含んでいますから、一念で廃るのですね?

これを省略しなければ元々の「雑行雑修自力の心」ですから、「雑行」の意味自体は変わっていません。
あくまで省略形でしかありませんから、「雑行」自体の意味は変わらないと考えています。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 22時48分

なるほど。

たとえば、「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」の雑行も「雑行雑修自力の心」の省略形。
だから「たのむ一念」の説明だけれども、雑行の意味は変わらない、ということでしょうか。

投稿: 南風 | 2014年1月19日 (日) 22時56分

>たとえば、「雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」の雑行も「雑行雑修自力の心」の省略形。
>だから「たのむ一念」の説明だけれども、雑行の意味は変わらない、ということでしょうか。

これが省略形と言えるかどうかは、定かではありません。
可能性はあると思いますが、そうであってもなくても雑行の意味は変わらないということです。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 23時00分

ただ、なぜ省略するなら、雑行雑修のほうでなかったのだろうか、という疑問が残りますね。
もし、雑行が聖道仏教を捨てることなら、門徒の方々、つまりはもう聖道仏教を捨て浄土仏教で求めておられる方に出された御文章で、より大事と思われる雑修や自力の心を省略してしまって、聖道仏教の意味である雑行だけを残されたのか。
飛雲さんはどう思われますか?

投稿: 南風 | 2014年1月19日 (日) 23時06分

親鸞聖人は、「雑行を棄てて本願に帰す」と仰っています。
それと、蓮如上人が本願寺を継がれた時には、天台宗の末寺扱いで本願寺の本尊さえ天台宗の本尊であったのですから、殊更雑行を強調されたのかもしれません。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 23時09分

今日は遅いので、これで最後にしますが、

3帖目には三回「雑行」が出てきます。

「もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて」
「されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて」
「自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば」

3回とも、「雑善」との組み合わせです。
より大事と思われる「雑修」「自力の心」ではなく、諸善を意味する「雑行雑善」を出されています。
また1帖目には、「雑行」との組み合わせではなく、単独で「自力の心」を意味する言葉も出てきます。

「またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽して」

蓮如上人には雑行に対する何か特別なお考えがあったのかもしれません。

なお、私の解釈はあくまで、蓮如上人を取り巻く環境(他の善知識方と『安心決定鈔』の説明、当時の本願寺の状況)を基にしています。従って、この解釈が絶対正しいと断言するものではありません。なぜなら、蓮如上人が「雑行」の定義を仰っていませんので、謂わば状況証拠から判断するより仕方がないということです。

投稿: 飛雲 | 2014年1月19日 (日) 23時44分

飛雲さん、こうは考えられないでしょうか?

ご存知のとおり、七高僧方が力を入れられたのは聖浄廃立です。
なので、説かれ方は主に行々相対、いわゆる、諸行と念仏行の対比です。

七高僧方は聖道仏教の人に対して、
「自力の善(雑行)で助かるのではない念仏(行)で助かる」
と力説されました。

この雑行を五つに収めたのが五雑行。
なので、七高僧がいわれる無量の諸善の雑行も、五雑行も、聖道仏教の人を意識していた。

親鸞聖人は、その伝統(聖浄廃立)を踏まえられて、真仮廃立・信疑決判をなされた。
つまり、雑行の意味に、聖浄廃立と真仮廃立の両方の意味合いを込めていかれた。

教行信証には、選択集の三選の文を引用されていますが、これは行巻です。
そしてあくまで引用ですから、このお言葉は五雑行のお言葉と読めます。

しかし、それ以外は、ちょっと単純に聖浄廃立でとどめられない意味合いを感じるのですよ。
どちらともとれるような。

蓮如上人は、その親鸞聖人の教えの真髄をズバリ教えられた方ですから、
真仮廃立、信疑決判の色合いはさらに強くなっています。

そうすると、諸善万行の雑行も真仮廃立、信疑決判の意味合いが強く込められていることになるのではないでしょうか?

聖浄廃立と真仮廃立は矛盾するものではありません。
ただ、強調されているところが違いますから、聖浄廃立で強調されたところを真仮廃立にあてはめようとすると、
ちょっと合わないところが出てくるのです。

念仏為本といわれた法然上人と、
信心正因 称名報恩を徹底された親鸞聖人
単純に、聖浄廃立で教えられた念仏と称名報恩の念仏を完全イコールにしようとすると、ムリがかかるようなものです。

なので、もともと行々相対の聖浄廃立で教えらえた雑行の「行」から、「信心」にまで踏み込まれて教えられた方が蓮如上人ではなかったでしょうか。

とすれば、蓮如上人の教えられた雑行は、「自力の心」に関わる部分が一番重要であり、その自力の心は一念で廃りますので、蓮如上人が教えられた雑行は一念で廃ることにはなる。

ちょっと説明不足になってしまいましたが、今日はこれまでにしておきますね。
ではまた明日。


投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 00時07分

まず、

>この雑行を五つに収めたのが五雑行。

>教行信証には、選択集の三選の文を引用されていますが、これは行巻です。
>そしてあくまで引用ですから、このお言葉は五雑行のお言葉と読めます。

が良く判りません。
法然上人の雑行の説明は

次に雑行は、すなはち文(同)に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。(中略)
このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。

ですし、親鸞聖人も化土巻で

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
(中略)
おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。

との定義です。
更に法然上人は

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

等と、明らかに定散二善と念仏との対比を強調されて仰っています。
定散二善の強調は、五雑行限定の強調とは反対です。
なぜ五雑行に限定されてのことなのか、判りません。

また親鸞聖人は行巻において

しかるに教について念仏諸善比挍対論するに

として念仏と諸善との比較をされています。この諸善が五雑行だということでしょうか。

『教行信証』を書かれたのが、聖道門に対する反論であったのですが、その代表格である『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。

として、五雑行以外の諸善を意識して書いています。
その反論であるなら、五雑行以外の諸善がメインであったと考えるべきではないかと。


蓮如上人の説明は、そのような考え方も否定はしませんが、それを決定付ける根拠がありませんので、それ以上でもありません。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 05時17分


三選の文に関してですが、まずご文自体を素直に理解することが大事ではないで
しょうか?


【1】はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなか
に、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。

  【聖道仏教→浄土仏教】

【2】浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を
抛てて選びて正行に帰すべし。

  【五雑行 → 五正行】

        ※五正行

         読誦正行。
         観察正行
         礼拝正行
         称名正行
         讃嘆供養正行

【3】正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて
正定をもつぱらにすべし。

    【助業 → 正定業】


     助業    正定業

     読誦正行  称名正行
     観察正行
     礼拝正行
     讃嘆供養正行


正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。
名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。


【3】で正行を、正業と助業に分けておられますから、
【2】の「正行」は「正助二業」つまり「五正行」とするのが素直な理解でしょ
う。
ならば、【1】の正行と雑行は、「五正行」と「五雑行」と読むのが普通の理解
ではないでしょうか。


 まとめると以下のようになります。


  聖道仏教を捨てて浄土仏教に入るには、

  五雑行(阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に仕える行為)
   を捨てて
  五正行(阿弥陀仏に向かっての正しい5つの行)(正助二業)
   の実践をしなさい。

  中でも正定業である、称名正行(念仏)を専らにしなさい。


深い御心は分かりません。

ですが、聖浄廃立・行々相対でいうならば、「行」が強調されますから、
表面的には、1つ捨て、2つ捨て、と段階が出てきます。

こらが、真仮廃立・信疑決判になりますと「信」と「疑」ですから一念で決しま
す。
真仮廃立に力をおかれた蓮如上人ですから「雑行」も、その行ずる「心」に力点
をおかれたのではないでしょうか?

時代順から考えても教義的(聖浄廃立・真仮廃立のこと)にいっても、七高僧から親鸞聖人
の教えを理解するのではなく、

親鸞聖人の御心を明らかにされた蓮如上人から親鸞聖人のみ教えを学ばせていた
だくのが大事ですよね。

(決して七高僧方を軽んじるわけではありません)

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 07時34分

では簡単な質問です。

定散二善は、どこに入るのでしょうか。

再度、法然上人の雑行の説明は

次に雑行は、すなはち文(同)に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。(中略)
このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。

です。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 07時38分

南風さん、素直に理解するとはこういうことではないですか?

