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2013年12月

2013年12月30日 (月)

19願、定散二善の定義も知らない高森顕徹会長

mixiでの法論で、大惨敗を喫した高森顕徹会長は、最近になっておもしろいことを言い始めました。

「弥陀の浄土に生まれたい」という心が起きるのは19願によるのだ

機関誌や講師試験にまで出しているのですから、新たに考え出した今年最大の珍説と言っていいでしょう。
勘の良い方ならお判りと思いますが、これはmixiでの法論で、高森会長が何も言い返すことのできなかった「欣慕浄土の善根」に対応したものでしょう。これを簡単に説明すれば、浄土を願っていない聖道門の修行を断念した人に、浄土を願い慕わせる善根として説かれたのが19願であり、定散二善だということです。
高森会長が教えていることは親鸞聖人が仰ったこととは違います。
『なぜ生きる2』には、韋提希の言葉を通して、このように説明しています。

「私はなんのために生まれてきたのか。
 こんな苦しいおぞましい人生、この世から地獄です。来生は二度と、こんな地獄は見たくない。どうかお釈迦さま、私を苦しみのない安楽な世界へ行かせてください」
 精も根も尽きたイダイケ夫人は、辺り構わず泣き崩れる。

 この切なる願いに応じて釈迦は、眉間の白毫相より光明を放ち、イダイケ夫人に十方諸仏の国土を展望させられる。
 驚いて諸仏の国々を拝見していたイダイケが、「十方諸仏の国土はいずれも結構なところでございますが、私は阿弥陀仏の浄土へ生れとうございます。どうすれば、あの弥陀の浄土へ往けるのか、仰せのとおりにいたします」。

「弥陀の浄土へ生まれたい」
 この願いひとつを十方衆生(すべての人)に起こさせるのが、弥陀が十九願を建てられた狙いであった。

高森会長が言う、

すべての人に「弥陀の浄土へ生まれたい」の願いを起させる

ではなく、親鸞聖人が仰っているのは

聖道門の修行を断念した人に「弥陀の浄土へ生まれたい」の願いを起させる

です。ここがトリックです。

では、高森会長のトリックを暴いていきましょう。

まず、韋提希と同じ境遇であった頻婆娑羅は、釈尊に対して「われに八戒を授けたまへ」と言って、この世でさとりを開く教えを請うています。一方で韋提希は、「わがために広く憂悩なき処を説きたまへ」、また「われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」と請うています。簡単に言えば、頻婆娑羅は聖道門を、韋提希は浄土門を選択したということです。定散二善を説かれる前に、韋提希は浄土門を選択したのですから、19願とは関係なく、浄土を願っていることなります。

このように言うと、「確かに韋提希は浄土を願ったかもしれないが、それはまだ弥陀の浄土を釈尊から見せられる前であるから、弥陀の浄土を願ったとは言えない」と反論するでしょう。
しかし、もしそうであるなら、弥陀の浄土を見ることができない衆生は、弥陀の浄土に生まれたいという願いは永久に起きません。弥陀の浄土を見る方法は、釈尊のお力で見せて頂くか、定善をするか、の2つしか方法はありません。前者は末法では不可能です。後者も、我々のような底下の凡夫にはできないのですから、やはり弥陀の浄土に生まれたいという願いは永久に起きないことになります。
これは信心決定しても、弥陀の浄土を見ることができませんし、知る智慧も備わりません。

それは勝手な考え方だ、文証を示せ」と、文証を示さずに譬えで誤魔化してばかりの親鸞会は反論するでしょうから、もちろん私は文証を出します。

『教行信証』化土巻に、『観無量寿経』の御文を解釈なされて、

ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。
「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。

とあります。「教我観於清浄業処」が先ほどの韋提希の言葉「われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」です。釈尊が韋提希に、十方諸仏の浄土を見せられる前の言葉です。これを親鸞聖人は、「本願成就の報土なり」と仰って、弥陀の浄土と解釈なされている訳です。
つまり、韋提希が弥陀の浄土を釈尊から見せて頂く前に、韋提希は弥陀の浄土に生まれたいと願っていた、と親鸞聖人が解釈なされているということです。

親鸞会では、弥陀の浄土に生まれたいと願うことは、非常にレベルの高いこととして、弥陀の浄土に生まれたいと願うために、19願、定散二善の実践が必要だと言っていますが、まるっきり反対です。弥陀の浄土に生まれたいと願って善をするのが、19願であり、定散二善です。弥陀の浄土に生まれたいと願っていなければ、19願にもなりませんし、定散二善にもなりません。弥陀の浄土に生まれたいと願うのが先です。言葉の定義からしておかしいのです。

こんな幼稚なトリックを、3年もかけて必死で考えた高森会長の程度と目的が知れるというものです。

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2013年12月28日 (土)

