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2013年8月20日 (火)

雑行・自力の心・仏智不思議を疑う心を必死に勧める高森顕徹会長

ここ最近、高森顕徹会長が話をしていることは、因果の道理です。因果の道理なら、誰でも納得し、非難されることもないだろう、という考えでしょうが、この考え方こそが、異安心の証拠です。

「深信因果」が何を意味するのかさえも全く知らない無二の善知識

でも述べましたが、まず、因果の道理を信じることは行福の1つになります。因果の道理を深信することは、上品中生の条件の1つであり、因果の道理を浅信することでも、上品下生の条件の1つになります。当然ながら、これは雑行です。
因果の道理を浅くでも信じていれば、十悪・邪見・闡提の人ではありません。つまり、善人です。

全人類は極重の悪人とか言いながら、因果の道理を信じている親鸞会会員は極重の悪人ではないことになります。

次に、親鸞聖人はこの因果の道理についてどのように考えられていたのかを見てみます。

『教行信証』化土巻・真門釈

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

と仰っています。20願自力念仏のことを仰ったものです。『愚禿鈔』にも

また弥陀念仏について、二種あり。
 一には正行定心念仏、
 二には正行散心念仏なり。
  弥陀定散の念仏、これを浄土の真門といふ、また一向専修と名づくるなりと、知るべし。

とあります。念仏でさえも、「罪福を信ずる心」で称えたならば、「自力の専心」とされた訳です。つまり、因果の道理を信じる心は自力なのですから、捨てものです。

『正像末和讃』誡疑讃には、

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

仏智の不思議を疑惑して
 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば
 胎生といふとときたまふ

などと教えられています。19願自力諸善、20願自力念仏ともに、因果の道理を信じているから、化土にしか往生できないのであり、それは仏智不思議を疑う心だと言いきっておられます。

以上をまとめると、因果の道理を信じることは雑行であり、自力の心であり、仏智不思議を疑う心ということになります。すべて、「捨てよ」と言われているものです。

18願は、因果の道理に超異しているので、因果の道理の範疇で考えているうちは18願の意味すら理解することができません。

高森会長は、常に、親鸞聖人の教えと正反対のことを教えます。親鸞聖人が「捨てよ」と仰ったものを、高森会長は「せよ」と拾わせます。
高森会長の話を聞いて、救われないのは当然なことでしょう。

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因果の道理」カテゴリの記事

コメント

散りぎわに「皆さん有り難うございました。おかげさまで、親鸞聖人の御教えを守ることができました。もう心残りはありません」
って 自分を正当化するんでしょうね。
最初は純粋な気持ちであっても段々と自分の言葉に酔ってくる。そのうち「真実のためなら」と、少々のルール違反は許されると考え 段々と深みにはまって行く。早めに指摘してくれた方を 恩に思うか敵と思うか、後の人生を大きく左右してしまいますね。

『大根の種を蒔けば 大根の芽が出る』
確かに間違いはありません。

最後の砦ですね。


投稿: ぼん | 2013年8月21日 (水) 09時34分

安心問答のことをいわれているのでしょうか?
なぜ、ここに書きこむのかわかりません。
少々のルール違反を、御自身もなさるとは、いただけませんね。

煩悩具足の凡夫はかわりませんので、皆さんと共に私も気を付けたいものです。

投稿: | 2013年8月21日 (水) 10時21分

安心問答とは関係ありません。
会長の盗作問題 伊藤氏がわざわざ富山まで来られても無視して詭弁を用いて我が身を正当化する会長を 嘆いています。
教義的にも追い詰められ小学生レベルの『因果の道理』で会員の維持に必死になっている会長を哀れにも思っています。

散りぎわの言葉も自分を正当化して会員を騙し続けるのだろうと推測しました。
『安心問答』拝見しています。最後の方で何方かが使われた コメントをよく確かめもせず使用したことを指摘されておられるなら管理人様の判断で 削除して頂けたら助かります。
新たに『安心問答』コメント欄で 使われていない言葉にて コメントさせて頂きます。
宜しくお願い致します。

投稿: ぼん | 2013年8月21日 (水) 15時41分

ふと思ったのですが、会員は言葉、論理で騙しているんですよね
高森会長から煩悩に目鼻つけたようなとかクソツボとか言われても、まるで仏陀か往生の絶対条件にしたがっているのは高森会長も信じもしていなくて勿論知りもしなくて、無論高森会長の後生は分からないし高森会長が後生がわかっているのかどうかも分からないのにも関わらず確かめる手段も無いのにも関わらず、地獄があるとか世界的か場所的かに有の見的な空想か妄想を振り撒いて自ら迷惑しているのではなかろうか
両方同時に行くと言った人も居ましたが騙す側に回ったら快感で戻りたくなくなるんではないでしょうか
演じた自分に酔いしれるんではないでしょうか
または誰かに勝ちたいひとははなっから利用目的でどこまでも唯物論と似かよってくる気がします

親鸞聖人が法然上人がどう言おうと、高森会長の言葉より唯心の高森で己信?の親鸞会なんじゃないでしょうか
実態は自力執心に自縄自縛となってしまっているきがします
伊藤康善先生が論理を弄ぶと恐ろしいぞ、みたいなことを残されていますが、さてはて

投稿: とりつくろい | 2013年8月21日 (水) 16時45分

「決定して深く罪福の因縁を信ずべし」(化土巻)

親鸞聖人は因果の道理を信じなさいと仰有っていますよ。
捨てものは因果の道理ではなく仏智疑惑です。

「因果を撥無する見を「空」と為す」(行巻)
「五には謗じて因果を無みし」(信巻)因果の道理を否定するのは外道であり五逆罪です。

投稿: | 2013年8月22日 (木) 12時50分

因果の道理も変に利用されているから、退会者は仏教の因果の道理と親鸞会の因果の道理の違いをなるべくはっきりさせた方がいい
高森教義に金を出すのは悪だよ
売春や麻薬売ってる奴が親鸞会教義説いたら金出して宿善とかいう馬鹿はいないだろうな
暴走族で警察や法律無視で多くの人に迷惑かけても反省どころか誇っているやつに金を出すのは善か?
そいつにごますって奉仕させるやつは善か?
訴えたやつらを逆に裁くのは善か?

誰が親鸞会の理論を振り回そうが無視した方がいい
布施を長い間お寺非難のために財施と法施と言い換えていたが財施の異常性を指摘されて布施に切り替えたし、本来布施の中に財施法施ムイセがあるんだが、親鸞会にはムイセがない

あと因果の道理は大事だけど自業自得では救われないだけだ
退会者は出来れば以下の古文を声に出して読んでほしい
阿弥陀仏の本願は因果の道理を超過している
五逆罪とかホウボウ罪とかで人を脅して言いなりにしたいやつは支配欲が強すぎる
そんな心は仏にはないぞ
因果の道理は長い間支配者の都合のいいように被支配を理屈つけて縛るために利用されていたからよくよく注意した方がいい
スマナサーラ長老は随分浄土教が嫌いなようだけれども因果の道理は本場の方だ
参考に読んでみると支配者から離れられるかもしれない
浄土と地獄へ両方へ行くというやつはアホ詭弁家なので遠ざかるように

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。この仏因仏果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきにあらず、また撥無すべきにあらず。

投稿: Vゴール | 2013年8月22日 (木) 14時16分

12:50の名無しさんへ

化巻の末にある華厳経を引かれたものですね。
化巻末は、

それもろもろの修多羅によつて、真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、

で始まっていて、親鸞聖人のお言葉はありません。
外道と内道との違いを並べただけです。

それと因果の道理を信じて浄土往生を求める心を自力の心、仏智疑惑といわれるのですが、しっかりエントリーをよみましょう。

因果の道理を否定するのと、因果の道理を信じて浄土往生を求める自力の心を捨てるとは、全く違いますが、その程度のことも理解できないのですかね。

最後の大乗の五逆罪ですが、だから何なのですか?
大乗の五逆罪を造っていることを仰ったのと、因果の道理を信じよと勧められたのとは違いますよ。

基本的に、日本語の習得不足です。

あなたはMさんですか?

投稿: 空 | 2013年8月22日 (木) 14時18分

M野さんらしい、おもしろい詭弁、断章取義ですね。

M野さんの化土巻引用の御文の後にこんなのがありますが、知ってますか?

 七つには世俗を棄ててつねに聖道を求めん。

 八つには断・常見を離れて因縁の法を信ず。

親鸞聖人は出家して聖道門を求めよと勧められたってことか?
並列で因果の道理を信じよとあるぞ。

簡単なことよ。外道に対して聖道門の教えとはどんなことかを紹介されただけの話。
それが、勧められたと歪曲するんだからね。

さよなら親鸞会での荒らしに疲れて、お引っ越しですか?
偽装退会者、偽装僧侶のブログもやめたの?

超お得意の教学力をみせてよ。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月22日 (木) 14時48分

本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞のところに向かひて菩薩と礼したてまつる。
三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまひき。
天親菩薩の『論』を註解して、報土の因果誓願に顕す。
往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。
惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。
かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。(「正信偈」)

2013年8月22日 (木) 12時50分の方、どうかきちんと「正信偈」を読んでください。そして、阿弥陀如来の本願力回向にもとづいて、浄土真宗の衆生救済における因果の道理について語ってください。

投稿: | 2013年8月22日 (木) 15時58分

迷った方へ

かつて創価学会が法華経を読まないものに、読んでいないのはホウボウ罪だとか、法華捨てて念仏するのはホウボウ罪だとか、言っていました。
諸善を捨てて、因果の道理執着を捨てて、雑行を捨てて、念仏に帰す、本願を聞く、信楽して往生す。
なんとなく似てます
どうでしょう、世の中、諸善をしている方は一杯いますよね。
今日も消防局の方が闊歩されていましたが、今も昔も格好よく見えます。素晴らしい職業です。
電車も職員の方は帰りは終電後、出勤は場合によっては始発前、大変な、また実に世の中の多くの人のために働かれています。
警察も税務署も国や地方のためにも頑張られています。

諸善したいなら世の中に出て働かれるのが手っ取り早い。
聖道門でも素晴らしいですよね。


高森会の勧める諸善は次には善知識論ですが、ネット対策や法論を見聞きしていますと詭弁やら論点ずらしや煽りやら脅しやら、下品です。
講師部員も高森会長からして善知識ではありませんね。

投稿: Vゴール | 2013年8月22日 (木) 22時52分

私のイニシャルはMではありませんが…
化土巻末には「内外廃立が勧められている」でしょ。
いろいろ書いてみるが結局因果の道理を信じないってことですね?
仏教じゃないってことですよ。

投稿: | 2013年8月23日 (金) 06時59分

でしょ、なら聖道門いけばいいじゃないか。
簡単な話だ。
今すぐ悟りの修行をするべきでしょうな。

それでも因果の道理ならバ会長の長男の不倫と豊田商事の永野親鸞会会員刺殺を説明して見せろ。
消えた数十億単位の金の行方もな。

餓死した母娘会員、自殺した学生会員、溺死した金大生会員、医者の負債負担契約書、退会時1000万円払えの契約書

これらが分からず書いているなら、智恵も慈悲もなく因果の道理を振り回す支配者気質の人間だからどこかへ行ってください。

創価学会や幸福の科学へ行かれれば多くの人が相手してくれるでしょう。

それでも飛雲さんを非難したいなら親鸞会と同類のカルト人間だわ。

人の悲しみや辛さがわからない、どうでもいい人間はなかなかいるものだ。

投稿: | 2013年8月23日 (金) 10時47分

イニシャルはMではないと否定するM野さんへ

>化土巻末には「内外廃立が勧められている」でしょ。
>いろいろ書いてみるが結局因果の道理を信じないってことですね?
>仏教じゃないってことですよ。

この言いまわし、ブログでよく使われてますね。
それで、化土巻末に

 七つには世俗を棄ててつねに聖道を求めん。
 八つには断・常見を離れて因縁の法を信ず。

とあるのは理解できたかね?

早く出家して聖道門に入ったら?