「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」⇒雑行とは正行以外の諸善すべて

ということは

【2】浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を
抛てて選びて正行に帰すべし。

  【雑行 → 正行】

 雑行(正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく)
   を捨てて
  正行(正助二業)
   の実践をしなさい。

素直に理解するとこうなりますが、如何です。

投稿: | 2014年1月20日 (月) 10時05分

議論をぶった切るコメントになりますので読み流していただいて結構です。

そもそもなぜ玉見さんはこんなことに躍起になっているのでしょうか? 自身の浄土往生について深い関係があるのでしょうか? 少なくも私はこの議論に意義を見出せません。なぜならもしこの議論が玉見さんに優勢という形で終わったとしてもその結論は「浄土往生には念仏だけでは不十分、かならず諸善(雑行)も必要」ということになります。玉見さんは意図の有無に関係なくここにもっていこうとしているのですよ? 議論が始まるまえから終わっていると言ってもいいかもしれませんね。もしそこまで考えが及んでいなかった場合少し落ち着くのがよろしいかと思います。またもし意図してのことだったら浄土真宗ではありませんのでここのサイトに訪れること自体が無益なことと思います。

またもし万が一「浄土往生には念仏だけでは不十分、かならず諸善(雑行)も必要」と思っていらっしゃるなら、大きい書店へ行かれて浄土真宗についての書籍を何冊か購読されるのがよろしいかと思います。視野を広げることはとても大切ですよ。

いきなり横から失礼しました。

投稿: 横から | 2014年1月20日 (月) 15時58分

なるほど

>南風さん、素直に理解するとはこういうことではないですか?
>
>「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」⇒雑行とは正行以外の諸善すべて
>
>ということは
>
>【2】浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を
>抛てて選びて正行に帰すべし。
>
>  【雑行 → 正行】
>
> 雑行(正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく)
>   を捨てて
>  正行(正助二業)
>   の実践をしなさい。
>
>素直に理解するとこうなりますが、如何です。

では、飛雲さんは、(観経所説の阿弥陀仏に向かった)定散二善は、ここで法然上人がいわれている「雑行」に入るという説なのですね。
(今更いうまでもないような確認ですが)

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 20時40分

「このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。」ですが、素直に理解しましょう。

ただし、五正行は除くと言うことです。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 20時44分

それで、南風さんの理解では、定散二善はどこに入りますか、お答えください。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 20時45分

スッキリ答えないのはクセでしょうか?

何かのときに、逃げる余地を残すためでしょうか?

私の理解はちゃんとお話ししますので、

飛雲さんは、(観経所説の阿弥陀仏に向かった)定散二善は、ここで法然上人がいわれている「雑行」に入るという説なのですね

の質問を、「そうだ」とか「違う、こうだ」とか明確に答えてもらえないでしょうか?

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 20時53分

まず私の質問に答えてください。私が先に尋ねたのです。

すっきりさせましょうか。

化土巻

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 20時55分

まあいいでしょう。
ただし、ちょっと訳あって長くなるでしょう、あなたの理解がおいつくためには。

(観経所説の阿弥陀仏に向かった)定散二善は、三選の文で法然上人がいわれている「雑行」には入りません。

なぜかといえば、定善 と 観察正行 はほぼ同じ内容だからです。

(散善の話はややこしくなるので、とりあえず保留とします)

では、飛雲さん、あなたの理解は、

(観経所説の阿弥陀仏に向かった)定散二善は、三選の文で法然上人がいわれている「雑行」には入る、というものだと思うのですが、

定善 と 観察正行 は全く別のものでしょうか?

念の為、言っておきますと、法然上人の聖浄廃立の立場でですよ。
ここに真仮廃立の親鸞聖人や蓮如上人の言葉をいれると、ただでさえ混乱しているあなたはなお混乱してしまい収拾がつかなくなる恐れがあるので、法然上人に限って、まず答えてください。

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 21時05分

だから先に私は言いました。

>「このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。」ですが、素直に理解しましょう。

>ただし、五正行は除くと言うことです。

布施・持戒等は、雑行だと法然上人が明言されています。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 21時07分

ですから、定善 と 観察正行の関係は?

もし定善が、観察正行に入るなら、雑行ではないですよね。正行ですから。

答えてください。

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 21時09分

そうです。ですから五正行に入るものがあるから、それは除くといいました。読んで頂けましたか。

では布施・持戒等は雑行でいいですね。

答えてください。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 21時11分

ほう。
ということは定善は、正行という理解ですね。

分かりました。

残念ながら、(観経所説の弥陀に向かった)「散善」も法然上人がいわれる聖浄廃立の意味の「雑行」には入りません。

飛雲さんは、(観経所説の弥陀に向かった)「散善」も法然上人がいわれる聖浄廃立の意味の「雑行」に入る、という理解ですね。

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 21時16分

ハッキリ答えていないですね。


布施・持戒等は雑行、はい か いいえ で答えてください。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 21時18分

質問がズレてますね。

今、散善の話でしょ?

定散二善は法然上人の三選の文のどこに入るのかと尋ねたのは、飛雲さんですよ。

また、まずい状況にでもなったのですか?

布施・持戒等については、後で話しましょう。

一つずつ。

あなたの質問に答えているのですから。

定散二善について。

定善は、私も飛雲さんも、ともに正行ということで一致しました。

(また後から違うとか言い出さないでくださいよ。違うなら違うで次のコメントで申告してくださいね)

次は散善についてになりますよね。

私は(観経所説の弥陀に向かった)「散善」も法然上人がいわれる聖浄廃立の意味の「雑行」には入りません、

とものすごくハッキリ答えました。

今度はあなたの番です。


飛雲さんは、(観経所説の弥陀に向かった)「散善」も法然上人がいわれる聖浄廃立の意味の「雑行」に入る、という理解ですね。

男らしくハッキリ答えてください!

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 21時26分

布施・持戒は散善です。散善の一部である布施・持戒は雑行かどうか、

法然上人は雑行と明言されています。

>私は(観経所説の弥陀に向かった)「散善」も法然上人がいわれる聖浄廃立の意味の「雑行」には入りません、

>とものすごくハッキリ答えました。

ということは、

布施・持戒は雑行ではない、が南風さんの主張と言うことですね。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 21時29分

「布施・持戒は雑行ではない、が南風さんの主張と言うことですね。」

いってはなんですが、新しい記事にしても、早合点がすぎるので、
理解不十分の状態で答えると、あなたは、それを曲解してしまうのですよ。
もっと大人になってもらいたいと思うのですね。

なので、上記の質問には答えられますが、場合わけが必要なので、以下の内容を
まず理解してもらいましょう。

もう少し時間がかかりそうですね。

まあ、仕方ありません。最初にもあなたの理解がおいつくには時間がかかると最初に言ってますから、

そのつもりで、一つずつ確認していきましょう。

大事なところです。


何度も念をおしていますが、聖浄廃立の教えられ方と、真仮廃立の教えられ方では当然ポイントが違うのです。

聖浄廃立は、聖道仏教に迷っている人にスポットが当たっています。

真仮廃立は、すでに浄土仏教に入っているけれど、まだ仮に止まっている人にスポットが当たっています。

ここまでは分かりますよね。

なので、同じ諸善万行でも、弥陀以外の仏や菩薩や神に向かってのものか、阿弥陀仏に向かっての善かによって言葉の定義が変わってくるのですよ。


頭を整理してもらいたいのですが

まだ弥陀に向かっていない(少なくとも弥陀一仏に向かっていない)聖道仏教の人に、阿弥陀仏に向かっての善云々とはいわないですよね。

まず自力聖道門の教えで助かろうとしている人には、阿弥陀仏に向かえと教えます。


そこで質問ですが、三選の文で


【1】はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなか
に、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。

【2】浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を
抛てて選びて正行に帰すべし。

とありますが、この

「浄土門に入らんと欲はば」といわれている人は、

「すでに浄土門に入っている人」ですか?

「これから入ろうとしている人」ですか?

言葉を変えれば、

「まだ聖道門の人でこれから浄土門に入ろうとする人」

のことですか?

それとも

「すでに浄土門に入った人」ですか?

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 21時45分

今は雑行の話をしています。余分なことを書かれる暇があれば、答えてください。

布施・持戒は散善です。散善の一部である布施・持戒は雑行かどうか、

法然上人は雑行と明言されています。

>私は(観経所説の弥陀に向かった)「散善」も法然上人がいわれる聖浄廃立の意味の「雑行」には入りません、

>とものすごくハッキリ答えました。

ということは、

布施・持戒は雑行ではない、が南風さんの主張と言うことですね。

「はい」「いいえ」で。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 21時48分

余計としか思えないのですね。

「雑行」についての大事な話をしています。

あなたの好きな「三選の文」の話でしょ?
あなたの得意なところであえてやりとりしてるのですよ。
もっと余裕をもっては如何?
それとも不安でたまらないのでしょうか。


それにしても残念です、これだけヒントを出してるのに。
まったく聖浄廃立と真仮廃立と教えられ方が違うのに注意を払っていないことがよく分かりました。
だから間違うのですよ。

では、私が答えたら、あなたも私の質問に答えますね?