他力念仏はもちろんのこと、自力念仏も知らない高森顕徹会長

高森顕徹会長は、他力念仏が如何なるものか知らないのは言うまでもありませんが、自力念仏さえも誤解しています。

まず、20願の念仏について、一般の人ができるものではない、という迷信が親鸞会に蔓延っていますが、これも間違いです。

『阿弥陀経』に「一心不乱」とあるから、相当にレベルの高い念仏だとの勘違いでしょうが、親鸞聖人は『教行信証』化土巻にて、

『小本』(小経)には「一心」とのたまへり、二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。

(現代語訳)

『阿弥陀経』には「一心」と説かれている。念仏以外の他の行がまじらないから、一といわれるのである。

と教えられている通り、念仏以外の行である、雑行と助業が混じらないことを、「一心」というのです。もちろん、雑行を捨てた念仏です。

また、20願の念仏は相当の数を称えなければ成立しないというのも間違いで、真門釈で『法事讃』を引かれて、

またいはく、「種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるは無し。上一形を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ。ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」と。

(現代語訳)

また次のようにいわれている(法事讃)。
 「仏のさまざまな教えは、みな迷いを離れることのできるものであるが、念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。生涯をかけて念仏するものから少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる。仏がたは次々に世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」

と説明しておられます。人間の命はいつ終わるかもしれないのですから、たとえ「十念・三念・五念」という少ない念仏でももちろん20願の行者です。

なお、高森会長が最重要視している19願にも、自力の念仏があります。

『三経往生文類』には

観経往生といふは、修諸功徳の願により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。

(現代語訳)

「観経往生」というのは、修諸功徳の願(第十九願)によって「至心発願」と誓われた要門に入り、 さまざまな善や多くの行によって自ら積んだ功徳を回向し、浄土往生を願うのである。そこで『観無量寿経』には、定善・散善、三福の行や九品のさまざまな善、あるいは自力の念仏を説いて、九品それぞれに異なる往生をお勧めになっている。

とあるように、『観無量寿経』の表向きは、九品中の上品上生から中品下生までは三福を勧められ、下品上生から下品下生までは自力の念仏が勧められているということです。
高森会長によれば、全人類は極重の悪人である下品下生ということですから、当然勧めるべきは『観無量寿経』の自力の念仏でなければなりませんが、おかしなことに、定散二善、というよりも布施の行を勧めています。

なぜ自力の念仏を勧めないのか?

いうまでもありません。金集め、人集めが目的で、会員に19願の道を進ませようという意図もないからです。

自力念仏も知らずに三願転入を語るとか、お笑いとしか言いようがありません。

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2013年12月27日 (金)

高森顕徹会長が未だかつて通ったことのない20願

高森顕徹会長は、20願について何も知りません。

『教行信証』化土巻には、

経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。

(現代語訳)

釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。

とありますが、「一切諸行の少善を嫌貶」するのですから、当然、雑行を捨てています。往生するのに、善は不要だと考えていて、自力の念仏に一心に励むのが、20願の行者です。
また『法事讃』を引かれて

またいはく、「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、おそらくは生じがたし。ゆゑに如来、要法を選びて教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり」と。

(現代語訳)

また『法事讃』にいわれている。
「極楽は変ることのないさとりの世界である。人それぞれの縁にしたがって修めるような自力の善根によっては生れることができない。だから釈尊は本願の名号を選びとって、ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった」

とあります。諸善では往生できないと思って、往生するために念仏を選ぶのが、20願の行者です。

更には『三経往生文類』に、

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

(現代語訳)

「弥陀経往生」 というのは、 植諸徳本の願 (第二十願) によって 「不果遂者」 と誓われた真門に入り、 あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。

とあります。諸善では功徳が少なく往生できないから捨てて、功徳の多い念仏を選ぶのが、20願の行者と仰っています。

このように、20願の行者とは、善では往生できないから往生には善は不要と捨てて、念仏すれば往生できると思っている人のことです。

ところで『なぜ生きる2』にはこんなことが書いてあります。

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

私が何を言いたいかお判りだと思いますが、高森会長が非難しているのは20願の行者のことです。20願の行者に向かって、19願に戻れと言っている訳です。

これは自己矛盾です。

追い込まれた高森顕徹会長のお笑い邪説

でも紹介しましたが、高森会長は『なぜ生きる2』で

二十願の南無阿弥陀仏の名号[善本]を称える[修習]身にまで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか”と声価されている。

と言っていたのですから、20願の行者を非難するのは筋違いで、よくぞここまで進んだものと褒め称えなければならない筈です。しかし、そのことに気が付いていません。

なぜこんな矛盾が生じたのかと言えば、高森会長自身が20願を通ったことがないから、20願の行者の心情は何も判らないのです。体験していないのですから当然でしょう。三願転入の体裁を整えるために、体験したこともない20願の説明を想像したに過ぎないのです。

高森会長が説明すればするほど、ボロが出ます。この『なぜ生きる2』は、会員以外からは散々な評価で、会員でさえも首を捻る内容満載です。

mixiでの法論の時よりもレベルが下がっているように思いますが、皆さんはどう思われますか?

