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2013年10月

2013年10月31日 (木)

親鸞聖人が19願、定散二善を方便と仰った意味も当然知らない教義偽装の高森会長

食材偽装が話題になっていますが、親鸞会退会者にとりましては、さほど驚くことはないでしょう。なぜなら、宗旨偽装、教義偽装を60年以上も行っている人物を知っているからです。
全国で会館を建てまくっていますが、落慶式の際のぼったくりが酷いと会員からも言われる始末です。参加費が1万円、高森顕徹会長への法礼が5千円、弁当代が2千円。更には驚くことに会館を見る拝観料なるものが1千円。
呆れるばかりの集金システムですが、これも教義偽装を駆使した策です。

さて、法然上人は諸善に対して否定的な御言葉しか残されていませんが、これは法然上人の話を聞きに来た人に対して仰ったものです。法然上人の話を聞きに来ていた人は、親鸞聖人のように聖道門に行き詰った人、最初から聖道門は無理と考えていた在家の人などです。
『選択本願念仏集』の最後には、

庶幾はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の前に遺すことなかれ。
おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり。

とまで仰って、念仏の教えを信じない聖道門の人には見せないように仰っています。法然上人の仰せは、聖道門を求めることのできない、あるいは途中で断念した人が対象であった訳です。

ところが、聖道門を現に求めている人にとっては、法然上人の教えられたことは、許しがたいものであり、それが念仏弾圧という形になって表われました。諸善は念仏の引き立て役であり、末法の衆生にはできない、とまで言われれば、諸善に励んでいる人が怒るのは当然なことでしょう。

その際に彼らが主張したことが、19願の強調であったのです。阿弥陀仏の48の願にある、諸善を勧められた19願を無視するとは何事だ、というものです。教義偽装の人と全く同じ論理です。

先にも言いましたように、法然上人の仰せは、対象を限定されてのことですから、対象外の人から非難されるのは、筋違いと言えるのですが、その対象外の人に対しても理解できるように仰ったのが、親鸞聖人であったのです。

それが三願転入の文であり、19願を方便願と説明された訳です。19願を聖道門を断念した人を浄土門に導き入れるための要門と位置付けられ、御自身の体験を通して、19願の役割を仰っただけです。

『教行信証』化土巻には、19願の説明が多くありますが、一貫していることは、19願の対象が聖道門を断念した人、諸善に拘る人に限定されていることです。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

も、「半満・権実の法門」という聖道門に入りながら、「偽なるもの」「虚なるもの」のために釈尊は『観無量寿経』で定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた、とされています。
また『観無量寿経』に説かれた定散二善を

如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と仰り、19願を

仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

と仰って、浄土を願っていない人に浄土を願わしめるための方便と繰り返し仰っていますが、ここからも聖道門の人を浄土門に入れさせるための方便と位置付けられていることが判ります。

これがmixiでの三願転入の法論の結論であったのですが、教義偽装の人物は、絶句して逃亡し、議論を記したトピック自体の削除まで命じる狼狽ぶりでした。

教義偽装の会長に代わって、私と法論に応じようという元気な会員はいませんか。
講師部員は皆逃げましたので、一般会員のコメントを楽しみに待っています。

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2013年10月30日 (水)

高森顕徹理論を捨てることが、19願を離れることであり、雑行を捨てること

前回エントリーのコメントを読まれれば判ると思いますが、親鸞会の思考は根本的におかしいです。

1.親鸞聖人が実際に仰っていることを否定して、直接仰ってはいないが親鸞聖人の本心はこうに違いないと断定する。

2.親鸞聖人の仰った御言葉を、文法的にあり得ない解釈をする。

3.親鸞聖人の仰った御言葉の単語の意味を、非常識に解釈し、他のお言葉との整合性がとれない。

4.親鸞聖人の仰った御言葉を断章取義し、前後を併せて読むと反対の意味になるが、それを無視する。

これを主導しているのが、会員に何百年に一度しか現われない無二の善知識と崇め奉らせている高森顕徹会長です。その結果、こうなります。

いつもの11項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

11.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 因果の道理を深信しなければならない

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
----------------------------------
高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
----------------------------------
高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
----------------------------------
高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
-----------
高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
----------------------------------
高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
--------
高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
----------------------------------
高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