「雑行」の理解に極めて大事な質問をしているのです。
本当の意味の教学力があれば必ずピンとくるはずです。

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 22時03分

では答えてください。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 22時04分


 あの、同じこと何度もいわせないでくださいね。

 では、私が答えたら、あなたも私の質問に答えますね?

 こういうことをちゃんと答えてから、次にすすむものでしょ。

 すぐに答えられない理由があれば、そういえばいいじゃないですか。

 私は「場合わけが必要だから先にこちらで整理してからにしましょう」

 と説明しています。

 もう同じパターンはやめてくださいね。

 私が答えたら、あなたも私の質問に答えますね?

 もっとハッキリいえば、途中なのに早合点のおっちょこちょい勝利宣言などしないでしょうね、ってことです。

 ここまで言わせるのですよ、あなたのやりとりは。

 私が答えたら、あなたも私の質問に答えますね?

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 22時10分

答えますから、答えてください。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 22時10分

では、答えましょう。

まだ浄土門に入っていない(阿弥陀仏一仏に向いていない)が、阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に向かって布施・持戒するのは、聖浄廃立の立場で教えられている法然上人が三選の文でいわれている「雑行」に入ります。

ですが、これは一念ですたる「往生の足しにしようとして弥陀に向かってする諸善万行」の意味の雑行とは別ものです。

何を言っているのか分からないかも知れませんが、
「雑行」に関しては、聖浄廃立の立場か、真仮廃立の立場でいわれるか、込められた意味合いが変わってきますので、
場合わけが必要なのです。

それを今から明らかにしましょう。

では、私の質問に答えてください。

この流れが、上記のことへの回答にもつながってきます。

(また定散二善を廃し、云々の根拠を出してごちゃごちゃいわないでくださいね。
 そのことについては、順番に話しします。
 整理にはちょっと時間がかかるのですよ。かなりあなたの理解がこんがらがっていますから)

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 22時20分

>まだ浄土門に入っていない(阿弥陀仏一仏に向いていない)が、阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に向かって布施・持戒するのは、聖浄廃立の立場で教えられている法然上人が三選の文でいわれている「雑行」に入ります。

>ですが、これは一念ですたる「往生の足しにしようとして弥陀に向かってする諸善万行」の意味の雑行とは別ものです。

間違いです。
雑行の定義を知らなさ過ぎます。

『選択集』に

初めに往生の行相を明かすといふは、善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

つまり、往生の為にする行が雑行です。

結論

法然上人--「散善である布施・持戒は雑行」
南風さん--「散善である布施・持戒は雑行ではない」

ちなみに
飛雲--「散善である布施・持戒は雑行」

法然上人の仰せの通りです。

この基礎的なことさえ知らずに言われているのですから、質問も的外れです。

>「浄土門に入らんと欲はば」といわれている人は、

>「すでに浄土門に入っている人」ですか?

>「これから入ろうとしている人」ですか?

>言葉を変えれば、

>「まだ聖道門の人でこれから浄土門に入ろうとする人」

>のことですか?

>それとも

>「すでに浄土門に入った人」ですか?

「入らん」ですから、これから入ろうと思う人です。聖道門から入ろうとする人もあるでしょう、在家から入る人もあるでしょう。


答えましたから、基礎的な話です。

「往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。」とありますが、これは南風さんの主張と違うとしか思えませんが、説明をお願いします。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 22時28分


はいはい、説明しますよ。

一念で廃る雑行も知らなかったのですから、あんまり偉そうにしないほうがいいですよ。
あなたは、一念で廃る雑行などない、と答えてしまって、困っていたので、
説明しはじめたのがきっかけということをお忘れなく(^^)/

■帖外御文 138(7)

無善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてて、

一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する衆生が

如来の仏心となりき、やすくたすけすくいたまうことは

不思議なり。


ただ、あなたの理解がおいつくには今日中にはムリと思うので、じっくりいきましょう!

投稿: 南風 | 2014年1月20日 (月) 23時19分

負け惜しみですね。
完全に詰んでいますので、いさぎよく…

まあいいです。

一念で雑行が廃ることを否定していないことはすでに述べました。矛盾もしていません。


【本日のまとめ】

雑行とは往生の行であり、聖道門の行のことではない。
(ただし行自体は同じで、往生の為にするかさとりを開くためにするかの違い)

三選の文の最初の2つは、

1.聖道門を捨てるとは、聖道門の行を捨てる(もちろん自力でさとりを開くことを断念する)

2.雑行を捨てるとは、正助二行以外の往生行としての行を捨てる。(布施・持戒等)

とういことで、布施・持戒等の雑行を助業を捨てる前に捨てる前提で法然上人は仰っている。

投稿: 飛雲 | 2014年1月20日 (月) 23時23分

まず、三選の文でいわれている「雑行」と限定してますので、
話を広げないでくださいね!


【1】はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなか
に、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。

【2】浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を
抛てて選びて正行に帰すべし。

とありますが、この「浄土門に入らんと欲はば」といわれている人は、

「これから入ろうと思う人」

「聖道門から入ろうとする人もあるでしょう、在家から入る人もあるでしょう」

との回答でした。当然ですよね。

ということは、

まだ弥陀一仏に向かっていない人に対して、

「雑行を捨てなさい、正行に帰しなさい」

と教えられたわけですよね。

それで、法然上人は、雑行無量だけれども、その代表として

「五雑行」の説明をされたわけです。

「五雑行」は当然、阿弥陀仏に向かっていません。

もし、雑行無量が、飛雲さんがメインと思っている定散二善なら、

定散二善は、弥陀に向かっての善ですから、五雑行とは真っ向から異なりますよ
ね。

なので、この雑行無量は、聖浄廃立のレベルでいわれた、

阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神などに向かった諸善万行(無量の善)を指している
のです。

阿弥陀仏に向かわせるのに、阿弥陀仏に向かっての散善するな、はおかしいしょ
う。

それに、あなたが繰り返し言っている「定散二善=雑行」とするならば、

すでに、観察正行に定善が含まれていることはあなたも認めているのですから合
わなくなりますよね。


ということは、ここではまず、修行などの善で助かろうとしている聖道門の人に、

弥陀に向かいなさい、阿弥陀仏以外に向くのは雑行ですよ、と教えられたもので
す。

次に、阿弥陀仏に向かい、五正行を実践している人に対して教えておられます。
(次の段階ですね)