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2013年12月25日 (水)

20願のことを抜かしておきながら三願転入とか言っている高森顕徹会長

雑行は信前に捨てることができる、と私が書いたのを、鬼の首でも取ったかのように、「それこそ異安心の証拠だ」、と大騒ぎしている偽装本願寺僧侶がいました。それについて明確に反論したら黙ってしまったのですが、「未だに反論していない」、とか言ってくる愚かな支持者か本人がいます。
前回のエントリーにも書いたことですし、こんなことは高森流三願転入の矛盾を突くだけでも終わりです。

『なぜ生きる2』にこうあります。

 大悲の願船に乗ずるまでの三願転入の道のりは、むろん親鸞聖人お一人のことではない。
 十方衆生(すべての人)と誓われた、阿弥陀仏の敷かれた軌道だから、万人共通の道程である。

これは19願はもちろんのこと、20願もすべての人が必ず通るということです。

では、韋提希が20願を通ったという話は、高森流王舎城の悲劇にありますか?
残念ながらありません。

なぜ20願の道程を抜かしてしまったのか?簡単なことです、高森会長の頭には20願のことなど最初からないのです。19願を強調できればそれで良い訳です。
そんな状態ですから、高森会長による20願の説明で、20願の行者は雑行を捨てていることになっていますが、気が付いていないでしょう。

『なぜ生きる2』には20願の説明として、

 一心に念仏称えれば、目的を遂げさせてあげよう

とありますが、20願の行者は、雑行をしていますか?
一心に念仏を称えるのですから、当然、雑行は捨てています。高森会長も言っているように、20願の念仏は万行超過ですから、雑行に心は掛かっていません。もし雑行に心が掛かっている念仏ならば、万行随一であり、19願の念仏になります。

19願については必死に詭弁を駆使したつもりでも、20願についての説明では全く配慮のないことが判ります。

一応解説しておけば、高森会長が何気なく書いている「一心に念仏称えれば」は、『阿弥陀経』にある

もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、

(現代語訳

もし善良なものが、阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、

を指しています。これと同じ内容で、親鸞聖人は『教行信証』化土巻に『弥陀経義疏』中の襄陽の石碑にある『阿弥陀経』の御文を引かれています。

善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。

(現代語訳)

善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。

一心に念仏称えれば」が、雑行の入り込む余地のない意味であることくらい、高森会長も知っていると思います。しかし、19願のことしか頭になく、形式的にしか20願の説明をしていないから、矛盾が生ずるのです。

以上より、もし、雑行を信前に捨てることができないのならば、20願を通らないことになります。20願を通っていない韋提希は、三願転入していませんから、高森流信心の判定基準では、韋提希は異安心となります。もちろん、私のことを異安心呼ばわりしている偽装本願寺僧侶も、その支持者も、果ては高森会長自身も異安心になります。

他人を批判するのなら、もう少し自己の主張に矛盾がないように配慮すべきでしょう。

こんなことは教義を語る以前の話ですから、相手にするだけ時間の無駄というもの。

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2013年12月24日 (火)

簡単な話を難しくして誤魔化しているのが高森顕徹会長

高森顕徹会長は、雑行の定義さえも正しく理解していないのですが、それは前回紹介した『なぜ生きる2』の

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。

でも判ります。
結論を先に言えば、

「雑行を捨てよ」=「諸善を捨てよ」=「万行を捨てよ」

です。親鸞聖人は『教行信証』化土巻・雑行釈

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。信和尚は感師により、空聖人は導和尚によりたまふ。
経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。

(現代語訳)

浄土門で説かれるすべての自力の行について、道綽禅師は『安楽集』に「万行」といわれ、善導大師は『観経疏』に「雑行」(散善義)といわれている。懐感禅師は『群疑論』に「諸行」といっている。源信和尚は懐感師により、源空上人は善導大師によっておられる。釈尊の経説にもとづき、祖師方の解釈を見てみると、雑行の中には、雑行雑心、雑行専心、専行雑心があり、また正行の中には、専修専心、専修雑心、雑修雑心がある。これらはみな自力の行であって、辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。

と教えられています。

万行」=「雑行」=「諸行」(=「諸善」)

