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2014年1月

2014年1月31日 (金)

高森邪義は、「真宗の廃立にそむき、祖師の御遺訓に違せり」

親鸞会が勧めているのは、間違いなく雑行です。どんな屁理屈をつけても、六度万行は雑行です。
雑行は行ですから、自らその行を選択して捨てるだけです。

このことについて、蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで仰った『安心決定鈔』にこうあります。

かるがゆゑに念仏三昧になりかへりて、もつぱらにしてまたもつぱらなれといふなり。専の字、二重なり。まづ雑行をすてて正行をとる、これ一重の専なり。そのうへに助業をさしおきて正定業になりかへる、また一重の専なり。またはじめの専は一行なり、のちの専は一心なり、一行一心なるを「専復専」といふなり。

これは善導大師の『法事讃』にある「専復専」についての解釈です。
ここに二重の「」がありますが、それを2通りの解釈をしています。

1つは、まず雑行を捨てて正行に帰し、その次に助業を捨てて念仏一行になる、という二段階の「」です。法然上人の三選の文と同じです。
もう1つは、行において念仏一行となる「」と、心において他力の一心になる「」ということです。これは親鸞聖人が『唯信鈔文意』

「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。

と仰ったのと同じです。

どちらの解釈においてでも、雑行は行です。もちろん、捨てるべきものとしてです。

では正行は、勧められている行なのかと言えば、それも間違いです。
『改邪鈔』には

しかるをいま風聞の説のごとくんば、「(中略)〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」と[云々]。これをもつて一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。

とあります。雑行を捨てて正行を修するように勧められたのが、親鸞聖人の教えだ、と言うのは、「総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり」と完全に否定されています。その理由は、正定業である念仏でさえ、自力の行であるなら報土往生できないと親鸞聖人は教えられているのに、ましてや助業を勧められたことはない、ということです。当然ながら、雑行を勧めるなどもっての外の邪義です。

親鸞会は、なにかと屁理屈を付けて、善の勧めを正当化しようとしますが、そんな屁理屈など、聖教を一度読めば、完全に粉砕されてしまします。

高森顕徹会長も、講師部員も、会員も、屁理屈ばかりを並べて退会者に反撃を試みてきますが、何も恐れることはありません。粛々と聖教の御文を示せば、それで終わりです。
ただし、聖教に書かれたことを信じる気の無い親鸞会の面々には、何を言っても無駄でしょうが。

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2014年1月26日 (日)

「なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし」とは。

正行について、言葉だけは親鸞会でも教えているので御存知の方ばかりでしょうが、法然上人の説明を紹介すると、『選択本願念仏集』

一には読誦正行、二には観察正行、三には礼拝正行、四には称名正行、五には讃歎供養正行なり。
第一の読誦正行は、もつぱら『観経』等を読誦するなり。すなはち文(散善義)に、「一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」といふこれなり。
第二に観察正行は、もつぱらかの国の依正二報を観察するなり。すなはち文(同)に、「一心にもつぱら思想を注めてかの国の二報荘厳を観察し憶念す」といふこれなり。
第三に礼拝正行は、もつぱら弥陀を礼するなり。すなはち文(同)に、「もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼す」といふこれなり。
第四に称名正行は、もつぱら弥陀の名号を称するなり。すなはち文(同)に、「もし口称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称す」といふこれなり。
第五に讃歎供養正行は、もつぱら弥陀を讃歎供養するなり。すなはち文(同)に、「もし讃歎供養せばすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす」といふこれなり。

とあります。説明は不要と思いますが、一応前回のことも踏まえて言っておきますと、布施に代表される六度万行は雑行です。
この正行の中で正定業と助業とに分かれることも、御存知とは思いますが、法然上人のお言葉で