つまり、

【3】正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて
正定をもつぱらにすべし。

です。
    【助業 → 正定業】


     助業    正定業

     読誦正行  称名正行
     観察正行
     礼拝正行
     讃嘆供養正行


この理解はよろしいかと思います。

さて、観無量寿経は、観仏三昧と念仏三昧が説かれているのは、
飛雲さんならご存知ですよね。

この観仏三昧は、助業を観察正行に収めたものです。

念仏三昧は、称名正行ですね。


そして、観無量寿経の結論は、廃観立称

これもご存知でしょう、観法(観仏三昧)を捨てて、念仏を立てよ、ですね。

観経には、定散16観が説かれています。

これが観法ですね。

でも、それは自力ですから助かりません。

法然上人が言われた、念仏を立てよの念仏は他力の念仏ですから、

廃観立称は、自力を捨てて他力に帰せよ

ということです。

なので、定散16観(定散二善)はここに入るのです。


あなたがやかましく、

「定散二善を廃して、念仏一行に帰す」

と法然上人がいわれているのに、

「捨てよという雑行とは、五雑行のことで、五雑行以外の諸善は含まれていないと言うことです。法然上人においてさえもそうだと考えているようですので、驚きました」

と騒いでいるのは、そういう意味で的外れなのです。

「定散二善を廃して、念仏一行に帰す」

は、三選の文でいえば、三番目

【3】正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて
正定をもつぱらにすべし。

レベルの話なのです。

「定散二善」が雑行に入るのは、真仮廃立レベル、つまり親鸞聖人以降です。

なので、教行信証には、その説明が書かれています。

同時に親鸞聖人は、聖浄廃立もされていますから、

「三選の文」は「行巻」に引用しておられますね。

一体、どの段階で話がなされているのかを的確に判断できないと、

一番目のボタンと一番下のボタンはずれているのに、

こんなにちゃんとボタンがとまってるのだから正しい!と早合点してしまうので
す。

お互い、気をつけましょう。、


「三選の文で」
「法然上人の聖浄廃立レベルで」

と念を押したのはそのためなのです。

そして、法然上人や善導大師は、聖浄廃立がメインでしたから、

諸行(聖道門)から、念仏(浄土門)へ入れとの教えがほとんどでした。


ですが、ご存知のとおり、念仏にも、自力の念仏と他力の念仏があります。

いわゆる、自力の心で称えている念仏と、他力の心で称えている念仏ですね。

自力の念仏では助からないと親鸞聖人も蓮如上人も真仮廃立で徹底されました。

でも、悪いのは念仏ではなく、自力の心なのです。

捨てるべきは念仏ではなく、自力の心です。

自力が廃っても、念仏が廃って称えなくなるのでは当然ありません。


同じように、真仮廃立レベルの雑行となってきますと、

阿弥陀仏に向かって自力の心で行う諸善万行のことをいいます。

問題は、「行」でなく「心」

ここが、行々相対の聖浄廃立とは違うところです。

問題は、信疑決判、信心、心です。

なので、真仮廃立での雑行を捨てよは、

自力の心を捨てよということ。

善という「行」自体は捨てない。

善まで捨ててしまったら、大変ですよね。

仏教上の善だろうが、倫理的善だろうが、善をしなくなっては大変です。

ですから、「善」「行」を捨てよと真仮廃立ではいわれない。

「自力の心」を捨てよ、と教えるのです。


なので、蓮如上人が、何度も、「雑行を修する心」と「心」に重点を

おかれたのはそのためです。

ところが、それを強調しすぎると、宮田さんのように極端に

雑行=自力心

と誤解する人が出てくるので、

雑行・雑善

と、あくまで、雑行は、善ですよと教えられています。

(でも、雑善よりも、雑行、雑行雑修、雑行雑修自力に「心」をつけて教えられ
たところのほうが圧倒的に多くあります。)

雑行=自力心 なら、わざわざ雑行雑修自力の心といわれる必要ありませんもの
ね。

自力の心で十分です。

自力の心を開いて

「自力の心でする善」を雑行といい。

「自力の心でする五正行」を雑修といわれたのです。

そして、共通悪の自力の心を捨てよ、といわれた。

ちょっといい例ではないかもしれませんが、

「練習を、いい加減な気持ちでするのはやめなさい」

と言った場合、「練習」は行いで、「いい加減な気持ち」は心です。

この場合、やめるべきなのは「練習」という行為ですか?

違います。「いい加減な気持ち」「心」です。

(もちろん、この例えはあわないところもたくさんあります。
 あくまで「行」と「心」についてのたとえです)


このことが分かると、蓮如上人が「一念で雑行が廃る」といわれた御心もよく分
かると思います。

一念で廃るのは、「行」ではなく「心」ですから。


善導大師や法然上人は、一念で廃る雑行を(表面的には)教えておられませんか
ら、定義が合わないように思うのは当然です。

善導大師や法然上人が教えられた、五雑行レベルの雑行は、信前に自分で捨てれ
るのは当然です。

ですが、真仮廃立で明らかにされた弥陀に向かって自力の心でする諸善万行の
雑行は、信前に、ましてや自分の力で、ましてや簡単に、ましてや何度も捨てる
ことなど不可能です。


この「雑行が一念で廃る」と教えられた御文章も例外などではありません。
決定的なお言葉です。

■帖外御文 138(7)

無善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてて、

一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する衆生が

如来の仏心となりき、やすくたすけすくいたまうことは

不思議なり。

投稿: 南風 | 2014年1月21日 (火) 00時07分

南風さん、はじめまして。
私には貴殿の立場(スタンス)がいまひとつわかりかねるので、ここ数日の飛雲さんとの議論が少々追いかけ難くなっております。ご無礼を承知の上で、敢えてお尋ねいたします。

「南風さんはもうすでに雑行を捨てましたか?」
(「はい」か「いいえ」でお答えください。)

ご回答のほどよろしくお願いいたします。

投稿: 薄縹 | 2014年1月21日 (火) 00時20分

南風さん、みっともないのでやめましょうよ。

完全に詰んでいます。

雑行は往生行、五雑行も例外ではありません。

素直に理解しましょう。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

投稿: | 2014年1月21日 (火) 04時30分

横からすみません、議論に加わるつもりはないのですが、真仮廃立の雑行(真門の雑行?)というのは初耳で、コメント欄での議論を読むうち、親鸞聖人はどう言われているのかなと疑問に思いましたので、教行信証で「雑行」という言葉が出てくる箇所を、一通り抜き出してみました(多分、漏れはないと思うのですが…)。

既に管理人さんが大部分を引用しておられるので無用かもしれませんが、管理人さんと議論しておられる方々におかれては、これを議論の共通の土俵とするなど、何かのお役に立てて頂ければ幸いです。

-----------------------------

またいわく、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。 正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。

行について信を立てば、しかるに行に二種あり。一つには正行、二つには雑行なり。(中略)この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。(中略)もし後の雑行を行ずるは、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づくるなり。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。 また雑行について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。専行とはもつぱら一善を修す、ゆゑに専行といふ。専心とは回向をもつぱらにするがゆゑに専心といへり。雑行・雑心とは、諸善兼行するがゆゑに雑行といふ、定散心雑するがゆゑに雑心といふなり。(中略)おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。 経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。

-----------------------------

なお、選択集には、雑行について次のように書かれています。

わたくしにいはく、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず」といふは、諸余の雑行はかの国に生じがたし。ゆゑに「随縁雑善恐難生」といふ。少善根とは多善根に対する言なり。 しかればすなはち雑善はこれ少善根なり、念仏はこれ多善根なり。(中略)ただ多少の義あるのみにあらず。また大小の義あり。いはく雑善はこれ小善根なり、念仏はこれ大善根なり。 また勝劣の義あり。いはく雑善はこれ劣の善根なり、念仏はこれ勝の善根なり。その義知るべし。

これは、親鸞聖人が教行信証で次のように言われたのと同じことで、この「一切諸行の少善」についても雑行のことを言われているといっていいのでは思いましたので、念のため次のご文も挙げておきます。

「観経」に准知するに、この「経」(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて「経」(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。

投稿: 元会員 | 2014年1月21日 (火) 04時33分

>一番目のボタンと一番下のボタンはずれているのに、

>こんなにちゃんとボタンがとまってるのだから正しい!と早合点してしまうので
す。

南風さんが長々と書かれましても、最初のボタンから間違っていますので、その通りです。
最初のボタンより後の所は、読んでもいません。読む価値もありません。
他の皆さんも同じ思いですよ。

なぜなら根拠を悉く無視しているからです。他の方のコメントも読まれて心静かに振り返ってみてください。勝手に聖浄廃立だ真仮廃立だと妄想されていては、法然上人のお言葉が読めません。

ではまず

「往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。」

ですから五雑行も往生行です。当然なことです。

【弥陀に向かって】

と何かの一つ覚えで言われていますが、正しくは

【往生の為に】

です。

法然上人が例を挙げて説明されています。
『選択集』

第一に読誦雑行といふは、上の『観経』等の往生浄土の経を除きてのほかの大小乗顕密の諸経において受持し読誦するをことごとく読誦雑行と名づく。

読誦雑行とは、浄土経以外の経を読誦することをいいます。

これは散善の行福である「読誦大乗」に相当します。

同じく『選択集』に

みなすべからく「読誦大乗」の一句に摂すべし。願はくは西方の行者、おのおのその意楽に随ひて、あるいは『法華』を読誦してもつて往生の業となし、あるいは『華厳』を読誦してもつて往生の業となし、あるいは『遮那』・『教王』および諸尊の法等を受持し読誦してもつて往生の業となし、あるいは「般若」・方等および『涅槃経』等を解説し、書写してもつて往生の業となせ。

とあります。『法華経』『華厳経』『般若経』『方等経』『涅槃経』などを読誦し、解説し、書写して往生の行とするのが、読誦雑行です。そして散善です。

本来なら『華厳経』『般若経』『方等経』『涅槃経』などを読誦することは、聖道門でさとりを開くためにする行です。それを往生の行に転換する、つまり浄土往生の為にと心を変えると読誦雑行になるわけです。

あなたの

>「定散二善」が雑行に入るのは、真仮廃立レベル、つまり親鸞聖人以降です。

>「五雑行」は当然、阿弥陀仏に向かっていません。

>もし、雑行無量が、飛雲さんがメインと思っている定散二善なら、

>定散二善は、弥陀に向かっての善ですから、五雑行とは真っ向から異なりますよ
ね。

が間違いと判りましたか。

それでも言い訳が多いでしょうから、もう一つ『選択集』のお言葉。

また読誦大乗の行あり。人みなおもへらく、大乗経を読誦してすなはち往生すべし。もし読誦の行なくは、往生すべからずと。
これにつきて二あり。一には持経、二には持呪なり。持経とは、「般若」・『法華』等の諸大乗経を持するなり。

浄土往生の為に聖道経典を読誦することで往生すべしが散善の「読誦大乗」であり、五雑行でもあります。

同じことが他の4つにも言えます。他の仏に向かってでの行によっても「往生すべし」なら五雑行です。

いろいろと述べられても、聖教にないことを邪義といいます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■南風さんの邪義まとめ■

法然上人--「雑行は往生の行」
南風さん--「雑行は聖道門の行」

法然上人--「散善である布施・持戒は雑行」
南風さん--「散善である布施・持戒は雑行ではない」

法然上人--「散善の読誦大乗は五雑行の1つでもある」
南風さん--「定散二善は五雑行と対立する」


■南風さんの主張が邪義である理由■

聖教に基づかず、想像でしか語っていないから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今後は、聖教に基づいて語ってください。
今は、法然上人の三選の文についてですから、法然上人のお言葉で語りましょう。

法然上人のお言葉と対立する南風さんの想像はすべて邪義ですから、読む価値がありません。

投稿: 飛雲 | 2014年1月21日 (火) 05時07分


 読まずにコメントですか。
 人間性があらわれていますね。
 長い文章は書けても、読めないのでしょうか?
 では、短く。

 そもそも定散二善の話でしたが、あなたは、

 定散二善 = 雑行

 とさんざん言ってきましたよね。

 今回は、

 定善 = 正行(観察正行)
 散善 = 雑行

 と言っています。

 おかしいではありませんか?