ですが、それも知らないのです。

次に親鸞聖人は、雑行を3つに分けておられます。「雑行雑心」「雑行専心」「専行雑心」ですが、同様に正行を「専修専心」「専修雑心」「雑修雑心」と分けておられます。
正行の「専修専心」「専修雑心」「雑修雑心」の意味をそれぞれ説明すると長くなるので、理解しやすい「専修専心」だけ説明すれば、五正行うちの1つを専ら修し、他の行に心を移さないことを言います。
これは紛れもなく、雑行を捨てた状態のことを意味しています。
つまり、雑行を捨てて「専修専心」の正行を修する行者がいることを親鸞聖人が説明されているのです。

雑行はたのむ一念まで廃ることはない、とういのが親鸞会の迷信ですが、それが間違いであることは雑行、正行の意味を知るだけでも判りそうなものです。

前回も言いましたが、雑行が18願に背く行だと判れば、雑行を自ずから捨てます。そこで正行を修する行者が出てきてもおかしくはありません。もちろん、親鸞聖人の教えを正しく聞いていれば、助業ではなく正定業を修することになりますが、いずれにしても、信前において雑行を自ら捨てて正行なり正定業を自ら選び取る訳です。

それがなぜ信一念まで雑行を捨てることができない、という発想になるのでしょうか。五雑行は、他の仏に向くことですから、阿弥陀仏だけに向けば自ら五雑行を捨てることができます。同じことで、諸善は18願に背く行ですから、念仏だけに向けば自ずから諸善を捨てることができます。

難しくも何ともありません。少し考えれば判る簡単な話ですが、簡単な話を難しくして誤魔化しているのが高森会長です。尤も、簡単な話さえも理解していないのが高森会長ですので、余計に達が悪いです。

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2013年12月23日 (月)

朝令暮改と詭弁が特技の高森顕徹会長

5年程前に、チューリップ企画と田中一憲氏の論戦というのがありました。18願の「若不生者」の「」に対する解釈の違いについての論争で、チューリップ企画の主張は当然高森顕徹会長の主張であり、当時会員だった人なら知っていると思いますが、高森顕徹会長は、

この「生」は「信楽に生れさせる」であって「死んだ後に浄土に生れさせる」の意味ではない

と何カ月にも亘ってくどくどと同じことを言い続けてきました。
それが『なぜ生きる2』では「若不生者」の意訳を

もし私の真実の浄土へ往生できぬことがあれば

としていまして、それに驚き呆れている退会者もいますが、私からすれば想定の範囲内のことでした。

高森会長が前言を撤回するのは日常茶飯事のことですし、この件につきましても、この頃から「浄土往生」という言葉が聞かれるようになりましたので、ほとぼりが冷めた頃に、修正するかもしれないという予感はありました。

高森会長にとっては、教義はその時の状況でいくらでも変更できると思っているのでしょう。

では、三願転入、宿善などの善の勧めについても修正があるのかと言えば、答えはNOです。善の勧めは、組織維持のためには、絶対に譲れないのです。

さて、mixiでの三願転入法論で、こうへい氏が繰り返し呟いていたのが、

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではない

でした。これは今でも不変です。
『なぜ生きる2』には

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。
(中略)
「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。

とあります。
浄土真宗を少しでも学んだならば、一笑に伏す内容でしょう。
法然上人は『選択本願念仏集』で次のように仰っています。

いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。

とか、あるいは

また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。

です。「諸善は捨て物、必要ない」と法然上人が仰っているのもご存じない印象は覆いようもないですね。
親鸞聖人は『教行信証』行巻で念仏と諸善とを比較し、相対して論じられた中に

順逆対念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている
選不選対念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である
有願無願対念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない

があります。18願の行は念仏のみであり、諸善は18願の行ではない、つまり18願に背いた行であるということです。18願に背いた行であるから、捨てなければならないのは、言うまでもありません。

高森会長が雑行を説明する時に、よく言っていたのが、

五雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、諸善万行は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

ですが、ここが根本的におかしいところです。高森会長の言葉を使うなら、

雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、自力念仏は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

となります。行自体を捨てるのは雑行です。もちろん、五雑行を自分で捨てることができるのですから、諸善万行も自分で捨てることができるに決まっているではないですか。なぜなら、行なのですから、しなければいいだけのことです。簡単なことです。

そう言うと、

ではやりたい放題してもいいということか

と愚かな反論をしてくるのが親鸞会ですが、往生と無関係にする倫理道徳の善は大いに励むべきでしょう。往生と無関係なのですから、雑行ではありません。

高森会長も『なぜ生きる2』で言っていますよ。

「雑行」とは「弥陀の救いを求めて行う諸善(もろもろの善)」をいう。

では、弥陀の救いを求めて19願を実践したり、布施行をするのを止めて、弥陀の救いとは無関係に親孝行などをすればいいのです。

要するに、

「雑行を捨てよ」とは「親鸞会で勧める善を捨てよ」であって、「倫理道徳の善をするな」ではない。

こういうことです。

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2013年12月21日 (土)

