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2013年9月 6日 (金)

思考停止の会員を騙すことに必死な親鸞会

20年以上会員を続けている人でも、裕福でないととても求められない、と嘆く程、執拗な金集めが平気で行われています。熱心な会員が相当に苦しんでいるくらいですから、親鸞会の台所事情もかなり苦しいのでしょう。

親鸞会は会員からお金を絞り切るために、聖教の断章取義を連発しています。その間違いはすでに明らかになっているのですが、それを知ってもなお改める気は全くありません。会員を騙し続けなければ、親鸞会がもたないからです。

親鸞会で、蓮如上人が善を勧められているとする根拠として、『御文章』4帖目第3通

これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

を最近頻繁に使います。これしか蓮如上人が善を勧められたお言葉のないことを、親鸞会も認めています。
この事実だけ知っても、通常の思考なら、蓮如上人はこのお手紙を読むことのできる極めて限られた人にだけ、善を勧められたのか、と疑問に思う筈ですが、思考停止の会員では、そこまで考えることはないのでしょう。

もちろん、蓮如上人は善を勧められたのではありません。前後を併せて読めば判るでしょう。

 それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

 しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。

 しかれば諸仏の本願をくはしくたづぬるに、五障の女人、五逆の悪人をばすくひたまふことかなはずときこえたり。これにつけても阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。ありがたしといふもなほおろかなり。これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。

 このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。

(現代語訳 浅井成海監修『蓮如の手紙』より)

 そもそも、今の世の戦乱のありさまは、いつ落ち着くとも思われない様子です。そのため、国々を行き来する道にいたるまでも容易に通行のかなわない時世ですから、仏法においても、世俗の事柄においても、何をどのようにしてよいか困惑します。このゆえに、あるいは霊験あらたかな寺院・神社へ参詣する人びともおりません。
 これについけても、人はみな、誰がいつ死ぬやら定めのないものであると聞いているからには、急いで、どんな善行をもおさめ、また、さとりや涅槃をも願うべきなのです。
 しかしながら、今の世は末世の乱れた世であるとはいうものの、阿弥陀如来の本願は、この時世において、不思議にもますます盛んです。
 ですから、在家の生活を送る人びとは、如来のこの広大なる慈悲の誓願におまかせし、疑いなく阿弥陀さまの仰せに従う信心をいただいて、完全なさとりの世界、すなわち極楽に往生しなければなりません。そうでなければ、まさに、宝の山に入っておいて、空手で帰ってくるようなものではありませんか。くれぐれもよく心を静めてこれを考えてください。
 そこで、もろもろの仏の本願を詳しく探って明らかにしてみれば、五障の女性、五逆の悪人については、どの仏もこれをお救いにはなれないと思われます。
 ところが、阿弥陀如来こそはただおひとり、「罪悪のはなはだしい者、五障の女性を、わたしがたすけよう」と、このうえなくすぐれた尊い誓願を起こしてくださいました。ありがたいといっても、なおいい足りません。
 さて、昔、お釈迦さまが霊鷲山にいらっしゃって、一乗の教えと讃えられる『法華経』をお説きになっていたときに、提婆が阿闍世をそそのかして、親殺しの罪を犯させるという事件が起こりました。
 そこでお釈迦さまは、もったいなくも、霊鷲山での『法華経』の説法の座を立たれて、王宮へおいでになり、韋提希夫人が極楽を願うようにされました。こうして、お釈迦さまが韋提希夫人のために浄土の教えをひろめられたので、阿弥陀さまの本願が今の時代に盛んとなったわけです。そして、このために、『法華経』と『観無量寿経』のお念仏とは同じときに説かれた教えであるといわれています。
 これはとりもなおさず、末世の五逆の悪人と女性に、極楽への往生を願わせるための手だてとして、釈迦、韋提・提婆・阿闍世が力を合わせて、五逆の罪を犯すというドラマを作りあげたものと考えられます。そして、このような罪の深い者であっても、人知では思いはかることのできぬ阿弥陀如来の本願に帰依すれば、かならず極楽への往生をとげることができるのだ、とお知らせくださったのである――とお受け入れください。

これは、11年続いた応仁の乱が背景にあって書かれたものです。
蓮如上人は、聖道門と浄土門、自力と他力とを比較しながら、悪人正機の18願について明らかにされているのです。

第一段落で、聖道門についての現状を仰っています。こんな乱れた世の中だから、本来なら善を修して菩提を求める聖道門が盛んになってもよさそうなのに、そうなっていない、と仰ったに過ぎません。

