19願、定散二善の定義も知らない高森顕徹会長
mixiでの法論で、大惨敗を喫した高森顕徹会長は、最近になっておもしろいことを言い始めました。
「弥陀の浄土に生まれたい」という心が起きるのは19願によるのだ
機関誌や講師試験にまで出しているのですから、新たに考え出した今年最大の珍説と言っていいでしょう。
勘の良い方ならお判りと思いますが、これはmixiでの法論で、高森会長が何も言い返すことのできなかった「欣慕浄土の善根」に対応したものでしょう。これを簡単に説明すれば、浄土を願っていない聖道門の修行を断念した人に、浄土を願い慕わせる善根として説かれたのが19願であり、定散二善だということです。
高森会長が教えていることは親鸞聖人が仰ったこととは違います。
『なぜ生きる2』には、韋提希の言葉を通して、このように説明しています。
「私はなんのために生まれてきたのか。
こんな苦しいおぞましい人生、この世から地獄です。来生は二度と、こんな地獄は見たくない。どうかお釈迦さま、私を苦しみのない安楽な世界へ行かせてください」
精も根も尽きたイダイケ夫人は、辺り構わず泣き崩れる。この切なる願いに応じて釈迦は、眉間の白毫相より光明を放ち、イダイケ夫人に十方諸仏の国土を展望させられる。
驚いて諸仏の国々を拝見していたイダイケが、「十方諸仏の国土はいずれも結構なところでございますが、私は阿弥陀仏の浄土へ生れとうございます。どうすれば、あの弥陀の浄土へ往けるのか、仰せのとおりにいたします」。「弥陀の浄土へ生まれたい」
この願いひとつを十方衆生(すべての人)に起こさせるのが、弥陀が十九願を建てられた狙いであった。
高森会長が言う、
すべての人に「弥陀の浄土へ生まれたい」の願いを起させる
ではなく、親鸞聖人が仰っているのは
聖道門の修行を断念した人に「弥陀の浄土へ生まれたい」の願いを起させる
です。ここがトリックです。
では、高森会長のトリックを暴いていきましょう。
まず、韋提希と同じ境遇であった頻婆娑羅は、釈尊に対して「われに八戒を授けたまへ」と言って、この世でさとりを開く教えを請うています。一方で韋提希は、「わがために広く憂悩なき処を説きたまへ」、また「われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」と請うています。簡単に言えば、頻婆娑羅は聖道門を、韋提希は浄土門を選択したということです。定散二善を説かれる前に、韋提希は浄土門を選択したのですから、19願とは関係なく、浄土を願っていることなります。
このように言うと、「確かに韋提希は浄土を願ったかもしれないが、それはまだ弥陀の浄土を釈尊から見せられる前であるから、弥陀の浄土を願ったとは言えない」と反論するでしょう。
しかし、もしそうであるなら、弥陀の浄土を見ることができない衆生は、弥陀の浄土に生まれたいという願いは永久に起きません。弥陀の浄土を見る方法は、釈尊のお力で見せて頂くか、定善をするか、の2つしか方法はありません。前者は末法では不可能です。後者も、我々のような底下の凡夫にはできないのですから、やはり弥陀の浄土に生まれたいという願いは永久に起きないことになります。
これは信心決定しても、弥陀の浄土を見ることができませんし、知る智慧も備わりません。
「それは勝手な考え方だ、文証を示せ」と、文証を示さずに譬えで誤魔化してばかりの親鸞会は反論するでしょうから、もちろん私は文証を出します。
『教行信証』化土巻に、『観無量寿経』の御文を解釈なされて、
ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。
「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
とあります。「教我観於清浄業処」が先ほどの韋提希の言葉「われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」です。釈尊が韋提希に、十方諸仏の浄土を見せられる前の言葉です。これを親鸞聖人は、「本願成就の報土なり」と仰って、弥陀の浄土と解釈なされている訳です。
つまり、韋提希が弥陀の浄土を釈尊から見せて頂く前に、韋提希は弥陀の浄土に生まれたいと願っていた、と親鸞聖人が解釈なされているということです。
親鸞会では、弥陀の浄土に生まれたいと願うことは、非常にレベルの高いこととして、弥陀の浄土に生まれたいと願うために、19願、定散二善の実践が必要だと言っていますが、まるっきり反対です。弥陀の浄土に生まれたいと願って善をするのが、19願であり、定散二善です。弥陀の浄土に生まれたいと願っていなければ、19願にもなりませんし、定散二善にもなりません。弥陀の浄土に生まれたいと願うのが先です。言葉の定義からしておかしいのです。
こんな幼稚なトリックを、3年もかけて必死で考えた高森会長の程度と目的が知れるというものです。
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