 ボタン、ずれてますけど?

投稿: 南風 | 2014年1月21日 (火) 06時54分

定散二善 = 雑行

は親鸞聖人が仰ったお言葉です。
もう一度書きましょうか。

化土巻

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

親鸞聖人が仰ったお言葉をそのまま言ったに過ぎません。

ただし、正行に含まれるのもありますので、「正行を除く」と注意書きをしました。
お忘れでしょうか。

今回も根拠なしですね。

以下異論無しと言うことで

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■南風さんの邪義まとめ■

法然上人--「雑行は往生の行」
南風さん--「雑行は聖道門の行」

法然上人--「散善である布施・持戒は雑行」
南風さん--「散善である布施・持戒は雑行ではない」

法然上人--「散善の読誦大乗は五雑行の1つでもある」
南風さん--「定散二善は五雑行と対立する」


■南風さんの主張が邪義である理由■

聖教に基づかず、想像でしか語っていないから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿: 飛雲 | 2014年1月21日 (火) 07時00分

あなたは、聖浄廃立の場合と真仮廃立の場合と分けないといっていたのではありませんか?

定善は正行に含まれるのではないですか?

それとも、観経所説の定善は、雑行ですか?

投稿: 南風 | 2014年1月21日 (火) 07時16分

もともとあなたが、一念で廃る雑行などないと言っておりながら、根拠があったので説明つかなかったのです。

大元はそこから始まったことをお忘れなく。

(これは真仮廃立が分からないと説明できないものです)

■帖外御文 138(7)

無善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてて、

一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する衆生が

如来の仏心となりき、やすくたすけすくいたまうことは

不思議なり

投稿: 南風 | 2014年1月21日 (火) 07時18分

>あなたは、聖浄廃立の場合と真仮廃立の場合と分けないといっていたのではありませんか?

私はそんなことを一言も言っていません。

そもそもあなたのいう聖浄廃立、真仮廃立の概念が間違っています。間違った概念に基づいて論理を展開することに意味はありません。

私は法然上人のお言葉に基づいて雑行の説明をしてきました。あなたは自分の間違った概念に基づいてです。

投稿: 飛雲 | 2014年1月21日 (火) 07時19分

これには異論無しでよろしいですね。
違うなら、根拠に基づいて弁明してください。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■南風さんの邪義まとめ■

法然上人--「雑行は往生の行」
南風さん--「雑行は聖道門の行」

法然上人--「散善である布施・持戒は雑行」
南風さん--「散善である布施・持戒は雑行ではない」

法然上人--「散善の読誦大乗は五雑行の1つでもある」
南風さん--「定散二善は五雑行と対立する」


■南風さんの主張が邪義である理由■

聖教に基づかず、想像でしか語っていないから

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿: 飛雲 | 2014年1月21日 (火) 07時21分

南風さん、もうやめましょう。

あなたの間違いは法然上人のお言葉から誰の目にも明らかでしょうに。

これ以上恥の上塗りをして、親鸞会のお粗末なことを晒し続けたいの?

元会員として、親鸞会の恥を世界中に晒されるのは忍びないのよ。

投稿: 熊 | 2014年1月21日 (火) 07時25分

「一念で廃る雑行などない」と飛雲さんは仰ってないと説明があったじゃないですか。

「信前に雑行を捨てることができる」と飛雲さんが仰ったのを勝手にすり替えて、嘘ばかりでホント恥ずかしい!

雑行の定義が、南風さんは法然上人と全く異なっているんだから、南風さんは三選の文の説明なんか最初から無理じゃない!!

投稿: 元学徒 | 2014年1月21日 (火) 07時56分

管理人さんが提案された法然上人のお言葉での議論にも応じず、私が挙げた親鸞聖人のお言葉のどこをどう読めば「真仮廃立の雑行」が理解できるのかも説明されないのですね…。せっかく調べたのに…。

ところで、帖外御文章のご文については、管理人さんは「例外」だと説明されていますが、私は、「一念に」という言葉が、「もろもろの雑行をすてて」を飛び越えて、「一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する」にかかっているということだと味わっています。蓮如上人が、この一文だけ、親鸞聖人のお言葉にも法然上人のお言葉にも合わないことを言われたと読むよりは、平易な言葉での表現でもあることですし、少し変則的な文法表現を用いられたとみる方が自然ではないかと思うからです。そんな理解は誤っていると言われるならそれでも構わないのですが、一つの意見として記しておきます。

投稿: 元会員 | 2014年1月21日 (火) 08時13分

それから、「真仮廃立の雑行」というのは、どうも、一般的には「正雑兼行の雑修」と呼ばれるものを指しているような感じを私は受けましたので、議論のご参考までに、これについて言われた存覚上人の「持名鈔」を引用させて頂きます。

ここに念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり。この門にとりて、また専修・雑修の二門あり。専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。雑修といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切の行業をもくはふるなり。このふたつのなかには、専修をもつて決定往生の業とす。そのゆゑは弥陀の本願の行なるがゆゑに、釈尊付属の法なるがゆゑに、諸仏証誠の行なるがゆゑなり。おほよそ阿弥陀如来は三世の諸仏の本師なれば、久遠実成の古仏にてましませども、衆生の往生を決定せんがために、しばらく法蔵比丘となのりて、その正覚を成じたまへり。かの五劫思惟のむかし、凡夫往生のたねをえらび定められしとき、布施・持戒・忍辱・精進等のもろもろのわづらはしき行をばえらびすてて、称名念仏の一行をもつてその本願としたまひき。「念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ」と誓ひたまひしに、その願すでに成就して、成仏よりこのかたいまに十劫なり。 如来の正覚すでに成じたまへり、衆生の往生なんぞ疑はんや。これによりて釈尊はこの法をえらびて阿難に付属し、諸仏は舌をのべてこれを証誠したまへり。かるがゆゑに一向に名号を称するひとは、二尊の御こころにかなひ、諸仏の本意に順ずるがゆゑに往生決定なり。諸行はしからず。弥陀選択の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらざるがゆゑなり。

投稿: 元会員 | 2014年1月21日 (火) 08時36分

法然上人の仰せになる雑行を、南風さんのような解釈をする人がいるとは、衝撃でした。
雑行とは、善導大師の「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」をそのまま踏襲されています。言うまでもなく往生の行としてのです。
これを事もあろうか、徹底的に踏みにじる解釈を堂々と仰る方があるとは、いやはや驚きの一言です。
管理人さんが、南風さんの主張を読みたがらないお気持ちはよくわかります。私もまともな気持ちでは読めません。
南風さんに一言申し上げると、選択本願念仏集を読んでから議論をするものです。
読んでもいないのに知ったような顔をして意見することは、謗法ではありますまいか。
今後も南風さんが、驚きの連続を仰るなら、荒らし認定されるべきかと存じます。謗法の罪を造らせないための措置ですから、ためらう必要はいりません。

投稿: 浄土宗の者 | 2014年1月21日 (火) 10時31分

南風さん、私の問いは無視されましたね……。

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次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。何者かこれなるや。一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口に称するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。またこの正のなかにつきてまた二種あり。一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。 もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。ゆゑに深心と名づく。
(「散善義」上輩観 就行立信)
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「一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」は浄土宗の立教開宗の御文ですね。善導大師が五正行のなかでも称名を正定業となされ、これを受けた源空(法然)聖人が選択本願念仏を開顕され、そこからさらに信を別開なされたのが浄土真宗の宗祖親鸞聖人です。