一には正業、二には助業なり。初めの正業は、上の五種のなかの第四の称名をもつて正定の業となす。

とあります。これも説明は不要でしょう。

ですから三選の文の

正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。

もそのままです。
しかし、親鸞聖人はこの部分を少し変えておられます。
『尊号真像銘文』には

「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。

とあり、法然上人よりも強い表現となっています。
念仏を専らにするということは、助業を捨てて、念仏一つと心を定めることだということです。
従って、親鸞聖人は、この念仏を真実信心の念仏、つまり他力の念仏となされているのですが、真宗ではこんなことは常識だと思います。それを取りたてて、「この念仏が自力か他力か」と質問する方が、おかしいでしょう。

それでこれまでのことをまとめると、

聖道門を捨てよ=聖道門の行を捨てよ=自力でさとりを開こうとする道を捨てよ

雑行を捨てよ=往生行の中で、正行以外の定散二善を捨てよ

助業を捨てよ=念仏一行を選べ=念仏1つと心を定めよ

ということです。
大きくは3段階に分けられているのですが、細かく分けると最後の

念仏一行を選べも、

自力の念仏を捨てて他力の念仏に帰せ

ということになります。
聖道門を捨てるのは、簡単にできます。同様に、雑行を捨てることも簡単です。助業を捨てて念仏一行も、親鸞聖人の教えを信じているなら簡単です。しかし、念仏一行となっても、信心が自力か他力かが問題ですので、ここが難しいのです。自力の信心から他力の信心へとなるのと、行において念仏一行となることとは同じではありません。
三願転入をしなければならないというものでもありません。最初から念仏一行を選択することはもちろん可能です。

ところが、法然上人、親鸞聖人の仰せを捻じ曲げて、いつまでも雑行である布施を強要しているのが高森顕徹会長だということをよく知るべきでしょう。

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2014年1月23日 (木)

「しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし」とは。

前々回と前回で、聖道門の行を雑行とは言わないことを説明しました。その違いを簡単に整理すると、

聖道門の行--自力でさとりを開くために修する善
雑行--聖道門の行と行自体は同じでも、往生の為にする善

ということです。
結局2つの違いは、親鸞会風に言うなら、心がけの違いになります。
したがって、聖道門で修行をしている人にとっては、雑行というのは親しみのある行になる訳です。

たとえば、承元の法難のきっかけになった『興福寺奏状』には

かの観念の中に、散位より定位に至り、有漏より無漏に及ぶ。浅深重重、前は劣、後は勝なり。

観念を以て本として、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨てず、是れ大悲の至って深く、仏力尤も大なるなり。

とあります。口称念仏は劣行で観念の行こそが勝れた行だと、法然上人を批判した内容です。ここでの「観念」とは、『観無量寿経』の定善十三観を指していますが、聖道門においての観念も、勝れた行として考えられていて、諸仏に対する観念は盛んに修されています。これを往生の為に修すれば、雑行になります。ただし、阿弥陀仏に対しての観念は正行です。

また、経典を読誦することも聖道門では大いに奨励される行です。
『選択本願念仏集』には、散善行福の読誦大乗について以下のように説明されています。

また読誦大乗の行あり。人みなおもへらく、大乗経を読誦してすなはち往生すべし。もし読誦の行なくは、往生すべからずと。
これにつきて二あり。一には持経、二には持呪なり。持経とは、「般若」・『法華』等の諸大乗経を持するなり。
持呪とは随求・尊勝・光明・阿弥陀等のもろもろの神呪を持するなり。

(現代語訳)

また大乗を読誦する行がある。人はみな、大乗経を読誦して往生できるので、もし読誦の行がなければ往生できないと思っている。
この読誦について二つがある。一つには持経、二つには持呪である。持経とは『般若経』・『法華経』などのもろもろの大乗経を読むことである。
持呪とは、「随求陀羅尼」・「尊勝陀羅尼」・「光明真言」・「阿弥陀真言」などのもろもろの尊い呪文をとなえることである。

聖道門の経典を読誦することで往生できると思っていれば、それは散善であり、読誦雑行でもあります。それどころか、密教で唱えられる呪文を、これで往生できると思って唱えれば、それも散善であり、読誦雑行になります。
もちろん、浄土三部経を読誦すれば読誦正行です。