第二段落で、それに対して浄土門18願の教えは、こんな世の中でも盛んです、と続くのですから、浄土門18願の教えと「これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。 」は関係がないことが判ります。

その証拠に、この後の接続詞が「しかるに」となっています。前の論理とは反する論理展開をする際に使われる言葉ですから、「しかるに」の前と後は反対のことを仰っていることになります。

少しの知識があれば判る話ですが、会員にはそれを見抜く思考を奪われてしまっているのです。

高森顕徹会長と親鸞会の意図がはっきり判る断章取義の一例です。

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コメント

造塔造寺の喜捨よりも称名念仏一つ勧められた法然上人のみ教え対して、「芳野作戦」と称して会全体で奨める整合性はあるのだろうか。会員はどれだけズレているのか、いい加減目を覚ましてはどうか。曲がった松は曲がった松とみるべきでは。

投稿: | 2013年9月 6日 (金) 22時22分

脱会できるかどうかは宿善次第と言って良さそうです。
無宿善の人は親鸞会にとどまるしかないでしょうね。

投稿: | 2013年9月 6日 (金) 23時23分

浄土真宗および親鸞会の教義安心についていくつか質問があるのですが、誰か答えて貰えませんか?

投稿: デーブ | 2013年9月 6日 (金) 23時25分

デーブさん、答えますよ。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年9月 7日 (土) 03時13分

よろしくお願いします。

○善導大師は「五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。謗法せんだい廻心皆往」と、十悪五逆の者には廻心を仰有っていませんが、蓮如上人は「又罪は十悪・五逆・謗法せんだいのともがらなれども、廻心懺悔して」と、十悪五逆の者も廻心しなければ助からないと書かれていますが、この違いをどう理解すべきでしょうか?
また善導大師や蓮如上人が廻心とおっしゃるのはどんなことでしょうか?

○善導大師の抑止門によると、謗法の者は摂取されてもただちに真実報土には往生できないように思いますが如何でしょうか?

○「若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば、更りて復こう劫をきょう歴せん」とありますが、疑網に覆蔽せられている信前の人でも化土往生できるのでしょうか?


○御文章に「ただもろもろの雑行を捨てて正行に帰するをもって本意とす。その正行に帰するというは、何のようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり」とあり、法然上人の三選の文と違うように思いますが如何でしょうか?

○覚如上人や蓮如上人は鎮西流を取り入れたそうですが、それで教えが変わったということはあるのでしょうか?
○改邪抄本に「~まじき事」といろいろ書かれていますが、親鸞会はこれに反しているのでしょうか?

○改邪抄「因果撥無を持言とすまじき事」の章に書かれているのはどんなことでしょうか?

○深信因果とは世間・出世・報土の因果のいずれをさすのでしょうか?

投稿: デーブ | 2013年9月 7日 (土) 10時02分

○紅楳英顕著『派外からの異説について』には
そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如
実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の
「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。高森親鸞会の主張のように、
破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのであ
る。
と書かれています。
御文章に「過去已曽・修習此法・今得重聞・則生歓喜」とも釈せり。いずれの経釈に依るとも、既に宿善に限れりと見えたり。
とありますが、聞法が宿善になるのではないでしょうか?
ならないとすれば、未信の者はどんな気持ちで聴聞・勤行をすればよいのでしょうか?

○伝道院紀要に引用されている大原氏や中村氏の宿善の解説は正しいのでしょうか?(親鸞会の宿善論と同じかどうかは別として)
○仏教に善因善果・悪因悪果・自因自果の教えはあるのでしょうか?あるとすれば、仏教では、親鸞会で言う夫婦の話、交通事故の話、又、親鸞聖人が流刑に遭われたことは悪因悪果・自因自果と説明されるのでしょうか?

○善導大師の六字釈について、場所によって微妙に解説が違うように思いますが如何でしょうか?

○極楽には仏しかいないと聞く一方で、声聞が無数にいると言われるのはなぜでしょうか?

○若不生者は当益のみで、現益は全くないのでしょうか?

投稿: デーブ | 2013年9月 7日 (土) 10時04分

○白骨の章など、お聖教には無常と罪悪が説かれているように思いますが、弥陀の救いを求める上で無常観・罪悪観は大事なのではないでしょうか?

○親鸞会が機の深信と罪悪観を混同していると言われるのはどんなことでしょうか?

