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2013年9月

2013年9月29日 (日)

一口問答(因果の道理6)

高森顕徹会長が人集めに拘る理由は、本願寺を見返したいという強い思いと金集めの手段、そしてもう一つあります。会場が一杯で、参詣者が入りきれずに溢れている状態に、高森会長は快感を得る性格だからです。
退会者も親鸞会55周年記念大会に参加して、そこで高森会長に法論を挑めばいいのです。私はそうしたいのですが、私の周辺の人は全く誘われず、残念です。もし、法論を目的に参加される方があれば、援護します。

では、一口問答の続きです。

問い

信心決定したら、因果の道理が深信させられるのです。

答え

これこそ異安心の証拠です。
真実の信心を顕わされた二種深信を含む七深信の中に、「深信因果」はありません。
敢えて言うならば、第三深信の「また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。」(観無量寿経疏・教行信証信巻)が関係します。救われて深信させられることは、釈尊が『観無量寿経』に「深信因果」という散善を説かれたのは、浄土を願っていない聖道門の人に浄土を願わしめて浄土門に入れるための方便だった、ということです。
ところで、全人類の実機は因果を撥無する闡提ではなかったのですか。因果の道理を深信させられた闡提とは意味が判りません。

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2013年9月26日 (木)

一口問答(因果の道理5)

問い

では、因果の道理の話を聞くことが18願の救いの害になるという根拠でもあるというのですか。

答え

覚如上人は「もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。」(改邪鈔)と仰っています。もし因果の道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が御苦労なされた、他力の特別な教えが空しくなってしまう、ということです。
世間の因果を、18願の救いと無関係に信じているだけなら、いいですよ。
なお、18願に救われるために因果の道理を信じなければならない、という根拠があるのなら、即座に出してください。

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2013年9月25日 (水)

一口問答(因果の道理4)

問い

阿弥陀仏の本願も仏教ですから、因果の道理と無関係である筈がありません。

答え

覚如上人は「おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」(改邪鈔)と仰っています。18願の教えは、釈尊一代の説法に例がなく、通仏教の教えとはまったく別の、言語を超絶した不思議な教え、ということです。
蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』にも、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。」とあります。18願の救いは、世間の因果・出世の因果に超異している、ということです。
要するに、因果の道理を信じれば信じる程、18願を疑うことになり、高森会長の話を聞くことは害にしかなりません。

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2013年9月22日 (日)

一口問答(因果の道理3)

55周年記念大会の人集めの目標が高過ぎるからか、退会者に誘いの連絡をしてくることがちょくちょくあるようです。
もし読者の皆さんの中で、そのような”被害”に遭われて困っているなら、

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」

でも示して、反論を要請すればいいでしょう。
教義批判をまとめた他のブログでも構いませんが、講師部員や幹部会員でも理解できるレベルとなると、このブログが最適でしょう。

後日、因果の道理も加えておきます。

問い

因果の道理を否定しては、如何なる仏教も成り立ちません。

答え

親鸞会の言う自因自果を肯定しては、報土の因果は成り立ちません。
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。」(教行信証信巻)。報土往生の因は、阿弥陀仏が回向なされた行と信以外にはありません。
つまり、衆生からすれば報土往生という果に対しては他因しかなく、自因は全くない、ということです。
もちろん炭素とダイヤのたとえも間違いになります。

(参照)
世間事の範疇でしか18願を理解できない高森顕徹会長

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2013年9月20日 (金)

一口問答(因果の道理2)

問い

因果の道理を深信するのが、仏教徒であり、親鸞学徒ではないですか。

答え

因果の道理を深信することは、散善の行福に当たりますし、上品中生の条件になります。「深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。」(観無量寿経疏)。
ここまではできなくても、上品下生の条件として「所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。」(同)とあります。因果の道理を信じる時もあれば信じない時もある、深信ではないが浅くでも信じていることをいいます。
貴方の主張通りなら、親鸞学徒はみな上品下生以上の善人ということになります。

(参照)
「深信因果」が何を意味するのかさえも全く知らない無二の善知識

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2013年9月18日 (水)