親鸞会の大好きな六度万行も、もちろん雑行です。

法然上人の法語を親鸞聖人が編纂された『西方指南抄』には

さてこの正定の業と助業とをのぞきて、そのほかの諸行おば、布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行も、法華経おもよみ、真言おもおこなひ、かくのごとくの諸行おば、みなことごとく雑行となづく。

とあります。五雑行と諸善とは別の雑行だ、とか考えていること自体が、雑行を知らない証拠になります。

このように聖道門の行と雑行とは、心がけの違いだけですので、聖道門を捨てたなら、次は同様に雑行を捨てなさい、となります。もちろん、諸善の雑行です。

それが三選の文

浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。

です。
当然ながら、諸善の行である雑行は、信前に捨てることができます。

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2014年1月22日 (水)

「しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし」とは。

親鸞会では、三願転入の文ばかり強調していますが、浄土真宗において強調すべきは法然上人の書かれた三選の文です。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

は、浄土宗はもちろんのこと浄土真宗でも極めて重要な御文です。
なぜなら『教行信証』は、この三選の文の解説書とも言われますし、『尊号真像銘文』でも解説がなされています。存覚上人も『浄土真要鈔』で引用されています。
一方で、三願転入の文は、『教行信証』化土巻以外では、全く見かけません。

にもかかわらず、親鸞会で三選の文を紹介することは極めて稀で、三願転入の文ばかり取り上げます。私の記憶では、三選の文を高森顕徹会長が説法で紹介したのは30年程前の1度だけです。

さて、三選の文は、文章としては難しくないので、普通に読めば普通に理解できる筈ですが、親鸞会の人は、普通に読まずに、高森邪義を絡めてとんでもない読み方をします。その典型例が南風さんでしょう。

まず、「しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。」は、そのまま、聖道門を捨てて浄土門に入れ、です。
聖道門とは、自分の力でさとりを開いて、最終的には仏になるという教えです。それに対して浄土門とは、浄土に往生して仏のさとりを開かせて頂くという教えです。
明らかに道が違います。浄土門を選ぶということは、諸善によってさとりを開く道をとらないことを意味します。

前回も言いましたが、聖道門における諸善は、雑行ではありません。なぜなら、往生の為にする善ではないからです。

再度紹介すると、『選択本願念仏集』

善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

とあるからです。
親鸞聖人も『教行信証』化土巻で以下のように仰っています。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。

雑行は、「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。」とあるように、もともとは往生の因ではない諸善を、浄土往生の為に修するのが雑行ということです。つまり、聖道門での諸善を、行はそのままで往生の為に修すると、雑行になるのです。

ということは、他の仏に向かっての諸善もそのまま往生の為にすれば雑行になるのですから、五雑行だけが特別な扱いになるのではありません。

『愚禿鈔』には、

上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず

と同じことが書かれています。
定善と散善の行自体は、元々聖道門で教え勧められる諸善ですが、それを往生の為にすると雑行になります。
ただし、正行になるものもありますので、それは除いてです。そのようにコメントもしたのに、敢えて無視する人がいますので、念の為書いておきました。

まとめると、聖道門を捨てて浄土門に入るとは、簡単に言えば、自力でさとりを開くことを断念して、浄土往生を目指すことをいいます。

雑行は聖道門の行」「散善である布施・持戒は雑行ではない」「定散二善は五雑行と対立する」という発想は、雑行の最低限の定義すら知らないところからくる誤解です。聖浄廃立云々言える立場にさえないのです。

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2014年1月21日 (火)

雑行の基本

コメント欄が荒らされましたので、南風と名乗られる方のコメントだけをスパムコメント扱いにしました。
実際、コメント欄が長過ぎて、私もまともに読んでいませんし、皆さんも読まれるのが大変でしょうから、今回の結論だけ御報告します。

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■南風さんの邪義まとめ■

法然上人--「雑行は往生の行」
南風さん--「雑行は聖道門の行」

法然上人--「散善である布施・持戒は雑行」
南風さん--「散善である布施・持戒は雑行ではない」

法然上人--「散善の読誦大乗は五雑行の1つでもある」
南風さん--「定散二善は五雑行と対立する」

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法然上人の雑行の定義と明らかに反する特殊な雑行の定義を振りかざし、その特殊な雑行の定義を以って、三選の文を解釈すると言うとんでもないことを延々と続けられました。しかし、それにいつまでも付き合うほど、私も暇ではありませんので、このような措置としました。