○白骨の章・領解文・帖外御文の後生の一大事は、報土往生の一大事・報土往生できず地獄に堕ちる一大事のどちらにもとれるように思いますが、如何でしょうか?

○浄土真宗には未信の人に布教の勧めはないのでしょうか?

○人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。この身今生に向って度せずんば、更にいずれの生に向ってか、この身を度せん。
仏法には人界受生の本懐が教えられているのではないでしょうか?

○摂取不捨の利益を絶対の幸福と言ったら間違いでしょうか?

○御文章3帖目1通にある、摂取と光明はどう違うのでしょうか?

○雑毒の善ができれば善人だそうですが、親鸞会では我々には雑毒の善はできると説明します。やはり雑毒の善もできないのでしょうか?

投稿: デーブ | 2013年9月 7日 (土) 10時06分

○観経下々品の往生は、上、中輩等の往生に比べて劣っているように思いますが、一方で一番素晴らしい往生ができるように言われるのはなぜでしょうか?

○観経の念仏は、万行随一の念仏と聞いていますが、七高僧方の解説を聞くと、他力の念仏のようにも思います。どう理解すべきでしょうか?

○真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大はつ涅槃を超証す。
二には決定して、「彼の阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く、慮無く、彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と深信す
往生一定
とありますが、信心決定しても、いつ死んでも極楽参り間違いないとハッキリしないのでしょうか?

○証巻還相廻向釈・真仏土巻に曇鸞大師や善導大師のお言葉の引用が沢山ありますが、どういうことを明らかにせんとして引用なされているのでしょうか?

投稿: デーブ | 2013年9月 7日 (土) 10時09分

待っていても誰も答えてくれないのですね。
分かりました。もうけっこうです。
答えて要りません。
あきらめます。
二度とここには来ません。さようなら。

投稿: デープ | 2013年9月 7日 (土) 13時57分

デーブさんへ
コメントを書いて4時間で返事がないからさようならというのはあまりにも性急すぎる気がします。
飛雲に来る人もいろんな立場があるので24時間くらいは待った方がいいと思います。

投稿: はやすぎ | 2013年9月 7日 (土) 14時40分

デーブ7さん、今見ましたよ。
言っていることは、完全に偽装退会者、偽装僧侶のブログと同じですね。

答えようと思いましたが、答えなくてもいいというなら答えません。
沢山の質問をしてすぐに答えられない、それを狙っていたのでしょうから。

それぞれ簡単なことですけどね。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年9月 7日 (土) 14時56分

答えたいけど学がないのでデーブさんが納得するような根拠をあげながら説明するというのは私には無理そう。
あとここに来る人達は質問をしたら自動的に答えてくれる機械ではなくデーブさんと同じ普通の人間ですよ。面と向かってないとつい忘れがちになりますが、ネット上とはいえ人と人とが関わる上でそこをないがしろにしてはいけません。
とりあえず気長に待つのがいいと思います。

投稿: | 2013年9月 7日 (土) 15時01分

わかりやすい人ですね。

重箱の隅をつつくような質問をしてさ。

お聖教の御文というのは、前後をしっかり読めば、概ねわかるものです。

たとえば、回心について、善導大師と覚如上人、蓮如上人の回心は、言葉は同じでも、意味が違います。それは前後を読めばわかること。断章取義の親鸞会にはわからないでしょうけど。

まあ、二度と来ないというのだから、来なくてもいいよ。


>親鸞会の因果論、悪人論、宿善論…はどうも誤りのようですね。


これだけでも認めたのなら、それで結構なこと。

投稿: M野さんへ | 2013年9月 7日 (土) 15時20分

沢山質問しすぎましたかね。すみませんm(_ _)m。
めんどくさかったら一部の質問でも答えて頂ければと思います。
あとよく見ると分かりますがデープさんとは別人です。
私は親鸞会がどうのより、正しい親鸞聖人の教えが分かればよいので気長に待ちます。

投稿: デーブ | 2013年9月 7日 (土) 16時10分

>○善導大師は「五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。謗法せんだい廻心皆往」と、十悪五逆の者には廻心を仰有っていませんが、蓮如上人は「又罪は十悪・五逆・謗法せんだいのともがらなれども、廻心懺悔して」と、十悪五逆の者も廻心しなければ助からないと書かれていますが、この違いをどう理解すべきでしょうか?
また善導大師や蓮如上人が廻心とおっしゃるのはどんなことでしょうか?