そうでなければ、外道を廃したことにならんのでしょ。

ちなみに、世間の因果を信じている人は、仏教を信じていなくても一杯いますね。
高森派のお粗末なのは、世間の因果を一生懸命話をして、それが報土の因果と同じであると考えているところ。

本当に頭が悪いんだよね。

盗作、万引きなどへっちゃらのカルト集団の構成員が、因果の道理を語ること自体、お笑いですけど。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月23日 (金) 11時50分

2013年8月23日 (金) 06時59分の方、「内外廃立が勧められている」とおっしゃいますが、親鸞聖人のお示しは、

外道の人→仏道に入り、他力念仏に帰しなさい
聖道門の人→浄土門に入り、他力念仏に帰しなさい
自力に迷う人→自力を捨て、他力念仏に帰しなさい
浄土真宗のお同行→阿弥陀如来の本願を信じ、ともにお念仏申しましょう

ということでしょ。

一方高森会は、

因果の道理→自力が廃るまで廃悪修善

ですから、もうこれは浄土真宗じゃないんですよ。

そもそも高森会の言う「因果の道理」がおかしい。
何故おかしいか。
よりどころなるべき阿弥陀如来の本願を説かないからです。

2013年8月22日 (木) 12時50分と同じ方だと思いますが、「因果の道理→自力が廃るまで廃悪修善」という考え方そのものが「仏智疑惑」だとわきまえなさい。そしてもう一度ちゃんと「正信偈」を読んでください。

投稿: | 2013年8月23日 (金) 12時43分

因果の道理を振り回す人へ

広島と長崎で原爆で死んだ人たちを因果の道理で説明してなおかつ証拠と証明をして見せろ

投稿: | 2013年8月23日 (金) 13時08分

親鸞会擁護の、教義的コメントを暫く待っていました。こんな感じのコメントになることは、概ね予想通りです。

因果の道理は、善の勧めの中でも、本当の最後の砦です。

簡単に砦を明け渡すとは思っていませんが、攻撃に転じることもできないでしょう。

じわじわと攻め続けて、退会者の皆さんで陥落させましょう。

投稿: 飛雲 | 2013年8月23日 (金) 20時01分

七には世俗をすてて常に聖道をもとむ。

参考までに教行信証講義の解説を紹介します。

七つには、心の行くべき真実の一道が見える為に、人間天上の世俗事に執着せず、常に仏道を求めてやまぬようになる。

外道を捨てて仏道を求めよ、です。

この一文だけをもって内外廃立を否定するのはどうかと思います。
三には三宝を帰敬して天神を信ぜず。
真宗の人は天神を信じてもよいという主張でしょうか?

投稿: | 2013年8月23日 (金) 21時32分

>この一文だけをもって内外廃立を否定するのはどうかと思います。

はあ?
ニホンゴワカリマスカ?

誰が内外廃立を否定したの?

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月23日 (金) 21時42分

2013年8月23日 (金) 12時43分の名無しさんのコメントを読めよ。


2013年8月23日 (金) 06時59分の方、「内外廃立が勧められている」とおっしゃいますが、親鸞聖人のお示しは、

外道の人→仏道に入り、他力念仏に帰しなさい
聖道門の人→浄土門に入り、他力念仏に帰しなさい
自力に迷う人→自力を捨て、他力念仏に帰しなさい
浄土真宗のお同行→阿弥陀如来の本願を信じ、ともにお念仏申しましょう

ということでしょ。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月23日 (金) 21時49分

2013年8月23日 (金) 21時32分の方、

>この一文だけをもって内外廃立を否定するのはどうかと思います。

>真宗の人は天神を信じてもよいという主張でしょうか?

エントリー・コメントを丁寧に振り返ってください。このような主張をした人はおられなかったはずです。

相手の主張を自分に都合よく捻じ曲げあるいは捏造し、議論を有利に進めて自分の主張を押し通すことを「ストローマン(藁人形論法)」といいます。大変卑怯な手口です。ニ度と使わないで欲しいものですね。

……それでね、「浄土真宗」のお話をしているんですよ。繰り返しますが、せめて「正信偈」だけでもきちんと読んでください。あるいは「領解文」でもよろしいでしょう。そして本願力回向によくよく思いをいたして、そのうえで因果の道理について語ってください。

**********

飛雲さんへ

私は退会者ではありませんが、思うところあってコメントしています。
あしからずご了承ください。

投稿: | 2013年8月24日 (土) 01時03分

最後にコメントされた方へ

私の先のコメントが不適切でした。もちろん退会者でなくても、親鸞会の間違いを指摘される方は大歓迎です。

投稿: 飛雲 | 2013年8月24日 (土) 05時54分

これまでの議論をまとめるとこうなります。

1.因果の道理を深信することおよび浅信することは、行福であり、雑行である。

2.因果の道理を深信する人および浅信する人は、闡提ではなく、極重の悪人でもないので、全人類が闡提および極重の悪人という高森会長の説は間違い。

3.親鸞聖人は、因果の道理を往生と関連付けて考えることを自力の心および仏智不思議を疑う心と仰っているので、因果の道理を往生と関連付けて考えることは捨てなければならない。

4.化土巻末に経釈の御文があるが、その御文を紹介された親鸞聖人の目的は、内外廃立である、つまり外道を信じている人に対する御文である。


以上ですが、もし異論があれば仰ってください。

投稿: 飛雲 | 2013年8月24日 (土) 06時07分

>それとも信前は「因果の道理を深信する親鸞学徒」で、信後は「因果の道理を撥無する親鸞学徒」という苦しい言い訳でもいうのでしょうかね。それなら「信前信後を問わず」も嘘になります。

これも藁人形論法ですかね。
それはともかく、名前だけ浄土真宗の同行といっても、占相を好み、神を信じ、吉凶を執じ、あるいは罪福の因縁も信じていない人は、他力念仏に帰することはできないでしょうね。

投稿: | 2013年8月24日 (土) 19時59分

上記の4つの項目については、同意いただけたと言うことですね。

話題を逸らしたいのは判りますが、私は藁人形論法は嫌いなので。

投稿: 飛雲 | 2013年8月24日 (土) 20時09分

2013年8月24日 (土) 19時59分の方へ

>これも藁人形論法ですかね。

違いますよ。何故ならば、

親鸞会の主張=一切衆生必堕無間=一切衆生は断善根の一闡提

ですから、この論理で言えば、当然誰しもが「因果の道理を撥無する」べき存在なんです。それなのに

親鸞会の主張=「信前信後を問わず、因果の道理を深信する親鸞学徒は、光に向かって日々、努力精進するのは当然であろう。」

なんて矛盾してるでしょ。飛雲さんはそのことをおっしゃられているのです。よろしいか。

藁人形論法というのはね、貴殿の「名前だけ浄土真宗の同行」なんていう言い回しのことを指すのです。ここでは誰も「名前だけの~」なんて言い方はしていなかったでしょう?

まぁ仮にいたとしてね、「占相を好み、神を信じ、吉凶を執じ」はそもそも仏教ではないので論外として、説くべきは阿弥陀如来のご本願、勧めるべきは他力念仏なんですよ。「罪福の因縁」は信じなくてよろしい。「自分はこんな罪深い人間だからお浄土には往けん」とか「自分はこんなにも功徳を積んだのだからきっとお浄土に行ける」などという思いは「仏智疑惑」です。これが「捨てもの」だということは貴殿も理解されているでしょう。

「まず「罪福の因縁」を信じて自力の功徳・自力の念仏に励め。それが全人類が救われる唯一の道だ。そして自力が廃るまで廃悪修善せよ。」などという主張はご当流にはありません。

投稿: | 2013年8月24日 (土) 20時37分

1同意します。
2全人類は極重の悪人です。
3罪福を信ずる心をもって本願力を願求する心は自力の心であるから捨てなければならない。
4化土巻の御文は外道の人(たとえば罪福の因縁を信じていない人)を対象に仰有った。

ついでに
「まず「罪福の因縁」を信じて自力の功徳・自力の念仏に励め。それが全人類が救われる唯一の道だ。そして自力が廃るまで廃悪修善せよ。」などという主張は親鸞会にはないと思います。

投稿: | 2013年8月24日 (土) 23時24分

>2全人類は極重の悪人です。

相変わらず無駄な抵抗をするんだね。

会員は因果の道理を信じているんだろ?
じゃあ、行福をしているってことだよ。

『散善義』

三福ともに行ぜざるものをすなはち十悪・邪見・闡提の人と名づく。

因果を深信もしくは浅信していれば、「十悪・邪見・闡提の人」ではないの。

ニホンゴワカリマスカ?

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月25日 (日) 01時47分

2013年8月24日 (土) 23時24分の方、

>「まず「罪福の因縁」を信じて自力の功徳・自力の念仏に励め。それが全人類が救われる唯一の道だ。そして自力が廃るまで廃悪修善せよ。」などという主張は親鸞会にはないと思います。

いいえ、あるでしょ。例えば、

「雑行を捨てよ」弥陀の遠大なご計画
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20110915midanogokeikaku.htm)

弥陀の方便なくして真実へは入れぬ
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20110315mida-houben-shinjitsu.htm)

三願転入は弥陀のお計らい
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20100601midanoohakarai.htm)

弥陀の19の願意
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20090728midano.htm)

等に書かれています。ちゃんと読んでくださいね。

それでも「ない」とおっしゃるのなら、親鸞会の教えってじゃあどんなものなのか、簡単にお示し頂ければよろしいと思います。

投稿: | 2013年8月25日 (日) 02時39分

一つ前の投稿、リンクがおかしくなっちゃってるようですみません。

投稿: | 2013年8月25日 (日) 02時52分

1.「因果の道理を深信する親鸞学徒」=行福のできる善人
2.「因果の道理を撥無する親鸞学徒」=極重の悪人

1と2が同じとかいうお目出度い頭をなんとかしたら?

投稿: M野さんへ | 2013年8月25日 (日) 06時46分

1自力の心で、因果の道理を信ずることは、雑行である。
に訂正します。

○外道の人(たとえば占相を好み、神を信じ、吉凶を執じ、罪福の因縁を信じない人)は仏教でないので論外。

○親鸞会の教えについては、18願の救いにあうには名号を聞く一つ。これが全人類の救われる唯一の道である。諸善は獲信の善因縁。自力がすたるまで他力を聞き求めよ。
と理解しています。
○因果の道理を深信する親鸞学徒
深信因果の言葉は同じでも、ここでは行福ができることを差すのではありません。

投稿: | 2013年8月25日 (日) 18時03分

では

>○因果の道理を深信する親鸞学徒
>深信因果の言葉は同じでも、ここでは行福ができることを差すのではありません。

とはどういうことか説明してください。
深信は嘘ということで、実際は、

因果の道理を撥無する親鸞学徒

が正しい、ということですね、M野さん。

投稿: | 2013年8月25日 (日) 19時54分

>諸善は獲信の善因縁。

なんてデタラメを信じているのですね。
そんなデタラメは、既に論破され、全く反論できていないのが現実です。

なぜなら、その根拠が全くないからです。

投稿: | 2013年8月25日 (日) 19時55分

>1自力の心で、因果の道理を信ずることは、雑行である。

ということは、親鸞会の説明「信前はみな自力」なので、信前に因果の道理を信じることはみな雑行ですね。

結局

1.因果の道理を深信することおよび浅信することは、行福であり、雑行である。

これと同じですよ。くだらない抵抗。

>諸善は獲信の善因縁。自力がすたるまで他力を聞き求めよ。

これは30年前に紅楳英顕氏からこの根拠を求められて高森会長が答えられなかったのですが、代わりに根拠を挙げて答えてもらえますか?

>○因果の道理を深信する親鸞学徒
>深信因果の言葉は同じでも、ここでは行福ができることを差すのではありません。

観経疏によれば、因果の道理を深信することと、因果の道理を信じたり信じなかったりすることも行福になっています。

ということは、親鸞会で言う「因果の道理を深信する」は、因果の道理を信じたり信じなかったりするのでもない、
つまり因果の道理を全く信じていない状況を意味する、でいいですか。

でもこれって、完全な詐欺ですけど。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月25日 (日) 20時11分

2013年8月25日 (日) 18時03分の方、

>○外道の人(たとえば占相を好み、神を信じ、吉凶を執じ、罪福の因縁を信じない人)は仏教でないので論外。

これは一部おかしいですよ。真実信心を獲た他力念仏の行者は、仏教徒であり且つ「罪福の因縁を信じない人」ですから。このエントリーで飛雲さんがご和讃を挙げて示されているように、「罪福の因縁」ではなく「阿弥陀如来のご本願」を信じるのが浄土真宗です。
それとも貴殿は「真実信心を獲た他力念仏の行者もまた罪福の因縁を信じている」とおっしゃるのでしょうか?
この点、2013年8月24日 (土) 19時59分にも

>それはともかく、名前だけ浄土真宗の同行といっても、占相を好み、神を信じ、吉凶を執じ、あるいは罪福の因縁も信じていない人は、他力念仏に帰することはできないでしょうね。

とおっしゃっておられましたが、これは「占相を好まず、神を信じず、吉凶を執ぜずして、罪福の因縁を信じなければ、他力念仏に帰することはできない」ということですよね。本当にそうですか?


