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2013年12月13日 (金)

追い込まれた高森顕徹会長のお笑い邪説

mixiでの三願転入の法論で、最初から最後まで一貫して、高森会長に質問し続けてきたことの1つが、

19願を勧められた親鸞聖人のお言葉

です。
そしてこれは最後の最後まで、全く答える気配もありませんでした。なぜなら、ないからです。そして3年以上経っても、やはり出せません。東大出身者の講師部員を何人も揃えて検討させても、どうしても出せないから、必死に20願を肯定していると思われる根拠を『なぜ生きる2』に出して誤魔化そうとしています。

それが『正像末和讃』

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなをもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

です。この解説が

”十八願・真実は信じられてはいないが[如来の諸智を疑惑して]、十九の願を深く信じて[罪福ふかく信ぜしめ]弥陀に向かって善に努めている。
 そして、二十願の南無阿弥陀仏の名号[善本]を称える[修習]身にまで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか”と声価されている。
 その上で、二十願は目的を果たさせる「果遂の誓」だから、行くてに待つ大悲の願船(十八願)まで進めよ、と激励されている『和讃』である。
 聖人の教えが、まさに三願転入である明証でもあろう。

です。
ここは本願寺の僧侶から、鼻で笑われています。
こんな愚かな解釈をするのは、古今東西、高森会長だけでしょう。まさに無二の●知識です。
実は高森会長もこれが、こんな意味でないことは知っている筈ですが、本願寺から笑われようが、真宗史上で馬鹿にされる書を残そうが、これを言わなければならないのです。親鸞会の存続が掛かっているからです。形振り構わず会員を騙し、形振り構わず金集め人集めをしないと親鸞会はいずれ破綻するのですから。

こんな愚かな会長を信じている会員は実に哀れですので、会員のために本願寺の一般の僧侶でさえ知っている正しい意味を教えてあげましょう。

これは親鸞聖人が20願成就文と仰った『大無量寿経』の一節を言い換えられたものです。

『三経往生文類』

願(第二十願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「(中略)仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。

とありますが、御和讃と比較してみると判りやすいです。

{和讃}如来の諸智を疑惑して ――{成就文}この諸智において疑惑して
{和讃}信ぜずながらなをもまた ――{成就文}信ぜず。しかるになほ
{和讃}罪福ふかく信ぜしめ ――{成就文}罪福を信じて
{和讃}善本修習すぐれたり ――{成就文}善本を修習して、その国に生れんと願ぜん

見事に対応しています。
実はこの御和讃は次の御和讃と一対で、20願成就文を顕わされています。
『正像末和讃』

仏智を疑惑するゆゑに
 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを
 牢獄にいるとたとへたり

『三経往生文類』20願成就文後半

このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉

これでお判りと思いますが、20願成就文を言い換えられただけで19願とは無関係の御和讃であり、20願を勧められたのでもありません。その逆で、20願では化土往生にしかならないから、20願を願うことすら誡められているのです。

これはmixiでの三願転入の法論の直前に、当ブログ上で某講師部員となされた法論の内容です。
詳しくは

親鸞会法論惨敗の記録4~飛雲より

にありますので、ご覧ください。

高森会長は相当に追い込まれていますので、今後はもっともっと面白いことをしてくれると期待しています。

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『なぜ生きる2』」カテゴリの記事

コメント

「すぐれたり」は、20願成就文に、対応する部分がないのではないですか?
だとしたら、親鸞聖人が特別に、「素晴らしいことですよ」と仰っているのではないですか?

投稿: 素朴な疑問 | 2013年12月14日 (土) 08時25分

素朴な疑問 様

{和讃}善本修習すぐれたり ――{成就文}善本を修習して、その国に生れんと願ぜん

これがそうですが、補足しますと、善本善本を修習して(念仏して)浄土に生れようと思う心は、諸善よりもはるかに念仏が優れていると思っている心です。
その根拠はたくさんありますが、同じ『三経往生文類』には20願について親鸞聖人は

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

と仰っています。諸善を捨てて念仏だけを選ぶ心が、20願の行者の気持ちです。

親鸞会でも言っている言葉で言うなら、20願の念仏は万行超過です。諸善万行とは比較にならないほど優れている念仏だと思って称えるからです。

ちなみに、この御和讃は誡疑讃と呼ばれ、前後の御和讃を読まれれば判りますが、19願、20願を願うことを厳しく誡められた御和讃です。その御和讃の性格上から言ってでも、親鸞聖人が褒め称えられたのでないことは判ります。

投稿: 飛雲 | 2013年12月14日 (土) 08時51分

「すぐれたり」とはあっても、勧励するお言葉ではないということですか?
そうだとすると、この和讃は(表現としては不適切かもですが)皮肉みたいな受け取り方でいいんでしょうか?