善導大師の廻心は、仏教を聞く気の無い心、謗っている心を翻しての意。
蓮如上人の廻心は、善導大師の意を含んで、懺悔しての意。


>○善導大師の抑止門によると、謗法の者は摂取されてもただちに真実報土には往生できないように思いますが如何でしょうか?

善導大師の解釈は、

もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。かしこに生ずることを得といへども、華合して多劫を経ん。これらの罪人、華の内にあるとき三種の障あり。

と、化土往生を示唆。


>○「若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば、更りて復こう劫をきょう歴せん」とありますが、疑網に覆蔽せられている信前の人でも化土往生できるのでしょうか?

信前の人にも、いろいろある。
・外道を信じている人
・聖道門を信じている人
・浄土門でも19願、20願を信じている人
・18願を信じながら信心を決定していない人

前2者のことを親鸞聖人は仰っている。なぜなら、後2者については化土往生と至る所で仰っているから。


>○御文章に「ただもろもろの雑行を捨てて正行に帰するをもって本意とす。その正行に帰するというは、何のようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり」とあり、法然上人の三選の文と違うように思いますが如何でしょうか?

同じ。
「正行に帰するというは、何のようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理」とは念仏一行のことであるから。


>○覚如上人や蓮如上人は鎮西流を取り入れたそうですが、それで教えが変わったということはあるのでしょうか?

言葉の使い方、教えの説かれ方が親鸞聖人と異なっている点がある。


>○改邪抄本に「~まじき事」といろいろ書かれていますが、親鸞会はこれに反しているのでしょうか?

明らかに反している。


>○改邪抄「因果撥無を持言とすまじき事」の章に書かれているのはどんなことでしょうか?

世間の因果と出世の因果を超えているのが阿弥陀仏の本願であることと、だからと言って因果を撥無するのが良いと言っているのは間違い。


>○深信因果とは世間・出世・報土の因果のいずれをさすのでしょうか?

基本は出世の因果で、世間の因果も含む。


>○紅楳英顕著『派外からの異説について』には
(略)
と書かれています。
御文章に「過去已曽・修習此法・今得重聞・則生歓喜」とも釈せり。いずれの経釈に依るとも、既に宿善に限れりと見えたり。
とありますが、聞法が宿善になるのではないでしょうか?
ならないとすれば、未信の者はどんな気持ちで聴聞・勤行をすればよいのでしょうか?

蓮如上人の仰る宿善とは、親鸞聖人の教えを聞く気があるかないかの話。
よって、聞法が宿善にになるとかならないとかいうこと自体日本語にならない。
聴聞・勤行は、「聞」=「信」で、今信心決定する気持ち。


>○伝道院紀要に引用されている大原氏や中村氏の宿善の解説は正しいのでしょうか?(親鸞会の宿善論と同じかどうかは別として)

聖道門の宿善の定義として正しい。

>○仏教に善因善果・悪因悪果・自因自果の教えはあるのでしょうか?あるとすれば、仏教では、親鸞会で言う夫婦の話、交通事故の話、又、親鸞聖人が流刑に遭われたことは悪因悪果・自因自果と説明されるのでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得の教え。
夫婦、交通事故とうの話は、デタラメ。

>○善導大師の六字釈について、場所によって微妙に解説が違うように思いますが如何でしょうか?

場所とは?

>○極楽には仏しかいないと聞く一方で、声聞が無数にいると言われるのはなぜでしょうか?

還相の人

>○若不生者は当益のみで、現益は全くないのでしょうか?

少なくとも会長が4年前の教学講義で「若不生者の生に当益の意は全くない」と断言したのは完全に間違い。

>○白骨の章など、お聖教には無常と罪悪が説かれているように思いますが、弥陀の救いを求める上で無常観・罪悪観は大事なのではないでしょうか?

無常の世の中だから、常の浄土を求めよという意味、浄土を求める上で無常とか罪悪が関係するのではない。聞法の縁と考えるもの。


>○親鸞会が機の深信と罪悪観を混同していると言われるのはどんなことでしょうか?

機の深信とは地獄一定と知らされることだ。


>○白骨の章・領解文・帖外御文の後生の一大事は、報土往生の一大事・報土往生できず地獄に堕ちる一大事のどちらにもとれるように思いますが、如何でしょうか?

報土往生できず地獄に堕ちる一大事の意にはとれない。


>○浄土真宗には未信の人に布教の勧めはないのでしょうか?

