親鸞聖人が19願、定散二善を方便と仰った意味も当然知らない教義偽装の高森会長
食材偽装が話題になっていますが、親鸞会退会者にとりましては、さほど驚くことはないでしょう。なぜなら、宗旨偽装、教義偽装を60年以上も行っている人物を知っているからです。
全国で会館を建てまくっていますが、落慶式の際のぼったくりが酷いと会員からも言われる始末です。参加費が1万円、高森顕徹会長への法礼が5千円、弁当代が2千円。更には驚くことに会館を見る拝観料なるものが1千円。
呆れるばかりの集金システムですが、これも教義偽装を駆使した策です。
さて、法然上人は諸善に対して否定的な御言葉しか残されていませんが、これは法然上人の話を聞きに来た人に対して仰ったものです。法然上人の話を聞きに来ていた人は、親鸞聖人のように聖道門に行き詰った人、最初から聖道門は無理と考えていた在家の人などです。
『選択本願念仏集』の最後には、
庶幾はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の前に遺すことなかれ。
おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり。
とまで仰って、念仏の教えを信じない聖道門の人には見せないように仰っています。法然上人の仰せは、聖道門を求めることのできない、あるいは途中で断念した人が対象であった訳です。
ところが、聖道門を現に求めている人にとっては、法然上人の教えられたことは、許しがたいものであり、それが念仏弾圧という形になって表われました。諸善は念仏の引き立て役であり、末法の衆生にはできない、とまで言われれば、諸善に励んでいる人が怒るのは当然なことでしょう。
その際に彼らが主張したことが、19願の強調であったのです。阿弥陀仏の48の願にある、諸善を勧められた19願を無視するとは何事だ、というものです。教義偽装の人と全く同じ論理です。
先にも言いましたように、法然上人の仰せは、対象を限定されてのことですから、対象外の人から非難されるのは、筋違いと言えるのですが、その対象外の人に対しても理解できるように仰ったのが、親鸞聖人であったのです。
それが三願転入の文であり、19願を方便願と説明された訳です。19願を聖道門を断念した人を浄土門に導き入れるための要門と位置付けられ、御自身の体験を通して、19願の役割を仰っただけです。
『教行信証』化土巻には、19願の説明が多くありますが、一貫していることは、19願の対象が聖道門を断念した人、諸善に拘る人に限定されていることです。
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
も、「半満・権実の法門」という聖道門に入りながら、「偽なるもの」「虚なるもの」のために釈尊は『観無量寿経』で定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた、とされています。
また『観無量寿経』に説かれた定散二善を
如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。
と仰り、19願を
仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。
と仰って、浄土を願っていない人に浄土を願わしめるための方便と繰り返し仰っていますが、ここからも聖道門の人を浄土門に入れさせるための方便と位置付けられていることが判ります。
これがmixiでの三願転入の法論の結論であったのですが、教義偽装の人物は、絶句して逃亡し、議論を記したトピック自体の削除まで命じる狼狽ぶりでした。
教義偽装の会長に代わって、私と法論に応じようという元気な会員はいませんか。
講師部員は皆逃げましたので、一般会員のコメントを楽しみに待っています。
| 固定リンク
| コメント (8)
| トラックバック (0)
最近のコメント