何をしても、行き当たりばったりの高森顕徹会長

アマゾンの『なぜ生きる2』のレビューで、法論が行われてきました。
講師部員か幹部会員が書いたレビューに対して、退会者がコメント欄に書き込んでの短期決着法論と、退会者のレビューに講師部員らしき人物がひたすら質問攻めにしたにも関わらず、結果的には墓穴を掘ってしまい、荒らしに徹するという法論があります。
そのお陰で、退会者も出ているようで、喜ばしいことです。

公開法論を避けたかった親鸞会にとっては、大誤算でしょうが、そんなことすら想定できないとは、お粗末過ぎます。

さて、前回の「極重悪人唯称仏」等の御文は、『観無量寿経』下品下生の往生について仰ったものですから、それについて解説をしておきます。

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
 そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい> と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

簡単に言えば、平生に善をすることもなく仏法を聞くこともない五逆罪を造った者が、臨終になって初めて仏法を聞く気が起きて、善知識から勧められたことは念仏1つであり、臨終の苦しさで心の籠った念仏を称えることができないまま十回の念仏を称えて往生した、というものです。

法然上人も下品上生・下品中生・下品下生について『選択本願念仏集』

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と仰っている通りです。
善など全く無関係に往生できる、これが18願なのです。

それを「他の方便なし」と源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人も仰っただけですから、極重の悪人が19願を必ず通らなければならないとか、そんな思想は出て来ようがありません。

御文の裏を読もうとか、本心は違う所にあるとか考える必要もないくらい、明確な教えです。

以上のように下品下生の往生の説明をするだけで、高森邪義は粉砕できます。高森邪義とは、本当にその程度でしかないのです。

そのうち、アマゾンのレビューを会員に読ませることも禁止されると思います。皆さん、お時間があれば、レビューを好きに書き込まれては如何でしょうか。あるいは、反親鸞会のレビューには「参考になった」、親鸞会側のレビューには「参考にならなかった」をクリックしてみるのも、いいかもしれません。
ただし、★1つで偽装した親鸞会側レビューもありますので、注意してください。

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2013年12月19日 (木)

お勤めをしないから、正信偈の御文も知らない高森顕徹会長

mixiでの法論の時、善の勧めの御文がどうしても示せず、最後の切り札が方便でした。講師部員であるこうへい氏は、以下のように言っています。

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

同じ内容は、『なぜ生きる2』にもあります。

 事実、今日でも弥陀の救いに方便は無用と、三願転入を否定するものは珍しくないのだ。
 もし方便(善)が弥陀の救いに不要なら、弥陀の十九願は要門でも仮門でもなく、不要門と呼ばれよう。
 釈迦の定散二善を説かれた『観無量寿経』は反古となり、聖人の「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」は、激しい謗りを浴びよう。
 また善の勧めが弥陀の救いと無関係ならば、弥陀も釈迦も聖人も、弥陀の救いとつながらない教えを説かれたことになる。

 こんなイロハの放言も、あるやに聞く。
”弥陀の十八願に救われるまでは、方便の教えは障害になる。聞かぬがよい”
 もしそうだとすれば、弥陀は方便の「修諸功徳の願」は隠していられたはず。
 釈迦も『観無量寿経』や『阿弥陀経』を説かれなかったであろう。
 聖人は十九の願や二十の願を『教行信証』に記されるはずもない。
 蓮如上人も雑行・雑修を説かれはしなかったであろう。

19願は聖道門を断念した人のための願という御文を列記されて、こうへい氏は屁理屈を考え、起死回生の一撃のつもりで言ったのだと思います。それはそのまま高森顕徹会長の詭弁でもあった訳です。
しかし、これも見事に返り討ちにあい、それで法論は完全に終了しました。
その際に出された根拠は、『教行信証』行巻にも引かれている『往生要集』のお言葉です。

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

極重の悪人には、他の方便(善)は不要とはっきり仰っています。
極重の悪人とは、直接的には『観無量寿経』の下品下生の者を指していますが、悪人全般でも同じことです。

ちなみに、『正信偈』には

矜哀定散与逆悪

とありますが、これは定散諸機と十悪五逆の悪人のことで、善人と悪人のことです。自分が善人だ悪人だと思うのとは全く関係ありません。実際に善をしている人が善人で、善の全くできない人が悪人です。