ない。

>○人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。この身今生に向って度せずんば、更にいずれの生に向ってか、この身を度せん。
仏法には人界受生の本懐が教えられているのではないでしょうか?

「人界受生の本懐」の意味によってかわる。


>○摂取不捨の利益を絶対の幸福と言ったら間違いでしょうか?

間違い。絶対の上はないが、涅槃は絶対の幸福の上。


>○御文章3帖目1通にある、摂取と光明はどう違うのでしょうか?

「やがて衆生をこの光明のうちにをさめおかるるによりて、摂取とは申すなり。」

>○雑毒の善ができれば善人だそうですが、親鸞会では我々には雑毒の善はできると説明します。やはり雑毒の善もできないのでしょうか?

雑毒の善のできる人は勿論いて、それが善人。
雑毒の善もできない人も勿論いて、それが悪人。


>○観経下々品の往生は、上、中輩等の往生に比べて劣っているように思いますが、一方で一番素晴らしい往生ができるように言われるのはなぜでしょうか?

化土往生と報土往生との違い。
研説と隠彰の違い。


>○観経の念仏は、万行随一の念仏と聞いていますが、七高僧方の解説を聞くと、他力の念仏のようにも思います。どう理解すべきでしょうか?

前に同じ。


>○真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大はつ涅槃を超証す。
二には決定して、「彼の阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く、慮無く、彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と深信す
往生一定
とありますが、信心決定しても、いつ死んでも極楽参り間違いないとハッキリしないのでしょうか?

しない。教えの通りに極楽参り間違いない筈という程度。


>○証巻還相廻向釈・真仏土巻に曇鸞大師や善導大師のお言葉の引用が沢山ありますが、どういうことを明らかにせんとして引用なされているのでしょうか?

還相廻向、浄土について明かになされるため。

投稿: 正真正銘の退会者 | 2013年9月 7日 (土) 16時16分

こういうことをする人がいるのを見るとモラルを疑ってしまいます。
デーブにしなかったのは最後の良心ですかね。

投稿: デーブ | 2013年9月 7日 (土) 16時18分

正真正銘の退会者様
お答え感謝します。
お手数ですが、長文は分割してアップして頂けないでしょうか?
すみませんm(_ _)m

投稿: デーブ | 2013年9月 7日 (土) 16時37分

では分割して


>○善導大師は「五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。謗法せんだい廻心皆往」と、十悪五逆の者には廻心を仰有っていませんが、蓮如上人は「又罪は十悪・五逆・謗法せんだいのともがらなれども、廻心懺悔して」と、十悪五逆の者も廻心しなければ助からないと書かれていますが、この違いをどう理解すべきでしょうか?
また善導大師や蓮如上人が廻心とおっしゃるのはどんなことでしょうか?

善導大師の廻心は、仏教を聞く気の無い心、謗っている心を翻しての意。
蓮如上人の廻心は、善導大師の意を含んで、懺悔しての意。


>○善導大師の抑止門によると、謗法の者は摂取されてもただちに真実報土には往生できないように思いますが如何でしょうか?

善導大師の解釈は、

もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。かしこに生ずることを得といへども、華合して多劫を経ん。これらの罪人、華の内にあるとき三種の障あり。

と、化土往生を示唆。


>○「若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば、更りて復こう劫をきょう歴せん」とありますが、疑網に覆蔽せられている信前の人でも化土往生できるのでしょうか?

信前の人にも、いろいろある。
・外道を信じている人
・聖道門を信じている人
・浄土門でも19願、20願を信じている人
・18願を信じながら信心を決定していない人

前2者のことを親鸞聖人は仰っている。なぜなら、後2者については化土往生と至る所で仰っているから。


>○御文章に「ただもろもろの雑行を捨てて正行に帰するをもって本意とす。その正行に帰するというは、何のようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり」とあり、法然上人の三選の文と違うように思いますが如何でしょうか?

同じ。
「正行に帰するというは、何のようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理」とは念仏一行のことであるから。


>○覚如上人や蓮如上人は鎮西流を取り入れたそうですが、それで教えが変わったということはあるのでしょうか?

言葉の使い方、教えの説かれ方が親鸞聖人と異なっている点がある。


>○改邪抄本に「~まじき事」といろいろ書かれていますが、親鸞会はこれに反しているのでしょうか?

明らかに反している。


>○改邪抄「因果撥無を持言とすまじき事」の章に書かれているのはどんなことでしょうか?

