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2013年11月

2013年11月30日 (土)

18願にも18願成就文にもない諸善を勧める破綻した高森邪義

法然上人は『選択本願念仏集』

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

(現代語訳)

諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
「《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。」
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。
ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

と教えられています。
『大無量寿経』に三輩という衆生の根性に上・中・下があり、それぞれ諸善が説かれているのに、なぜ往生するのに諸善が不要なのかといえば、18願の中に「さらに余行なし」だからだ、と法然上人は明快な説明をなされています。

一方で、高森顕徹会長は19願で諸善が勧められているから、往生には諸善が必要だ、と言っています。

法然上人と高森会長の言うことは180度違います。さて、どちらが正しいのか、説明するまでもないでしょう。

法然上人は19願を全く問題にもされていません。それ故、聖道門の学僧から猛反発を受けられたのですが、高森会長の主張はその聖道門と同じなのです。

ところで、18願に諸善がないから念仏1つで救われる、という法然上人の仰せから、高森会長のある論理を思い出します。

18願成就文には念仏がないから信心1つで救われる

『教学聖典』にもある、高森教学の1つです。念仏を1回も称えなくても救われると言っていますように、救われるのに念仏は不要だとの理屈です。

では18願願成就文には諸善はあるでしょうか。言うまでもなくありません。ならば、

18願には諸善がないから念仏1つで救われる
18願成就文には諸善がないから信心(念仏1つと信じた心)1つで救われる

となるでしょう。諸善は18願にも18願成就文にもないから、どう頑張っても不要なのです。高森会長の論理で、高森会長の主張を論破できます。

高森会長の主張は、全くもってお粗末としか言いようがありません。

いつもの11項目に2項目を加えておきます。

いつもの13項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

11.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

12.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

13.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

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2013年11月23日 (土)

徹底的に矛盾に満ち溢れた高森邪義

高森顕徹会長は、五雑行と諸善万行を差別して、次のように教えています。

五雑行はものがらが悪いから捨てなければならない。
諸善万行はものがらは良いが、心掛けが悪いから心掛けを捨てなければならない。

これも、雑行=諸善=万行が判っていない妄想からきているものです。

雑行の定義について親鸞聖人は『教行信証』化土巻・雑行釈

雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

と教えられています。雑行とは、「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」とあるように、もともとは往生の為の行ではないものを、浄土を願って行うものということです。要するに、聖道門で教え勧められる行をそのままで、浄土を願うことにより雑行になるのです。

以下、説明の便宜上、高森邪義に倣って、諸善万行=六度万行としていきます。

聖道門の立場で言うならば、五雑行に相当する行は、六度万行と共に勧められているものです。そこにものがらの差別は当然ありません。なぜなら、釈尊が五雑行に相当する行も説かれて勧められているからです。
親鸞会流に言うならば、

釈尊が五雑行を説かれたことが無駄であったというのか!!

とでも言えばよいでしょう。

浄土門の立場でも同じです。もし五雑行はものがらが悪いとするならば、六度万行もものがらが悪いというべきです。なぜなら、共に18願に反する行であるからです。

更に言えば、六度万行は聖道門で勧められる菩薩の行ですから、親鸞会のように六度万行を軽々しく勧めるレベルではありません。『大無量寿経』にもあるように、法蔵菩薩がなされた行です。

国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。

(現代語訳)

国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜を修行し、他の人にもこれを修行させた。

当然ながら浄土門においては、六度万行は行福に当たる、極めてレベルの高い善として位置付けられています。

一向専念無量寿仏」を連呼するアニメの上映をするために、震災の被災地を改造バスで回っているようですが、「一向専念無量寿仏」と言いながら会員・非会員に布施行を強要するトンデモ教義を恥ずかしく思わない所が、高森会長の人間性をよく表わしています。

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2013年11月20日 (水)

仏語の意味を悉く間違えている高森顕徹会長

一向専念無量寿仏」の意味さえ間違っているのですから、他も悉く間違っています。「一向専念無量寿仏」に関連した雑行の意味も勿論間違っています。

一向専念無量寿仏」とは、念仏以外の諸善を捨てることですが、この諸善と五雑行とが別だという高森式迷信が、「一向専念無量寿仏」の意味を間違う原因になったのでしょう。

高森顕徹会長は雑行の説明として、

雑行とは、五雑行といわれるものと諸善万行とがある

と、かつて会員に徹底させていました。これがそもそも間違っています。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻の雑行釈で、

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。

(現代語訳)

浄土門で説かれるすべての自力の行について、道綽禅師は『安楽集』に「万行」といわれ、善導大師は『観経疏』に「雑行」(散善義)といわれている。懐感禅師は『群疑論』に「諸行」といっている。

と仰っています。

つまり、

万行=雑行=諸行

ということで、高森会長の言葉を使って正しく言い直すと、

雑行とは、諸善万行である

となります。

五雑行はどうなったんんだ

と無知な会員は目くじらを立てて、反論するでしょうが、それについては法然上人が『選択本願念仏集』

次に雑行は、すなはち文に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。一には読誦雑行、二には観察雑行、三には礼拝雑行、四には称名雑行、五には讃歎供養雑行なり。
(中略)
このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。

(現代語訳)

