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2013年12月23日 (月)

朝令暮改と詭弁が特技の高森顕徹会長

5年程前に、チューリップ企画と田中一憲氏の論戦というのがありました。18願の「若不生者」の「」に対する解釈の違いについての論争で、チューリップ企画の主張は当然高森顕徹会長の主張であり、当時会員だった人なら知っていると思いますが、高森顕徹会長は、

この「生」は「信楽に生れさせる」であって「死んだ後に浄土に生れさせる」の意味ではない

と何カ月にも亘ってくどくどと同じことを言い続けてきました。
それが『なぜ生きる2』では「若不生者」の意訳を

もし私の真実の浄土へ往生できぬことがあれば

としていまして、それに驚き呆れている退会者もいますが、私からすれば想定の範囲内のことでした。

高森会長が前言を撤回するのは日常茶飯事のことですし、この件につきましても、この頃から「浄土往生」という言葉が聞かれるようになりましたので、ほとぼりが冷めた頃に、修正するかもしれないという予感はありました。

高森会長にとっては、教義はその時の状況でいくらでも変更できると思っているのでしょう。

では、三願転入、宿善などの善の勧めについても修正があるのかと言えば、答えはNOです。善の勧めは、組織維持のためには、絶対に譲れないのです。

さて、mixiでの三願転入法論で、こうへい氏が繰り返し呟いていたのが、

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではない

でした。これは今でも不変です。
『なぜ生きる2』には

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。
(中略)
「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。

とあります。
浄土真宗を少しでも学んだならば、一笑に伏す内容でしょう。
法然上人は『選択本願念仏集』で次のように仰っています。

いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。

とか、あるいは

また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。

です。「諸善は捨て物、必要ない」と法然上人が仰っているのもご存じない印象は覆いようもないですね。
親鸞聖人は『教行信証』行巻で念仏と諸善とを比較し、相対して論じられた中に

順逆対念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている
選不選対念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である
有願無願対念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない

があります。18願の行は念仏のみであり、諸善は18願の行ではない、つまり18願に背いた行であるということです。18願に背いた行であるから、捨てなければならないのは、言うまでもありません。

高森会長が雑行を説明する時に、よく言っていたのが、

五雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、諸善万行は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

ですが、ここが根本的におかしいところです。高森会長の言葉を使うなら、

雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、自力念仏は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

となります。行自体を捨てるのは雑行です。もちろん、五雑行を自分で捨てることができるのですから、諸善万行も自分で捨てることができるに決まっているではないですか。なぜなら、行なのですから、しなければいいだけのことです。簡単なことです。

そう言うと、

ではやりたい放題してもいいということか

と愚かな反論をしてくるのが親鸞会ですが、往生と無関係にする倫理道徳の善は大いに励むべきでしょう。往生と無関係なのですから、雑行ではありません。

高森会長も『なぜ生きる2』で言っていますよ。

「雑行」とは「弥陀の救いを求めて行う諸善(もろもろの善)」をいう。

では、弥陀の救いを求めて19願を実践したり、布施行をするのを止めて、弥陀の救いとは無関係に親孝行などをすればいいのです。

要するに、

「雑行を捨てよ」とは「親鸞会で勧める善を捨てよ」であって、「倫理道徳の善をするな」ではない。

こういうことです。

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コメント

そうですね。私は本当に驚いていますよ。

親鸞会にとって「阿弥陀仏の本願=必ず信楽に生まれさせる」という等式は絶対であった、はずです。

さすがの親鸞会でも第十八願は最も大切なもので、最終的な「目的」と位置付け、憲法のような存在でした。

その解釈を真逆に、しかもこれまで自分が「破邪」してきた説へと改めてのしまうのですから、その神経が信じられません。

そして、こんな大変革にすら動揺しない会員の心理が全く理解できません。同時に悔しくて仕方が無いです。

人間が人間をここまで盲従させることができるのかと、本当に恐ろしくなります。

投稿: 黒猫 | 2013年12月24日 (火) 07時30分

黒猫 様

会長の神経はそんなものでしょうが、会員の神経は私も信じられません。
もし私が会員だったなら、大いに疑問に思って質問するでしょう。
その質問に対してどうのような答えが返ってくるのかによって、それなりの行動をとったかもしれませんし、無理やり疑問を封印するかもしれませんし、どうなのでしょうかね。
会長にとっても、そして今いる会員にとっても、教義などどうでもいいのだと思っているのでしょう。

投稿: 飛雲 | 2013年12月24日 (火) 07時36分

>会長にとっても、そして今いる会員にとっても、教義などどうでもいいのだと思っているのでしょう。

そんなはずはないと思いたいですが、冷静に思い返せばそんな会員ばかりでした。会長のコピーマシーンになることが美徳とされ、自分の考えや思いは一切受け入れてもらえませんでした。


ただ、健気に一生懸命努力し、裏で泣いたり抗うつ薬を飲んだりしながらも、真面目に阿弥陀仏の本願を求め、親鸞聖人を心から尊敬し慕っている会員を私は知っています。

どんな人にも差別なく明るく振る舞い、一人でも多くの人にこの感動を伝えたいと、自分の時間、労力、お金を惜しまず犠牲にし、睡眠時間を削って教学に励む会員もいます。

私より何倍も頭が良くて、人に優しく自分に厳しく、他人から見えないところで誰よりも研鑽を積み、私が毎日のように教学の解説をせがんでも、嫌な顔一つせず丁寧に教えてくれた会員がいました。

彼等に浄土真宗を聞かせてあげたいです。そのためにも信じ続けていたいです。

投稿: 黒猫 | 2013年12月24日 (火) 09時51分

ちなみに、高森会長は講師部講義で、「18願に浄土往生は誓われていない。じゃあ、浄土往生はどこに誓われているか。それが11願だ」と断言しています。八講と九講の講師部員から聞いたメモが残っているのでほぼ間違いありません。一般会員向けの講演や、過去のビデオでも何度か軽く話していたはずです。ノートは残っていませんが。

「全ての根拠は会長先生の御言葉だ!」と豪語する講師部員たちが最近の講師部講義で頂いた「御言葉」は、「『過去にこのように聞いた』はなんの根拠にもならない」だそうです。溜め息しか出ません。

投稿: 黒猫 | 2013年12月24日 (火) 10時22分

中曽根元首相も青ざめる程の風見鶏っぷり

投稿: | 2013年12月24日 (火) 19時35分

黒猫 様

もちろん会員の中には、真面目に親鸞聖人の教えを求めている人もいると思います。しかし、殆どの人は親鸞聖人がどう仰ったとか余り関係なく、会長がどう教えているかしか、会長が今何を言ったかしか興味が無いようです。
高森信者には何を言っても無駄でしょうが、真宗の同行を自覚している会員は、何とか目を覚ましてもらいたいと思っています。


名無し 様

頻繁に主張を変えるので、まさに風見鶏でしょうね。

投稿: 飛雲 | 2013年12月24日 (火) 20時30分

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