20願のことを抜かしておきながら三願転入とか言っている高森顕徹会長
雑行は信前に捨てることができる、と私が書いたのを、鬼の首でも取ったかのように、「それこそ異安心の証拠だ」、と大騒ぎしている偽装本願寺僧侶がいました。それについて明確に反論したら黙ってしまったのですが、「未だに反論していない」、とか言ってくる愚かな支持者か本人がいます。
前回のエントリーにも書いたことですし、こんなことは高森流三願転入の矛盾を突くだけでも終わりです。
『なぜ生きる2』にこうあります。
大悲の願船に乗ずるまでの三願転入の道のりは、むろん親鸞聖人お一人のことではない。
十方衆生(すべての人)と誓われた、阿弥陀仏の敷かれた軌道だから、万人共通の道程である。
これは19願はもちろんのこと、20願もすべての人が必ず通るということです。
では、韋提希が20願を通ったという話は、高森流王舎城の悲劇にありますか?
残念ながらありません。
なぜ20願の道程を抜かしてしまったのか?簡単なことです、高森会長の頭には20願のことなど最初からないのです。19願を強調できればそれで良い訳です。
そんな状態ですから、高森会長による20願の説明で、20願の行者は雑行を捨てていることになっていますが、気が付いていないでしょう。
『なぜ生きる2』には20願の説明として、
一心に念仏称えれば、目的を遂げさせてあげよう
とありますが、20願の行者は、雑行をしていますか?
一心に念仏を称えるのですから、当然、雑行は捨てています。高森会長も言っているように、20願の念仏は万行超過ですから、雑行に心は掛かっていません。もし雑行に心が掛かっている念仏ならば、万行随一であり、19願の念仏になります。
19願については必死に詭弁を駆使したつもりでも、20願についての説明では全く配慮のないことが判ります。
一応解説しておけば、高森会長が何気なく書いている「一心に念仏称えれば」は、『阿弥陀経』にある
もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、
(現代語訳)
もし善良なものが、阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、
を指しています。これと同じ内容で、親鸞聖人は『教行信証』化土巻に『弥陀経義疏』中の襄陽の石碑にある『阿弥陀経』の御文を引かれています。
善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。
(現代語訳)
善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。
「一心に念仏称えれば」が、雑行の入り込む余地のない意味であることくらい、高森会長も知っていると思います。しかし、19願のことしか頭になく、形式的にしか20願の説明をしていないから、矛盾が生ずるのです。
以上より、もし、雑行を信前に捨てることができないのならば、20願を通らないことになります。20願を通っていない韋提希は、三願転入していませんから、高森流信心の判定基準では、韋提希は異安心となります。もちろん、私のことを異安心呼ばわりしている偽装本願寺僧侶も、その支持者も、果ては高森会長自身も異安心になります。
他人を批判するのなら、もう少し自己の主張に矛盾がないように配慮すべきでしょう。
こんなことは教義を語る以前の話ですから、相手にするだけ時間の無駄というもの。
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コメント
20願念仏では金にも勧誘活動にもならないですからね
投稿: | 2013年12月27日 (金) 16時56分
名無し 様
そういうことです。
投稿: 飛雲 | 2013年12月27日 (金) 21時41分