----------

>ですが、真仮廃立で明らかにされた弥陀に向かって自力の心でする諸善万行の
>雑行は、信前に、ましてや自分の力で、ましてや簡単に、ましてや何度も捨てる
>ことなど不可能です。

下品下生の人が「弥陀に向かって自力の心でする諸善万行の雑行」とやらを修していたりするのですか。
おかしいですね……。

下輩は下行下根の人なり。十悪・五逆等の貪瞋と、
四重と偸僧と謗正法と、いまだかつて慚愧して前の[とが]を悔いず。
終時に、苦相、雲のごとくに集まり、地獄の猛火罪人の前にあり。
たちまちに往生の善知識の、急に勧めてもつぱらかの仏の名を称せしむるに遇ふ。
化仏・菩薩声を尋ねて到りたまふ。一念心を傾くれば宝蓮に入る。
三華障重くして多劫に開く。時にはじめて菩提の因を発す。
(『往生礼讃』)

投稿: 薄縹 | 2014年1月21日 (火) 11時48分

あんまり虐めると可哀想だけど、南風さんの邪義なんて一発で破れると思いますよ。
飛雲さんの

「弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」(三経往生文類)と、念仏を選んで諸善を捨てるのが20願の行者です。
また「経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。」(教行信証化土巻)と、諸善ではわずかな功徳しか積めないと嫌い貶めて、一心に念仏に励むのが20願の行者です。

これだけで十分でしょう。玉見さんにも質問してて逃げている内容。
20願の行者は、諸善万行を捨てないと入れないじゃないのかね。

>ですが、真仮廃立で明らかにされた弥陀に向かって自力の心でする諸善万行の
>雑行は、信前に、ましてや自分の力で、ましてや簡単に、ましてや何度も捨てる
>ことなど不可能です。

じゃあ、親鸞聖人は嘘を教えられたってことだよね。違うの、南風さん、逃げないで答えてよ。

投稿: 20願 | 2014年1月21日 (火) 13時56分

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 ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
(「化身土巻」三願転入)
----------

上で20願さんもご指摘なされるところですが、南風さんのご主張、即ち

>ですが、真仮廃立で明らかにされた弥陀に向かって自力の心でする諸善万行の
>雑行は、信前に、ましてや自分の力で、ましてや簡単に、ましてや何度も捨てる
>ことなど不可能です。

は、宗祖の三願転入の表白とも明確に矛盾します。この点について是非ともご説明なさるべきでしょう――あるいは南風さんもまた「自力の心は捨ててもその行為自体は善だからせよ。諸善万行は信後報恩行となるのだ。」というふうな理解をされていて、それでことさらこのような主張をなさるのでしょうか――。

(参照:「雑行・自力の心・仏智不思議を疑う心を必死に勧める高森顕徹会長」コメント欄)
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-4fde.html#comments

----------

前々回無視されましたので、今一度お尋ねいたします。

「南風さんはもうすでに雑行を捨てましたか?」
(「はい」か「いいえ」でお答えください。)

投稿: 薄縹 | 2014年1月21日 (火) 17時56分

コメント頂いた皆様

貴重な御意見有難うございました。参考にさせて頂きました。


南風様

皆様からの質問がいくつも来ていますので、答えてください。(薄縹さん・元会員さん・20願さん)

私へのコメントは以下のあなたの邪義を覆す、法然上人のお言葉を出して頂くだけで結構です。
法然上人のお言葉とは関係のない、勝手な創作話は読みませんので、宜しくお願いします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■南風さんの邪義まとめ■

法然上人--「雑行は往生の行」
南風さん--「雑行は聖道門の行」

法然上人--「散善である布施・持戒は雑行」
南風さん--「散善である布施・持戒は雑行ではない」

法然上人--「散善の読誦大乗は五雑行の1つでもある」
南風さん--「定散二善は五雑行と対立する」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿: 飛雲 | 2014年1月21日 (火) 18時19分


あれだけ詳しく説明しても分からないのですね。

根拠をあげておきましょう。

でも、正直、あなたに理解する力はないと思っています。

長い文章が苦手とはツユしらず失礼しましたが、

がんばって前あげた文章とあわせて理解してください。

答えが書いてありますから。


逆に、法然上人のお言葉で「定散二善 = 雑行」といわれた根拠を示してください。

そうでないと、私への攻撃は攻撃になってないのです。

今、法然上人が聖浄廃立のレベルでいわれた「三選の文」の話です。

私が何を言っているのかわからなければ、説明しても、まだわからないと思いますので、

まずは、下記の根拠と私が先にあげた文章と、

なぜ法然上人のいわれた雑行をイコール定散二善にならないのか、考えてみたらいいと思います。

なぜ蓮如上人だけが雑行が一念で廃ると教えられたんだろうの疑問も、そこがわからないと解けないのですよ。

私は、全部わかってるので、偉そうにせず、ちゃんと答えてくださいね。

詰んでるのはあなたなのですから。

では、がんばって!!


『観無量寿経』にのたまはく、

「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、
 すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。

 同経の『疏』(散善義)にいはく、
「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、

遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、
仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむる
にあり」と。


念仏付属章


輩品開合
 問ひていはく、三輩の業みな念仏といふ。その義しかるべし。ただし『観経』の九品と『寿経』(大経)の三輩と、本これ開合の異なり。もししからば、なんぞ『寿経』の三輩のなかにはみな念仏といひ、『観経』の九品に至りて上・中の二品には念仏を説かず、下品に至りてはじめて念仏を説くや。
答へていはく、これに二の義あり。一には問端にいふがごとく、『双巻』(大経)の三輩と『観経』の九品とは開合の異ならば、これをもつて知るべし、九品のなかにみな念仏あるべし。いかんが知ることを得る。
三輩のなかにみな念仏あり。九品のなかなんぞ念仏なからんや。ゆゑに『往生要集』(下)にいはく、「問ふ。念仏の行、九品のなかにおいてこれいづれの品の摂ぞや。
答ふ。もし説のごとく行ぜば、理上上に当れり。かくのごとくその勝劣に随ひて九品を分つべし。しかるに『経』(観経)に説くところの九品の行業はこれ一端を示す。理実に無量なり」と。{以上}
ゆゑに知りぬ、念仏また九品に通ずべしといふことを。二には『観経』の意、初め広く定散の行を説きて、あまねく衆機に逗ず。後には定散二善を廃して、念仏一行に帰す。いはゆる「汝好持是語」等の文これなり。その義下につぶさに述ぶるがごとし。ゆゑに知りぬ、九品の行はただ念仏にありといふことを。

選択本願念仏集

投稿: 南風 | 2014年1月21日 (火) 19時23分


私は「蓮如上人が一念で廃る」といわれた雑行と、
信前で捨てる雑行(廃ってしまうのではない)
との関係について明確にしました。

ところが、あなたは、親鸞聖人が「定散二善」を「雑行」と言われたのに、

法然上人の「雑行」に「定散二善」を当てはめようとするとうまくいかず
困っています。
 (※困ると分身がたくさん現れるのですね、なかなか面白いです)


困ってしまうのは、一念で廃る雑行を知らない(もしくは例外にしてしまっている)からです。


あなたの「例外」はごまかしです。
あの帖外御文の一念で廃る雑行は、特別な「人」の問題ではありません。

御文章は複数の人が拝読するのですし、現に今、本になって、
今日の私たちも拝読しているのですよ。
特に、「雑行」については「教え」です。

あなたは、理解もせず、話の途中で勝手に結論ずけて
「まちがいだ、まちがいだ」と騒ぎたて、記事まで
書くので、これ以上、手を広げる気はありません。


私は、ちゃんと配慮して言葉を選んで書いています。
その前提を無視して、早合点して、自分で勝手に解釈しないように。


私は、答えられないのでなく、あなたのひっかき回し作戦に
ひっかかるつもりはないからです。
ハッキリ言っておきます。

また、勝手にデタラメな勝利宣言をしないように。
   ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
あなたには、前例がある。


●あなたの記事 一口問答(三願転入9)の中の

「捨てよという雑行とは、五雑行のことで、五雑行以外の諸善
は含まれていないと言うことです。法然上人においてさえも
そうだと考えているようですので、驚きました。」

は早とちりの間違いです。

私は、そんなことは言っていません。

人間ならば、まず謝罪し、訂正してください。

そして、以下の質問に答えてください。

観経諸説の、阿弥陀仏に向かった【定善】は、法然上人が三選の文でいわれた

【正行】ですか?

それとも、観経所説の定善は、【雑行】ですか?


これに答えられないと、今までさんざん言ってきた、雑行の定義に
狂いが生じるのですよ。

この答えも出せないで、一体、何を語るというのですか?