>○親鸞会の教えについては、18願の救いにあうには名号を聞く一つ。これが全人類の救われる唯一の道である。諸善は獲信の善因縁。自力がすたるまで他力を聞き求めよ。
と理解しています。

「諸善は獲信の善因縁」というのは、結局親鸞会は会員の信未信問わずに諸善万行を勧めているということでしょうか?「自力がすたるまで他力を聞き求め」ているような人、つまり未信の人が諸善を行ずれば、即ちそれは「雑行」であり、「まず「罪福の因縁」を信じて自力の功徳・自力の念仏に励め。それが全人類が救われる唯一の道だ。そして自力が廃るまで廃悪修善せよ。」と主張するのと何ら変わりないと思いますが。
「18願の救いにあうには名号を聞く一つ」ならね、私も言っているように、最初から阿弥陀如来のご本願を説き、最初から他力念仏を勧めるべきなのでは?

投稿: | 2013年8月25日 (日) 20時29分

真実信心を獲た他力念仏の行者も因果の道理を信じています。
念の為言っておきますが、自力の心を捨てることと、因果の道理を捨てることは違います。
信後の人が因果の道理を信じていても雑行とは言われません。
化土巻に「決定して深く罪福の因縁を信ずべし」とありますから、因果の道理を信じていない仏教徒はありません。
それから、「まず「罪福の因縁」を信じて自力の功徳・自力の念仏に励め。それが全人類が救われる唯一の道だ。そして自力が廃るまで廃悪修善せよ。」
これでは阿弥陀仏の本願が抜けていますよね?それから自力が間に合うという主張です。
勿論最初から阿弥陀仏の本願を説くべきです。(内外廃立ができていれば)
だから「仏法は聴聞に極まる」です。
ですが、いたずらにすぐる月日の多く、聴聞のご縁が中々ない私達に、聞法のご縁のないときにはお勤めや諸善が勧められているのです。
なお、諸善も獲信の因縁になることは、親鸞会が根拠を出すまでもなく、紅楳英顕氏が伝道院紀要に書いています。

投稿: | 2013年8月25日 (日) 22時52分

2013年8月25日 (日) 22時52分の方、

>真実信心を獲た他力念仏の行者も因果の道理を信じています。
念の為言っておきますが、自力の心を捨てることと、因果の道理を捨てることは違います。
信後の人が因果の道理を信じていても雑行とは言われません。
化土巻に「決定して深く罪福の因縁を信ずべし」とありますから、因果の道理を信じていない仏教徒はありません。

貴殿は「「罪福の因縁」を信じること」と「「(親鸞会的)因果の道理」を信じること」を故意にすり替えていますよね。それで貴殿の主張だと、真実信心を獲た他力念仏の行者が「自分はこんな罪深い人間だからお浄土には往けん」とか「自分はこんなにも功徳を積んだのだからきっとお浄土に往ける」などと信じてることになるんですが?「罪福の因縁」というものがどのようなものか、ちゃんと理解されていますか??また、2013年8月25日 (日) 18時03分の

>○因果の道理を深信する親鸞学徒
深信因果の言葉は同じでも、ここでは行福ができることを差すのではありません。

についても他の方が質問されていますがお答えにならないのですね。これ、私もよく意味が分かりません。お答え願えますか?これ、どうも私には「「約束する」とは言ったが「約束を守る」とは言っていない」という類の詭弁にしか聞こえないのです…。

繰り返します。阿弥陀如来の本願力回向にもとづいてちゃんとした因果の道理について語ってください。

>ですが、いたずらにすぐる月日の多く、聴聞のご縁が中々ない私達に、聞法のご縁のないときにはお勤めや諸善が勧められているのです。

結局親鸞会は信未信を問わず会員に諸善万行を勧めているということですよね。「自力が間に合う」と言っているのと同じじゃないですか。そしてそんな風に諸善万行とお勤めを一緒くたにしなさんなよ。「読経意趣」でグーグル検索してごらん。貴殿ならびに親鸞会の主張が詭弁だということがよくわかると思いますよ。そして何故「お念仏」を勧めない!?それともなんかのパクリ元から故意に「お念仏」を削除しているの??

>なお、諸善も獲信の因縁になることは、親鸞会が根拠を出すまでもなく、紅楳英顕氏が伝道院紀要に書いています。

これは初耳です。よろしければ当該号数と論文名、ならびに原文をお示しください。

P.S. コメントのやり取りが増えてまいりました。発言者をわかりやすくするために、次回からお互いハンドルネームを使いませんか?

投稿: | 2013年8月25日 (日) 23時56分

>真実信心を獲た他力念仏の行者も因果の道理を信じています。
>念の為言っておきますが、自力の心を捨てることと、因果の道理を捨てることは違います。
>信後の人が因果の道理を信じていても雑行とは言われません。

相変わらず、同じ詭弁しか言えない愚かさ。

行福とは、「回して浄土に生ず」、つまり、往生の為に行う善。
行福の深信因果は、往生の為に因果の道理を信じること。
親鸞会の因果の道理は、これであり、雑行そのもの。
当然、信前にしかあり得ないもの。

しかし、往生とは無関係に因果の道理を信じていることは、信前信後を問わず、行福でも雑行でもないが、
これは親鸞会の説く因果の道理とは違う。


もう一度言おうか。

往生と関連付けて因果の道理を信じることを、行福といい雑行という。
信後の人が信じていない。
往生と関連付けないで因果の道理を信じることは、単なる世間の因果の道理で、
仏教を信じていなくても信じている人はいるし、信後の人も信じている。


おわかり?

それで、都合の悪い私のコメントを再掲

>○因果の道理を深信する親鸞学徒
>深信因果の言葉は同じでも、ここでは行福ができることを差すのではありません。

観経疏によれば、因果の道理を深信することと、因果の道理を信じたり信じなかったりすることも行福になっています。

ということは、親鸞会で言う「因果の道理を深信する」は、因果の道理を信じたり信じなかったりするのでもない、
つまり因果の道理を全く信じていない状況を意味する、でいいですか。

でもこれって、完全な詐欺ですけど。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月26日 (月) 02時01分

>諸善は獲信の善因縁。自力がすたるまで他力を聞き求めよ。

これの根拠はない、で決着ですね、つまり完全なデタラメ。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月26日 (月) 02時05分

2013年8月24日 (土) 23時24分のコメントで
「罪福を信ずる心をもって本願力を願求する心は自力の心である」と書いています。

そして2013年8月25日 (日) 18時03分のコメントで

「自力の心で、因果の道理を信ずることは、雑行である。」と書いています。

ここの「自力の心」に、2013年8月24日 (土) 23時24分のコメントをあてはめると

「罪福を信ずる心をもって本願力を願求する心で、因果の道理を信ずることは、雑行である。」になります。

解かりやすく言えば、因果の道理を信じて本願に救われようとするのが、雑行ということです。

親鸞会は、この雑行を勧めている訳ですよ。

しかも、因果の道理を深信していると断言したので、因果の道理を撥無しているのとは相反する訳です。

また、2013年8月25日 (日) 22時52分のコメントで

「聞法のご縁のないときにはお勤めや諸善が勧められているのです。」とか言ってますが、誰がどこにそのようなことを言っているのか明示してもらえますか?
根拠がなかれば、高森会長の妄想で終わりですよ。

投稿: M野さんへ | 2013年8月26日 (月) 11時28分

○罪福の因縁を信じる、について不適切な表現があったようですね。失礼しました。
○真実信心を獲た他力念仏の行者が「自分はこんな罪深い人間だからお浄土には往けん」とか「自分はこんなにも功徳を積んだのだからきっとお浄土に往ける」などと信じることは、因果の道理と往生を関係づける心ですから、ありません。
○因果の道理を深信する親鸞学徒
仏眼から見れば因果を撥無する衆生でも、人間の眼からみれば、因果の道理を深く信じている人もいればいない人もいるということです。

○>結局親鸞会は信未信を問わず会員に諸善万行を勧めているということですよね。「自力が間に合う」と言っているのと同じじゃないですか。
自力は間に合わぬと説いた上で、間に合わぬ諸善を勧めているのです。

○伝道院紀要24号
宿善の語義については、大原性実氏によれば「抑々宿善とは宿世の善根という意味で、宿世に於て修習する善根、又は宿世に於ける値仏聞法の善根を指すもので宿福とも宿因とも宿縁とも名づける。故にその物体は一往は万行諸善及自力念仏であるが、再往を云えば、我々が今日弥陀法に遇い之を信受奉行することを得し因縁となりしことは悉く宿善と称すべく、獲信の一大事は正しくこの宿善の開発せる為である[2]」とあり、又『新・仏教辞典』(中村元監修)には「前世・過去世につくった善根功徳をいう。
また、人の一代に限って、今まで作った善根を指すこともある。真宗では宿善開発といい、今まで修めて来た善根がある時期にひらめきあらわれることによって、信心が得られると説く」等とあるように、真宗における宿善とは獲信のための因縁となる善根を意味するのである。
○確認したいのですが
1内外廃立しなければ、聖浄廃立、真仮廃立はできない。
2親鸞聖人は外道の人に罪福の因縁を信じることを勧めていられる。つまり、信前の人で、罪福の因縁を信じていない人は、内外廃立ができているとは言えない。
3内外廃立、聖浄廃立のできている人には、初めから阿弥陀仏の本願を説き、早く他力念仏称える身になるよう勧めるべきである。
何か異論があれば仰有ってください。


投稿: デーブ | 2013年8月26日 (月) 19時19分

またまたおもしろい詭弁。

>○真実信心を獲た他力念仏の行者が「自分はこんな罪深い人間だからお浄土には往けん」とか「自分はこんなにも功徳を積んだのだからきっとお浄土に往ける」などと信じることは、因果の道理と往生を関係づける心ですから、ありません。

因果の道理と往生とを関連付ける心を自力の心という。

よって、自力の心を捨てよとは、因果の道理と往生とは無関係と思いなさい、ということですね。

結論は、高森会長の言う因果の道理の説明は往生と関連付けているから、高森会長の説明は不適切、ということで決着です。


>○因果の道理を深信する親鸞学徒
>仏眼から見れば因果を撥無する衆生でも、人間の眼からみれば、因果の道理を深く信じている人もいればいない人もいるということです。

では、仏眼から見て因果の道理を深信あるいは浅信している人は誰もいないということですか?
智覚禅師は上品上生の往生を遂げられたと、法然上人も親鸞聖人も認めておられますが、智覚禅師も仏眼から見れば、因果を撥無する者だということですか?


>○>結局親鸞会は信未信を問わず会員に諸善万行を勧めているということですよね。「自力が間に合う」と言っているのと同じじゃないですか。
>自力は間に合わぬと説いた上で、間に合わぬ諸善を勧めているのです。

間に合わぬから、捨てよと教えてれているのですがね。
結局、その根拠はなしということで、決着。

>○伝道院紀要24号

いつもの断章取義ですね。
紅楳英顕著『派外からの異説について』

 私が論文に引用したように、大原性実師も「我々が今日弥陀法に遇い之を信
受奉行することを得し因縁となりしことを悉く宿善と称すべく……」と述べて
おられ、また『新・仏教辞典』(中村元監修)も「前世・過去世につくった善根功
徳をいう、また、人の一代に限って、今まで作った善根を指すこともある」と
出している。これらは、現在から過去を振り返っているのであって、これから
獲信のために修することを宿善といっているのではない。
 ところが、高森親鸞会は、大原師や『新・仏教辞典』の所説を、これから獲
信のために修する善のことであるかのように解釈して、「破邪顕正や財施が諸
善万行にはいるか、はいらないか」と質問してきている。私は、それらが諸善
万行にはいるかどうかは問題にしていないのであり、これから獲信のための宿
善として「破邪顕正や財施をせよ」というようなことは、宗祖聖人や蓮如上人
の上にはないと論じているのである。だから、私の意見に反論するのなら、宗
祖聖人や蓮如上人の上で、その文証を出してほしいと求めたわけである。
 その上、同会は、私に対する四項目の質問に対して「何百日以上も経過する
のに未だ返答がない」と盛んに宣伝しているが、私が返答を出してあることは、
すでに述べた通りである。同会の質問に対して、逆に私の方から「破邪顕正や
財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示してもら
いたいと求めたのが、一昨年(昭和五十五年)の六月二十一日(57頁)であるから、
もう八百日以上が経過していることになるが、これについては何の返答もない
ままである。