『往生要集』のお言葉を親鸞聖人は『高僧和讃』で言い換えられています。

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

また、『正信偈』では

極重悪人唯称仏

と仰っています。
蓮如上人も『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と解説されています。

善の全くできない悪人に善を勧めても無理な話ですから、善の勧めはないのです。逆に言えば、善人には善の勧めがあります。それが定散二善であり、19願だということです。
実に単純な話ですが、それを理解することができない、というより、会員を騙すためなら何でもありなのです。

高森会長に改心して欲しいと願っている人もあるようですが、無理です。悪人に善ができると期待しても無理なのです。

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2013年12月17日 (火)

大沼師創作用語を常識のように平気で載せる神経の持ち主、高森顕徹会長

前々回の第三深信および前回の要門釈から、親鸞聖人が19願を聖道門を断念した人のための願として解釈なされていたことが、判ります。
それを更に裏付ける根拠は、まだいくつもあります。

mixiでの法論で出したのが、『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。18願の「唯除五逆誹謗正法」についての説明ですが、「唯除」とあるから、五逆罪・謗法罪の者も「十方衆生」から漏れていない、ということを親鸞聖人が仰っています。

ということは、「唯除五逆誹謗正法」のない19願の「十方衆生」には、漏れている者があるということです。簡単な論理ですが、こんなことさえ高森顕徹会長は知らなかったのです。

もっと直接的に仰ったのが、『浄土和讃』

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

です。

『なぜ生きる2』にもこれは載っていますが、その意訳がまた恣意的な誤魔化しです。

阿弥陀仏が十九の願に勧める善を、釈迦は『観無量寿経』一巻に定善・散善の二つで解き明かされている。

最後の行の「定散諸機をすすめけり」が無いのです。

ただし脚中には、

*定散諸機 弥陀の救いを求めて、定善や散善を実行する人々。

とありますので、正しい意味を高森会長も判っているのですが、意訳には載せていません。
この和讃を載せた理由はもちろんあれです。この前に

弥陀は十方衆生(すべての人)を、要門・仮門より誘導して、無碍の一道・絶対の幸福に救い摂ってくださる

などとありますので、「定散諸機をすすめけり」を十方衆生に勧められた、と読者に誤解させる狙いがあります。

実に高森会長らしいですが、深く考えることを禁止された会員は、簡単に騙されてしまうのです。

十方衆生」という言葉だけで、すべての人に直接関係があるとか考えること自体、浄土門にも聖道門にもありません。「十方衆生」あるいは「一切衆生」と同義語は、聖道経典にもたくさんあります。それら聖道経典もすべての人と関係がある、となったなら、早速読んで実践しなければならなくなります。
もちろん、高森会長は聖道経典のことなど全く知りませんから、愚かな説明をしている訳です。

十方衆生」とある18・19・20願のことを「摂生の願」と高森会長は言っていますが、そんなことは聖教上にも、真宗学にもありません。かといって高森会長が創作する程の知恵もありません。皆さん御想像の通り、大沼法竜師の著書からのパクリです。

しかし、大沼師しか言っていない、大沼師独自の用語を、この本にまで学者ぶって載せる神経が判りません。

高森会長は、外部からの批判よりも会員を騙して金集めをする目先のことしか考えられない状況なのでしょう。

実際に、金集めは年々激しくなっています。台所事情が相当に苦しいのは間違いないです。会員がどれだけ耐え従うかですが、会員は本当に哀れです。

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2013年12月16日 (月)

mixiでの三願転入の法論の際、高森顕徹会長が一撃でダウンした根拠

mixiでの法論で、最初から問題になっていた根拠が、『教行信証』化土巻・要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

でした。
高森会長は後半部分の「ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。」だけを取り出して、釈尊も阿弥陀仏も「群生海」「あまねく諸有海」という全人類に対して定散二善、19願を説かれたと言ってきました。
しかしそれは断章取義です。前半を無視しているのです。
前半部分を一言で言えば、聖道門の修行に行き詰った人のことです。
この前半部分を受けて、「ここをもって」ですから、定散二善、19願は誰の為に説かれたかが判るのです。

今回の『なぜ生きる2』にもこのお言葉が載っています。ところがその訳を敢えてしていません。ただ

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。
 以下はその文証である。

として、上記の御文を載せています。
誤魔化しもここまでくると、尊敬に値します。

仏教学も真宗学も学んでいない高森会長のために、なじみのない「半満・権実の法門」について、学問的に解説をしておきます。

半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』にこのようにあります。子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、と。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
権実」とは、権教と実教のことです。大乗教の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。

半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

 総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

権実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

これだけ判れば簡単で、外道から聖道門に入ったといっても、さとりを開いた人は甚だ少なく、逆にさとりが開けずに断念する人が甚だ多い、ということです。そういう人のために、釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた、となります。