法然上人がいわれる「定善」は、「観察正行」つまり「正行」に入りますよね。
根拠は以下のとおりです。

●正行とは、これにつきて開合の二の義あり。
初めの開を五種となし、後の合を二種となす。
初めの開を五種となすといふは、
一には読誦正行、二には観察正行、三には礼拝正行、乃至

第二に観察正行は、もつぱらかの国の依正二報を観察するなり。
すなはち文に、「一心にもつぱら思想を注めてかの国の二報荘厳を観察し憶念す」といふこれなり。


●正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。
何者かこれなるや。
一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、
一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、

(乃至)

もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、
これを名づけて正となす。

             【選択本願念仏集】


●真正報といふはすなはち第九の真身観これなり

             【観無量寿経疏】

●よろしく定観を修行すべし。就中第九の真身観は、これ観仏三昧の法なり。

             【選択本願念仏集】


根拠を出しましたので、答えてください。


【1】

観経所説の、阿弥陀仏に向かった定善は、法然上人が三選の文でいわれた【正行】ですか?

それとも、観経所説の定善は、法然上人が三選の文でいわれる【雑行】ですか?


【2】

いい加減な記事を書いたお詫びをしてください。

投稿: 南風 | 2014年1月21日 (火) 19時25分

何か羅列されていますが、

南風さん--「雑行は聖道門の行」

の根拠はどれですか。

南風さん--「散善である布施・持戒は雑行ではない」

の根拠はどれですか。

南風さん--「定散二善は五雑行と対立する」

の根拠はどれですか。

1つ1つ対応させてください。

投稿: 飛雲 | 2014年1月21日 (火) 19時30分


お久しぶりです。玉見です!

もうそろそろ、話を戻しましょうか。

あなたこそ逃げずに、1つずつ答えてね。

上の議論みたいに逃げずにね!

蓮如上人は、

■帖外御文 138(7)に、


「無善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてて、

 一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命する衆生が

 如来の仏心となりき、やすくたすけすくいたまうことは

 不思議なり」

と、書いておられます。

この雑行は、一念で廃るものではありませんか?

との私の問いに、

飛雲さんは、これは一念で廃る雑行と認めたうえで

「信前に雑行を捨てるのが大多数ですが、
 一念で廃る人も絶対にないとはいえない」

と答えました。


では、質問します。


【1】蓮如上人は、

「無善造悪のわれら」が

「一念にもろもろの雑行をすてて」

と言われています。

「無善造悪のわれら」とは特別で、例外的な、手紙を出された相手だけのことでしょうか?

お答えください。

(あれからもう大分、時間経ってますから、考えるに十分な時間は
 あったでしょう。サクッと答えてください!)


【2】以下、蓮如上人は【「何」を】捨てよ、と言われているでしょう?
   
   ものすごく簡単な問題ですね!

   さらに答えやすく二択にしてみました。

 (a)「心」

 (b)「行」


  (a)か(b)かでお答えください(^^)


・もろもろの雑行雑修自力の【こころ】をふりすてて、
 一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、
 御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
 【たのむ一念】のとき、往生一定御たすけ治定

      『領解文』真宗聖典 975ページ)


・諸の雑行・雑修・自力なんどいう悪き【心】をふりすてて、
 一心に深く弥陀に帰する心の疑なきを真実信心とは申すなり。

     『御文章 五帖目十五通』


・信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、(乃至)、
 もろもろの雑行をこのむ【こころ】をすて(1帖目10通)


・これによりて一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、
 ふかくたのみたてまつりて、もろもろの雑行を修する【心】をすて
                      (2帖目1通)


・それ、信心をとるといふは、やうもなく、ただもろもろの
 雑行雑修自力なんどいふわろき【心】をふりすてて、一心に
 ふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。
                     (5帖目15通)


・当流聖人(親鸞)のすすめまします安心といふは、(乃至)
 もろもろの雑行雑修の【こころ】をさしおきて(5帖目18通)

・当流の安心といふは、なにのやうもなく、もろもろの雑行雑修の
 【こころ】をすてて(5帖目21通)

投稿: 玉見 | 2014年1月21日 (火) 19時54分

★特別参考資料


【1】「われらが【一念に】もろもろの【雑行】をすてて、一心一向に弥陀如来にふたごころなく帰命」『帖外御文』

【2】「わろき【自力】なんどいふ【ひがおもひ】をもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽して」『御文章2帖目2通』

【3】「もろもろの【雑行雑修自力】の【こころ】をふりすてて、一心に阿弥陀如来」『領解文』

【4】「もろもろの【雑行雑修自力】なんどいふ【わろき心】をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり」『御文章5帖目5通』

【5】「もろもろの【雑行】をなげすてて、一心に弥陀に帰命」『聖人一流章』


羅列されてもポカーンですとかいうと恥ずかしいから、やめたほうがいいとアドバイスしておきますね。

では、よろしく。

投稿: 玉見 | 2014年1月21日 (火) 19時57分

玉見さん、御約束はお忘れですか。
私が答えたら、あなたは私の質問に答えると仰っていました。
では、私の質問に答えてください。


それと最新のエントリーを見てもらえましたか?

問い

「無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。」(なぜ生きる2)の通りではありませんか。

答え

これは20願の行者のことではないですか。
「弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」(三経往生文類)と、念仏を選んで諸善を捨てるのが20願の行者です。
また「経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。」(教行信証化土巻)と、諸善ではわずかな功徳しか積めないと嫌い貶めて、一心に念仏に励むのが20願の行者です。
20願まで進んだ行者を「なんと素晴らしいことであろうか」(なぜ生きる2)と褒め讃えると言ったのは嘘ですか。


20願では諸善万行を捨てるのですよ。五雑行ではないことは明らかでしょう。違うならどこが違うか言ってください。

投稿: 飛雲 | 2014年1月21日 (火) 19時58分


 まず、いい加減な記事を書いたことをお詫びしてください。

 子どもと大人の大きな違いの1つは、悪いことをしたあと、

 お詫びができるかどうか、です。年齢は全く関係ありません。

 あなた方も、倫理的善は、信前信後とわずしてよいのでしょう?

 というより、するように教えられていますでしょう。

 おとうさん、おかあさんにも、悪いことしたら、ちゃんと

 おわびするんですよと教えてもらいませんでしたでしょうか?


 そして、この質問に答えてください。

観経諸説の、阿弥陀仏に向かった【定善】は、法然上人が三選の文でいわれた【正行】ですか?

それとも、観経所説の定善は、【雑行】ですか?


 これすら分からない人に、他の説明などできようがないのです。

 2+3 が分からない人に、どうして 2+3+4 が解けますか?

 まず、2+3 からです。

観経諸説の、阿弥陀仏に向かった【定善】は、法然上人が三選の文でいわれた【正行】ですか?

それとも、観経所説の定善は、【雑行】ですか?
 

投稿: 南風 | 2014年1月21日 (火) 20時35分

誤魔化さないで下さい。

南風さん--「雑行は聖道門の行」

の根拠はどれですか。

南風さん--「散善である布施・持戒は雑行ではない」

の根拠はどれですか。

南風さん--「定散二善は五雑行と対立する」

の根拠はどれですか。

1つ1つ対応させてください。

投稿: 飛雲 | 2014年1月21日 (火) 20時36分


 逃げないでください。

 そしてまず、いい加減な記事を書いたことをお詫びしてください。

 子どもと大人の大きな違いの1つは、悪いことをしたあと、

 お詫びができるかどうか、です。年齢は全く関係ありません。

 あなた方も、倫理的善は、信前信後とわずしてよいのでしょう?

 というより、するように教えられていますでしょう。

 おとうさん、おかあさんにも、悪いことしたら、ちゃんと

 おわびするんですよと教えてもらいませんでしたでしょうか?


 そして、この質問に答えてください。

観経諸説の、阿弥陀仏に向かった【定善】は、法然上人が三選の文でいわれた【正行】ですか?

それとも、観経所説の定善は、【雑行】ですか?


 これすら分からない人に、他の説明などできようがないのです。

 2+3 が分からない人に、どうして 2+3+4 が解けますか?

 まず、2+3 からです。

観経諸説の、阿弥陀仏に向かった【定善】は、法然上人が三選の文でいわれた【正行】ですか?

それとも、観経所説の定善は、【雑行】ですか?
 

 答えられないんですね?

