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2013年11月16日 (土)

知ったかぶりも程々に

最近の親鸞会では、「一向専念無量寿仏」という御言葉を多用して、

一向専念無量寿仏」を教え実践しているのは親鸞会だけだ

と正統性を宣伝しているのでしょうが、高森顕徹会長をはじめ、親鸞会では誰一人、正しく「一向専念無量寿仏」について教えず、もちろん実践もしていません。

親鸞会の説明では、

一向専念無量寿仏」とは、阿弥陀仏1仏に向かって、他の仏や菩薩や神に向かないこと

と教えていますが、この説明だけでも半分しか合っていませんし、他の説明で三願転入だの善の勧めだの付け加えると、完全な間違いです。

結論を先に言えば、「一向専念無量寿仏」とは、諸善を廃して念仏1つになることです。

法然上人が『選択本願念仏集』で判りやすく教えて下されています。

「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。

(現代語訳)

「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。
すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。

最後の「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」の一文だけでも高森会長の誤りが明白です。

この「一向専念」の意味は、当然親鸞聖人以下、真宗教義で継承されているものです。
存覚上人は『浄土真要鈔』

「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。

と説明され、また『持名鈔』でも

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。

と高森会長の邪説を完全否定されています。

もちろん親鸞聖人も『一念多念証文』で以下のように仰っています。

「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

一向」も「専念」も諸善・諸仏を廃することです。

念の為、再度言いましょう。

一向専念無量寿仏」とは、諸善を廃して念仏1つになることです。

知ったかぶりも程々にしておくべきでしょう。

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コメント

皮肉に聞こえるかもしれませんが、親鸞会でお聖教に基づいた活動は具体的にどんなものですか。今の私には思いつかなくなりました。在会のときは、あれほど間違いのないものと考えておりましたが。

投稿: | 2013年11月18日 (月) 19時54分

 先の続きですが、会員の誰しもが親鸞聖人の教えを全く知らずに入会して、高森の「寄せ集め」教義を初めて植えつけられたため、真実と思い込んだだけなのでしょう。その培養された期間が、長ければ長いほど投入した時間・金銭・構築した人間関係が無に帰すことが認められないだけなのかもしれません。自分で考えれば残ることはできませんね。飛雲さん、感謝しています。

投稿: | 2013年11月18日 (月) 21時46分

「専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり」

この念仏一行のことを諸善に拡大するところに、高森会長の大きな誤りがあるのですね。
いや、誤りではなく、意図的な曲解だから罪ですよね。
諸善と称して、無知な会員からカネ・労力・時間を搾り取って、「獲信とよい関係があるから無駄ではない」と嘯く。
一方で自分はせっせと蓄財と奢侈に余念がない。呆れるほどの実態は断固糾弾されるべきです。

投稿: シッタカモリ | 2013年11月19日 (火) 02時31分

数々の珍解釈、大いに笑わせてもらいましたよ。
とくに、自分は仏教の何もかも知り尽くしているんだ感が、半端なくて面白いですよ。サイコーです。

投稿: | 2013年11月20日 (水) 15時58分

ホント、高森の珍解釈には、大いに笑わせてもらいました。
無二の善知識とかいって、自分は仏教の何もかも知り尽くしているんだ感が、半端なくて面白いですよ。サイコーです。

ところで、高森の解釈で、親鸞聖人の解釈と一致している所って、あるのでしょうかね?

あったら教えて、現役さん!

投稿: 珍乱会 | 2013年11月20日 (水) 17時04分

コメント頂いた皆様

御意見、御尤もです。私も、長年会長に騙されてきましたので、現会員の気持ちも判ります。

しかし、聖教を読めば読むほど、数々の高森珍解釈、大いに笑わせてもらいました。

現会員も、大いに笑わせたいものです、高森珍解釈を。

投稿: 飛雲 | 2013年11月20日 (水) 21時07分

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