ただし、経緯を誤魔化そうとするでしょうから、これまでのコメントは残しておきます。

一応上の雑行について解説しておきますと、『選択本願念仏集』

善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

とあります。往生の為にする行が、正行と雑行です。往生の為にしない行、自力でさとりを開こうとして修する行は、雑行ではありません。しかし、それを完全に間違えていたということです。

また、親鸞会で強要する布施については、同じく『選択本願念仏集』

次に雑行は、すなはち文(同)に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。
(中略)
このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。

と仰っていますから、間違いない雑行です。

最後に定散二善と五雑行の関係についてですが、法然上人は散善行福の「読誦大乗」について、

みなすべからく「読誦大乗」の一句に摂すべし。願はくは西方の行者、おのおのその意楽に随ひて、あるいは『法華』を読誦してもつて往生の業となし、あるいは『華厳』を読誦してもつて往生の業となし、あるいは『遮那』・『教王』および諸尊の法等を受持し読誦してもつて往生の業となし、あるいは「般若」・方等および『涅槃経』等を解説し、書写してもつて往生の業となせ。

と教えておられます。『法華経』『華厳経』『般若経』『涅槃経』等の聖道門の経典を往生の行として読誦するのが、散善の1つであり、読誦雑行でもあります。このように散善と五雑行が重なる部分もあります。ですから定散二善と五雑行は別という考えは間違いになります。

基本的なことですが、雑行について説明しておきました。

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2014年1月20日 (月)

一口問答(三願転入9)

会員と法論をして今回判ったことがあります。親鸞会にとって捨てよという雑行とは、五雑行のことで、五雑行以外の諸善は含まれていないと言うことです。法然上人においてさえもそうだと考えているようですので、驚きました。

法然上人は『選択本願念仏集』

『観経』の意、初め広く定散の行を説きて、あまねく衆機に逗ず。後には定散二善を廃して、念仏一行に帰す。いはゆる「汝好持是語」等の文これなり。

この『経』(観経)すでに定散の諸善ならびに念仏の行を説きて、そのなかにおいて孤り念仏を標して分陀利に喩ふ。雑善に待するにあらずは、いかんがよく念仏の功の余善諸行に超えたることを顕さん。

おほよそこの『経』(観経)のなかに、すでに広く定散の諸行を説くといへども、すなはち定散をもつて阿難に付属し後世に流通せしめず。
ただ念仏三昧の一行をもつてすなはち阿難に付属し遐代に流通せしむ。

定散の諸行は本願にあらず。ゆゑにこれを付属せず。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。

など、法然上人は定散二善を捨てて念仏に帰すべきことを繰り返し教えられています。
つまりは、法然上人にとって捨てるべきものとは、五雑行は当然として定散二善がメインであったことになります。

親鸞聖人においても『教行信証』行巻にて

名号定散対

と定散二善を名指ししておられます。
化土巻でも

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

とされ、雑行のメインを19願、定散二善とされています。

要するに雑行を捨てよとは、定散二善を捨てよ、とほとんどイコールだということですが、親鸞会ではそれを五雑行に限定することで定散二善を捨てるべきものから外したい意図があるのでしょう。
しかし、助業さえ捨てよと言われるのに、布施等の定散二善を残す道理が通るわけもありません。

問い

雑行を捨てよとは、五雑行を捨てよと言うことです。諸善をするなではありません。

答え

法然上人は「また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。」「定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。」(選択本願念仏集)と仰り、明らかに定散二善を捨てよと仰っています。
親鸞聖人も「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」(教行信証化土巻)と仰って、捨てるべき雑行とは19願、定散二善だと仰っています。
往生のためには、諸善を捨てよ、以外に教えられていません。

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2014年1月19日 (日)

一口問答(三願転入8)

