「しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし」とは。
前々回と前回で、聖道門の行を雑行とは言わないことを説明しました。その違いを簡単に整理すると、
聖道門の行--自力でさとりを開くために修する善
雑行--聖道門の行と行自体は同じでも、往生の為にする善
ということです。
結局2つの違いは、親鸞会風に言うなら、心がけの違いになります。
したがって、聖道門で修行をしている人にとっては、雑行というのは親しみのある行になる訳です。
たとえば、承元の法難のきっかけになった『興福寺奏状』には
かの観念の中に、散位より定位に至り、有漏より無漏に及ぶ。浅深重重、前は劣、後は勝なり。
観念を以て本として、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨てず、是れ大悲の至って深く、仏力尤も大なるなり。
とあります。口称念仏は劣行で観念の行こそが勝れた行だと、法然上人を批判した内容です。ここでの「観念」とは、『観無量寿経』の定善十三観を指していますが、聖道門においての観念も、勝れた行として考えられていて、諸仏に対する観念は盛んに修されています。これを往生の為に修すれば、雑行になります。ただし、阿弥陀仏に対しての観念は正行です。
また、経典を読誦することも聖道門では大いに奨励される行です。
『選択本願念仏集』には、散善行福の読誦大乗について以下のように説明されています。
また読誦大乗の行あり。人みなおもへらく、大乗経を読誦してすなはち往生すべし。もし読誦の行なくは、往生すべからずと。
これにつきて二あり。一には持経、二には持呪なり。持経とは、「般若」・『法華』等の諸大乗経を持するなり。
持呪とは随求・尊勝・光明・阿弥陀等のもろもろの神呪を持するなり。(現代語訳)
また大乗を読誦する行がある。人はみな、大乗経を読誦して往生できるので、もし読誦の行がなければ往生できないと思っている。
この読誦について二つがある。一つには持経、二つには持呪である。持経とは『般若経』・『法華経』などのもろもろの大乗経を読むことである。
持呪とは、「随求陀羅尼」・「尊勝陀羅尼」・「光明真言」・「阿弥陀真言」などのもろもろの尊い呪文をとなえることである。
聖道門の経典を読誦することで往生できると思っていれば、それは散善であり、読誦雑行でもあります。それどころか、密教で唱えられる呪文を、これで往生できると思って唱えれば、それも散善であり、読誦雑行になります。
もちろん、浄土三部経を読誦すれば読誦正行です。
親鸞会の大好きな六度万行も、もちろん雑行です。
法然上人の法語を親鸞聖人が編纂された『西方指南抄』には
さてこの正定の業と助業とをのぞきて、そのほかの諸行おば、布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行も、法華経おもよみ、真言おもおこなひ、かくのごとくの諸行おば、みなことごとく雑行となづく。
とあります。五雑行と諸善とは別の雑行だ、とか考えていること自体が、雑行を知らない証拠になります。
このように聖道門の行と雑行とは、心がけの違いだけですので、聖道門を捨てたなら、次は同様に雑行を捨てなさい、となります。もちろん、諸善の雑行です。
それが三選の文の
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
です。
当然ながら、諸善の行である雑行は、信前に捨てることができます。
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コメント
コメントに答えていただき有難うございました。
ただ、「南風さんだけではない」、ということは
やっぱり、南風さんが言ったということになりますね。
それは違うと思うのですが。
でも、もういいです。このことは。
あれから色々、「定散二善」について考えましたが、もう南風さんの
説明は聞けませんし、飛雲さんは説明してくれませんし、モンモンと
しています。
改めて確認すると「定散二善は三選文のどこに入るのか」と尋ねたのは
飛雲さんですよね。他の人が「何でそんなことを問題にするんだ」って、
コメントがありましたけど、それは最初に問題にした飛雲さんへの
非難になるのでは?