次に雑行というのは、すなわち文に「この正助の二行を除いて、ほかのいろいろな善根は、ことごとく雑行と名づける」といわれたのがこれである。その意味をいえば、雑行は無数であって、つぶさに述べることはできないが、ただ、今はしばらく五種の正行に対して、もって五種の雑行を示そう。一つには読誦雑行、二つには観察雑行、三つには礼拝雑行、四つには称名雑行、五つには讃嘆供養雑行である。
(中略)
このほか、また布施や持戒など数多くの行があるが、みな雑行の言に摂め尽くすことができる。

と教えられています。

要するに、雑行とは正行以外の諸善のことで、その中に五正行に対する五雑行がある、ということです。
先ほどの高森会長の言葉を使って再度正しく言い直すなら、

雑行とは、諸善万行のことであり、その中に五雑行と言われるものがある

なります。諸善万行と五雑行は並列の関係ではなく、五雑行は諸善万行の一部だということです。

ここまで説明すれば、小学生並みの思考力の会員でも理解できるでしょうか。

一向専念無量寿仏」とは、五雑行を捨てることではなく、五雑行を含む諸善万行を捨てることだ、と。

まだ判らないですかね。

もっとはっきり言うと、阿弥陀仏に一向専念することと往生のために諸善を修することとは、正反対、対立することなのです。それで、諸善を捨てよ、と教えられているのです。

誤解のないように一応言っておきますが、往生と無関係に倫理道徳の善をすることは、雑行ではありませんので、大いにすればいいですが、法然上人が仰っているように、布施・持戒等は雑行です。

思考力のない会員には、布施・持戒等と倫理道徳の善との違いも判らないでしょう。なぜなら、高森会長の六度万行の説明も間違っているのですからね。

高森会長の説明は、大げさでも何でもなく、本当に悉く間違っているのです。

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2013年11月16日 (土)

知ったかぶりも程々に

最近の親鸞会では、「一向専念無量寿仏」という御言葉を多用して、

一向専念無量寿仏」を教え実践しているのは親鸞会だけだ

と正統性を宣伝しているのでしょうが、高森顕徹会長をはじめ、親鸞会では誰一人、正しく「一向専念無量寿仏」について教えず、もちろん実践もしていません。

親鸞会の説明では、

一向専念無量寿仏」とは、阿弥陀仏1仏に向かって、他の仏や菩薩や神に向かないこと

と教えていますが、この説明だけでも半分しか合っていませんし、他の説明で三願転入だの善の勧めだの付け加えると、完全な間違いです。

結論を先に言えば、「一向専念無量寿仏」とは、諸善を廃して念仏1つになることです。

法然上人が『選択本願念仏集』で判りやすく教えて下されています。

「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。

(現代語訳)

「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。
すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。

最後の「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」の一文だけでも高森会長の誤りが明白です。

この「一向専念」の意味は、当然親鸞聖人以下、真宗教義で継承されているものです。
存覚上人は『浄土真要鈔』

「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。

と説明され、また『持名鈔』でも

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。

と高森会長の邪説を完全否定されています。

もちろん親鸞聖人も『一念多念証文』で以下のように仰っています。

「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

一向」も「専念」も諸善・諸仏を廃することです。

念の為、再度言いましょう。

一向専念無量寿仏」とは、諸善を廃して念仏1つになることです。

知ったかぶりも程々にしておくべきでしょう。

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2013年11月 6日 (水)

親鸞聖人の教えに無関心な高森会長と会員

親鸞会は東日本大震災の被災地を改造バスで巡り、被災者からも薄く広く金集めに益々励んでいます。一方で会員はと言えば、出した金額に応じて優越感を味わっている人も結構いるようで、現在の親鸞会は、高森顕徹会長から講師部員、会員に至るまで、親鸞聖人の教えに興味のない集団となっています。

さて、察しの悪い会員のために、一応前回までの内容をまとめておきますと、

・法然上人は、法然上人の話を聞きに来た人に対して18願念仏だけを勧められた。

・親鸞聖人も法然上人から勧められたことは、18願念仏だけであり、法然上人の仰せ通りに、18願に入られた。

・聖道門の人にとっては、諸善は不要で18願念仏だけでいいと仰った法然上人のことを許すことができず、19願を持ち出して激しく非難攻撃をした。

・そこで親鸞聖人は、法然上人の御心を聖道門の人の立場を踏まえて『教行信証』で説明をされた。

・親鸞聖人は、聖道門の人が尊重した19願の意義として、聖道門を断念した人を浄土門に導くための方便とされた。

・親鸞聖人はこの理論を、御自身の体験を通して表現されたのが三願転入の文。

・したがって、親鸞聖人の教えを聞いている人には、諸善や19願を勧められた箇所は全くなく、法然上人同様18願だけを勧められた。

単純な話です。

ところがこれを、法然上人は18願しか勧められていないのに親鸞聖人が法然上人の教えられたことを修正して諸善や19願を勧められてた、と嘯いているのが、高森会長なのです。

高森会長が教えに無知なのは言うまでもありませんが、諸善や19願を勧める目的も明白です。
高森会長の実体に気が付いた人は、高森会長の許から離れていきます。それは高森会長の親戚の態度を見れば判るでしょう。

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