高森顕徹会長や親鸞会の講師部員・会員と議論をするとよく判りますが、相手の言うことをほとんど理解せず、ある一文、ある一節を強調して、趣旨を曲げていきます。いわゆる断章取義です。仏法の話をする前に、国語のレクチャーが必要となります。
本願寺が呆れたのも当然なことです。

問い

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。」(なぜ生きる2)の通りではありませんか。

答え

これは20願の行者のことではないですか。
弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」(三経往生文類)と、念仏を選んで諸善を捨てるのが20願の行者です。
また「経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。」(教行信証化土巻)と、諸善ではわずかな功徳しか積めないと嫌い貶めて、一心に念仏に励むのが20願の行者です。
20願まで進んだ行者を「なんと素晴らしいことであろうか」(なぜ生きる2)と褒め讃えると言ったのは嘘ですか。

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2014年1月16日 (木)

一口問答(三願転入7)

『なぜ生きる2』には、高森顕徹会長は意味も知らないのに、七深信について載せていると、以前に紹介しました。高森会長は、七深信の5番目、第五深信を、『愚禿鈔』を引用して

第五には、唯仏語を信じ決定して行による。

と書いていますが、もちろん意味はまるで判っていません。
親鸞聖人は『教行信証』信巻に善導大師の深心釈を引かれています。

また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。

(現代語訳)

また、深く信じるものよ、仰ぎ願うことは、すべての行者たちが、一心にただ仏の言葉を信じ、わが身もわが命も顧みず、疑いなく仏が説かれた行によって、仏が捨てよと仰せになるものを捨て、仏が行ぜよと仰せになるものを行じ、仏が近づいてはならないと仰せになるものに近づかないことである。これを、釈尊の教えにしたがい、仏がたの意にしたがうという。これを阿弥陀仏の願にしたがうという。これを真の仏弟子というのである。

ここで「仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て」とは何かといえば、「行による」ですから、「行」である雑行雑修を捨てよです。「仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず」は念仏を行ずです。

前回の内容を再度言っておきます。

真実の行と真実の信がそろって、報土往生できます。
したがって、方便の行と方便の信を捨てよ、と親鸞聖人は教えられています。
真実の行とは念仏、真実の信は他力の信心、方便の行とは諸善、方便の信は自力の信心。

方便の信だけを捨てるのではありません。方便の行も捨てるのです。もちろん往生の為にです。

では前回と今回を踏まえて一口問答です。

問い

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということで、「諸善」や「万行」の「行」を捨てよではありません。

答え

親鸞聖人は「不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ」(教行信証信巻)と仰って、衆生の修する「諸善」や「万行」の「行」を捨てよと仰っています。
また高森会長は七深信中の第五深信を「第五には、唯仏語を信じ決定して行による。」(なぜ生きる2)と紹介していますが、この元は「仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て」(教行信証信巻)ですので、「諸善」や「万行」の「行」を捨てよと深信したのが、真実信心です。

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2014年1月15日 (水)

一口問答(三願転入6)

親鸞会は相手の主張を理解しようという気がなく、主張をでっち上げて騒ぐことが非常に多いです。今回もコメント欄で一人、大騒ぎしていますが、一応私の主張をまとめておきます。
真実の行と真実の信がそろって、報土往生できます。
したがって、方便の行と方便の信を捨てよ、と親鸞聖人は教えられています。
真実の行とは念仏、真実の信は他力の信心、方便の行とは諸善、方便の信は自力の信心。

親鸞聖人は『教行信証』信巻にて善導大師の至誠心釈に独特の読み替えをなされて、

不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて

と仰っています。「不善の三業」とは親鸞会の好きな雑毒の善のことで、諸善です。衆生が修する諸善は、阿弥陀仏が真実の心において捨てられたものですから、その通りに捨てよ、と言うことです。「善の三業」は阿弥陀仏が真実の心において成就されたものですから、それを頂きなさい、ということです。