一口問答(因果の道理1)

長年会員を続けてきた人は、親鸞会でしてきた活動を全面否定することに抵抗があるようです。その気持ちは判らないことはありません。
また高森顕徹会長がいなければ、親鸞聖人の教えに遇うことができなかったので、高森会長に感謝している、という人もそれなりにいます。

こういう人は、親鸞聖人のことを思い出して頂きたいです。

親鸞聖人は比叡山に対してどう思われていたか。

仏法を学ぶことができたことに対しては、感謝されていたと思いますが、比叡山が法然門下を弾圧したことに対しては、激しく非難なされているのは御承知の通りです。

親鸞会にしても、高森会長にしても、親鸞聖人の比叡山に対する程度に感謝し、高森邪義に対して激しく反発する気持ちがあっても不思議ではないと思います。ただし個人差があるでしょうから、こうでなければならない、というものではでしょう。

さて、予告通り、因果の道理についての「一口問答」です。

問い

仏教の根幹は因果の道理です。
因果の道理を信じれば、廃悪修善の気持ちが出てきて当然です。

答え

親鸞聖人は「定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。」(教行信証化土巻)と仰り、因果の道理を信じることは自力の心だと教えておられます。
また、「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる」(正像末和讃)と、因果の道理を信じることは仏智不思議を疑う心だとまで仰っています。
つまり、因果の道理を信じるように勧めることは、自力・仏智不思議を疑う心を増長させることになります。

(参照)
雑行・自力の心・仏智不思議を疑う心を必死に勧める高森顕徹会長

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2013年9月15日 (日)

邪教と呼ぶ他の宗教団体を遥かに凌駕した金集めをしている親鸞会

20数年前、高森顕徹会長はこんなことを言っていました。

邪教の金集めに比べたら、親鸞会は生ぬるい。

当時は、確かにそうだったと思います。
しかし今は違います。高森会長が邪教と呼ぶ他の宗教団体を遥かに凌駕した金集めをしているのが、親鸞会です。
各支部の会合で話があることは、

いくら出せるのか

だけです。
講師部員にこう言わせているのは、もちろん高森会長です。各事業の赤字補てんも会員に押し付けて、会員は打ち出の小槌としか見做されていません。会員は実に哀れです。

会員は高森会長のことを信じよう信じようと頑張っていますが、何から何までデタラメなのが高森会長です。やっていることがデタラメですが、それも肝心要の教義がデタラメであるからです。これまで10項目と『歎異抄』についての7項目を挙げてきましたが、何一つ反論ができません。ここに、因果の道理を加えて欲しいとの御要望を頂きましたので、加えておきます。

いつもの10項目に1項目追加

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

11.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

高森会長の人間性や、親鸞会が完全なトップダウンの組織であることは一般の会員では判らないでしょうが、教義のデタラメだけは隠しようがありません。

今回追加した因果の道理について、一口問答形式で、今後書いていきます。

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2013年9月 6日 (金)

思考停止の会員を騙すことに必死な親鸞会

20年以上会員を続けている人でも、裕福でないととても求められない、と嘆く程、執拗な金集めが平気で行われています。熱心な会員が相当に苦しんでいるくらいですから、親鸞会の台所事情もかなり苦しいのでしょう。

親鸞会は会員からお金を絞り切るために、聖教の断章取義を連発しています。その間違いはすでに明らかになっているのですが、それを知ってもなお改める気は全くありません。会員を騙し続けなければ、親鸞会がもたないからです。

親鸞会で、蓮如上人が善を勧められているとする根拠として、『御文章』4帖目第3通

これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

を最近頻繁に使います。これしか蓮如上人が善を勧められたお言葉のないことを、親鸞会も認めています。
この事実だけ知っても、通常の思考なら、蓮如上人はこのお手紙を読むことのできる極めて限られた人にだけ、善を勧められたのか、と疑問に思う筈ですが、思考停止の会員では、そこまで考えることはないのでしょう。

