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2013年8月 9日 (金)

善導大師に論破された聖道諸師の解釈を信じながら、「我独り仏の正意に明らかなり」と勘違いしている高森顕徹会長

五逆罪の者が臨終に念仏を10回称えて往生する、と説かれた『観無量寿経』下品下生の往生を、文面通りに受け取れなかったのが、聖道門の諸師です。
天台大師が顕したと伝えられる『浄土十疑論』には

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

とあります。要するに、過去世における善業が強いが故に、善知識に遇って10回の念仏で往生を遂げたのだという解釈です。ここに親鸞会の言う宿善の概念が持ち込まれているのです。つまり、親鸞会の宿善論の原点は、天台大師伝著の『浄土十疑論』にあるといえます。

また、善導大師は『玄義分』の中で、下品下生を含む下輩について、当時の聖道門の解釈を以下のように紹介されています。

下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 ともに同じく一位にして往生を求願すとは、いまだかならずしもしからず、知るべし。

臨終に初めて往生を願ったのではなく、過去世および平生に大乗を学び始めた凡夫だという解釈です。上記の宿善論と似通った論理です。

それに対して善導大師は反論なされました。

『玄義分』

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗始学の十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗始学の十信位の人ということができようか。もし他師らのような考えをするならば、みずから利益を失い他をあやまらせて、害をなすことがいよいよ甚だしい。

と仰っています。
下品上生、下品中生、下品下生について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」と明言なされています。
過去世にも、仏道修行したことがないだけでなく、倫理道徳の善さえもしてこなかった、つまり、下品上生、下品中生、下品下生の悪人は、過去世の善根がないのです。過去世の善根がないのですから、高森理論では”無宿善の者”です。

ここまで読まれればお判りいただけると思いますが、高森会長の理論は、善導大師に論破された聖道諸師の理論そのままです。

なぜ、高森会長はこんな簡単な誤りをしたのかと言えば、阿弥陀仏のお力を過小評価しているからです。もっとハッキリ言えば、18願の誓いだけでは足りないから、善を補う必要があると考える、仏智不思議を疑う心があるからです。これを疑情ともいいます。

『正信偈』の

善導独明仏正意

の意味も知らず、仏智不思議を疑う心、疑情があることを公言する高森会長の話を聞いて、善導大師の御心が判ると思いますか?仏智不思議を疑う心、疑情が無くなることがあると思いますか?

親鸞聖人の教えを悉く否定する高森会長を悪知識として見限って、往生への道が開かれるというものです。

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コメント

講師部員もいかれてますよね
唯一無二のゼンチシキってだけで実は異安心なんですよね
たった一人で他にいないと勝手にしたがるのは阿弥陀さまの願いなんてどうでもいいと公言していることになると思いましたわ
いわゆるDQNでしょうな

投稿: 辟易 | 2013年8月11日 (日) 21時37分

他にいるなら教えてください

投稿: | 2013年8月12日 (月) 00時18分

辟易 様

そういうことでしょう。


名無し 様

「他にいるなら」という考え方が間違っています。
高森会長と違い、真面目に勉強して正しく伝えようとされている方は、たくさんいます。
もちろん不勉強な人も残念ながらいます。
退会者で、親鸞会以外の布教使の話を聞いている人もたくさんいます。
もし、そのような退会者と連絡がとれるのなら、意見を聞いてみるのもよいと思います。

親鸞会と関係の深い布教使では、
会長の兄弟子に当たる華光会の増井悟朗師、
宿善論争で会長が逃げた相手の紅楳英顕師、
親鸞会のネット対策をしている講師部員が執拗に貶める本願寺派勧学の梯實圓師
元講師部員で親鸞会を除名になった宮田師
が挙げられます。