結局のところ、親鸞聖人は、19願を聖道門から浄土門への橋渡しをする教えと解釈なされた訳です。

この根拠だけで、mixiの法論はほぼ決着しました。あれから3年以上経っても、高森会長には何も進歩がありません。

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2013年12月14日 (土)

七深信の第三深信について知らないけど言ってみただけの高森顕徹会長

mixiでの法論の際に、親鸞会が出した根拠の1つが、いつもの『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。…

ですが、この「浄土の方便の善」の意味について、退会者が示したのが、『教行信証』化土巻

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

にある、「欣慕浄土の善根」です。聖教を読んだことのない高森顕徹会長には、全く聞いたことのない言葉だったようで狼狽していました。
この「欣慕浄土の善根」は、善導大師の『散善義』にある七深信の第三深信で信巻および化土巻に引かれている、

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

を指しているのですが、当然、これも高森会長は全く知りませんでした。
更には、同じく化土巻

仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

とあり、「欣慕」という言葉が化土巻に3度出てきますが、高森会長は全く知りませんでした。

ところが今回の『なぜ生きる2』には、「仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。」と「七深信」が載っています。

もちろん、間違った意味に使っていますし、七深信に至っては説明さえもありません。

会員も初めて聞く根拠に驚いているようですが、これこそがmixiの法論惨敗に対する反論本の決定的証拠になります。高森会長が完全に消してしまいたい法論惨敗の記録と照らし合わせてみれば、会員は何と言うでしょうか。この辺が、高森会長の先を見る目の無さです。

さて、愚かな高森会長の為に、傷口に塩を塗って差し上げましょう。

七深信の第三深信は、『観無量寿経』定散二善に関しての深信です。

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

釈尊が『観無量寿経』にて九品と定散二善(三福を含む)を説かれたのは、阿弥陀仏と浄土を褒め称えて、浄土を願っていない人に浄土を願わしめるためであった、と深信する、ということです。

ここで浄土を願っていない人とは誰のことかと言えば、化土巻

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく

と仰った聖道門を信じている人のことを指しています。一方浄土門を

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく

と定義されて、浄土門を信じている人は浄土を信じていることが大前提です。聖道門は浄土を目指さずに、この世界でさとりを開くことを目指しているから、浄土を願っていない人とは聖道門のことを指していて、浄土門の人はここに含まれていません。浄土を目指さない浄土門の人は浄土門ではないからです。尤も、絶対の幸福と言うこの世のさとりを目指しているなんちゃって真宗サークルの人は浄土門とは言えませんが。

従って、浄土を願っていない聖道門の人に浄土を願わせるために釈尊が、定散二善を説かれたと深信したことが、真実の信心と言うことです。

では高森会長の信心はどうでしょうか。『なせ生きる2』にはこうあります。

 弥陀の真実・十八願を疑う自惚れ心(自力の心)を破り、出来ぬことを出来ぬと信知させるのが、十九の願を建てられた弥陀の目的であり、釈迦一代の教導なのだ。

第三深信とは似ても似つかない、全く次元の違う信心でした。

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2013年12月13日 (金)

追い込まれた高森顕徹会長のお笑い邪説

mixiでの三願転入の法論で、最初から最後まで一貫して、高森会長に質問し続けてきたことの1つが、

19願を勧められた親鸞聖人のお言葉

です。
そしてこれは最後の最後まで、全く答える気配もありませんでした。なぜなら、ないからです。そして3年以上経っても、やはり出せません。東大出身者の講師部員を何人も揃えて検討させても、どうしても出せないから、必死に20願を肯定していると思われる根拠を『なぜ生きる2』に出して誤魔化そうとしています。

それが『正像末和讃』

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなをもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

です。この解説が

”十八願・真実は信じられてはいないが[如来の諸智を疑惑して]、十九の願を深く信じて[罪福ふかく信ぜしめ]弥陀に向かって善に努めている。
 そして、二十願の南無阿弥陀仏の名号[善本]を称える[修習]身にまで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか”と声価されている。
 その上で、二十願は目的を果たさせる「果遂の誓」だから、行くてに待つ大悲の願船(十八願)まで進めよ、と激励されている『和讃』である。
 聖人の教えが、まさに三願転入である明証でもあろう。

です。
ここは本願寺の僧侶から、鼻で笑われています。
こんな愚かな解釈をするのは、古今東西、高森会長だけでしょう。まさに無二の●知識です。
実は高森会長もこれが、こんな意味でないことは知っている筈ですが、本願寺から笑われようが、真宗史上で馬鹿にされる書を残そうが、これを言わなければならないのです。親鸞会の存続が掛かっているからです。形振り構わず会員を騙し、形振り構わず金集め人集めをしないと親鸞会はいずれ破綻するのですから。