大原氏、中村氏の説について

これらは、現在から過去を振り返っているのであって、これから獲信のために修することを宿善といっているのではない。

とありますよ。

それと最後の部分をもう一度。

逆に私の方から「破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示してもらいたいと求めたのが、一昨年(昭和五十五年)の六月二十一日(57頁)であるから、もう八百日以上が経過していることになるが、これについては何の返答もないままである。

高森会長は、何も返答せずに、30年が経過しているぞ。
さらには、『本願寺なぜ答えぬ』に、この論文を全文載せると宣言しながら別の論文を載せたのは、まさにデーブさんと同じ詭弁。

子弟共に、同レベル。

墓穴を掘ったね。

>○確認したいのですが
>1内外廃立しなければ、聖浄廃立、真仮廃立はできない。

これはその通り。

>2親鸞聖人は外道の人に罪福の因縁を信じることを勧めていられる。つまり、信前の人で、罪福の因縁を信じていない人は、内外廃立ができているとは言えない。

これは間違い。親鸞聖人は、外道の人に罪福の因縁を信じるように勧められてはいない。釈尊が外道の人に説かれたものを紹介されたに過ぎない。外道の人全員一律に罪福の因果を信じるように勧められた訳ではない。なぜなら、罪福の因果を信じることができるのは、善人だけだから。罪福の因果を信じられないような悪人もいるのですがね。

>3内外廃立、聖浄廃立のできている人には、初めから阿弥陀仏の本願を説き、早く他力念仏称える身になるよう勧めるべきである。

その通りです。
勘違いしているようですが、罪福の因縁を信じる過程を通って阿弥陀仏の本願をようやく説かれると思っているところが、完全に善人正機の考え方。

少し説明してあげましょう。

下輩の悪人とはどんなものか、観経疏に、

仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

と定義されてますよ。高森会長の好きな「あることなし」です。過去世においても善をしてこなかった悪人が、念仏を称えただけで往生できる、と善導大師が教えられたのですがね。
「仏法・世俗の二種の善根あることなし」でどうやって聖道門を通ってきたというのですか?
仏教を信じ、浄土門を信じる過程はあっても、聖道門を通る必然性はないわけですが。こんな簡単な論理もわからんとはね。

やはりみじめやな、高森派

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月26日 (月) 20時14分

『法然上人絵伝』に九品往生人の名が、根拠入りで記されています。

上品上生  智覚禅師(新修往生伝)
上品中生  尼善慧(戒珠集)
上品下生  侍従所監藤原忠季(後捨遺往生伝)
中品上生  大原沙彌(戒珠集)
中品中生  少将義孝(保胤往生伝有夢告)
中品下生  沙門智縁(戒珠伝)
下品上正  釈法敬(戒珠伝)
下品中生  覚真阿闍梨(続本朝往生伝)
下品下生  釈慧進(新修往生伝)

親鸞会では、これらは嘘っぱちで、本当は下品下生の人しかいないと言うんだけど、おかしいですよね。
仏の眼からご覧になられると、皆下品下生とか、因果を撥無しているとか、どこに根拠があるのか教えて、デーブ さん。

投稿: 嘘付き会員 | 2013年8月26日 (月) 20時46分

1.仏教と外道どちらを選びますか?

  仏教

2.では聖道門と浄土門とどちらを選びますか?

  浄土門

3.最後に真と仮とどちらを選びますか?

  真

順調にいけば、聖道門も仮の浄土門に迷うこともありませんが。
親鸞会は、2で聖道門をまず選ばせ、3で仮を選ばせてから、真を説くという遠回りをさせていることがよくわかりました。

投稿: M野さんへ | 2013年8月26日 (月) 21時01分

二種深信の説明で、深信とは疑いなくハッキリ知らされたことと、ハッキリ言っているのに、因果の道理を深信するのは、いい加減なんですね。

ここに親鸞会のデタラメがみてとれます。

因果の道理を深信するのが、仏眼からみると撥無なら、二種深信も仏眼からみると分からないことになるんじゃないのかな。

その場しのぎの適当コメントはやめましょう。

投稿: 深信とは? | 2013年8月26日 (月) 21時15分

デーブさん、改めましてよろしくお願いします。さて、

>自力は間に合わぬと説いた上で、間に合わぬ諸善を勧めているのです。

ではそこに至るお聖教上の論拠を示すことが出来ますか。宗祖は「自力は間に合わぬと説いた上で、間に合わぬ諸善を勧めて」おられるのでしょうか。もし論拠を示すことが出来なければ、デーブさんのおっしゃることは浄土真宗のみ教えではないということになりますよ。そして、またしても「お念仏」を勧めることについてはノーコメントなのですね……。

他の問題点については、すでに他の方が指摘されるところですのでそちらに譲ります。

そして一つ訂正です。前のコメントで「これは初耳です。」などと書きましたが、これは故意の嘘でした。
親鸞会(の方)が断章取義を用いるということをはっきりさせる、つまり「墓穴を掘」らせるため、私自身が仕掛けた卑劣な罠なのでした。重ねてお詫び申し上げます。

----------

ここで「(親鸞会的)因果の道理」の問題点を挙げておきます。親鸞会では

幸福も不幸も、自分の運命のすべては、自分の行為が生み出したものであり、絶対に、それに例外を認めないのが仏教です。他人のまいた因が、自分に果として現れるという「他因自果」ということもなければ、自分のまいた因が、他人に果として現れるという「自因他果」も、絶対にないと教えるのが仏教の自因自果の教えです。
http://takamorikentetsu.com/nazenaze/inngashinnrann/

と説かれていますが、これでは浄土真宗の本願力回向の説明がつきません。

本願力回向というのは、阿弥陀仏の側からすれば「自因他果」であり、衆生の側からすれば「他因自果」であって、要するに親鸞会の言う「因果の道理」は誤りなのです。

投稿: 薄縹 | 2013年8月26日 (月) 21時15分

○自力は間に合わぬ
一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、しん憎の心常によく法財を焼く。急作・急修して頭燃をはらうが如くすれども、衆て「雑毒・雑修な善」と名け、また「虚仮・てん偽の行」と名く。「真実の業」と名けざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって無量光明土に生ぜんと欲す、これ必ず不可なり。
善の勧め
19願では、十方衆生に諸善をすすめられています。
お念仏については、方便の20願には自力念仏の勧めがあり、真実の18願には他力念仏が勧められている、と理解しています。
○確かに紅楳英顕氏は現在から過去を振り返っているのであって、これから獲信のために修することを宿善といっているのではありませんね。その点断章取義と言われても仕方ありません。
真宗における宿善とは獲信のための因縁となる善根を意味するのである。と書いていますから、少なくとも宿善と過去世の善根を切り離す考えはなかったと思います。
○(親鸞会的)因果の道理で本願力回向を説明できるのなら、不可称不可説不可思議でありません。
(親鸞会的)因果の道理で説明できないから、難思とか不可称不可説不可思議と言われるのです。
本願力回向は(親鸞会的)因果の道理を超えていると言うことです。
また、浄土真宗では本願力回向のことを「他因自果である」という表現はしないと思います。
○占相を離れ、正見を修習し、決定して深く罪福の因縁を信ずべし
とあるのに、占相を離れはすべての人にすすめられ、罪福の因縁は善人にだけすすめられているというのはおかしいでしょう。
内道を信じよの内は因果の道理の内側ということですから、信前の人が罪福の因縁を信ぜずして、内外廃立ができたことにはならないと思います。
それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。
親鸞聖人は20願を通って18願に出よとすすめておられます。
この諸智において疑惑して信ぜず、然るになお罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。この諸の衆生は彼の宮殿に生ず。
とありますから、罪福を信ぜずしては20願には入れません。

投稿: デーブ | 2013年8月27日 (火) 21時26分

少しは変わった詭弁を考えてきたものだね。


>善の勧め
>19願では、十方衆生に諸善をすすめられています。

この件は、このブログでも100回以上取り上げられ、mixiでも法論となった内容です。
結論は、

・親鸞聖人は19願を勧められた御言葉は1つもない。
・19願の「十方衆生」の意味は、「定散諸機」、つまり善人と親鸞聖人が仰り、大経の異訳本でも、「菩薩道を行く者」とされている。その他の根拠多数あり。

>○確かに紅楳英顕氏は現在から過去を振り返っているのであって、これから獲信のために修することを宿善といっているのではありませんね。その点断章取義と言われても仕方ありません。

それだけ解かれば結構。
そして、紅楳英顕氏の質問には、33年経っても未だに答えることができないことも納得したので、決着。

>○(親鸞会的)因果の道理で本願力回向を説明できるのなら、不可称不可説不可思議でありません。
>(親鸞会的)因果の道理で説明できないから、難思とか不可称不可説不可思議と言われるのです。

高森会長は、(親鸞会的)因果の道理で本願力回向を説明してますが。だから間違いだと言っているのが理解できないのですか?

>○占相を離れ、正見を修習し、決定して深く罪福の因縁を信ずべし
>とあるのに、占相を離れはすべての人にすすめられ、罪福の因縁は善人にだけすすめられているというのはおかしいでしょう。
>内道を信じよの内は因果の道理の内側ということですから、信前の人が罪福の因縁を信ぜずして、内外廃立ができたことにはならないと思います。

同じことの繰り返し。
「七つには世俗を棄ててつねに聖道を求めん。
 八つには断・常見を離れて因縁の法を信ず。」
は、親鸞聖人は出家して聖道門を求めよと勧められたってことなんですね。
じゃあ、早く出家しなさいよp。出家せずして内道を信じたことにならないのでしょ。

観経疏は都合が悪いから無視ね。親鸞聖人は、化土巻本で、

しかれば四種の所説は信用にたらず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。

と仰って浄土三部経は仏説だけども、他はそうとは限らないとされた上での浄土三部経以外の経典の引用。日本人ならその意味もわかるでしょ。

>親鸞聖人は20願を通って18願に出よとすすめておられます。

そう、20願については勧められたお言葉は確かに存在する。
しかし、聖道門・19願を勧められた御言葉は皆無。

それと、20願を勧められた箇所もここだけで、この前は19願の説明となっていて、19願の行者に対して20願を願うように仰ったのは明らか。
その証拠に、

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

とある。「大小聖人、一切善人」ね。悪人は含まれてないよ。悪人は罪福信じる心がないから。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月27日 (火) 22時24分

前回の私のコメントも含めての決着事項

1、高森会長の言う因果の道理の説明は往生と関連付けているから、高森会長の説明は不適切、ということで決着。

2.智覚禅師は上品上生の往生を遂げられたと、法然上人も親鸞聖人も認めておられますが、智覚禅師も仏眼から見れば、因果を撥無する者だということにはならない。つまり、仏眼から見ても、因果の道理を深信する衆生は存在する、で決着。

3.諸善は間に合わぬから、捨てよと教えてれているだけで、諸善を勧められた親鸞聖人のお言葉は皆無、で決着。

4.昭和55年に紅楳英顕氏が質問したことに対して、高森会長は未だに答えていない、で決着。

5.観経疏にある「仏法・世俗の二種の善根あることなし。」の悪人の定義から、聖道門も19願も通らずに、念仏だけで往生を遂げることができる、で決着。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月27日 (火) 22時35分

>お念仏については、方便の20願には自力念仏の勧めがあり、真実の18願には他力念仏が勧められている、と理解しています。

いえそうではなくて……私は浄土真宗のみ教えを伝えるにあたって勧めるべきは他力念仏であると言っているだけなのです。その他力念仏の勧めに諸善万行で「蓋」をして、如来の救済活動――の「名号」が衆生に至り届き、それによって衆生は真実信心をめぐまれ、口称の「念仏」になるのです――を邪魔してどうなるのですか、と問うておるんですよ。


>また、浄土真宗では本願力回向のことを「他因自果である」という表現はしないと思います。

「(親鸞会的)因果の道理」の問題点を指摘するため、あえてこの表現を用いました。その論拠ですが、宗祖が「行巻」に曇鸞大師の『論註』を引文され、

 問うていはく、なんの因縁ありてか〈速得成就阿耨多羅三藐三菩提〉といへるやと。
 答へていはく、『論』(浄土論)に〈五門の行を修してもつて自利利他成就したまへるがゆゑに〉といへり。しかるに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意なり。およそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに。
(「行巻」追釈 他力釈)

と示されるところです。ここで「もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。」とは、

仏視点:
阿弥陀仏(自)が、成仏の因を全く持たない衆生(他)に往生成仏の正因たる真実信心をめぐむ
→自因他果

衆生視点:
成仏の因を全く持たない衆生(自)が、阿弥陀仏(他)によって往生成仏の正因たる真実信心をめぐまれる
→他因自果

というふうに説明できるでしょう。このことは「正信偈」にも、

天親菩薩の『論』を註解して、報土の因果誓願に顕す。
往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。

