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2013年10月29日 (火)

高森顕徹理論を完全に否定された法然上人

阿弥陀仏が19願を建てられ、釈尊が45年間善を勧められたことは無駄であったと言うのか

親鸞会が法論に窮すると、最後に言う捨てゼリフです。

しかし、ここに矛盾があることに気が付いていません。親鸞会は聖道門を否定しています。ならば、

釈尊45年間聖道門を説かれたことは無駄であったと言うのか

と言い返すと、親鸞会は更に窮します。苦し紛れに、

聖道門は19願、定散二善におさまる

と言うでしょうが、それなら

聖道門も19願、定散二善も18願におさまるから18願、念仏だけでいい

と言えば完全に終了です。
法然上人はこのことを『選択本願念仏集』

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。

と教えられました。また

諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。

(現代語訳)

諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。

聖道門も、19願定散二善も、18願念仏の引き立て役であり、末法の衆生には必要ないと断言されています。高森顕徹理論など、法然上人に完全に否定されているのです。

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三願転入」カテゴリの記事

コメント

飛雲さんは誤解されているのです。

釈尊は聖道門を説かれたのではないのです。善(廃悪修善)を説かれたのです。
聖道門、聖道仏教というのは、後の人達(天台、達磨など)が開いた一宗一派の総称です。
親鸞聖人は聖道門の存在を認めておられません。
しかし、これを善を否定されていると勘違いしてはなりません。
善は、弘願真実へ入る方便(方法手段)として釈尊が説かれた、と親鸞聖人は教えられています。要門です。
仏教には、弘願と要門、真実とそこに至るための方便が教えられているのです。
その本源は弥陀の三願です。 法界は弥陀一仏。弟子の諸仏は、弥陀を讃嘆するのみ。

諸仏を本尊とする聖道門を、19願に含まれる、などというのは、寝言でしかありません。

このようなことは、山辺赤沼にも書かれてありますし、親鸞会でもそのように教えられているのです。

投稿: トラ | 2013年10月29日 (火) 09時11分

訂正

× 含まれる
○ おさまる

投稿: トラ | 2013年10月29日 (火) 09時24分

トラさんはお聖教を読んだことが無いようですね。

>親鸞聖人は聖道門の存在を認めておられません。

「おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。」(化土巻)

「まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。」(化土巻)

親鸞聖人は聖道門の存在を認めておられますが。


>諸仏を本尊とする聖道門を、19願に含まれる、などというのは、寝言でしかありません。

「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。」(一念多念証文)

聖道門は、これ浄土の方便の善で、これを19願というと仰ってますが、あなたのコメントは寝言でしかありませんが。

投稿: ねずみ | 2013年10月29日 (火) 09時43分

トラさんはお晨朝で正信念仏偈をお読みになっていないのですか。
「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入」

投稿: 雑草 | 2013年10月29日 (火) 10時31分

僕は、飛雲さんに話しかけたので、横入りの質問には基本的には答えません。
しかし、分かられないまま放置しておくのも可愛そうなので、少しだけ書きます。

結論だけ書きますが、ねずみさんや雑草さんの挙げた御文は、「与奪の論法」で書かれているのです。一時的に、相手の存在を認め、褒め上げるような言い方をされておいて、後から、全面的に否定してかかる、というやり方をされているのです。

はじめから、「お前達は、邪見驕慢の悪衆生だ」とは仰らずに、一時的に「あなたたちは、聖(ひじり)の道をいく尊い人達です」「あなたた達の求めている教えは、尊い教え、聖の教えです」と持ち上げておられるのです。

しかし、親鸞聖人が本心から、邪宗の人達を聖(ひじり)だとか、その教えを聖の道だと思っておられるはずがありません。弥陀の本願を疑誹破滅しているのですから。
本心では、聖道門の存在を認めておられないのです。

では、何のために、こんな言い方、書き方をされたのか?
相手を導くために、です。


それから、もう一つ。ねずみさんのところ。

>聖道門は、これ浄土の方便の善で、これを19願というと仰ってますが、

こんなこと、仰っていません。

「おほよそ八万四千の法門は、」と仰っているのであって、「聖道門は、」などとは仰っていません。

この違いが分からないと、ダメダメです。全然ダメです。議論に口をはさむ資格なしです。

ちなみに「19願という」とも仰っていません。「要門という」と仰っているのです。この違いも分からないとダメです。


これ以上は、横入りの質問には答えませんので、悪しからず。

投稿: | 2013年10月29日 (火) 13時39分

先のコメントに名前を入れるのを忘れました。トラでした。

投稿: トラ | 2013年10月29日 (火) 13時44分

>はじめから、「お前達は、邪見驕慢の悪衆生だ」とは仰らずに、一時的に「あなたたちは、聖(ひじり)の道をいく尊い人達です」「あなたた達の求めている教えは、尊い教え、聖の教えです」と持ち上げておられるのです。