世間の因果と出世の因果を超えているのが阿弥陀仏の本願であることと、だからと言って因果を撥無するのが良いと言っているのは間違い。


>○深信因果とは世間・出世・報土の因果のいずれをさすのでしょうか?

基本は出世の因果で、世間の因果も含む。

投稿: 正真正銘の退会者 | 2013年9月 7日 (土) 16時43分

>○紅楳英顕著『派外からの異説について』には
(略)
と書かれています。
御文章に「過去已曽・修習此法・今得重聞・則生歓喜」とも釈せり。いずれの経釈に依るとも、既に宿善に限れりと見えたり。
とありますが、聞法が宿善になるのではないでしょうか?
ならないとすれば、未信の者はどんな気持ちで聴聞・勤行をすればよいのでしょうか?

蓮如上人の仰る宿善とは、親鸞聖人の教えを聞く気があるかないかの話。
よって、聞法が宿善にになるとかならないとかいうこと自体日本語にならない。
聴聞・勤行は、「聞」=「信」で、今信心決定する気持ち。


>○伝道院紀要に引用されている大原氏や中村氏の宿善の解説は正しいのでしょうか?(親鸞会の宿善論と同じかどうかは別として)

聖道門の宿善の定義として正しい。


>○仏教に善因善果・悪因悪果・自因自果の教えはあるのでしょうか?あるとすれば、仏教では、親鸞会で言う夫婦の話、交通事故の話、又、親鸞聖人が流刑に遭われたことは悪因悪果・自因自果と説明されるのでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得の教え。
夫婦、交通事故とうの話は、デタラメ。


>○善導大師の六字釈について、場所によって微妙に解説が違うように思いますが如何でしょうか?

場所とは?


>○極楽には仏しかいないと聞く一方で、声聞が無数にいると言われるのはなぜでしょうか?

還相の人


>○若不生者は当益のみで、現益は全くないのでしょうか?

少なくとも会長が4年前の教学講義で「若不生者の生に当益の意は全くない」と断言したのは完全に間違い。

投稿: 正真正銘の退会者 | 2013年9月 7日 (土) 16時44分

>○白骨の章など、お聖教には無常と罪悪が説かれているように思いますが、弥陀の救いを求める上で無常観・罪悪観は大事なのではないでしょうか?

無常の世の中だから、常の浄土を求めよという意味、浄土を求める上で無常とか罪悪が関係するのではない。聞法の縁と考えるもの。


>○親鸞会が機の深信と罪悪観を混同していると言われるのはどんなことでしょうか?

機の深信とは地獄一定と知らされることだ。


>○白骨の章・領解文・帖外御文の後生の一大事は、報土往生の一大事・報土往生できず地獄に堕ちる一大事のどちらにもとれるように思いますが、如何でしょうか?

報土往生できず地獄に堕ちる一大事の意にはとれない。


>○浄土真宗には未信の人に布教の勧めはないのでしょうか?

ない。


>○人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。この身今生に向って度せずんば、更にいずれの生に向ってか、この身を度せん。
仏法には人界受生の本懐が教えられているのではないでしょうか?

「人界受生の本懐」の意味によってかわる。


>○摂取不捨の利益を絶対の幸福と言ったら間違いでしょうか?

間違い。絶対の上はないが、涅槃は絶対の幸福の上。


>○御文章3帖目1通にある、摂取と光明はどう違うのでしょうか?

「やがて衆生をこの光明のうちにをさめおかるるによりて、摂取とは申すなり。」


>○雑毒の善ができれば善人だそうですが、親鸞会では我々には雑毒の善はできると説明します。やはり雑毒の善もできないのでしょうか?

雑毒の善のできる人は勿論いて、それが善人。
雑毒の善もできない人も勿論いて、それが悪人。

投稿: 正真正銘の退会者 | 2013年9月 7日 (土) 16時46分

>○観経下々品の往生は、上、中輩等の往生に比べて劣っているように思いますが、一方で一番素晴らしい往生ができるように言われるのはなぜでしょうか?

化土往生と報土往生との違い。
研説と隠彰の違い。


>○観経の念仏は、万行随一の念仏と聞いていますが、七高僧方の解説を聞くと、他力の念仏のようにも思います。どう理解すべきでしょうか?

前に同じ。


>○真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大はつ涅槃を超証す。
二には決定して、「彼の阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く、慮無く、彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と深信す
往生一定
とありますが、信心決定しても、いつ死んでも極楽参り間違いないとハッキリしないのでしょうか?