と讃嘆されるところです。だから私は何度も「正信偈」を読むよう勧めているのですね。

それで順番が前後しますが、

>○(親鸞会的)因果の道理で本願力回向を説明できるのなら、不可称不可説不可思議でありません。
(親鸞会的)因果の道理で説明できないから、難思とか不可称不可説不可思議と言われるのです。

「難思とか不可称不可説不可思議と言われる」のは、それを可能にする阿弥陀仏の誓願のことなのです。「因果の道理で説明できないから」ではありません。だって説明されておられるでしょう。「報土の因果誓願に顕す」と。ですから、

>本願力回向は(親鸞会的)因果の道理を超えていると言うことです。

と、このような考え方が生じるそもそもの原因として「(親鸞会的)因果の道理」が誤っている――「自因他果」「他因自果」を一切認めない――ということを指摘してしているのです。親鸞会では「「因果の道理」は仏教の根幹」と力説しますが、ではその「因果の道理」で説明できない浄土真宗の本願力回向って何なのですか。浄土真宗は仏教ではないとでもおっしゃるのですか。矛盾しているのですよ。


>それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。
親鸞聖人は20願を通って18願に出よとすすめておられます。
この諸智において疑惑して信ぜず、然るになお罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。この諸の衆生は彼の宮殿に生ず。
とありますから、罪福を信ぜずしては20願には入れません。

では宗祖は自力念仏ならびに化土往生を勧められているのでしょうか。違いますよね。宗祖は称名念仏、つまり口称のを勧められているのです。
浄土真宗の伝統として、信未信問わず「まずはお念仏申しましょう」というスタンスをとります。ここで未信の者が称える念仏は、はじめは確かに自力念仏になってしまうかもしれません。しかし「説くべきは阿弥陀仏の本願、勧めるべきは他力念仏」なのです。お取次ぎ(法話/説法)とお同行のお念仏にもよおされて、自然(じねん)と真実信心、他力念仏のところにいざなわれていくのです――勿論その内実は阿弥陀如来の本願力回向ですよ――。
このような営みを「自力念仏(ならびに化土往生)を勧めている」とは言わないでしょう。

投稿: | 2013年8月28日 (水) 00時31分

すみません、2013年8月28日 (水) 00時31分のコメントは私のものです。名前を入れ忘れてしまいました……。

投稿: 薄縹 | 2013年8月28日 (水) 00時33分

すみません。携帯で読んでいるもので、コメントが
自然(じねん)と真実信心、他力念仏のところに
までで切れてしまっています。
お手数ですが、長文は分けてコメントして頂ければと思います。
実はみじめやな高森派さんの昨日のコメントも最後のところが切れてしまっていました。後でパソコンで読みましたけど。

投稿: デーブ | 2013年8月28日 (水) 01時01分

切れている部分を再掲します。

>それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。
親鸞聖人は20願を通って18願に出よとすすめておられます。
この諸智において疑惑して信ぜず、然るになお罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。この諸の衆生は彼の宮殿に生ず。
とありますから、罪福を信ぜずしては20願には入れません。

では宗祖は自力念仏ならびに化土往生を勧められているのでしょうか。違いますよね。宗祖は称名念仏、つまり口称のを勧められているのです。
浄土真宗の伝統として、信未信問わず「まずはお念仏申しましょう」というスタンスをとります。ここで未信の者が称える念仏は、はじめは確かに自力念仏になってしまうかもしれません。しかし「説くべきは阿弥陀仏の本願、勧めるべきは他力念仏」なのです。お取次ぎ(法話/説法)とお同行のお念仏にもよおされて、自然(じねん)と真実信心、他力念仏のところにいざなわれていくのです――勿論その内実は阿弥陀如来の本願力回向ですよ――。
このような営みを「自力念仏(ならびに化土往生)を勧めている」とは言わないでしょう。

投稿: 薄縹 | 2013年8月28日 (水) 01時11分

わざわざありがとうございました。
今日はもう休みます。

投稿: デーブ | 2013年8月28日 (水) 01時19分

諸善万行が蓋とおっしゃいますが、
機に生れつきたる善悪の二、報土往生の得ともならず、失ともならざる條、勿論なり。
とありますから、蓋にはならないのではないでしょうか?蓋は自力の心だと理解しています。
>高森会長は、(親鸞会的)因果の道理で本願力回向を説明してますが。だから間違いだと言っているのが理解できないのですか?
ダイヤの譬…納得できる、この世にある
本願力回向…納得できない、超世
こういうことでしょ。
譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇
と、この世のことで不可称不可説不可思議の世界を譬えられています。
浄土真宗は仏教ではないのか、について
本願の救いを光明名号の因縁で教えておられるので、仏教

(親鸞会的)因果の道理が間違っているというのであれば、正しい因果の道理とはどんなことか、仰有ってください。
自力念仏・化土往生をすすめているのではありません。
浄土真宗は他力念仏・報土往生をすすめるべきでしょうね
>善の勧め
至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける

まず真実の経に十方衆生とある
教行信証には異訳本は引用されていない
この願成就の文は、即ち三輩の文これなり。観経の定散九品の文これなり
と、悪人を除かれていないので、
すべての人を方便されていると言える

>そして、紅楳英顕氏の質問には、33年経っても未だに答えることができないことも納得したので、決着。
なぜ答えぬには、親鸞会は19願と観経の勧めは獲信の因縁と理解する、と書いてあったと思います。

投稿: デーブ | 2013年8月28日 (水) 20時23分

>「七つには世俗を棄ててつねに聖道を求めん。 八つには断・常見を離れて因縁の法を信ず。」
親鸞聖人は、化土巻本で、
しかれば四種の所説は信用にたらず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。と仰って浄土三部経は仏説だけども、他はそうとは限らないとされた上での浄土三部経以外の経典の引用。ということは、聖道を求めんは仏道を求めんという意味に理解すべき、という御心で引用されたと思われる。
>聖道門・19願を勧められた御言葉は皆無。
おおよそ八万四千の法門はみな是れ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり、この要門・仮門というは、即ち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり
仏教に入ったと言うことは広く言えば19願に入ったということなので、あえて勧める必要がない
>それと、20願を勧められた箇所もここだけで、この前は19願の説明となっていて、19願の行者に対して20願を願うように仰ったのは明らか。ということはいきなり20願に入るのでなく、19願から20願に入り、18願に転入するということ
>「大小聖人、一切善人」ね。悪人は含まれてないよ。悪人は罪福信じる心がないから。
20願の勧めは善人だけということでしょうか?
濁世の道俗にすすめられていますよ。
三願転入された親鸞聖人も、ご自身を善人だと仰有っているのでしょうか?

投稿: デーブ | 2013年8月28日 (水) 20時25分

決着事項として書いた

1、高森会長の言う因果の道理の説明は往生と関連付けているから、高森会長の説明は不適切、ということで決着。

2.智覚禅師は上品上生の往生を遂げられたと、法然上人も親鸞聖人も認めておられますが、智覚禅師も仏眼から見れば、因果を撥無する者だということにはならない。つまり、仏眼から見ても、因果の道理を深信する衆生は存在する、で決着。

3.諸善は間に合わぬから、捨てよと教えてれているだけで、諸善を勧められた親鸞聖人のお言葉は皆無、で決着。

4.昭和55年に紅楳英顕氏が質問したことに対して、高森会長は未だに答えていない、で決着。

5.観経疏にある「仏法・世俗の二種の善根あることなし。」の悪人の定義から、聖道門も19願も通らずに、念仏だけで往生を遂げることができる、で決着。


1・2・5については異論無しと言うことで完全決着です。

1に関連して

>(親鸞会的)因果の道理が間違っているというのであれば、正しい因果の道理とはどんなことか、仰有ってください。

とありましたので、簡潔に解説すると、
高森会長の言っているのは、いわゆる世間の因果。聖道門で説かれるのは出世の因果。そして18願の救いは、報土の因果。
この3つは別のもの。しかし、その区別が高森会長にはできない。なぜなら、知らないから。

>ダイヤの譬…納得できる、この世にある
>本願力回向…納得できない、超世

ダイヤのたとえが世間の因果。本願力回向が報土の因果。区別できない所が、間違っているということ。
もう少し教えてあげると、ダイヤのたとえでは因は衆生にあることになっているが、本願力回向では因は衆生にはない。これが同じだと思えるなら、思考に問題があります。

>>善の勧め
>至心発願欲生と
>十方衆生を方便し
>衆善の仮門ひらきてぞ
>現其人前と願じける

これは19願を言い換えられたもの。それを親鸞聖人が解説なされたのが次の和讃。

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

諸善は「定散諸機」に勧められたとありますね。「逆悪の機」は含まれていません。

『尊号真像銘文』に

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

とあるとおり、18願には「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」。ならば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願そして20願は、「十方一切の衆生みなもれず」ではない。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月28日 (水) 20時43分

>なぜ答えぬには、親鸞会は19願と観経の勧めは獲信の因縁と理解する、と書いてあったと思います。

紅楳英顕氏の質問は

「破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示してもらいたい

ですが、この答えになっていないでしょ。日本語の問題ね。

ちなみに、決着事項の

>5.観経疏にある「仏法・世俗の二種の善根あることなし。」の悪人の定義から、聖道門も19願も通らずに、念仏だけで往生を遂げることができる、で決着。

これ以上何をか言わんですよ。


>>「七つには世俗を棄ててつねに聖道を求めん。
>聖道を求めんは仏道を求めんという意味に理解すべき

はあ? 「世俗を棄てて」を問題にしているのですが、断章取義しないように。

>20願の勧めは善人だけということでしょうか?
>濁世の道俗にすすめられていますよ。
>三願転入された親鸞聖人も、ご自身を善人だと仰有っているのでしょうか?

これは先の『尊号真像銘文』で終わりね。20願には「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆誹謗正法の者は20願に含まれていないということを、親鸞聖人が仰ったのですがね。
ちなみに「濁世の道俗」には、善人も悪人も含まれています。
真門釈に

雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

と分けて教えられています。
前者は善人と悪人、後者は善人のこと。なぜなら後者の言い換えが昨日のコメントで出した

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに

ですね。「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す」と「本願の嘉号をもつておのれが善根とする」は同じこと。

「大小・凡聖・一切善悪」と「大小聖人、一切善人」とは明らかに区別されています。

親鸞聖人は御自身のことを善人とも悪人とも仰っていませんが、自力聖道の道を歩まれたことは仰っています。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月28日 (水) 21時01分

>>聖道門・19願を勧められた御言葉は皆無。
>おおよそ八万四千の法門はみな是れ浄土の方便の善なり、これを「要門」という、これを「仮門」と名けたり、この要門・仮門というは、即ち『無量寿仏観経』一部に説きたまえる定善・散善これなり
>仏教に入ったと言うことは広く言えば19願に入ったということなので、あえて勧める必要がない

これも含めて、mixiでの法論で高森会長が大惨敗した内容ですね。
蒸し返したいのなら、解説してあげますよ。

『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

現代語訳は

総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。この要門・仮門というのは、すなわち『観無量寿経』にお説きになっている定善・散善の教えである。定善とは、心を一つに定めて修める十三の観察の行であり、散善とは、散漫な心のまま修める三福の行であり、九品のものの修めるさまざまな善である。これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、これを仮門ともいうのである。この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。


権仮方便ということが少しでも判れば、何も難しい御文ではありません。釈尊がそれぞれの機に応じて説かれた教えを「八万四千の法門」といいます。その「八万四千の法門」で説かれた善は、浄土門へ導くための「方便の善」であるということです。聖道門の人を浄土門へ、そして18願へという流れを仰ったものであって、浄土門の人を要門に導くという意味になる筈がありません。読解力が少しでもあれば判ることです。

要門釈と同じことを親鸞聖人は教えられているだけのことです。要門釈には

さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

とあります。
親鸞会では、後半の部分を断章取義して、要門19願は一切衆生のための願と主張しましたが、前半を読まれれば判る通り、半満・権実の法門(聖道門)の修行に行き詰まった人を導くのが19願だと親鸞聖人ははっきり仰っています。

「浄土の方便の善」が、18願に入るために必ず要る善ではなく、その前の、聖道門の人が浄土門に入るための「方便の善」ということです。

「浄土の方便の善」は、『教行信証』化土巻には、善導大師の釈を承けて、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」と仰っています。阿弥陀仏の18願とは異なる方便、浄土を欣い慕わせる善根ということです。

「浄土の方便の善」とは、聖道門から浄土門へ導く善

親鸞聖人の教えは、一貫してこのことを仰っています。

さて、珍釈

>仏教に入ったと言うことは広く言えば19願に入ったということなので、あえて勧める必要がない

ですが、これもすでに決着事項の5で終わりですよ。

5.観経疏にある「仏法・世俗の二種の善根あることなし。」の悪人の定義から、聖道門も19願も通らずに、念仏だけで往生を遂げることができる、で決着。

ついでに、M野さんへさんのコメント再掲

1.仏教と外道どちらを選びますか?