更にはこれを親鸞聖人御自身のお言葉でこの後

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

と仰っています。阿弥陀仏が回向してくださる行と信以外には往生の因は何もない、ということです。つまり、衆生の側での行と信は、往生のためには不要ということです。阿弥陀仏が回向される行は念仏、信は他力の信心のことです。

法然上人の三選の文においても同じで、方便の行と方便の信を捨てて、真実の行と真実の信をとりなさい、の意味以外にはある筈もありません。

よって、三選の文の「称名」は他力の念仏であることは、説明するまでもないことです。これを自力の念仏という人があれば、厳しく誡められたのが親鸞聖人です。
当ブログで何十回も述べてきたことです。

その上で、方便の行である「雑行」は、いつでも捨てることができると言っているだけです。方便の信である自力の信心は、自分では捨てることができません。
領解文でいえば、

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ

になります。
それを繰り返し言っているのですが、敢えて曲解したいのでしょう、揚げ足をとるために。

では一口問答です。

問い

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということです。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことです。

答え

法然上人は「いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。」(選択本願念仏集)と仰っています。あるいは「また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。」(同)とも仰っています。
これを承けられて親鸞聖人は、念仏と諸善とを比較なされて、「順逆対」「選不選対」「有願無願対」(教行信証行巻)と教えられました。念仏は本願に順じ選び取られた行ですが、諸善は本願に背いた捨てられた行である、とまで仰っています。
もう一つ言えば、「おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。」(教行信証化土巻)ですから、七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」「万行」のことです。

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2014年1月13日 (月)

一口問答(三願転入5)

雑行が信前に捨てられるのかどうか、なんか大騒ぎしている人がいますが、もし高森顕徹会長の言うことを信じた上でのことであれば、高森会長の言葉をよく知ってください。

今回の『なぜ生きる2』では、三願転入と蓮如上人との関係を敢えてぼかしていますが、『本願寺なぜ答えぬ』では

 如来の、これらの願心を、蓮如上人は、こう説かれる。
 獲信までの道程で、十九願(自力の善根)を励んでいるのを雑行、二十願(他力の中の自力)を雑修といい、二願の相手の共通点は、自力の心だから、
「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて」
十八願(他力の中の他力)まで進みなさい、と。

と言いきっていました。

平成23年7月号の顕真の「宿善と聴聞と善のすすめ」にも、

 弥陀に救われる(信心獲得)までの道程で、弥陀の救いを求めて行っている諸善(十九願)を「雑行」とし、名号を称える功徳(二十願)などで助かろうとしている五正行を「雑修」と説かれている。
 それらの雑行(十九願)や雑修(二十願)に共通するのが、自力の心(十八願を疑っている心)であるから、『御文章』には、
【もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて】
無碍の一道(十八願)まで進みなさいと、常に教導されているのが、蓮如上人である。

としています。

高森会長の説明によれば、

雑行=19願
雑修=20願


ですから、

19願を離れて20願に入った=雑行を捨てて雑修をする

となります。
つまり、20願に入るには雑行を捨てなければ入れないことになります。
それとも、20願に入っても19願を離れていない、言い換えると三願転入は間違いか。
あるいは、「雑行=19願」が間違いか。
いずれでしょうか。

説明するのが馬鹿らしくなりますが、雑行を信前に捨てることができないと拘っているのは、高森会長の主張に反する人ですよ。

今回紹介した高森会長のこの主張が間違いと思うのであれば、他も間違いだと思うべきでしょう。

長くなりましたが、一口問答です。

問い

弥陀はすべての人を、要門・仮門より誘導して、無碍の一道・絶対の幸福に救い摂ってくださるのです。その文証が「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)です。意味は、阿弥陀仏が十九の願に勧める善を、釈迦は『観無量寿経』一巻に定善・散善の二つで解き明かされている、です。

答え

定散諸機をすすめけり」が故意に省略されています。「定散諸機」について高森会長は「弥陀の救いを求めて、定善や散善を実行する人々」(なぜ生きる2)と言ってますよ。つまり、定散二善を実行できる人に対して、釈尊は定散二善を説かれたということですから、定散二善を実行できない悪人に対して定散二善を説かれたのではないことになります。
親鸞聖人は、定散二善を実行できない悪人のことを「逆悪の機」といい、「定散諸機」と区別されています。「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)。