投稿: | 2013年12月14日 (土) 13時30分

名無し 様

皮肉ではなく、先ほどのコメントの通り、20願の行者の心が「(念仏は他の善に比べて)すぐれたり」ということです。
本願寺出版社刊『聖典セミナー三帖和讃Ⅲ 正像末和讃』(浅井成海著)の現代語訳では、

如来のいろいろな智慧を疑って、 他力の念仏を信じることができないまま、 やはり善悪因果の道理のみを信じ、 自力念仏がすぐれていると励んでいる者がいるのです。

としていますが、いずれにしても勧められたということではないです。

投稿: 飛雲 | 2013年12月14日 (土) 14時35分

では、20願・自力念仏を親鸞聖人は勧められていないとしたら、自力、つまり信前の念仏はどういう心づもりで
すればいいのでしょうか?…これも在会中から疑問に思っていたことの一つで、(他にも指摘されている方がいるように)
会員の間から称名念仏の声がさっぱりしないことが不思議だったのです。それは「御恩報尽の念仏」をできる人が誰もい
ない、ということでもあったのでしょうが…信前だからといって称名念仏が必要ないわけもないでしょうし、そうかと
言ってそれが「宿善」になるわけもない(或いは「称名正因」の異安心、とでも思っていたのでしょうか?念仏に熱心
なのは)…。
今さらな質問かもしれませんが、御教示頂けると幸いです。

…それにしても、今から高森会長達の主張を振り返ると、何というか…あまりにも浄土真宗らしくない、とでも言うべきか、
「自力」の匂いが強すぎるというか、そういう感じがします。南無阿弥陀仏も口にせず、「求道は苦しいのが当たり前だろう、
苦しくなければ仏教ではない」とでも言わんばかりに会員さん達を金集め人集めにかりたてているのですから、苦しい求道が
できない人のための本願であるはずなのに、これでは聖道門と変わりません。しかも勧められ、実行されている「善」は偽装
勧誘、盗作、スキャンダルとその隠蔽…と実は善でも何でもないしろものですから、本当は聖道門とすら呼べません。「高森教」
などと呼ばれてしまうのもむべなるかな、です。少なくとも「他力」の教えであるはずの浄土真宗を名乗ることはできないでしょう。

本当に、私は何故もっと早く気付かなかったのでしょうか…。

投稿: あずきあらい | 2013年12月14日 (土) 16時36分

あずきあらい 様

親鸞聖人は自力念仏ではなく、あくまで他力念仏を勧めておられます。
しかし、信前は皆、自力念仏ではないか、と思われると思いますが、心がけの問題です。
自力念仏を重ねていけば、そのうちに他力念仏になる、という考え方よりも、今他力念仏を称えるという心がけだと思います。

「一枚起請文」のお言葉で言うなら

ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。

の「疑なく往生するぞと思ひとりて申す」です。
もちろん他力でなければ自力ですが、自力念仏を続けていけば他力念仏になるでは、自力の積み重ねで他力になるというのと同じです。
そうではなくて、阿弥陀仏におまかせをした他力念仏を今称える、と思うことが大事です。
この違いを踏まえていけば、他力念仏を称える時が来ます。というと未来になってしまいますが、このようにしか言えないですね。

私も長年気が付かなかったのですから、同じ気持ちです。

投稿: 飛雲 | 2013年12月14日 (土) 17時23分

飛雲様

返事が遅れてすみません。御回答ありがとうございます。

飛雲さんが何を言わんとされているかは大体分かります。常に他力に心をかけていく…、というような
ことでしょうか(上手く言えないのですが)?
自力を積み重ねていけばいずれ他力にたどり着く、というものではないことだけは理解できます。ゼロ
をいくつかけても答えはゼロですし…。

…私は会長達が「聖人君子であるべきだ」とは実は思っていません。煩悩具足の凡夫である以上それは
無理な相談でしょうし。ただ、会員さん達の事を少しでも考えてほしいのと、自分がやってもいない、できてもいない「善」を会員さん達にやらせ
ないでほしい、上辺ばかり取り繕わないでほしい…、とは思います。
それこそ前にも述べた「言行一致」であり(在会中よく聞きましたが)「外に賢善精進の相を現じて…」
というものです。せめてこれくらいのことはできないものでしょうか。親鸞聖人がどのように生きられたか、
それに思いを致せば…。

投稿: あずきあらい | 2013年12月15日 (日) 00時27分

あずきあらい 様

これは人格の問題ですから…。
悪人には慎みて遠ざかれ、親しむべからず、としか言い様がありません。

投稿: 飛雲 | 2013年12月16日 (月) 21時23分

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