さて、前回述べましたように、法然上人は19願や諸善は末法の衆生にとっては実践する意味がないことを教えられているのです。親鸞聖人が法然門下に入られたということは、19願や諸善を捨てられたとことに他なりません。

ではもう一度三願転入の文を見ると、

論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。

は、直接的には法然上人、間接的に七高僧方の御勧化によって、19願を離れた、としかならない訳です。これが雑行を捨てる、ということであり、親鸞聖人の

建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。

を存覚上人は『六要鈔』で

「建仁」等とは、元年辛酉、大祖聖人六十九歳、鈔主聖人二十九歳。始めて門下に入りて即ち宗旨を伝う。

とされています。

「法然門下に入ったこと」=「19願を離れたこと」=「雑行を棄てたこと」

つまり、高森理論を捨てることが19願を離れることであり、雑行を捨てることになるのです。高森理論に支配されているうちは、19願に留まったまま、親鸞聖人で言えば法然上人に遇われる前の状態だということです。

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2013年10月29日 (火)

高森顕徹理論を完全に否定された法然上人

阿弥陀仏が19願を建てられ、釈尊が45年間善を勧められたことは無駄であったと言うのか

親鸞会が法論に窮すると、最後に言う捨てゼリフです。

しかし、ここに矛盾があることに気が付いていません。親鸞会は聖道門を否定しています。ならば、

釈尊45年間聖道門を説かれたことは無駄であったと言うのか

と言い返すと、親鸞会は更に窮します。苦し紛れに、

聖道門は19願、定散二善におさまる

と言うでしょうが、それなら

聖道門も19願、定散二善も18願におさまるから18願、念仏だけでいい

と言えば完全に終了です。
法然上人はこのことを『選択本願念仏集』

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。

と教えられました。また

諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。

(現代語訳)

諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。

聖道門も、19願定散二善も、18願念仏の引き立て役であり、末法の衆生には必要ないと断言されています。高森顕徹理論など、法然上人に完全に否定されているのです。

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2013年10月26日 (土)

簡単な話を訳の判らない話にするのが高森会長

『教行信証』化土巻を読むと判りますが、19願を勧められた親鸞聖人の御言葉はありませんが、20願を勧められた御言葉はあります。
真門釈の最初

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。

とあります。

19願は勧められていないが20願は勧められている。

この事実から、親鸞聖人は三願転入をせよ、と勧められていないことが判ります。善を捨てて念仏を勧める人に対して、親鸞会は、

それでは三願転入ではなく二願転入ではないか

と嘲笑しますが、笑われるのは親鸞会の方です。法然上人が未信の人に自力念仏を勧められていることは、常識です。
ただし親鸞聖人の場合は、他所では自力念仏を誡めておられますので、18願に入るのに20願を必ず通らなければならない、と教えられているかどうかは議論の余地はあるでしょう。
しかし、19願を必ず通らなければならないかどうかは、議論の余地がありません。その根拠が全くないからです。

ここで、三願転入の文を見てみましょう。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。

前半は、「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、19願を出て20願に入った、との告白です。「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、19願に入ったのではありません。当たり前のことです。
それを高森顕徹会長は、「久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る」の「久しく」と「永く」を曲解して、

親鸞聖人は19願に長く留まっていたと仰っているから、19願を通るように勧められている

とかとんでもない理屈を付けています。しかし、「出でて」と「離る」としかありませんので、19願を捨てよ、以外に意味はありません。
ちなみに、最後に「ここに久しく願海に入りて」とありますが、これは過去のことではなく未来に対して「久しく」ですから、同様に19願の「久しく」と「永く」も、未来に対して仰ったとみるべきでしょう。つまり、最初の文は、