こんな愚かな会長を信じている会員は実に哀れですので、会員のために本願寺の一般の僧侶でさえ知っている正しい意味を教えてあげましょう。

これは親鸞聖人が20願成就文と仰った『大無量寿経』の一節を言い換えられたものです。

『三経往生文類』

願(第二十願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「(中略)仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。

とありますが、御和讃と比較してみると判りやすいです。

{和讃}如来の諸智を疑惑して ――{成就文}この諸智において疑惑して
{和讃}信ぜずながらなをもまた ――{成就文}信ぜず。しかるになほ
{和讃}罪福ふかく信ぜしめ ――{成就文}罪福を信じて
{和讃}善本修習すぐれたり ――{成就文}善本を修習して、その国に生れんと願ぜん

見事に対応しています。
実はこの御和讃は次の御和讃と一対で、20願成就文を顕わされています。
『正像末和讃』

仏智を疑惑するゆゑに
 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを
 牢獄にいるとたとへたり

『三経往生文類』20願成就文後半

このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉

これでお判りと思いますが、20願成就文を言い換えられただけで19願とは無関係の御和讃であり、20願を勧められたのでもありません。その逆で、20願では化土往生にしかならないから、20願を願うことすら誡められているのです。

これはmixiでの三願転入の法論の直前に、当ブログ上で某講師部員となされた法論の内容です。
詳しくは

親鸞会法論惨敗の記録4~飛雲より

にありますので、ご覧ください。

高森会長は相当に追い込まれていますので、今後はもっともっと面白いことをしてくれると期待しています。

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2013年12月12日 (木)

待ちに待った高森会長の三願転入法論正式参入

待ちに待った、高森顕徹著『なぜ生きる2』を手に入れました。内容はといえば、概ね期待通りで、三願転入について詳しく書かれています。

なぜ私が待ちに待ったのかと言えば、この三願転入については、3年以上前にmixi上でなされた法論の内容であるからです。mixiでは、建前上講師部員のこうへい氏が親鸞会の代表で、実際は後ろで高森会長が指揮していたのは間違いないことですが、高森会長は表には出ずに、表のこうへい氏が大惨敗を喫し、逃亡の上、トピック毎削除して、法論を抹殺しようとした経緯があります。もちろん、高森会長は法論に参加していなかったということにしてです。

それで、高森会長が三願転入について本を書くことを、首を長くして待っていたのです。

これで高森会長は言い逃れができなくなりました。私から言わせれば、浅はかですが、高森会長としては、多くの会員が教義に疑問を持ち、退会者が続出し、あるいは退会予備軍が増えていることの対策が急務になって、会員を騙すことが第一目的で、原稿を書いた(正確には誰かに書かせて修正しただけ)と思われます。

さて、内容に入っていきますが、三願転入以外の部分は、他のブロガーに任せるとして、三願転入について今後、述べていきたいと思います。

本を読まれれば判りますが、内容はmixi上で行われた根拠を出しているだけですが、おもしろいのは、退会者が親鸞会の間違いを指摘するために出した根拠を、高森邪義の正しさを証明する根拠として出しているところです。

『教行信証』化土巻・真門釈

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。

とありますが、これを高森会長は、

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九の願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願へ進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

と前置きして引用しています。

 簡単に言えば、親鸞聖人は19願から20願に入るように勧められているから、19願を必ず通らなければならない、という理屈です。

 しかし、これはmixiでの法論でも、また当ブログでも説明しましたが、親鸞聖人は20願を勧められた根拠は、間違いなくあります。ところが、肝心要の19願を勧められた根拠が全くないのです。19願を勧められた根拠が全くなく、出すことができなくてmibiでの法論から逃亡したのですが、それを、20願を勧められた根拠があるから19願を勧められているのだ、とは絶対になりません。

これは三願転入の文についても言えることです。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。

七高僧のお導きによって、19願を離れて20願に入った、であって、七高僧が19願を勧められたことにはなりません。

当たり前のことです。

また高森会長は同じく真門釈の

釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと果遂の誓を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。

を出してきて、

 特別の人を、「諸有の群生海」とか「十方濁世」と言われるはずがない。
 三願転入の弥陀の救いは、決して聖人だけのことでないのは明白であろう。

と言っていますが、同じ詭弁です。20願を勧められた、20願について肯定的に親鸞聖人がいくら仰っていたとしてでも、それで19願を勧められたことには絶対になりません。親鸞聖人が19願を勧められた根拠が1つでもあって、初めて成り立つのが「三願転入の弥陀の救い」です。

もし、この程度の詭弁に引っ掛かるようなら、思考がかなり衰退しているでしょう。

今回は小学生でも判る話をしました。

ここの部分ですね。

12.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 全人類は19願から始めなければならない

後日、この一口問答も作っておきます。

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