>しかし、親鸞聖人が本心から、邪宗の人達を聖(ひじり)だとか、その教えを聖の道だと思っておられるはずがありません。弥陀の本願を疑誹破滅しているのですから。
>本心では、聖道門の存在を認めておられないのです。


おかしなことを言いますね。
聖道門の存在を認めていない親鸞聖人のお言葉も出さずに、妄想を書き連ねて。

「おほよそ八万四千の法門は、」とは、仏教で教えられている多くの教えで18願以外の教えのことですが、具体的には聖道門と19願と20願のことであるのが常識です。

「仏号はなはだ持ち易し、浄土はなはだ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくなし。」(行巻)
「「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。」(化土巻)


>ちなみに「19願という」とも仰っていません。「要門という」と仰っているのです。この違いも分からないとダメです。

「これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。」(化土巻)

要門=19願 これは高森会長でさえ言っている超常識。


凄い無知なのがよくわかりました。

投稿: ねずみ | 2013年10月29日 (火) 14時33分

念を押して、もう一言だけ書きますが、親鸞聖人がお聖教の中に、「聖道」「聖道門」という言葉を使われているからといって、その存在を認めておられると思ってはダメだということです。

存在は認めていなくても、山の中を走り回り、諸仏菩薩に頭を下げている人達を導くために、あえて「聖道」「聖道門」という言葉を使っておられるのです。

「与奪の論法」の「与」とは、そういうことです。

そういう親鸞聖人の言葉の使われ方を知っていないと、大怪我をします。

投稿: トラ | 2013年10月29日 (火) 14時33分

ねずみさん

言葉遣いの感覚が、粗雑過ぎます。

感情的にならずに、もっと丁寧に読み書きしてください。

僕の書いたことに対する応答になっていません。

今後は、スルーさせてもらいます。

投稿: トラ | 2013年10月29日 (火) 14時44分

わかりました。

>存在は認めていなくても、山の中を走り回り、諸仏菩薩に頭を下げている人達を導くために、あえて「聖道」「聖道門」という言葉を使っておられるのです。

>「与奪の論法」の「与」とは、そういうことです。

>そういう親鸞聖人の言葉の使われ方を知っていないと


こういう妄想だということですね。
なぜなら、その根拠が何一つない。

反対に、親鸞聖人は聖道門についていたるところで認められている。

思考停止のトラさんのために、もう一度書きましょうか。

******************************************************************
親鸞聖人は「聖道門」を認められた御言葉は山ほどある。
しかし、親鸞聖人が「聖道門」の存在を否定された御言葉は1つもない。
******************************************************************

投稿: ねずみ | 2013年10月29日 (火) 15時29分

トラ 様

御指名ということで、お答えしますが、基本的にはねずみさん、雑草さんの仰った通りで間違いありません。

補足するなら、

龍樹菩薩は聖道門の修行によって初地まで至られています。曇鸞大師が『讃阿弥陀仏偈』に記されたことを『教行信証』真仏土巻に親鸞聖人も引かれて

本師龍樹摩訶薩、形を像始に誕じて、頽綱(頽の字、崩なり、破なり、落なり、纏るなり)を理る。
邪扇を関閉して(轍の字、通なり、車なり、跡なり)正轍を開く。これ閻浮提の一切の眼なり。
尊語を伏承して歓喜地にして、阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。

と仰っています。
もちろん正信偈にも有る通りです。

善導大師は『散善義』に

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。

と聖道門の修行によって、数限りもない多くの方が聖者になられたのに、我等凡夫は未だに流転していると嘆かれています。
それをまた『玄義分』にて

心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る

と仰って、聖道門を大いに肯定されています。
それを承けられて親鸞聖人は化土巻にて

「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

と解釈なされて、18願とそれ以外に聖道門・19願の教えのあることを明示まされています。
そして聖道門の意義については

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。

とされ、釈尊在世の時と正法の時のための教えとして肯定なされ、認められた上で、像末・法滅の時機にはあわない教えだとなされている訳です。

それで、『浄土和讃』において

聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

と聖道門の方便に留まることを誡められ、また『正像末和讃』において

聖道門のひとはみな
 自力の心をむねとして
 他力不思議にいりぬれば
 義なきを義とすと信知せり

と、聖道門の人がいることが大前提となっています。


トラさんの理論は、高森会長と同じく根拠が全くありません。
それでは文底秘沈の教えと言われても反論できないでしょう。

投稿: 飛雲 | 2013年10月29日 (火) 17時10分

トラさん、聖道門を否定して仏教が成り立つと思っているのでしょうか。
七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人、誰一人として、聖道門を否定された方はありません。
皆さんが挙げられた御文を

感情的にならずに、もっと丁寧に読むことをお勧めします。

投稿: 聖道門を否定しては… | 2013年10月29日 (火) 18時10分

トラさん、はじめまして。

>親鸞聖人は聖道門の存在を認めておられません。

トラさんは法蔵菩薩の五劫思惟と不可思議兆載永劫の修行、ならびに弥陀果徳についてどうお考えでしょうか。
聖道門を認めないのは弥陀成仏の否定、つまり浄土真宗の否定にほかならないと思いますが…。