七高僧方のお勧めによって、未来永遠に19願を離れることができた

という意味になります。
簡単な話なのですが、それを訳の判らない話にして誤魔化すのが高森会長です。

三願転入、三願転入というなら、まず、高森会長自身がどのように三願転入の体験をしたのか語ってみればいいでしょうが、それはできないでしょう。過去に、三願転入と無関係の体験を語っていたのですからね。

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2013年10月23日 (水)

聖教を読んだことのない高森会長に判る筈もない三願転入の意図

親鸞聖人が三願転入の体験を記されたのは、

1.皆さんも三願転入の道を進め
2.私は遠回りをしてしまったので皆さんは同じ道を進まないように

のどちらの御心なのかが問題です。
しかし、親鸞聖人は三願転入の体験を『教行信証』化土巻にしか記されていませんし、最初の19願を勧められた御言葉も皆無です。それどころか、化土巻で19願に関して親鸞聖人が仰っていることは、19願を否定するお言葉ばかりです。

ここまでくれば、少しでも理性があるなら、親鸞聖人は1の御心はありえず、必然的に2になる筈です。

mixiでの三願転入の法論では、高森顕徹会長は、親鸞聖人が19願を勧められた御言葉を最後の最後まで出すことができませんでした。mixi上からは、そのやりとりを抹消してしまうほどの狼狽ぶりでしたが、その経緯は

親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より

にありますので、そちらをご覧ください。

ところが、その後会員向けには、『正像末和讃』

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

を出して、親鸞聖人が19願を勧められた御言葉として説明したようですが、これについては

親鸞会法論惨敗の記録4~飛雲より

にまとめてあるように、20願成就文を親鸞聖人が言い換えられただけで、もちろん19願を勧められた意図は全くありません。

高森会長は会員を騙すことしか考えていないことが、ここからも判ります。

そして、親鸞聖人が19願についてどう仰っているかは、要門釈の結論である

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

が最も判りやすいでしょう。本来は行巻にも引かれている『往生要集』の

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

とあるものに、「定散の諸機」を加えられたものです。『観無量寿経』では、「極重の悪人」には念仏以外の方便、つまり諸善は勧められていません。それで「極重の悪人」には、念仏しか勧められていないことは、聖道門でも浄土門でも常識なのです。一方で「定散の諸機」には念仏以外の方便として、定散二善が勧められていることも常識です。

しかし、そんな「定散の諸機」に対しても親鸞聖人は「極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。」という論理を展開されているのです。「定散の諸機」も「極重の悪人」と同様に「ただ弥陀を称せよ」と勧められているのだ、と仰っているのです。

要するに、定散二善のできる「定散の諸機」も、そしてもちろん「極重の悪人」も、19願に拘らずに捨てよ、としか仰っていないのです。

その理由はこの前にありますが、19願では報土往生はできず化土往生にしかならないからです。

まあ、聖教を読んだことのない高森会長や親鸞会信者の面々には興味のない話かもしれませんが。

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2013年10月18日 (金)

やはり体験至上主義の親鸞会

親鸞会の金集めは激しくなるばかりですが、そんな状態でも会員を続けている人は、”後生の一大事の解決”とは違う目的を持っているようです。
ほとんどの人は、親鸞会以外には自分の居場所がないから、というもので、親鸞聖人の教えに興味はないのです。ただ、他の新興宗教と一緒にされたくないので、浄土真宗、親鸞聖人という看板を勝手に掲げて偽装しているだけのことです。

親鸞聖人の教えを最大限に利用している高森顕徹会長は、三願転入を万人共通の体験として親鸞聖人が教えられたものだ、としています。この嘘は、難しい聖教を読まなくても簡単に見破ることができます。

まず、七高僧方も覚如上人も蓮如上人も、三願転入に関する記述が全くありません。尤も、親鸞会では関係ない御文を引っ張り出してきて、

これが三願転入について仰ったお言葉だ

と妄言を吐いていることはありますが、少なくとも、三願転入についての直接的な御文は全くありません。
では、親鸞聖人は三願転入について何箇所かで仰っているのかと言えば、親鸞会でも認めている通り『教行信証』化土巻の1箇所のみです。ちなみに、『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