ともかく、南風さんの答えが正解かどうかは別として、
自身の立場は明らかにしたのですから、飛雲さんも、含みをもった言葉でなく、そろそろ
「定散二善」が「三選文」のどこに入るのか表明してもらえないでしょうか。
いいだしっぺ(言葉がおかしい?)なのですし、途中で議論を
打ち切ったわけですから、それくらいはした方がいいと思うのです。
(これから答えるつもりでしたら余計なお世話ですみません)
とりあえず、「分からないのではない」と返信のコメントがあり少し安心しました。
他の人のコメントにも、「定散二善」について書かれているものも
ありましたし、今のままでは親鸞聖人が定義された
「定散二善 = 雑行」との関係が分かりませんので、
お願いします。
追伸:この定散二善を助業の立場とみる人もあっていいように
思うのだけれど、辞典に乗るレベルの説で。
飛雲さんは、そんな人はないと分かっている上で発言しているのかな
投稿: サキ | 2014年1月23日 (木) 21時46分
サキ 様
では早速、答えます。
今回のエントリーを読んで頂ければお判りになられるかと思ったのですが、
>「定散二善」が「三選文」のどこに入るのか表明してもらえないでしょうか。
> いいだしっぺ(言葉がおかしい?)なのですし、途中で議論を
> 打ち切ったわけですから、それくらいはした方がいいと思うのです。
雑行と正行の両方です。
なぜ私があの質問をしたのかといえば、南風さんが、
>聖道仏教を捨てて浄土仏教に入るには、
>
> 五雑行(阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に仕える行為)
> を捨てて
> 五正行(阿弥陀仏に向かっての正しい5つの行)(正助二業)
> の実践をしなさい。
>
> 中でも正定業である、称名正行(念仏)を専らにしなさい。
五雑行と諸善(定散二善)は別だとしたからです。
それで、五雑行の中に定散二善が含まれることを説明してきました。
つまり、南風さんの説明を修正すれば、
>聖道仏教(自力でさとりを開く教え)を捨てて
> 浄土仏教(浄土往生を目指す教え)に入りなさい。
>
> 雑行(正行以外の諸善)
> を捨てて
> 五正行(正助二業)
> に帰しなさい。
>
> 助業を傍らにして
> 正定業である、称名正行(念仏)を専らにしなさい。
南風さんとは明らかに違います。
何度も但し書きをしましたが、定散二善には正行も一部含まれるから「正行を除いて」と書いています。
投稿: 飛雲 | 2014年1月23日 (木) 21時54分
飛雲さんは前回も今回も、定散二善には雑行と正行の両方あることを説明されてますよ。
南風さんは、三選の文の「雑行」には定散二善は含まれないとしてたから、そこが問題だったのでしょ。
定善が正行かどうかを叫んだ所で、それが「雑行」には定散二善は含まれないの証拠にはならないわけですよ。
だって、「雑行」の中に1つでも定散二善が含まれていたら、南風さんの説は崩壊するのですが、それを飛雲さんがされた後だから、それこそ何の意味もない話。
それで南風さんが取り乱したのでしょ。
なんか、ピントがずれてますね。
投稿: | 2014年1月23日 (木) 22時41分
サキさん、はじめまして。飛雲さんが追々ご説明なされるとは思いますが、
> 追伸:この定散二善を助業の立場とみる人もあっていいように
> 思うのだけれど、辞典に乗るレベルの説で。
ということはありません。
何故ならば、「定散二善」と「助業」とでは、たとえ行体が同じでも心のすわりが異なるからです。
投稿: 薄縹 | 2014年1月23日 (木) 23時58分
さっそくのコメントありがとうございました!
こんなに早く返事があると思っていなかったものですから
翌朝になってすみません。
ただ、他の人のコメントにもありましたように、
定散二善が正行と雑行の両方に含まれる部分があるということは
以前の発言で分かっていたんです。
一番知りたいのは、大事な、親鸞聖人の雑行の定義
「定散二善 = 雑行」
との関係なんます。。
定散二善の一部が正行に入っていても、どうして問題ないのかが
分からないんです。
そもそも、その一部とはどういうところなのかも
分かりませんでしたので、教えてもらえないでしょうか。
期待しています!
追伸:薄縹さん、ありがとうございます。
>サキさん、はじめまして。飛雲さんが追々ご説明なされるとは思いますが、
>「定散二善」と「助業」とでは、たとえ行体が同じでも心のすわりが異なるからです。
飛雲さんからも解説してもらえそうですね。
こちらも期待しています!
