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2013年10月31日 (木)

親鸞聖人が19願、定散二善を方便と仰った意味も当然知らない教義偽装の高森会長

食材偽装が話題になっていますが、親鸞会退会者にとりましては、さほど驚くことはないでしょう。なぜなら、宗旨偽装、教義偽装を60年以上も行っている人物を知っているからです。
全国で会館を建てまくっていますが、落慶式の際のぼったくりが酷いと会員からも言われる始末です。参加費が1万円、高森顕徹会長への法礼が5千円、弁当代が2千円。更には驚くことに会館を見る拝観料なるものが1千円。
呆れるばかりの集金システムですが、これも教義偽装を駆使した策です。

さて、法然上人は諸善に対して否定的な御言葉しか残されていませんが、これは法然上人の話を聞きに来た人に対して仰ったものです。法然上人の話を聞きに来ていた人は、親鸞聖人のように聖道門に行き詰った人、最初から聖道門は無理と考えていた在家の人などです。
『選択本願念仏集』の最後には、

庶幾はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の前に遺すことなかれ。
おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり。

とまで仰って、念仏の教えを信じない聖道門の人には見せないように仰っています。法然上人の仰せは、聖道門を求めることのできない、あるいは途中で断念した人が対象であった訳です。

ところが、聖道門を現に求めている人にとっては、法然上人の教えられたことは、許しがたいものであり、それが念仏弾圧という形になって表われました。諸善は念仏の引き立て役であり、末法の衆生にはできない、とまで言われれば、諸善に励んでいる人が怒るのは当然なことでしょう。

その際に彼らが主張したことが、19願の強調であったのです。阿弥陀仏の48の願にある、諸善を勧められた19願を無視するとは何事だ、というものです。教義偽装の人と全く同じ論理です。

先にも言いましたように、法然上人の仰せは、対象を限定されてのことですから、対象外の人から非難されるのは、筋違いと言えるのですが、その対象外の人に対しても理解できるように仰ったのが、親鸞聖人であったのです。

それが三願転入の文であり、19願を方便願と説明された訳です。19願を聖道門を断念した人を浄土門に導き入れるための要門と位置付けられ、御自身の体験を通して、19願の役割を仰っただけです。

『教行信証』化土巻には、19願の説明が多くありますが、一貫していることは、19願の対象が聖道門を断念した人、諸善に拘る人に限定されていることです。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

も、「半満・権実の法門」という聖道門に入りながら、「偽なるもの」「虚なるもの」のために釈尊は『観無量寿経』で定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた、とされています。
また『観無量寿経』に説かれた定散二善を

如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と仰り、19願を

仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

と仰って、浄土を願っていない人に浄土を願わしめるための方便と繰り返し仰っていますが、ここからも聖道門の人を浄土門に入れさせるための方便と位置付けられていることが判ります。

これがmixiでの三願転入の法論の結論であったのですが、教義偽装の人物は、絶句して逃亡し、議論を記したトピック自体の削除まで命じる狼狽ぶりでした。

教義偽装の会長に代わって、私と法論に応じようという元気な会員はいませんか。
講師部員は皆逃げましたので、一般会員のコメントを楽しみに待っています。

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三願転入」カテゴリの記事

コメント

会員でなくて申し訳ありませんが(笑、

>先にも言いましたように、法然上人の仰せは、対象を限定されてのことですから、対象外の人から非難されるのは、筋違いと言えるのですが、その対象外の人に対しても理解できるように仰ったのが、親鸞聖人であったのです。

対象外の人を想定といえば、そもそも教行信証の執筆そのものが明恵の『摧邪輪』への反論として構想されたという有力説がありますね。なにしろ法然上人没後に書かれた『摧邪輪』に対して、吉水一門は誰もまともに反論していないわけですから、執筆動機としては十分考えられますし、もしこの説が正しいとするならば教行信証が(少なくとも知られている中では)唯一の反論書ということになります。この視点から化土巻の説明を読むと、それがまさに明恵による「菩提心を撥無する咎」という批判に対する反論になっていることが見えてきます。