  仏教

2.では聖道門と浄土門とどちらを選びますか?

  浄土門

3.最後に真と仮とどちらを選びますか?

  真

順調にいけば、聖道門も仮の浄土門に迷うこともありませんが。
親鸞会は、2で聖道門をまず選ばせ、3で仮を選ばせてから、真を説くという遠回りをさせていることがよくわかりました。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月28日 (水) 21時13分

>教行信証には異訳本は引用されていない
>この願成就の文は、即ち三輩の文これなり。観経の定散九品の文これなり
>と、悪人を除かれていないので、


これも笑う所だね。教行信証に異訳本の18願を引用されている。つまり、19願についても親鸞聖人は異訳本を見ておられることが明白な訳で、異訳本の内容と親鸞聖人の19願の解釈はぴったりと一致している訳ですよ。

一応まとめるとね

19願の十方衆生について

平等覚経諸     佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)
大阿弥陀経     八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道(諸々の仏国の菩薩道をなす善男人善女人)
尊号真像銘文    「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている
化土巻・要門釈   半満・権実の法門(聖道門)を断念した人
西方指南抄     諸行の人
浄土和讃       定散諸機
高僧和讃       定散諸機

一致しているのが解かった?

それと19願成就文については、三輩九品の区別によって勧められている内容が違うことを仰ったもの。また往生にも九品の別があることが説かれているということ。19願の対機に悪人が含まれるなんて、高森会長と同じ轍を踏んで、また逃亡劇を演じたいのですかね。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月28日 (水) 21時25分

>諸善万行が蓋とおっしゃいますが、
機に生れつきたる善悪の二、報土往生の得ともならず、失ともならざる條、勿論なり。
とありますから、蓋にはならないのではないでしょうか?蓋は自力の心だと理解しています。

なりますよ。何故ならば諸善万行とはそれでもって(それを自力の善根功徳として)仏果に至る行だからです。おそらく「自力の心は捨ててもその行為自体は善だからせよ。諸善万行は信後報恩行となるのだ。」というふうな理解をされているのではないでしょうか。

では「正信偈」には何が報恩行であると示されているのでしょう。

弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即のとき必定に入る。
ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。

やはり他力念仏です。最初から他力念仏を勧めましょう。

投稿: 薄縹 | 2013年8月28日 (水) 21時28分

>自力念仏・化土往生をすすめているのではありません。
浄土真宗は他力念仏・報土往生をすすめるべきでしょうね
>善の勧め
至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける

まず真実の経に十方衆生とある
教行信証には異訳本は引用されていない
この願成就の文は、即ち三輩の文これなり。観経の定散九品の文これなり
と、悪人を除かれていないので、
すべての人を方便されていると言える

あれ、やはりデーブさんは他力念仏・報土往生を差し置いて、自力諸行・化土往生をを勧めておられるではないですか。
諸善万行を勧めた時点で自力諸行・化土往生を勧めているのと同じです。

「生因三願」について(勧学寮編『浄土三部経と七祖の教え』本願寺出版社 より)

      (行)   (信)     (益)
第十八願……乃至十念……至心信楽欲生……若不生者……(他力念仏往生)――真実
第十九願……修諸功徳……至心発願欲生……現其人前……(自力諸行往生)――方便
第二十願……植諸徳本……至心廻向欲生……不果遂者……(自力念仏往生)――方便

真実と方便(権仮方便)の区別はよろしいですか。デーブさんのおっしゃる「浄土真宗は他力念仏・報土往生をすすめるべきでしょうね」というのは、最初から真実の第十八願に帰しなさい、他力念仏を称えなさい、と勧めるのと同義のはずです。
おそらく「すべての人は必ず方便を通る。方便は万人に絶対必要なのである。」というお考えだと思いますが、「権仮方便」ということの意味を、まず理解されるようにしてください。話はそれからです。

投稿: 薄縹 | 2013年8月28日 (水) 21時29分

上の投稿で(行)(信)(益)がずれてしまっていますが、第十八願で言えば、「乃至十念」が(行)、「至心信楽欲生」が(信)、「若不生者」が(益)、ということで、以下同様です。

投稿: 薄縹 | 2013年8月28日 (水) 23時35分

>紅楳英顕氏の質問は
「破邪顕正や財施は諸善万行に入る」
「諸善万行は宿善になる」
「宿世には今生も入る」
「19願・観経の善の勧めは獲信の因縁と理解」
つまり親鸞会としては「獲信の因縁として破邪顕正や財施がすすめられている根拠」に答えたという自覚だと思います。
>「世俗を棄てて」
出家せよということにはならないでしょうね。世俗の事に執着せずくらいに理解すべきでしょう。
>20願の勧め
逆謗の者には20願の勧めがない
十悪・破戒のもの及び善人は雑心で念仏を称える
善人は定散の専心で念仏を称える
ということですか?
>正しい因果の道理
仏教の根幹は因果の道理
仏教徒は因果の道理を信じる
は共通認識だと思いますが、「3つある」ではわけが分かりません。
親鸞会で教えているのが世間の因果なら、報土の因果と世間の因果を同時には信じられないでしょう。世間の因果の例外は弥陀の救いのみである、なら分かりますが。

投稿: デーブ | 2013年8月29日 (木) 00時05分

>何故ならば諸善万行とはそれでもって(それを自力の善根功徳として)仏果に至る行だからです。
これがなぜ蓋になるということか分かりません。
私は「自力の心は捨ててもその行為自体は善だからせよ。諸善万行は信後報恩行となるのだ。」という理解です。
自信教人信
難中転更難
大悲伝普化
真成報仏恩
ですから。
諸善万行が蓋なら、真宗門徒は六度万行(法財施、無財の七施、持戒等)もやらんようにせねばならんということになりますが。
難思往生を願うべしとあっても化土往生をすすめていることにはならんでしょう。
私は「すべての人は必ず方便を通る。方便は万人に絶対必要なのである。」という考えです。
なぜなら最初から信後の人はいないからです。
「権仮方便」とは真実の法に入らしめるために仮に設けた法門のこと。方便願、方便の行信、方便化身土というようなものがこれに相当する。この方便は、一度真実に入ったならば不要となり廃されるため暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法といわれる。
と理解しています。

投稿: デーブ | 2013年8月29日 (木) 00時06分

>「19願・観経の善の勧めは獲信の因縁と理解」

やっぱりわかっていないね。
あなたも、そして高森会長も反論できないように、19願・観経の善の勧めがないのよ。
19願・観経の善の勧めがないのに、紅楳英顕氏の質問に答えたことになるのかということ。

>>「世俗を棄てて」
>出家せよということにはならないでしょうね。世俗の事に執着せずくらいに理解すべきでしょう。

こんなことが成り立つなら、因果の道理を信じよ、も因果の道理を知っておけくらいに理解すべきでしょう。

>>20願の勧め
>逆謗の者には20願の勧めがない
>十悪・破戒のもの及び善人は雑心で念仏を称える
>善人は定散の専心で念仏を称える

真門釈の通りですよ。
もう一度言いましょうか、真門釈で「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す」と「本願の嘉号をもつておのれが善根とする」の主語は「大小聖人、一切善人」となっている。
親鸞聖人は18眼他力念仏を勧められている。

>>正しい因果の道理
>仏教の根幹は因果の道理
>仏教徒は因果の道理を信じる
>は共通認識だと思いますが、「3つある」ではわけが分かりません。

『安心決定鈔』

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。

世間の因果と出世の因果とは別に「別異の弘願」ね。
訳わかるでしょ。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月29日 (木) 04時46分

ということで決着事項は完全決着

1、高森会長の言う因果の道理の説明は往生と関連付けているから、高森会長の説明は不適切、ということで決着。

2.智覚禅師は上品上生の往生を遂げられたと、法然上人も親鸞聖人も認めておられますが、智覚禅師も仏眼から見れば、因果を撥無する者だということにはならない。つまり、仏眼から見ても、因果の道理を深信する衆生は存在する、で決着。

3.諸善は間に合わぬから、捨てよと教えてれているだけで、諸善を勧められた親鸞聖人のお言葉は皆無、で決着。

4.昭和55年に紅楳英顕氏が質問したことに対して、高森会長は未だに答えていない、で決着。

5.観経疏にある「仏法・世俗の二種の善根あることなし。」の悪人の定義から、聖道門も19願も通らずに、念仏だけで往生を遂げることができる、で決着。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月29日 (木) 04時47分

いろいろと言われていますが、以前に出した因果の道理のまとめ


1.因果の道理を深信することおよび浅信することは、行福であり、雑行である。

2.因果の道理を深信する人および浅信する人は、闡提ではなく、極重の悪人でもないので、全人類が闡提および極重の悪人という高森会長の説は間違い。

3.親鸞聖人は、因果の道理を往生と関連付けて考えることを自力の心および仏智不思議を疑う心と仰っているので、因果の道理を往生と関連付けて考えることは捨てなければならない。

4.化土巻末に経釈の御文があるが、その御文を紹介された親鸞聖人の目的は、内外廃立である、つまり外道を信じている人に対する御文である。


以上はデーブさんも認められたということで、親鸞会の誤りも素直に認めるべきと思います。

投稿: 飛雲 | 2013年8月29日 (木) 05時41分

ついでにいうと、『持名鈔』に

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、 世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、なが く輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

とありますように、
聖道門-出家して修行
浄土門18願-世俗に執着したまま
ということです。
聖道門と浄土門は大きく異なりますので、聖道門の論理を浄土門18願に持ち込むことは間違いです。

投稿: 飛雲 | 2013年8月29日 (木) 05時47分

それと、『選択本願念仏集』に下輩について

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

と教えられています。
仏教を信じていない人が、臨終になってはじめて仏教を信じて念仏だけを勧められて往生できるのです。
ここに因果の道理を信じる前提は当然ありません。

投稿: 飛雲 | 2013年8月29日 (木) 05時51分

>>「世俗を棄てて」
出家せよということにはならないでしょうね。世俗の事に執着せずくらいに理解すべきでしょう。

そうはなりません。『観経』にはこうあります。

そのとき世尊、すなはち微笑したまふに、五色の光ありて仏の口より出づ。一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。
そのとき世尊、韋提希に告げたまはく、「なんぢ、いま知れりやいなや。 阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。なんぢ、まさに繋念して、あきらかにかの国の浄業成じたまへるひとを観ずべし。われいまなんぢがために広くもろもろの譬へを説き、また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんものをして西方極楽国土に生ずることを得しめん。
 かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
(『観経』散善顕行縁)

諸善万行は元々聖道門、即ち此土入聖のための行でした。ここに「この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と示されるのは、阿弥陀仏の第十九願ならびに『観経』の顕説が、その諸善万行一切を包括し、もって浄土門、即ち彼土得証のための行となさしめているということです。当然これらは報土往生の正しき因ではありませんので、諸善万行のことを「雑行」といわれるのです。
「三世の諸仏」、例えば釈迦菩薩は出家なさいましたし、法蔵菩薩も出家なさいました。ですからもし「世俗を棄てて」の教説のとおりになさるのであれば、やはり出家しなくてはならないのです。

投稿: 薄縹 | 2013年8月29日 (木) 07時50分

>自信教人信
難中転更難
大悲伝普化
真成報仏恩

ここに示される「信」とは、第十八願の他力信のことです。第十八願には諸善万行のことは誓われておりません。「自力の心は捨ててもその行為自体は善だからせよ。諸善万行は信後報恩行となるのだ。」という主張の論拠としては不適当です。


>諸善万行が蓋なら、真宗門徒は六度万行(法財施、無財の七施、持戒等)もやらんようにせねばならんということになりますが。

何度も繰り返しますが、「お念仏」をまず勧めないから誤った理解をされるのだと思います。六度万行もやはり「それでもって(それを自分の功徳として)仏果に至らんとする行」です。例えば門信徒さんの一見財施見える行為については、