他にも、退会者に人気の布教使は何人もあります。

まずは、「高森会長以外に正しく親鸞聖人の教えを説いている人はいない」というのが妄想と気付くことから始めてください。

投稿: 飛雲 | 2013年8月12日 (月) 05時28分

 退会者の方には「安心問答」の宮田氏にブログ上で質問したり、直接法話を聴きに行くのも良いと思います。
氏は親鸞会の元講師であり、同会の邪義には精通しています。退会者に残るマインドコントロールも徐々に
徐々に溶かすような話をしてくれます。宮田氏は住所電話番号を公にしていますので連絡してみてはどうでしょうか。

投稿: | 2013年8月12日 (月) 20時50分

・その宮田氏というのは、普段は普通に何か仕事をしていて、空いた時間にボランティアで宗教活動をされているんですか?
・それとも、職には就かずに、宗教を職業として、金銭を得る為に活動しているのですか?

投稿: | 2013年8月13日 (火) 07時37分

↑の方
連絡先を公にされているので、本人に直接聞けばよいのでは?

投稿: | 2013年8月13日 (火) 07時59分

以下、安心問答コメント欄に、質問あげておきました。

投稿: | 2013年8月13日 (火) 11時00分

ありがとうございます。安心問答、読みました。
誰でも彼でも「信後」なので思わず吹いてしまいました。

投稿: | 2013年8月13日 (火) 22時25分

親鸞会に入って、私も思わず吹いてしまいました。
誰でも彼でも「信前」なので。
親鸞聖人、蓮如上人の頃、日本の人口は、今の20分の1くらいでした。
それでも、国に1人、郡に1人の「信後」の人がいたといわれていますが、
現代の人口なら、市に1人、町に1人の「信後」の人がいてもおかしくないですね。
なのに、親鸞会では、会長以外の「信後」の人は、華光会出身者と臨終に「信後」になった人ばかり。

講師部員でも「信前」なんて
思わず吹きだしてしまいましたよ。

投稿: 信前 | 2013年8月14日 (水) 03時26分

親鸞会で「救われた」って言うと追い出されてしまうのですよ。
なんせ会長が 未信なもんで信心の沙汰ができないですからね。
教学講義で 本願文と成就文の字数の違いを説明するのに30分は費やしていました。講師はそれを聞いて「会長先生 す、凄い」っていう顔しています。思わず吹き出してしまいました。

投稿: ぼん | 2013年8月14日 (水) 06時41分

法然上人の御弟子で、信行両座のジョウ論の時、信の座には何名入られましたか?
入らなかった人は何名でしたか?

投稿: | 2013年8月14日 (水) 08時58分

会員は、無知だね。
信行両座のジョウ論の原文『御伝鈔』、読んだことあるの?

まずね、法然上人のお弟子380余人は、間違い。三百余人ね。
それと熊谷直実の法名は、蓮生房ではなく、法力房ね。

ともに、大沼師が間違えたのをそのままパクッたのがまるわかり。

それとね、信行両座のジョウ論には、信の座に入った人の名に、親鸞聖人が間違いない信心の人とされた隆寛律師がないね。
親鸞会でも獲信者と認定している耳四郎もね。
もっというと、親鸞会でも獲信者と認定している住蓮・安楽の名もないよ。

それと、行の座に入った人は誰もいないんだよ。知らないの?

これが何を意味するかわかるかな?

行両座は、信心が正因か念仏が正因のどちらであるかの教義的な問題ということね。

法然上人は、念仏為本と断言されていたから、獲信者でも判断つかないんだよ。

みじめだね、親鸞会は

投稿: パクリ高森 | 2013年8月14日 (水) 09時52分

「これ恐らくは、自力の迷心に拘わりて、金剛の真信に昏きが致すところか」信の座に入らなかったのは、信心の問題だ、と仰有っていますよ。

投稿: 御伝抄 | 2013年8月14日 (水) 19時51分

そう、「これ恐らくは~か」ですよね。

想像するに、と言うことであって、信心の問題だと断言されていない所がミソ。

つまり、
信の座に入らなかった人=未信
とは限らないということね。

おわかりですか?

