お勤めをしないから、正信偈の御文も知らない高森顕徹会長
mixiでの法論の時、善の勧めの御文がどうしても示せず、最後の切り札が方便でした。講師部員であるこうへい氏は、以下のように言っています。
未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?
同じ内容は、『なぜ生きる2』にもあります。
事実、今日でも弥陀の救いに方便は無用と、三願転入を否定するものは珍しくないのだ。
もし方便(善)が弥陀の救いに不要なら、弥陀の十九願は要門でも仮門でもなく、不要門と呼ばれよう。
釈迦の定散二善を説かれた『観無量寿経』は反古となり、聖人の「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」は、激しい謗りを浴びよう。
また善の勧めが弥陀の救いと無関係ならば、弥陀も釈迦も聖人も、弥陀の救いとつながらない教えを説かれたことになる。こんなイロハの放言も、あるやに聞く。
”弥陀の十八願に救われるまでは、方便の教えは障害になる。聞かぬがよい”
もしそうだとすれば、弥陀は方便の「修諸功徳の願」は隠していられたはず。
釈迦も『観無量寿経』や『阿弥陀経』を説かれなかったであろう。
聖人は十九の願や二十の願を『教行信証』に記されるはずもない。
蓮如上人も雑行・雑修を説かれはしなかったであろう。
19願は聖道門を断念した人のための願という御文を列記されて、こうへい氏は屁理屈を考え、起死回生の一撃のつもりで言ったのだと思います。それはそのまま高森顕徹会長の詭弁でもあった訳です。
しかし、これも見事に返り討ちにあい、それで法論は完全に終了しました。
その際に出された根拠は、『教行信証』行巻にも引かれている『往生要集』のお言葉です。
『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
極重の悪人には、他の方便(善)は不要とはっきり仰っています。
極重の悪人とは、直接的には『観無量寿経』の下品下生の者を指していますが、悪人全般でも同じことです。
ちなみに、『正信偈』には
矜哀定散与逆悪
とありますが、これは定散諸機と十悪五逆の悪人のことで、善人と悪人のことです。自分が善人だ悪人だと思うのとは全く関係ありません。実際に善をしている人が善人で、善の全くできない人が悪人です。
『往生要集』のお言葉を親鸞聖人は『高僧和讃』で言い換えられています。
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
また、『正信偈』では
極重悪人唯称仏
と仰っています。
蓮如上人も『正信偈大意』に
「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。
と解説されています。
善の全くできない悪人に善を勧めても無理な話ですから、善の勧めはないのです。逆に言えば、善人には善の勧めがあります。それが定散二善であり、19願だということです。
実に単純な話ですが、それを理解することができない、というより、会員を騙すためなら何でもありなのです。
高森会長に改心して欲しいと願っている人もあるようですが、無理です。悪人に善ができると期待しても無理なのです。
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