投稿: 薄縹 | 2013年10月29日 (火) 19時31分

トラさん、気にしなくてもいいよ。
根拠のない理屈は、親鸞会に付きものだからね。

これを縁として、親鸞会の教義をお聖教に基づいて見直してみるといいですよ。

解からないことは、どんどん質問したらいいです。

投稿: ねずみ | 2013年10月29日 (火) 22時59分

飛雲さん

飛雲さんには、僕が最初に書いたコメントを理解した上で、的確に応答して頂けるかと思っていましたが、そうしてくださらなくて残念です。

応答し直してくださると有難いのですが……

これでは、次のコメントのしようがありません。

投稿: トラ | 2013年10月30日 (水) 07時54分

トラ 様

皆さんのコメントを理解できていないようで、大変残念です。
あなたの理論、理屈は、親鸞聖人の仰っていないことだと言うことだけは、御理解いただけましたでしょうか。

親鸞聖人が仰ったことのない、もっと言えば、仰ったことを否定するようなことをいくらコメントされても、全くの無駄です。

聖教に沿わない理論は、文底秘沈と同じだと覚えておいてください。

投稿: 飛雲 | 2013年10月30日 (水) 08時01分

>親鸞聖人は聖道門の存在を認めておられません。

これは完全な間違いです。


>善は、弘願真実へ入る方便(方法手段)として釈尊が説かれた、と親鸞聖人は教えられています。要門です。
>仏教には、弘願と要門、真実とそこに至るための方便が教えられているのです。
>その本源は弥陀の三願です。 法界は弥陀一仏。弟子の諸仏は、弥陀を讃嘆するのみ。

これはその通りですが、問題は誰に対しての方便かと言うことです。親鸞聖人ははっきりと、「定散諸機」に対する方便が要門、19願、定散二善だと仰っています。
つまり、「定散諸機」ではない悪人には無関係の話です。それが法然上人のお言葉ですが、それも御理解できないようでは話になりません。


>諸仏を本尊とする聖道門を、19願に含まれる、などというのは、寝言でしかありません。

『一念多念証文』に明言されていますが。

投稿: 飛雲 | 2013年10月30日 (水) 08時05分

******************************************************************
親鸞聖人は「聖道門」を認められた御言葉は山ほどある。
しかし、親鸞聖人が「聖道門」の存在を否定された御言葉は1つもない。
******************************************************************

投稿: ねずみ | 2013年10月30日 (水) 08時20分

トラさんは、自分の考えが大前提になっていて、それに異なっている飛雲さんの非難をしたのですが、その大前提がおかしいことに気が付いていないのです。
他の方も言われている通り、大前提は親鸞聖人のお言葉でなければならないのですが、トラさんは親鸞聖人のお言葉がなくても絶対に間違いないと信じて疑わないのでしょう。
なんか見ていて痛いですね。

トラさん、わかった?

あなたが絶対に間違いないと信じ込んでいる大前提が間違っているのですよ。そこを問題にしているのですから、間違った大前提を基にして何をコメントしても完全な間違いでしかないわけです。

皆さんが的外れなコメントしているのではなく、トラさんの大前提自体が的外れなのですよ。

投稿: ウシ | 2013年10月30日 (水) 21時18分

法論の土俵はお聖教。
お聖教に無いことでは仏教ではありません。
自分の所で作った教学聖典やアニメでさえ真面目に見ていないのでは。

投稿: ネコ | 2013年10月30日 (水) 23時13分

高森教の被害者を間近に見る思いですね。
会長がくたばっても被害者の妄想は容易には晴れないだろうから、
その罪は命を以ってしても償えないということだよね。

投稿: みみず | 2013年10月31日 (木) 04時38分

正しい教えを明らかにするのが目的かと思ったら、皆さんは悪口雑言を言うのが目的みたいですね。
別に構いませんけどね。

投稿: トラ | 2013年10月31日 (木) 08時40分

トラ 様

正しい教えを明らかにするためには、聖教に基づいて話をしなければなりませんが、あなたと高森会長、親鸞会にはそれが全くないのです。

私は、聖教に基づいてしかエントリーも議論のコメントも書いていません。

あなたも同じ姿勢になられると議論も成立するでしょう。

ちなみに、高森会長も親鸞会も、他の団体や退会者からの悪口雑言を言いまくっていますが、それが目的で、親鸞聖人のお言葉に沿った話をするつもりが全くないのですが、どう思われますでしょうか。

投稿: 飛雲 | 2013年10月31日 (木) 08時49分

>正しい教えを明らかにするのが目的かと思ったら、皆さんは悪口雑言を言うのが目的みたいですね。

親鸞会の会長から講師部員、会員のことですね、わかります。

投稿: ねずみ | 2013年10月31日 (木) 10時00分

飛雲さんがトラさんの求めに応じたコメントをされたのですから、今度はトラさんが反論なされれば良いのではないでしょうか。

投稿: ネコ | 2013年10月31日 (木) 10時25分

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