 答えられないでしょうね。あなたには。

 ひとりでいい気になっていますが、ギャラリーはあなたを失笑してますよ。(ほんとに)

 木を見て、森を見ていないのです。

 「雑行=定散二善。わーい、いい根拠みつけた! これでいつでもどこでも

 どなたのお言葉でも雑行=定散二善 で説明できるぞー」

 と早合点してるのです。

 真宗学はそんな単純ではありませんから、単純イコールをどこにでも

 つかうと大間違いを犯してしまうのです。

 たまにはカッコよく答えて、汚名返上してください。

投稿: 南風 | 2014年1月21日 (火) 20時46分

余分なことを言う必要はありません。

南風さん--「雑行は聖道門の行」

の根拠はどれですか。

南風さん--「散善である布施・持戒は雑行ではない」

の根拠はどれですか。

南風さん--「定散二善は五雑行と対立する」

の根拠はどれですか。

1つ1つ対応させてください。

投稿: 飛雲 | 2014年1月21日 (火) 20時47分


 今度ばかりは許しません。
 
 お詫びしなさい。


 そして、定善についての質問に答えてください。

 ここすら理解できない人にはその先の話はできないのです。

 あなたに分かるレベルで説明すると(恥ずかしいですが)

 「ここで定善は雑行にはならないでしょう」

 「そうですね。おかしいですね」

 「それはなぜかというと……」

 という展開だからです。

 「ここで定善が雑行にはならないでしょう」

 「答えません」

 「いや、あのさ、ならないでしょう?どう考えても」

 「答えません」

 「それじゃあ次に進めないんだけど」

 「答えません」


 これじゃあ説明にならないでしょう。

 あなたはお聖教の根拠を出せば話するといいました。

 廃観立称はあなたには高度でしょうが、定善と観察正行のところも

 ポカーンなんですか? ひょっとして???


投稿: 南風 | 2014年1月21日 (火) 20時56分

結局は、以下で完全決着です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■南風さんの邪義まとめ■

法然上人--「雑行は往生の行」
南風さん--「雑行は聖道門の行」

法然上人--「散善である布施・持戒は雑行」
南風さん--「散善である布施・持戒は雑行ではない」

法然上人--「散善の読誦大乗は五雑行の1つでもある」
南風さん--「定散二善は五雑行と対立する」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

雑行の定義さえ、法然上人と逆の南風さんが三選の文の解説などできる訳もなく、話をするだけ無駄です。

よって、浄土宗の者さんのアドバイスに従い、南風さんのコメントは荒らしとして、報告し、掲載しません。

投稿: 飛雲 | 2014年1月21日 (火) 20時59分

>観経諸説の、阿弥陀仏に向かった【定善】は、法然上人が三選の文でいわれた【正行】ですか?
>それとも、観経所説の定善は、【雑行】ですか?

「三選の文」を断章取義し、【観察正行(助業)】とでもすべきところを単に【正行】として論点をはぐらかしているあたり、愚問だと思います……。正助二業をよくよく考えてください。

「【雑行】は【化土の業因】です。【定善】も【化土の業因】です。本願を信じ念仏を申さば仏に成る(『歎異抄』第十二条)のが浄土真宗です。」

----------
助正ならべて修するをば
 すなはち雑修となづけたり
 一心をえざるひとなれば
 仏恩報ずるこころなし

仏号むねと修すれども
 現世をいのる行者をば
 これも雑修となづけてぞ
 千中無一ときらはるる

こころはひとつにあらねども
 雑行・雑修これにたり
 浄土の行にあらぬをば
 ひとへに雑行となづけたり

(以上『高僧和讃』)
----------

投稿: 薄縹 | 2014年1月21日 (火) 23時42分

どんな議論をするにしても、お互い、相手を言い負かすことだけを目的とした議論は慎みたいものです。僭越ながら、私は、管理人さんにもこの点についてお考えいただくべき点が全くないともいえないように思っておりますが、しかしながら、むしろ、親鸞会的教義を擁護する議論を展開している方々にあっては、ずっと強くこのことがあてはまると思っており、それどころか、完全に目的を見失っている、という批判を免れないと考えています。親鸞会が誠実な議論をする態度を著しく欠いていることが、親鸞会に対する強い批判・反発の源ではないのかということを、親鸞会擁護派の方々はよく胸に手を当ててお考え願いたいところです。

他のコメントは知りませんが、私は「分身」などではありません。管理人さんと相談したことも全くありません。さらにいえば、こんなところに書き込みをしておいて失礼かもしれませんが、何があっても管理人さんに同調しなければならないという筋合いでもありません。

まず、私は、蓮如上人の御文章の味わいには人それぞれの捉え方が出てきても仕方ないという前提の上でのことではありますが、帖外御文章で「一念で廃る雑行」を教えられたという考え方には疑問があり、「一念で廃る雑行」など誰も教えられていないと思っています。だいたい、私は、以前、かなり長年にわたって親鸞会で必死で聞法しましたが、このご文の存在自体を知らされることさえ全くありませんでした。それなのに、このご文がどうして決定的な根拠になるんでしょうか。御文章のご文をたくさん引用されている方は、親鸞学徒ではなくて蓮如学徒なんでしょうか?それよりも重要なことは、法然上人も親鸞聖人も、「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。」と言われている点でまったく共通しており、親鸞聖人は「仮門の教、欣慕の釈」にしたがって雑行を捨てよと言われている、ということではありませんか?親鸞聖人は、法然上人が教えられなかった「真仮廃立の雑行」を教えられたとか、諸善はその「真仮廃立の雑行」にしか入らないとか、念仏を称えつつ諸善を行じている人には「諸善を廃して念仏を称えよ」と行の面から教えるべきことはなくなるなどというのは、いずれも聖教上の根拠を欠いているばかりか、聖教に明確に反しているのではないか、もしそうだとすれば、捨てるべきものを間違って捉えているということになってしまうのだから、きっちりと聖教と自説の対応関係を説明すべきではないのか、という問題提起を私はしたつもりです。親鸞会擁護派の方々にも、管理人さんにも、余り気に入っていただけなかったようですけど…。

次に、五雑行の点についてですが、教行信証にごくごくほんのわずかしか出てこないこの概念について、どうしてお互いこんなに一生懸命になって議論しているのかといえば、それは親鸞会が「五雑行」だけが捨てるべき行であって、そのほかの雑行は「一念で廃る」「諸善」だと言っているからでしょう。管理人さんは、法然上人は、行の面から、「正助二業以外の諸善を捨て、助業も捨て、専ら念仏を修すべし」と言われているのだから、それは法然上人の教えと既に異なるものだと言われています。法然上人の書かれたものは管理人さんの言われる意味以外にどうにも読みようがないとしか私には思えませんし、親鸞聖人が雑行について法然上人と「異なって」教えられた点があるとも私には思えません。親鸞会擁護派の方々からそのような具体的な聖教上の根拠も示されていません。ただ、どこから出てきたのかよく分からない理屈と、御文章のご文が出されているだけです。その上で、どうも、親鸞会擁護派の方々が問題にされているのは、管理人さんが整理されているとおり、要するに、観察正行は、三選の文にあてはめた場合、「雑行」と「助業」のいずれに分類されるものなのか、ということのようです。しかし、お互いそんなことを議論していったいどうなるのでしょうか。仮にこの点について管理人さんに間違いがあったのだとして、だから何だというのでしょうか。少なくとも法然上人が念仏一行を勧められたという点は、双方異論ないはずなのに。

親鸞会の方々が、出版したばかりの「なぜ生きる2」をあちこちでボロカスに批判されて、悔しい思いをしたであろうことは、私には理解できなくもありません。ただ、親鸞会の方々の主張の内容は、私には全く理解ができません。突然、誰も見たことのないご文を「決定的な文証」と言い出したり、誰も聞いたことのない理屈を編み出したりするのは、そろそろ終わりにしてほしいものだと思います。

最後に、こういった親鸞会の方々が読んでいるであろう場でコメントをするには大変な労力と時間を要することがよく分かりましたので、管理人さんの多大な努力に敬意を表します。私はここ最近、いくつかのブログにいくつかのコメントをさせて頂きましたが、これ以上の余力はもはやありませんので、これにて当面の間失礼させていただきます。

投稿: 元会員 | 2014年1月22日 (水) 05時52分

元会員 様

コメント有難うございます。

>親鸞会擁護派の方々にも、管理人さんにも、余り気に入っていただけなかったようですけど…。

そうではなく、それ以前の問題で留まっていただけのことです。
南風さん、玉見さんと議論するのに集中して、論点をずらしたくなかったからです。
不快に思われたのであれば、お詫びしますが、このような理由からですので、御理解ください。

純粋に教義の議論をするのであれば、何日でもやりとりは続けますが、明らかな間違いをいくつも認めざるを得ない状況になってでさえ、なお改めようとしないで話をすり替える人物には、しかるべき態度で臨みます。

元会員さんは、そのような方ではありませんので、いつでもコメントをお待ちしています。

投稿: 飛雲 | 2014年1月22日 (水) 08時16分

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