投稿: パクリ高森 | 2013年8月14日 (水) 20時05分

信の座に入らなかったからといって未信とは限らないかもしれませんが、教義上の問題としてかたずけるのは、いささか早計ではないかと思います。
覚如上人のお言葉もそうですし、
「~面々の意趣をも試みんとおもう所望あり」
と聖人がわざわざ信行両座を分けられた御心を考えても、お弟子方の信心をたずねるためではなかったでしょうか。

ついでに。「すべて三百八十余人と云々」とありますね。

投稿: 御伝抄 | 2013年8月14日 (水) 20時24分

まず、

「常随昵近の緇徒その数あり、すべて三百八十余人と云々。」は、親しくしている僧侶の数、380余人。
「そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。」は、集まったお弟子の数、300余人。

違いますよね。しっかり読みましょう。

次に、信心を調べるためになされたことは確かですが、それで断定ができないということを言ったのですが、
おわかりではないようですね。
大まかな判定はできる、くらいの意味にしかならないということ。

つまり、信の座に入った人は真実信心の人ということは断定に近い判断はできても、
どちらにも入らなかった人は真実信心ではないと断定ができないというだけのことであり、
その証拠に、隆寛律師・耳四郎・住蓮・安楽は、信の座に入っていないということ。

投稿: パクリ高森 | 2013年8月14日 (水) 21時11分

信行両座は信心を調べるためであった、ということで了解しました。
断定できないというのはそうでしょうね。しかし法然上人のお弟子であっても真実信心の人が少なかったのは間違いないでしょう。
ちなみに住蓮・安楽が獲信していたかどうかは私は知りません。ご縁が浅いものですから。

投稿: 御伝抄 | 2013年8月14日 (水) 21時34分

隆寛律師著とされる『後世物語聞書』には

念仏往生はもとより破戒無智のもののためなり。もし智慧もひろく戒をもまつたくたもつ身ならば、いづれの教法なりとも修行して、生死をはなれ菩提を得べきなり。それがわが身にあたはねばこそ、いま念仏して往生をばねがへ。

明確に、念仏為本の教義があり、

また

ひとたびこころえつるのちには、ただ南無阿弥陀仏ととなふるばかりなり。三心すなはち称名の声にあらはれぬるのちには、三心の義をこころの底にもとむべからず。

と信心と言っても念仏する以外にはないことを言われている。

信心と念仏とはセットになっていて、信心だけ、念仏だけ、というような思想は見受けられない。

あるいは『自力他力事』で

念仏の行につきて自力・他力といふことあり。

と念仏の行と信心とがやはりセットで教えられているのであり、信心だけで考えることにはならない。

それは親鸞聖人も同じではあったが、それを覚如上人が信心正因称名報恩と信心と念仏とを区別する教義確立のために出されたジョウ論。

法然上人は念仏行と信心とのどちら優先と言うことは仰っていないので、教義的に信心を優先させた覚如上人の教義体系の一環でしかない訳です。

それで、信心正因称名報恩は間違っている、とする真宗学者は何人もいます。

信心と念仏とは分離されるものではなく、一体のものであるのを、信心正因称名報恩という言葉に惑わされてしまった結果、高森会長のようなトンデモ教義となるんですね。

念の為、
覚如上人も信心正因称名報恩を信心と念仏とは分離されるものとまでは考えていなかったのですけど、言葉だけが独り歩きしている感じですね。。

投稿: パクリ高森 | 2013年8月14日 (水) 21時36分

住蓮・安楽は、親鸞会のアニメで獲信者として描かれていて、会長も、そのように解説してました。
その矛盾についての指摘ですよ。

投稿: パクリ高森 | 2013年8月14日 (水) 21時39分

無常の虎もいないし二河譬も自力にしてるしあいつにとってはおどろかせて金とれたらいいんだろう

投稿: | 2013年8月15日 (木) 07時35分

>法然上人のお弟子であっても真実信心の人が少なかったのは間違いないでしょう

いい加減なことを言って。
親鸞聖人が影響を受けられた幸西、体失不体失往生の諍論の相手であった証空、鎮西派の弁長らも、信心についてはっきり著書に書き記していますよ。

法然上人のお弟子の中で、真実信心の人はそれなりにはあったでしょう。

それに比べて親鸞会の講師部員はどうやね。
信の座に入る者が一人もないではないか?