投稿: サキ | 2014年1月24日 (金) 07時34分
サキ 様
「正行を除く」と書いたのがなぜ理解できないのか判りません。
親鸞会では
「雑行とは、五雑行と言われるものと諸善万行とがある」
と言っています。
それを間違いだということで諸善の中に五雑行が含まれることを説明しました。
それを認識させるために、
「雑行とは諸善である」となるからもっとはっきり
「雑行とは定散二善である」という言い方をしたまでです。
くどいようですが、「正行を除く」です。
なぜなら、雑行の定義は何度も書いていますが、「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。」なのですから、正行が除かれているのは大前提です。当然なことです。何も不思議な話ではありません。
「雑行とは定散二善である(ただし正行を除く)」なら判りますか。
これで判られなければ、説明のしようがありません。
さらに、南風さんが誤解していた聖道門の行も雑行から除かれていることも説明しました。
定散二善で正行になる部分は、今回のエントリーで説明した通りです。
投稿: 飛雲 | 2014年1月24日 (金) 07時47分
親鸞会を擁護する主張を繰り返す人が次々現れるけど、似た文体でハンドルネームが定期的に変わるところが面白い。
全部とは言わないけど、中には同一人物もいるよね。
雑談ならそれでもいいが、同じブログ内で法論するときはせめてハンドルネームを固定されたらいかがですか?
投稿: 横から | 2014年1月24日 (金) 08時22分
分身も結構ですが、南風さんが自己の主張の根拠を列記して、それぞれがどの主張の根拠なのかと飛雲さんに尋ねられて取り乱したことにたいして、分身さんはどう思っているのでしょうかね。
南風さんは、【嘘】をついていたことを自ら認めたのですから、謝罪すべきは南風さんの方ではないですか。
異議があるなら、言ってみてください。
南風さんは、仏法を利用した人物として、飛雲さんがコメント禁止されたのは当然なことですし、そんな人物に謝罪を要求する分身さんには呆れて物が言えません。仏法者として失格であり、人間としても非難される行為じゃないですか。
それとね、雑行と言った時点で正行が除かれているなんて、日本語として当たり前のことですけど、南風さんも分身もそんな説明からしないと理解できないのかと思いますよ。嘘を平気でついても、謝罪を相手に要求するくらいですから、本当に理解できないのでしょうけど。
高森会長に尋ねてごらんなさいよ、
「雑行とは、五雑行といわれるものと諸善万行である」の「諸善万行」に正行は含まれますか?
きっと高森会長はぶっきらぼうに言うでしょう。
雑行と言っているのだから正行が含まないに決まっている、何をバカな質問をしているのだ
投稿: オー | 2014年1月24日 (金) 10時44分
> 定散二善の一部が正行に入っていても、どうして問題ないのかが
> 分からないんです。
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第一の読誦正行は、もつぱら『観経』等を読誦するなり。すなはち文(散善義)に、「一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」といふこれなり。
第一に読誦雑行といふは、上の『観経』等の往生浄土の経を除きてのほかの大小乗顕密の諸経において受持し読誦するをことごとく読誦雑行と名づく。
(『選択集』二行章より抄出)
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例えば「読誦大乗」は「散善」の一つに挙げられますが、そのうち「「浄土三部経」の読誦」は「読誦正行」ですよね――これがもし「『金光明最勝王経』の読誦」等ならば「読誦雑行」となります――。
しかし読誦正行があくまでも「助業」であるとわきまえずに、つまり称名正行こそが「順彼仏願故」の正定業であると信知せずに、読誦それ自体を以て「往生の業因」となせば、即ちそれは「雑修」であり、この状態ではたとえ称名正行を併せ修していたとしても、それは所謂「万行随一の念仏」となってしまいます。いずれにせよ「化土の業因」です。
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助正ならべて修するをば
すなはち雑修となづけたり
一心をえざるひとなれば
仏恩報ずるこころなし
仏号むねと修すれども
現世をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ
千中無一ときらはるる
こころはひとつにあらねども
雑行・雑修これにたり
浄土の行にあらぬをば
ひとへに雑行となづけたり
(以上『高僧和讃』)
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対して、真実信心を獲た他力念仏の行者――称名正行こそが「順彼仏願故」の正定業であると信知している――の修する読誦正行は仏徳讃嘆のいとなみです。どこまでも「本願を信じ念仏を申さば仏に成る(『歎異抄』第十二条)」と心得、読誦それ自体を以て「往生の業因」となしているわけではありません。
よって定散二善の一部が正行に入っていても問題ないということです。
「行体が同じでも心のすわりが異なる」の意味するところも含めてお分かりいただけたでしょうか。
投稿: 薄縹 | 2014年1月24日 (金) 18時32分
一応補足しておきますと「定散二善の一部が正行に入っていても問題ない」とはいっても、上のコメントでの仏徳讃嘆の読誦正行(助業)を「散善(読誦大乗)」とは言いません。
・前者の読誦正行=散善:雑修、化土の業因
・後者の読誦正行≠散善:助業、仏徳讃嘆のいとなみ
です。
投稿: 薄縹 | 2014年1月24日 (金) 19時06分