護念坊のたよりに、教忍御坊より銭二百文、御こころざしのものたまはりて候ふ。さきに念仏のすすめのもの、かたがたの御中よりとて、たしかにたまはりて候ひき。ひとびとによろこび申させたまふべく候ふ。この御返事にて、おなじ御こころに申させたまふべく候ふ。
(『御消息』41)

というような例が宗祖御在世の折から伝えられていますが、「御こころざしのもの」「念仏のすすめのもの」なのです。まず「お念仏」ありきということがよくわかると思います。その他「法施」についてもそうです。先のコメントで私は「お取次ぎ(法話/説法)」という伝統的な表現を用いました。「法施」の主体はあくまで阿弥陀仏なのであって、私たち凡夫はその「手先」に過ぎません。「無財の七施」もやはり「それでもって(それを自分の功徳として)仏果に至らん」という思いであれば雑行です。「持戒」については宗祖の師源空聖人は生涯円頓戒を保たれたようですが、宗祖ご自身はそうではありませんでした。これが何を意味するか分かりますか。

>「すべての人は必ず方便を通る。方便は万人に絶対必要なのである。」

龍樹菩薩の「易行品」を読んでみましょう。最初から「信方便易行」即ち称名を勧めておられますよ。

投稿: 薄縹 | 2013年8月29日 (木) 07時51分

>私は「すべての人は必ず方便を通る。方便は万人に絶対必要なのである。」という考えです。
>なぜなら最初から信後の人はいないからです。

見落としていましたので、言っておきますと、
方便とは、対機説法。その人に応じて説かれるもの。
悪人に対して、善と言う方便が説かれていないのは、観経を読めば明らかなこと。

それを簡潔に仰ったのが、源信僧都

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

極重の悪人には、念仏以外の方便は全く説かれていないとね。
これもmixiで高森会長が一撃で沈黙した根拠。
念仏は善巧方便、諸善は権仮方便。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月29日 (木) 08時05分

日本語さえまともに使えない、なんでもありの珍釈


「因果の道理を深信」=仏眼から見れば因果を撥無する衆生でも、人間の眼からみれば、因果の道理を深く信じている人もいればいない人もいるということです

「聖道を求めん」=仏道を求めんという意味に理解すべき

「世俗を棄てて」=世俗の事に執着せずくらいに理解すべきでしょう。


じゃあ、

「因果の道理を深信」=本当は信じていないが表面上信じているふり

「二種深信」=「ハッキリするものではない」という本願寺は正しい

「雑行を棄てて」=雑行に執着せずに

こういうことね。

投稿: M野さんへ | 2013年8月29日 (木) 09時32分

浄土真宗では、お布施をしろとも棄てろとも言っていないのに、「本願寺は善行を止めるように言っている」などと、ヤクザみたいな言い掛かりをつける馬鹿森会長。

投稿: シシ | 2013年8月29日 (木) 13時46分

それでは信前の浄土真宗の門徒には世間・出世・報土の因果いずれも信じていない人があるということになりますが。
断・常の見を離れて因縁法を信ずる必要もないのですか。
なお親鸞会でいう信後の深信因果の深信は二種深信の深信と同じです。
>『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
親鸞会擁護のブログでは
極楽に生まれる方便は他力念仏一つということで、獲信までの方便がないということではないとあります。
親鸞会では極重の悪人とは機の深信のたった人と説明します。

投稿: デーブ | 2013年8月29日 (木) 18時57分

>諸善万行とはそれでもって(それを自力の善根功徳として)仏果に至る行だからです。
理解力が乏しいもので分かりません。
>「自力の心は捨ててもその行為自体は善だからせよ。諸善万行は信後報恩行となるのだ。」
仏法の方へは、いかほど物を入れても飽かぬ道理なり。又報謝にもなるべし
>何度も繰り返しますが、「お念仏」をまず勧めないから誤った理解をされるのだと思います。
まずお念仏を勧めた上なら信前でも法財施は六度万行にならないから蓋にならないということですか。
>六度万行
諸善万行が蓋なら、親切・言行一致・忍耐・努力・反省・修養も蓋になりますが。
>信方便易行
他力念仏をすすめても急にとなえられない未熟な機が多いから権仮方便(信前の教え)が説かれるのではないですか。

投稿: デーブ | 2013年8月29日 (木) 18時58分

だんだん煮詰まってきましたね。

>それでは信前の浄土真宗の門徒には世間・出世・報土の因果いずれも信じていない人があるということになりますが。
>断・常の見を離れて因縁法を信ずる必要もないのですか。

あなたの妄想など論ずるに足りません。
信ずる必要があるとかないとか、それとは無関係に救われるのが18願だということです。


>>『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
>親鸞会擁護のブログでは
>極楽に生まれる方便は他力念仏一つということで、獲信までの方便がないということではないとあります。
>親鸞会では極重の悪人とは機の深信のたった人と説明します。

全くの無知ですね。
「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」とは、直接的には下品下生の往生について仰ったもの。

上生・中生も含めて、下品の三品について『選択本願念仏集』で

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

とある通り。獲信までの方便がないのですよ、下品にはね。
一方で、上品と中品には善と言う方便が説かれているのよ。
だから、

上品・中品は、他の方便ありで、下品は、他の方便なし

簡単でしょ。観経見てみたら。見てる癖に、嘘ばっかり。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月29日 (木) 19時10分

>>信方便易行
>他力念仏をすすめても急にとなえられない未熟な機が多いから権仮方便(信前の教え)が説かれるのではないですか。

ここでいう未熟の機は、聖道門や諸行往生を願っている機のことね。
善にう拘っているうちは、他力念仏を願わないから、未熟と宗学では称するわけですよ。

知ってる癖に、とぼけてさ。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月29日 (木) 19時13分

>なお親鸞会でいう信後の深信因果の深信は二種深信の深信と同じです。

おもしろい。
ということは、信前は因果を撥無する闡提で、信後は因果を深信する上品中生以上の善人になると言うことだね。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月29日 (木) 19時15分

完全決着事項

1.因果の道理を深信することおよび浅信することは、行福であり、雑行である。

2.因果の道理を深信する人および浅信する人は、闡提ではなく、極重の悪人でもないので、全人類が闡提および極重の悪人という高森会長の説は間違い。

3.親鸞聖人は、因果の道理を往生と関連付けて考えることを自力の心および仏智不思議を疑う心と仰っているので、因果の道理を往生と関連付けて考えることは捨てなければならない。つまり、高森会長の教えを捨てなければ、獲信できない。

4.化土巻末に経釈の御文があるが、その御文を紹介された親鸞聖人の目的は、内外廃立である、つまり外道を信じている人に対する御文であり、因果の道理を深信するように勧められたものではない。

5、高森会長の言う因果の道理の説明は往生と関連付けているし、ダイヤの譬えは完全に間違いである。

6.智覚禅師は上品上生の往生を遂げられたと、法然上人も親鸞聖人も認めておられますが、智覚禅師は因果の道理を深信された人であり、因果の道理を深信する衆生は存在する。

7.諸善は間に合わぬから、捨てよと教えてれているだけで、諸善を勧められた親鸞聖人のお言葉は皆無である。

8.昭和55年に紅楳英顕氏が質問したことに対して、高森会長は未だに答えていない。

9.「仏法・世俗の二種の善根あることなし。」(観経疏)の悪人の定義から、聖道門も19願も通らずに、念仏だけで往生を遂げることができる。また「この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。」(選択本願念仏集)と教えられているので、悪人に善は勧められていないし、善と言う方便もない。それが「極重の悪人は他の方便なし」(往生要集)の意味である。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月29日 (木) 19時24分

>>それとも信前は「因果の道理を深信する親鸞学徒」で、信後は「因果の道理を撥無する親鸞学徒」という苦しい言い訳でもいうのでしょうかね。それなら「信前信後を問わず」も嘘になります。

>これも藁人形論法ですかね。

このように飛雲さんを非難したことについて、一言もないのでしょうか。

もっとも

信前は「因果の道理を撥無する親鸞学徒」で、信後は「因果の道理を深信する親鸞学徒」という苦しい言い訳

に変わっていますが。

投稿: M野さんへ | 2013年8月29日 (木) 19時49分

>親鸞会では極重の悪人とは機の深信のたった人と説明します。

恐ろしい詭弁ですね。デーブさんは以前(2013年8月24日 (土) 23時24分)に飛雲さんの

>2.因果の道理を深信する人および浅信する人は、闡提ではなく、極重の悪人でもないので、全人類が闡提および極重の悪人という高森会長の説は間違い。

という確認事項に対し、

>2全人類は極重の悪人です。

とお答えになりました。ということは、デーブさん(及び親鸞会)は「全人類は機の深信がたっている」と主張していることになりますが……。この点詳しくご説明願えませんか。

「悪人」あるいは「凡夫」について、本願力回向を踏まえないで語るのはやめましょう。「機の深信」を「自力の罪悪観」と混同したりして、大変なことになります。「機の深信」は「法の深信」と一具であって、その体は本願力回向ですからね。

投稿: 薄縹 | 2013年8月29日 (木) 20時21分

>>諸善万行とはそれでもって(それを自力の善根功徳として)仏果に至る行だからです。
理解力が乏しいもので分かりません。

たいへん申し上げにくいのですが、それが分からないのは「理解力が乏しい」のではなく、デーブさんご自身が真仮をわきまえておられないからなのではないか……と言わざるを得ません。

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一 世間へつかふことは、仏の物をいたづらにすることよと、おそろしく思ふべし。さりながら、仏法の方へはいかほど物を入れてもあかぬ道理なり。また報謝にもなるべしと[云々]。
(『聞書』225)

仏のおかげで与えられたものを世間のことに使うのは、尊いお恵みを無駄にすることであると恐れ多く思わなければならない。
けれども、仏法のためであれば、どれほど使っても、これで十分だということはないのである。
そしてまた、仏法のために使うのは、仏恩報謝にもなるのである。
(同 現代語訳)

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浄土真宗で阿弥陀仏より賜るのは、真実の行信ならびに現当二益の証であって、諸善万行ではありません。試しにウェブ上の『聞書』でかまいませんから「報謝」を検索して読んでみるといいでしょう。またくどいようですが「正信偈」もきちんと読んでくださいね。

投稿: 薄縹 | 2013年8月29日 (木) 20時22分

>まずお念仏を勧めた上なら信前でも法財施は六度万行にならないから蓋にならないということですか。

そんなこと言っておりませんよ。私は信前に六度万行を勧めてなどいません。そもそもお念仏以外に何の不足があっての六度万行なのでしょうか。「親切・言行一致・忍耐・努力・反省・修養」をもって往生浄土の足しにしようとか、まさか信心獲得の為の宿善を積もうとかお考えなのですか。そんな思いが常に付きまとうのが諸善万行であり、このような考えのある限り、蓋になってしまうことはご理解いただきたいものです。先のコメントで示した「「生因三願」について」をもう一度お読みください。

お念仏については、他力念仏を勧めるのと他力信を勧めるのとは同義です。
もしかしてデーブさんは「信心正因 称名報恩」を「信心が大事 念仏は添え物」という風に誤解なさっておいでではないでしょうか。
如来回向の真実の行信はお互いに不離の関係なのであって、「本願を信じ念仏を申さば仏に成る(『歎異抄』第12条)」のが浄土真宗です。繰り返しますが「まずお念仏を勧めた上なら――」ではなくて、最初から他力念仏を勧めましょう。

投稿: 薄縹 | 2013年8月29日 (木) 20時23分

>他力念仏をすすめても急にとなえられない未熟な機が多いから権仮方便(信前の教え)が説かれるのではないですか。

「他力念仏をすすめても急にとなえられない未熟な機」って何のこと?
信を離れた行はないし、行の一声を離れた信の一念もない。

投稿: シシ | 2013年8月29日 (木) 21時32分

>あなたの妄想など論ずるに足りません。
信ずる必要があるとかないとか、それとは無関係に救われるのが18願だということです。
妄想だろうと論じなければ話が進まないでしょう。
断・常見に陥り因縁法を信じていないようでは内外廃立したとはいえないのでは
>上品・中品は、他の方便ありで、下品は、他の方便なし
これでは悪人より善人の方が報土往生が遅れるのではないですか

投稿: デーブ | 2013年8月29日 (木) 22時06分

これはあくまで私の理解する親鸞会教義であって、違うかもしれません。とくに3は「違う」と言われると思います。
1信前信後因果を撥無する実機は変わらない。信前は人間の眼から見て深信因果している
信後は悪人のまま、阿弥陀仏のお力によって深信因果させられる。
2言い直すと、親鸞会では「極重悪人唯称仏」の極重悪人とは機の深信がたった人を指す。ということです。
全人類は極重の悪人である。その中に機の深信がたっている、つまり極重の悪人と知らされた人がいる。これが「極重悪人唯称仏」と言われる極重悪人である。
また、実機は極重の悪人でも、機の深信がたっておらず、自惚れて善人だと思っている人もいる。
これを「疑心の善人」と言われる。
歎異抄3章の善人悪人とは、(基本的には)このことを指す。別に全人類が機の深信がたっていると言っているのではありません。
3六度万行は往生浄土の足しにはならない。足しにしようという心は信前はなくならぬ。この心でやる諸善万行を雑行と嫌われ捨てよと言われる。それは自力の心を捨てよということ。信後は報謝の行となる。六度万行は信心獲得の為の宿善であるので、すすめられている。

投稿: デーブ | 2013年8月29日 (木) 22時07分

諸善万行が蓋になるというなら、浄土真宗の人は、ケチで約束を守らず、忍耐も努力も反省もせず、仏法を伝えずお布施もしない人になってしまうのではないか
、と危惧しています。
そうではないとおっしゃるなら理由を書いて頂きたいと思います。

投稿: デーブ | 2013年8月29日 (木) 22時09分

>全人類は極重の悪人である。

そんなことを親鸞聖人はおっしゃっていません。

投稿: シシ | 2013年8月29日 (木) 22時19分

デーブさんへ

親鸞聖人は「賢者の信は、内は賢にして外は愚なり」とお書きになりました。
どうお考えですか?