もちろん、蓮如上人は善を勧められたのではありません。前後を併せて読めば判るでしょう。

 それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

 しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。

 しかれば諸仏の本願をくはしくたづぬるに、五障の女人、五逆の悪人をばすくひたまふことかなはずときこえたり。これにつけても阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。ありがたしといふもなほおろかなり。これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。

 このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。

(現代語訳 浅井成海監修『蓮如の手紙』より)

 そもそも、今の世の戦乱のありさまは、いつ落ち着くとも思われない様子です。そのため、国々を行き来する道にいたるまでも容易に通行のかなわない時世ですから、仏法においても、世俗の事柄においても、何をどのようにしてよいか困惑します。このゆえに、あるいは霊験あらたかな寺院・神社へ参詣する人びともおりません。
 これについけても、人はみな、誰がいつ死ぬやら定めのないものであると聞いているからには、急いで、どんな善行をもおさめ、また、さとりや涅槃をも願うべきなのです。
 しかしながら、今の世は末世の乱れた世であるとはいうものの、阿弥陀如来の本願は、この時世において、不思議にもますます盛んです。
 ですから、在家の生活を送る人びとは、如来のこの広大なる慈悲の誓願におまかせし、疑いなく阿弥陀さまの仰せに従う信心をいただいて、完全なさとりの世界、すなわち極楽に往生しなければなりません。そうでなければ、まさに、宝の山に入っておいて、空手で帰ってくるようなものではありませんか。くれぐれもよく心を静めてこれを考えてください。
 そこで、もろもろの仏の本願を詳しく探って明らかにしてみれば、五障の女性、五逆の悪人については、どの仏もこれをお救いにはなれないと思われます。
 ところが、阿弥陀如来こそはただおひとり、「罪悪のはなはだしい者、五障の女性を、わたしがたすけよう」と、このうえなくすぐれた尊い誓願を起こしてくださいました。ありがたいといっても、なおいい足りません。
 さて、昔、お釈迦さまが霊鷲山にいらっしゃって、一乗の教えと讃えられる『法華経』をお説きになっていたときに、提婆が阿闍世をそそのかして、親殺しの罪を犯させるという事件が起こりました。
 そこでお釈迦さまは、もったいなくも、霊鷲山での『法華経』の説法の座を立たれて、王宮へおいでになり、韋提希夫人が極楽を願うようにされました。こうして、お釈迦さまが韋提希夫人のために浄土の教えをひろめられたので、阿弥陀さまの本願が今の時代に盛んとなったわけです。そして、このために、『法華経』と『観無量寿経』のお念仏とは同じときに説かれた教えであるといわれています。
 これはとりもなおさず、末世の五逆の悪人と女性に、極楽への往生を願わせるための手だてとして、釈迦、韋提・提婆・阿闍世が力を合わせて、五逆の罪を犯すというドラマを作りあげたものと考えられます。そして、このような罪の深い者であっても、人知では思いはかることのできぬ阿弥陀如来の本願に帰依すれば、かならず極楽への往生をとげることができるのだ、とお知らせくださったのである――とお受け入れください。

これは、11年続いた応仁の乱が背景にあって書かれたものです。
蓮如上人は、聖道門と浄土門、自力と他力とを比較しながら、悪人正機の18願について明らかにされているのです。

第一段落で、聖道門についての現状を仰っています。こんな乱れた世の中だから、本来なら善を修して菩提を求める聖道門が盛んになってもよさそうなのに、そうなっていない、と仰ったに過ぎません。

第二段落で、それに対して浄土門18願の教えは、こんな世の中でも盛んです、と続くのですから、浄土門18願の教えと「これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。 」は関係がないことが判ります。

その証拠に、この後の接続詞が「しかるに」となっています。前の論理とは反する論理展開をする際に使われる言葉ですから、「しかるに」の前と後は反対のことを仰っていることになります。

少しの知識があれば判る話ですが、会員にはそれを見抜く思考を奪われてしまっているのです。

高森顕徹会長と親鸞会の意図がはっきり判る断章取義の一例です。

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