如何に嘘教義を高森会長が教えているか、論より証拠。

投稿: 嘘付き会員 | 2013年8月15日 (木) 10時41分

なぜ講師が信の座に入れないと言えるのだろうか。三業で判断しているのだろう。
まだまだ分かってないのだね。
三業で判断した信心が何の役に立つのだろうか。

投稿: | 2013年8月15日 (木) 14時51分

>法然上人のお弟子であっても真実信心の人が少なかったのは間違いないでしょう

本当だ、三業で判断しているのだろう。
まだまだ分かってないのだね。
三業で判断した信心が何の役に立つのだろうか。

頭が悪いな会員は

投稿: 嘘付き会員 | 2013年8月15日 (木) 15時17分

ちなみに、数年前まで講師部員は未信だと公言してたよ。
最近は、公言しなくなったみたいだけどさ。

会長の側近も未信、家族も未信、親戚に至ってはほとんど退会してるし。

どうなってるのさ、親鸞会は。

投稿: 嘘付き会員 | 2013年8月15日 (木) 15時20分

三業で信心を判断していた高森会長


高森顕徹編『獲信の記録』(昭和24年発行)

手に持っていた『華光誌』を苦し紛れに放りつけた。トタンにこの苦しみは、スーッとはがれた様に引いて行った。ボーッとなって暫くは考える力もない。正気の沙汰ではない。夢か、うつつかの判断もつきかねていると、高森さん一家が帰って来られた。
挨拶も忘れて、今あった不思議な出来事を、ありのまま顕徹君に語った。一同は我が事の様に喜んでくださる。だが私自身は、何が何だかさっぱり分からぬ。本当だろうか。これが獲信したというものであろうか?
まだまだ疑いの晴れぬまま、種々ご馳走に預かる。こんな、うまく食事したことが近頃にあったろうか。やがて、顕徹君の話に薄紙を、はぐ如く、光明は輝きを増し、歓喜は胸に張り裂けるのであった。
「如来を求めて、いくら追っかけても、人間は到底追いつけるものではない。また自分でとらえられる位なら、他力信心なんか必要もない。弥陀は十万億土の彼方におられるものだと思っていられたか知らぬが、何のことは無い、アンタの腹の中にいて、しかもこの宇宙を包んでいる絶対者なんだ。その懐に入っていながら、それを追っかけ、とらえようなんて、問題ではない。追いつけないことが分かって初めて振り返ってみると、何のことは無い。総てが包まれていたことに気がつくのだ。この様に包まれていながら、何を悩みますかね?」
不思議だ!そう聞けば悩もうにも悩む種が無いではないか。そして顕徹君の語るどの話も皆、素直に肯定出来るからおかしい。弥陀が智慧や才覚で分からんでもよいのだ。このままでよいんだなあ。ああ、このままだった、このままだった。

投稿: 三業で信心判断していた高森会長 | 2013年8月15日 (木) 15時45分

・親鸞聖人は信心を調べるために信行両座のジョウ論をなされた。
・信の座に入る人が少なかった。
ということは真実信心の人は少なかったと考えるのが自然でしょう。
「懇にそのおしえをまもる族甚だまれなり、僅に五六輩にだにもたらず」とも言われています。

投稿: | 2013年8月15日 (木) 17時00分

・親鸞会では講師部員は未信と公表していた。
・高森会長は、会員の中で同じような座を設けたならば、信の座に入る人はいるかな。

と言っていたということは真実信心の人は親鸞会には極めて少ないろ考えるのが自然でしょう。

ということで、

>なぜ講師が信の座に入れないと言えるのだろうか。

は撤回でOKですね。

投稿: 嘘付き会員 | 2013年8月15日 (木) 17時12分

御伝抄 様(親鸞会擁護の方)