しない。教えの通りに極楽参り間違いない筈という程度。


>○証巻還相廻向釈・真仏土巻に曇鸞大師や善導大師のお言葉の引用が沢山ありますが、どういうことを明らかにせんとして引用なされているのでしょうか?

還相廻向、浄土について明かになされるため。

投稿: 正真正銘の退会者 | 2013年9月 7日 (土) 16時46分

訂正

× 研説と隠彰の違い。

○ 顕説と隠彰の違い。

投稿: 正真正銘の退会者 | 2013年9月 7日 (土) 16時47分

煩わしい質問に付き合って頂きありがとうございました。別に困らせてやろうとか思って聞いたのではないです。

投稿: デーブ | 2013年9月 7日 (土) 17時08分

飛雲さま この質疑と回答が良くわかりませぬ。解説ください。

投稿: | 2013年9月 7日 (土) 21時26分

↑ 新手の荒らしでなければよいのですが。

投稿: | 2013年9月 7日 (土) 23時39分

私に対する御要望が来ておりますので、少しだけお答えします。

正真正銘の退会者さんのお答えは、簡潔明瞭ですので、簡潔すぎて判らないところがあるということではなかろうかと思いますが、多くは御理解頂けているのではないかとも思っています。


>>○覚如上人や蓮如上人は鎮西流を取り入れたそうですが、それで教えが変わったということはあるのでしょうか?

>言葉の使い方、教えの説かれ方が親鸞聖人と異なっている点がある。

これはたとえば宿善がそうです。親鸞聖人は宿善という言葉を使われておりませんが、覚如上人・蓮如上人は使われています。明らかに鎮西流の影響です。しかし、鎮西流の宿善を、親鸞聖人の教えに照らし合わせて定義しなおされていますので、教えられ方は変わっても、教えが変わったとは私は思いません。


>>○観経下々品の往生は、上、中輩等の往生に比べて劣っているように思いますが、一方で一番素晴らしい往生ができるように言われるのはなぜでしょうか?

>化土往生と報土往生との違い。
>顕説と隠彰の違い。

観経には顕説と隠彰とがあると親鸞聖人は教えられました。
顕説とは、表面上に説かれた方便の教えで、これによれば、観経下々品の往生は、上、中輩等の往生に比べて劣っているのは確かです。
隠彰とは、釈尊が説かれたかった真意、真実の教えで、それは18願他力念仏です。観経下々品の往生は、それを教えられたものということです。


もし、他で判られない所があれば仰ってください。

投稿: 飛雲 | 2013年9月 8日 (日) 20時33分

デーブさん、まだ見ておられますかね。

以前「いろいろな本を読んだり――」とコメントした手前、ここで比較的取り付きやすいものを紹介しておきます。上記の疑問点について間接的あるいは直接的に答えになるような内容も含んでおりますので、時間があったら読んでみてください。

研修部 編/勧学寮 監修 『真宗の教義と安心』 本願寺出版社
http://hongwanji-shuppan.com/item/detail.html?icd=978-4-89416-572-4

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真宗の教義と安心 目次

第一章 阿弥陀仏の本願
 第一節 真実の願と方便の願
   ――法義の根本――因本の願――四十八願――生因三願――三願転入――根本の願――
 第二節 第十七願と第十八願の関係
   ――名号流行の誓――偈前の文――名号と称名――
 第三節 釈迦と弥陀との関係
   ――仏の三身――ニ種法身――発遣と招喚――出世本懐――三経の隠顕――
 第四節 本願の文と成就の文
   ――願文と成就文の性格――願文と成就文の対照――機受の全相と極要――

第二章 名号のいわれ
 第一節 願行具足について
   ――善導の六字釈――宗祖の六字釈――善導と宗祖――
 第二節 機法一体について
   ――行信不二――蓮師の機法一体――願行具足と機法一体――

第三章 真宗の信心
 第一節 本願の信心
   ――三心・一心――三重出体――菩提心――信一念――
 第二節 聞信の意義
   ――仏願の生起本末――聞即信――不如実の聞――聞即信の所顕――
 第三節 ニ種深信の意義
   ――ニ種深信――捨機託法――ニ種深信と信罪福心――
 第四節 信心正因の意味
   ――信心正因――名号業因――唯信正因――

第四章 称名のこころ
 第一節 乃至十念の誓い
   ――乃至十念の意味――信相続の行――十念の誓意――
 第二節 念仏為本について
   ――正定業――五正行と正助二業――名号・信心・称名――
 第三節 称名報恩の意義
   ――称名報恩――報恩の理由――称名の三面――