は、先入観を捨ててそのまま読めば、聖道門や19願の善の勧めは方便の教えというだけのことで、それ以上のことは何も仰っていません。それに、

三願転入せずしてはアリ一匹助からない

と高森会長が断言する20願についての言及がありませんから、三願転入についての体験を仰ったものとは言えません。

『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』には、三願転入はありませんし、化土巻に顕わされた方便の教え自体が省略されています。

省略されていると言うことは、省略しても問題がないからです。『正信偈』にも三願転入はありません。

親鸞聖人が同行に読むように勧められた『唯信鈔』『一念多念分別事』『後世物語聞書』にも、三願転入はありません。

従って、三願転入は万人共通の体験だと親鸞聖人が教えられたなど、妄想以外の何物でもありません。

ちなみに、体験と言えば、曇鸞大師は仙人の教えから浄土の教えに帰依されたことが有名ですが、これを万人共通の体験という人はいないでしょう。天親菩薩にしても、小乗仏教から大乗仏教に入られた体験をなされていますが、同じ道を歩めという人はありません。他の善知識方にしても、それぞれの体験をされていますが、だからと言って、同じ体験をすべきと考える人はないでしょう。

ならば、親鸞聖人の三願転入の体験だけが万人共通と考える思考がそもそもおかしいです。

もし親鸞聖人が、三願転入は万人共通の体験だ、と教えられているとするなら、少なくとも最初の19願を勧められた御言葉が多数ある筈ですが、いくら探しても1つもないのです。親鸞会も、親鸞聖人が19願を勧められた御言葉のないことを認めています。三願転入の法論で大惨敗したのがその証拠です。

要するに、親鸞聖人がある意図でぽろっと仰った体験を、至上主義としているのです。ところで、高森会長の三願転入をしていない奇特な体験は、万人共通の例外中の例外ですか?

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2013年10月 6日 (日)

ますますカルト化する親鸞会

顕正新聞、顕真では、全国の会館の話ばかりです。幹部に要求されている献金額は、最低100万円からというもので、これまで散々出しつくしてきた幹部にとりましては、辛酸を嘗める日々のようです。そんな状態ですので、教義の間違いに気付くよりも先に、金銭的な理由で、ある日突然幹部がいなくなることも珍しくないようです。

ここまで異常な金集めをする訳ですから、その裏付けとなる教義の捏造にも力が入っています。大まかな話の流れは、以前と何もかわらず、

善ができると自惚れている十方衆生に善をやらせてみて、善のできない極重の悪人で地獄一定の者と知らされると同時に、極楽一定となる。その道程を親鸞聖人が三願転入で教えておられる。

というものです。
そこに因果の道理だとか、宿善とかを散りばめながら、カルト教義が仕上がるというものです。
この間違いについて、簡潔にまとめたものが以下で、一年半以上反論できない内容です。

いつもの11項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

11.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 因果の道理を深信しなければならない

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
----------------------------------
高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
----------------------------------
高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
----------------------------------
高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
-----------
高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
----------------------------------
高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
--------
高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
----------------------------------
高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

かつてmixi上で行われた三願転入の法論で、高森顕徹会長が完膚なきまでに叩きのめされた訳ですから、教義に詳しい退会者に怯えていることは明らかです。

顕正新聞、顕真にいつも掲載される品性の欠片もない歌は、教義で反論してくることのない華光会だけをターゲットにしていることからも、それが判ります。
ちなみに、これだけ苦労して救われた、という体験談を華光会が語っていると非難していますが、これはそのまま親鸞会のことだと気が付いていないところが、お粗末過ぎます。その最たるものが体験発表と弁論大会です。

聖教の解釈以前の問題として、自分の言っていることの矛盾くらいは解消しておいてほしいものです。

親鸞会が相当追い詰められていることは確かです。ますますカルト化する中で、会員の忍耐と財力がいつまで続くかです。限界を越えた会員の脱会数が加速度的に増えれば、親鸞会も終わるでしょう。

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