これまでのコメント欄でのやりとりを整理しておきましょう。

1.法然上人のお弟子は三百余人であり、会長の説明、三百八十余人は間違い。
2.熊谷次郎直実の法名は法力房であり、会長の説明、蓮生房は間違い。
3.親鸞聖人が真実信心の人と仰っている法然上人のお弟子、会長も真実信心と認めている法然上人のお弟子を挙げると
  信空・聖覚法印・法力房(蓮生房ではない)に加えて、隆寛律師・耳四郎・住蓮・安楽がいる。
  つまり法然上人のお弟子だけでも、最低8人は真実信心の人であったと会長自身が認めている。
  これらのお弟子以外にも、真実信心について著書で語っているお弟子は何人もいる。
4.覚如上人は「これ恐らくは~か」と敢えて断定を避けておられるので、信の座に入らなかった人は未信の可能性がある、という程度にしかならない。
5.三業で信心を判断することはできないので、一つの目安として、信行両座の諍論をされただけで、確実な判断はできない。
6.三業で信心を判断できないと言いながらも、会長は判断している。

ここまでは同意されたことで宜しいですか?

投稿: 飛雲 | 2013年8月15日 (木) 17時24分

撤回と言っても別人なので何とも言えません。

投稿: 名無し2 | 2013年8月15日 (木) 17時28分

「懇にそのおしえをまもる族甚だまれなり、僅に五六輩にだにもたらず」

数は数えられますか?
信の座に入った人は、法然上人を含めても5人。
つまり、法然上人を除くと4人。5,6人ということは、信の座に入っていない人でも、
「懇にそのおしえをまもる族」がいるということですね。

それから、
「懇にそのおしえをまもる族」は、”教え”をまもるですから、教義のことですが、違いますか?
これを基に教義上の問題と言って、おかしいですか?

投稿: 嘘付き会員 | 2013年8月15日 (木) 17時54分

信前でも教えをまもる人はいるでしょう。
それからこの御文だけを見て、教義上の問題と言うのは言い過ぎでしょう。

投稿: 名無し2 | 2013年8月15日 (木) 18時19分

これで、飛雲さんの挙げられた6つの項目に同意されたということですね。

おわり

投稿: 嘘付き会員 | 2013年8月15日 (木) 18時24分

以下に同意頂けたということですね。


1.法然上人のお弟子は三百余人であり、会長の説明、三百八十余人は間違い。
2.熊谷次郎直実の法名は法力房であり、会長の説明、蓮生房は間違い。
3.親鸞聖人が真実信心の人と仰っている法然上人のお弟子、会長も真実信心と認めている法然上人のお弟子を挙げると
  信空・聖覚法印・法力房(蓮生房ではない)に加えて、隆寛律師・耳四郎・住蓮・安楽がいる。
  つまり法然上人のお弟子だけでも、最低8人は真実信心の人であったと会長自身が認めている。
  これらのお弟子以外にも、真実信心について著書で語っているお弟子は何人もいる。
4.覚如上人は「これ恐らくは~か」と敢えて断定を避けておられるので、信の座に入らなかった人は未信の可能性がある、という程度にしかならない。
5.三業で信心を判断することはできないので、一つの目安として、信行両座の諍論をされただけで、確実な判断はできない。
6.三業で信心を判断できないと言いながらも、会長は判断している。


ここから言えることは、信の座に入った5人以外にも真実信心の人は何人かはいるので、信の座に入った人が少ないことをもって、真実信心の人が少ないと断言はできない、ということです。

私も、真実信心の人が多いとは思いませんが、会長の言っているような極めて少ないは間違いと思います。
確率でいう話でもありませんので、これ以上のことは言いません。

投稿: 飛雲 | 2013年8月15日 (木) 18時41分

私個人としては御伝抄を読む限り6項目は正しいと思います。

投稿: 名無し2 | 2013年8月15日 (木) 18時50分

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