第五章 念仏者の利益
 第一節 往生浄土の意義
   ――正定聚と滅度――報土往生と化土往生――無上涅槃――還相の利益――
 第二節 現生の利益
  イ、現生正定聚について
   ――即得往生――信益同時――現生の利益――転成――仏凡一体――真実の利益――
  ロ、信心の生活
   ――信心と生活――悲嘆と慶喜――邪偽の教誡――真の仏弟子――実践の視野――

投稿: 薄縹 | 2013年9月 8日 (日) 21時43分

薄縹様、紹介ありがとうございます。

飛雲様
解説ありがとうございます。まだよくわからない所がありますので、よければ解説お願いします。

>「人界受生の本懐」の意味によってかわる。

>○極楽には仏しかいないと聞く一方で、声聞が無数にいると言われるのはなぜでしょうか?
還相の人
以上二つはどういうことでしょうか?

>○若不生者は当益のみで、現益は全くないのでしょうか?
少なくとも会長が4年前の教学講義で「若不生者の生に当益の意は全くない」と断言したのは完全に間違い。

当益がないと言ったら間違いでしょうが、私の問いに対する答えにはなっていないと思いますが。

>善導大師の解釈は、(中略)
と、化土往生を示唆
親鸞聖人は、謗法の者は他力信心を獲ても化土往生しかできないと教えられているのでしょうか?
報土往生できるなら善導大師が化土往生を示唆されたことはどう理解すべきでしょうか?

投稿: デーブ | 2013年9月 9日 (月) 00時28分

デーブ 様

>>「人界受生の本懐」の意味によってかわる。

これは、何を犠牲にしてでも成し遂げねばならない、という意味に捉えるなら聖道門になりますが、
何を犠牲にしてでもというところまで言わなければ、真宗でも言えると思います。
『持名鈔』に

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、 世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、なが く輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

とある通りです。
ただし、自力で求めるということではなく、あくまで本願力回向で、与えて頂けるという観点においては、
馴染まない言葉遣いともいえます。


>>○極楽には仏しかいないと聞く一方で、声聞が無数にいると言われるのはなぜでしょうか?
>還相の人

親鸞聖人は往生即成仏という解釈をとっておられますので、極楽にいるのは仏だけということになります。
それとの整合性をはかるには、本来は仏であるが、声聞や菩薩のかたちをとられていると考えるのがよいと思います。
また『浄土和讃』讃阿弥陀仏偈和讃には

安楽声聞・菩薩衆
 人・天智慧ほがらかに
 身相荘厳みなおなじ
 他方に順じて名をつらぬ

とあり、『浄土論註』には

これ他方の声聞来生せるを、本の名によるがゆゑに称して声聞となす。

ともありますから、以前に声聞だった人を声聞と言われているという解釈もできます。


>>○若不生者は当益のみで、現益は全くないのでしょうか?
>少なくとも会長が4年前の教学講義で「若不生者の生に当益の意は全くない」と断言したのは完全に間違い。

>当益がないと言ったら間違いでしょうが、私の問いに対する答えにはなっていないと思いますが。

親鸞聖人が「若不生者」について直接仰ったところ、更には大経の異訳経からしても、当益の意味でしか仰っていません。
ただし、親鸞聖人は正定聚を現益に解釈なされていますので、直接は仰っていませんが、
現益の意味も含められたのではないかとも言えます。
また信心を与えるというのは本願の中で「若不生者」でしか表現されていないので、現益の意があるとも言えます。
つまり、「若不生者」は当益というのが大前提ですが、親鸞聖人の思想から判断すると現益の意も含められていると言ってもよいと思います。
ここは、議論の余地のあるところでしょうから、断言は避けた方が無難です。


>>善導大師の解釈は、(中略)
>と、化土往生を示唆
>親鸞聖人は、謗法の者は他力信心を獲ても化土往生しかできないと教えられているのでしょうか?
>報土往生できるなら善導大師が化土往生を示唆されたことはどう理解すべきでしょうか?

親鸞聖人が、謗法の者の往生について御自身のお言葉で仰った箇所を知りません。
善導大師のここしか私は知りませんので、善導大師の解釈を踏襲されているとしか言えません。

投稿: 飛雲 | 2013年9月 9日 (月) 06時34分

飛雲様
解説ありがとうございました。

投稿: デーブ | 2013年9月10日 (火) 00時06分

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