明恵は親鸞聖人と同い年ですが、『摧邪輪』の論調が極めて理想主義的なものであった反面、当の明恵本人はどうしても得られない菩提心と証果を求めて彷徨い続ける悩み多き生涯を送りましたね。なにしろ晩年インド渡航を構想したほどですから相当迷走しています。明恵という人が清廉高潔な人だったのは間違いないですが、それでもこうなるのはまあ、時機不相応とはそういうことだということなのでしょう。

ともあれ、教行信証化土巻が反論書ということなら、諸善推奨はまさに反論相手=論敵の説ということになります。論敵の説を薦める論者がどこの世界にあるのかと、まあそういう話にもなりますね。

投稿: dandelion | 2013年10月31日 (木) 22時37分

dandelion 様

会員のコメントでなくて、少し残念です。
今回は省略しましたが、明恵の『摧邪輪』には19願が出てきます。『興福寺奏状』には、直接19願は出していませんので、会長の説明は明恵に近いと一応言えそうですが、中身はかなり違いますし、会長が『摧邪輪』を読んでいることは100%ないと断言できます。
教義を適当に曲解、改竄、捏造した結果、論敵の説を薦めることになったのいうのが正解でしょう。

投稿: 飛雲 | 2013年10月31日 (木) 22時59分

親鸞会の宿善論に依れば、定善も宿善になるはずですね。かつて一度、高森会長が法話で「定善ももちろん善ですから、やりゃあいいんですよ」と、会員に向けて言ったのを聞いたことがあります。でもその言い方は独り言というか呟きっぽい感じでボソッとした言い方でした。六度万行の布施を勧める時の言い方とは力の入りようが全然違いました。阿弥陀仏の救いを求める者にとっては、布施(=献金)よりも阿弥陀仏を思い浮かべる(観ようとする)定善の方がずっと宿善になるのでは、と思いましたが、会の中では定善の実践はおろか、定善という単語さえ支部会合や合宿で聞かれることはありませんでした。このあたりにも親鸞会の宿善論の一貫性の無さが表れています。もっとも退会してから、定善は我々凡夫にできるような行ではないと知りましたが。


投稿: | 2013年11月 2日 (土) 09時47分

そうですね。定善など会の活動に結びつかない個人範囲の行為は行うように勧めてなかったと思います。肝心要の念仏ですら二の次で脇に置いておく感じがありましたし。
それより手近に会の活動と献金に直結することばかり言っていた。
当時はひっかかっていましたが、会長の目的が「みなみな信心決定あれかし」とは全然違うことを知ってようやくその意図が理解出来るようになりました。

投稿: 名無しより名無しさま | 2013年11月 2日 (土) 12時07分

念仏は信後の報謝に限ると言って念仏を妨害していましたよね。

投稿: | 2013年11月 4日 (月) 22時03分

信後に限るというか。私はそれよりも三願転入の説明で妨害されましたね。三願転入の説明で念仏は諸善の次に位置付けられその上で十九願でさえまだまだ足りないと言われる。確かに念仏を称えるなとは言われたことはないが聞いていたら念仏と自分の間に遠い距離を感じるようになる。結果念仏を称えなくなる。というより称えにくくなる。恐ろしい仕組みだ。
大体念仏にまさる善はないのに諸善を勧めるという意味不明な教義になぜ会員は疑問に持たないのか。こう書くと会員の方が誤解すると思うので理解しやすく書きます。諸善と念仏、獲信とよりよい関係にあるのはどちらだと思いますか? よく考えてください。

投稿: A | 2013年11月 5日 (火) 14時26分

今も会員の方に問うてみたい。「もし、あなたが①平生仏法に縁なく②臨終の一念でまさに後生の一大事を迎えんとする人があれば、諸善と念仏どちらを勧めるのか」会の教学でも臨終の浄飯王に念仏を勧めるとあるのに、三願転入の教義は臨終の人に相応するのでしょうか。命があれば諸善、無常の風が吹かれたら念仏を勧めるのかな。

投稿: | 2013年11月 6日 (水) 00時17分

皆さんの仰る通りです。
念仏を勧めずに、諸善を勧める理屈は、親鸞聖人の教えでは絶対に通りません。

投稿: 飛雲 | 2013年11月 6日 (水) 21時29分

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