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一口問答(三願転入4)

問い

弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっています。
その文証が、
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
」(教行信証化土巻)
です。

答え

御文の前半の意味が抜けています。「半満・権実の法門」は聖道門のことですから、聖道門に入っても、「偽なるもの」「虚なるもの」ばかりである、ということです。そして後半の「ここをもって」に繋がりますから、阿弥陀仏の19願と釈尊の『観無量寿経』定散二善は、聖道門に入っても虚偽なるものに対して説かれたと、聖人は仰せになっています。

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2014年1月 9日 (木)

一口問答(三願転入3)

問い

先の和讃で「すぐれたり」とあるから、なんと素晴らしいことであろうか、と親鸞聖人が20願の行者を褒め讃えられていることになるのではないですか。

答え

これは20願の行者の心を表現されたものです。
弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」(三経往生文類)と仰っていますように、諸善を捨てて自力の念仏1つを選び取るのが、20願の行者です。
『阿弥陀経』ではこれを「一心」と説かれていますが、その意味について、「二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。」(教行信証化土巻)と教えられています。諸善がまじらない心ですから、念仏は諸善とは比べものにならないと思う20願の行者の心を、親鸞聖人は「すぐれたり」と仰っただけで、褒め讃えられた訳ではありません。

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2014年1月 8日 (水)

一口問答(三願転入2)

高森顕徹会長の御指示により、会員はアマゾンの『なぜ生きる2』のレビューを書くことも、見ることも禁止となりました。高森会長の恥をこれ以上晒したくないのでしょう。
高森会長には先見の明が余りにも無さ過ぎて、多くの退会者から笑われています。
悔しければ、私がいつでも法論の相手になりますので、私に直接連絡をください。お待ちしています。

問い

親鸞聖人は「如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなをもまた 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり」(正像末和讃)と仰って、19願から20願まで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか、と声価されています。親鸞聖人の教えが、まさに三願転入である明証ではないですか。

答え

これは、『大無量寿経』にある20願成就文を言い換えられたお言葉です。『三経往生文類』にはこの和讃に当たる部分を、「この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。」と紹介されています。和讃と20願成就文とが見事に対応していることがお判りだと思います。
それと、これを含む前後の和讃は誡疑讃と呼ばれていて、19願と20願を信じることは仏智不思議を疑うことだ、と親鸞聖人が厳しく誡められたものです。
親鸞聖人の教えが、まさに三願転入を勧められていない明証ではないですか。

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2014年1月 6日 (月)

一口問答(三願転入1)

一万年堂出版は、常に新しい書籍を発刊し続けなければなりません。その目的は、『なぜ生きる』と『歎異抄をひらく』を、新書と共に宣伝することです。『なぜ生きる2』の位置付けも他の書と同じですが、同時に会員向けでもあります。
ところで、支離滅裂で前言撤回の多い『なぜ生きる2』を読んだ会員の中で、疑問を感じる人も少なからずあります。ただし、周りがこれを絶賛するので、自分には理解できないが素晴らしい内容に違いない、と思い込もうとしているのです。
少し思考を働かせれば、高森会長の詭弁を見抜くことは容易いのですが、高森会長が絶対に正しい、という思い込みが、思考を停止させるのです。

そんな訳で、会員にも判るように、三願転入についての一口問答を作っていきます。

問い

親鸞聖人は20願について「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。」(教行信証化土巻)と仰っています。19願の人々に、折れず曲がらず速やかに20願へ進めよ、ということですから、すべての人が19願を通るように親鸞聖人が勧められているではないですか。

答え

20願を勧められたお言葉が、なぜ19願から始めなければならないという意味になるのですか。三願転入の文でも同じで、「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。」とは、七高僧方のお勧めによって、19願を出て20願に入った、ということであって、七高僧方が19願を勧められたのではありません。
要するに、七高僧方も親鸞聖人も19願を勧められてはいない、ということです。

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