まさか賢者はいない、とでも?
龍樹や法然は、賢者ではないのですか。

投稿: シシ | 2013年8月29日 (木) 22時31分

ますます追い詰められてきましたな。

>断・常見に陥り因縁法を信じていないようでは内外廃立したとはいえないのでは

臨終にはじめて仏教を聞いて、念仏だけを勧められて往生できる、これが18願。
間違いを間違いと知り、因縁法を超越した本願力回向を信ずれば、よいですよ。
もう一度再掲

1.仏教と外道どちらを選びますか?

  仏教

2.では聖道門と浄土門とどちらを選びますか?

  浄土門

3.最後に真と仮とどちらを選びますか?

  真

順調にいけば、聖道門も仮の浄土門に迷うこともありませんが。
親鸞会は、2で聖道門をまず選ばせ、3で仮を選ばせてから、真を説くという遠回りをさせていることがよくわかりました。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月29日 (木) 23時19分

>>上品・中品は、他の方便ありで、下品は、他の方便なし
>これでは悪人より善人の方が報土往生が遅れるのではないですか

これが、『歎異抄』の

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。 この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

ですが。
もちろん、最初から18願での往生を選択すれば、「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。」ですよ。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月29日 (木) 23時23分

>1.仏教と外道どちらを選びますか?
>  仏教

愚かなものを仏教とは言いません。
僧でも俗でもない、外道だ親鸞だ、そうおっしゃった。
白道四五寸、白とは、すなわちこれ六度万行、定散なり。

投稿: シシ | 2013年8月29日 (木) 23時32分

>1信前信後因果を撥無する実機は変わらない。信前は人間の眼から見て深信因果している
>信後は悪人のまま、阿弥陀仏のお力によって深信因果させられる。

根拠は?
親鸞聖人がどこに仰っているの?

ないよね。毛土巻末まで引っ張り出してくる教学自慢でも、出せないんだよね。
だってないんだからさ。

一応教えておくと、人間の眼から見ても
・深信因果している上品中生以上
・因果を信じまた信ぜずの上品下生
・因果を撥無する闡提
は明確に分かれる訳よ。

悪人が信後に上品中生以上の善人になるなんて、高森会長でも思いつかない超珍説。


>2言い直すと、親鸞会では「極重悪人唯称仏」の極重悪人とは機の深信がたった人を指す。ということです。
>全人類は極重の悪人である。その中に機の深信がたっている、つまり極重の悪人と知らされた人がいる。これが「極重悪人唯称仏」と言われる極重悪人である。

機の深信知ってる?
礼讃の方が解かりやすい

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

「善根薄少」ってことは悪人じゃないと言うことで、もちろん「極重の悪人」でもない。なぜなら、観経疏に悪人の定義として

仏法・世俗の二種の善根あることなし。

とは明らかに反するでしょ。

ニホンゴワカリマスカ?


>これを「疑心の善人」と言われる。

これも教えてあげたでしょ。真門釈に

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに

とある通り。

>歎異抄3章の善人悪人とは、(基本的には)このことを指す。

先に言った通りだけど、口伝鈔にも解説があるね

これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし

信前信後を問わず、善凡夫と悪凡夫が存在するとね。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月29日 (木) 23時43分

真に知りぬ。二河の譬喩の中に、「白道四五寸」と言うは、「白道」とは、「白」の言は黒に対するなり。「白」は、すなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。

そういう訳で、デーブさんの3はきっと正しいでしょうね。

投稿: シシ | 2013年8月29日 (木) 23時45分

>3六度万行は往生浄土の足しにはならない。足しにしようという心は信前はなくならぬ。この心でやる諸善万行を雑行と嫌われ捨てよと言われる。それは自力の心を捨てよということ。信後は報謝の行となる。六度万行は信心獲得の為の宿善であるので、すすめられている。

嘘ばっかり。

是は蓮如上人のお言葉が解かりやすい。

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

信前信後心得るべきは国の法律と倫理道徳を守ること。往生の為には、定散二善(六度万行を含む)を捨てよ。
真宗の同行は、信前信後を問わずに、倫理道徳の善に努めましょうね。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月29日 (木) 23時48分

>2言い直すと、親鸞会では「極重悪人唯称仏」の極重悪人とは機の深信がたった人を指す。ということです。
全人類は極重の悪人である。その中に機の深信がたっている、つまり極重の悪人と知らされた人がいる。これが「極重悪人唯称仏」と言われる極重悪人である。
また、実機は極重の悪人でも、機の深信がたっておらず、自惚れて善人だと思っている人もいる。
これを「疑心の善人」と言われる。
歎異抄3章の善人悪人とは、(基本的には)このことを指す。別に全人類が機の深信がたっていると言っているのではありません。

まず「全人類は極重の悪人である」という主張の経典上の論拠を示すことが出来ますか。


>3六度万行は往生浄土の足しにはならない。足しにしようという心は信前はなくならぬ。この心でやる諸善万行を雑行と嫌われ捨てよと言われる。それは自力の心を捨てよということ。信後は報謝の行となる。六度万行は信心獲得の為の宿善であるので、すすめられている。

結局デーブさんは信前の人にお念仏を差し置いて諸善万行(六度万行)、つまり「雑行」を勧めているのですね。

『歎異抄』第1条には、

一 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。 弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。

と、浄土真宗の肝要が示されます(「老少・善悪」と併記されるところも「全人類は極重の悪人である」という主張の反証なのですが)「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。」のお言葉を素直に受け取りましょう。

投稿: 薄縹 | 2013年8月29日 (木) 23時50分

>六度万行は信心獲得の為の宿善

この根拠意を出せなかったのが、33年前。

と言う訳で、何度でも完全決着事項

1.因果の道理を深信することおよび浅信することは、行福であり、雑行である。

2.因果の道理を深信する人および浅信する人は、闡提ではなく、極重の悪人でもないので、全人類が闡提および極重の悪人という高森会長の説は間違い。

3.親鸞聖人は、因果の道理を往生と関連付けて考えることを自力の心および仏智不思議を疑う心と仰っているので、因果の道理を往生と関連付けて考えることは捨てなければならない。つまり、高森会長の教えを捨てなければ、獲信できない。

4.化土巻末に経釈の御文があるが、その御文を紹介された親鸞聖人の目的は、内外廃立である、つまり外道を信じている人に対する御文であり、因果の道理を深信するように勧められたものではない。

5、高森会長の言う因果の道理の説明は往生と関連付けているし、ダイヤの譬えは完全に間違いである。

6.智覚禅師は上品上生の往生を遂げられたと、法然上人も親鸞聖人も認めておられますが、智覚禅師は因果の道理を深信された人であり、因果の道理を深信する衆生は存在する。

7.諸善は間に合わぬから、捨てよと教えてれているだけで、諸善を勧められた親鸞聖人のお言葉は皆無である。

8.昭和55年に紅楳英顕氏が質問したことに対して、高森会長は未だに答えていない。

9.「仏法・世俗の二種の善根あることなし。」(観経疏)の悪人の定義から、聖道門も19願も通らずに、念仏だけで往生を遂げることができる。また「この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。」(選択本願念仏集)と教えられているので、悪人に善は勧められていないし、善と言う方便もない。それが「極重の悪人は他の方便なし」(往生要集)の意味である。

投稿: | 2013年8月29日 (木) 23時50分

>諸善万行が蓋になるというなら、浄土真宗の人は、ケチで約束を守らず、忍耐も努力も反省もせず、仏法を伝えずお布施もしない人になってしまうのではないか
、と危惧しています。
そうではないとおっしゃるなら理由を書いて頂きたいと思います。


浄土真宗における倫理性の担保、あるいは宗教的回心についてのお尋ねでしょうか。
これは『御消息』第二通(『末灯鈔』(20))をお読みいただくとよいと思います。


     (前略)

 まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。

 しかるになほ酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬになほ毒をすすめられ候ふらんこそ、あさましく候へ。煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきになほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり、毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。

 はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろくこころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ。かくききてのち、仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ、世をいとふしるしにても候はめ。また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば、さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにては候ふべき。

     (後略)

投稿: 薄縹 | 2013年8月29日 (木) 23時51分

悪知識にお布施するのは、白道ではなく、真っ黒道だけど(笑)。

投稿: シシ | 2013年8月29日 (木) 23時55分

何度も書くけど、浄土真宗では、お布施を強制してもいないし、お布施止めるようにも言っていません。
異常なのは親鸞会です。

投稿: シシ | 2013年8月29日 (木) 23時58分

とうとう、根拠の歪曲もできずに、妄想だけになったね。

偽装僧侶、偽装退会者のブログに書いてあるとか、笑えた。

投稿: M野さんへ | 2013年8月30日 (金) 08時09分

M野さんに、相当恨みがあるようですね。

投稿: シシ | 2013年8月30日 (金) 14時00分

偽装退会者ブログ読みましたよ。

何も、ここで論破された深信に関することをエントリーにして書くことないのにね。
余程悔しかったんでしょうね。

2ちゃんで論破され、ブログで論破され、さよならで論破され、もちろん飛雲では何十回も惨敗しておきながら、
懲りない人ですね。

結局さ、「信前に因果の道理を深信している親鸞学徒」の意味は、「因果の道理を撥無している親鸞学徒」ってことなの?
やっぱり、深信はハッキリどころか、曖昧なものってことでしょ。

投稿: 偽装退会者 | 2013年8月30日 (金) 14時24分

「曠劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」

善因楽果悪因苦果、つまり六道輪廻は、浅く信じようが深く信じようが、釈迦の説いた真実です。

退会者のかたがたには、空の観念を離れて、20願を離れて、真実の18願を信じるようお願いします。

祖仏を共に殺して、18願に入って、因果の道理を深信していただくよう、重ねてお願い申し上げます。

投稿: シシ | 2013年8月30日 (金) 20時20分

繰り返しになりますが
浄土真宗の信前の人には
世間・出世・報土の因果のいずれも信じていない人がいる
また断・常見に陥り因縁法を信じていない人がいる
ということですか?

やはり悪人より善人の方が報土往生が遅れるということですね。
機に生れつきたる善悪の二、報土往生の得ともならず、失ともならざる條、勿論なり。
ですから悪人より善人の方が報土往生が遅れることはないと思います。
>深信因果
信後に善人になると言っているのではありません。
機の深信のお言葉
現在の自己がハッキリしたとき、過去も未来も明らかになる、それは善因善果悪因悪果自因自果を深信させられるからである。
因果経三世因果の文で説明される。

投稿: デーブ | 2013年8月30日 (金) 22時13分

>全人類が極重悪人である経典上の根拠
唯除五逆誹謗正法(18願)
阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見ておられる、と親鸞会では説明します。

極悪深重の衆生、大慶喜心を獲
すべての人は、大慶喜心を獲たとき、極悪人と知らされる

煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見の
ゆゑなり。
煩悩とは悪業のことであるから、煩悩具足・濁悪邪見とは悪人のこと
真実の心なく清浄の心なしであるから善人はいない
善導大師は善根薄少と知らされたとおっしゃるが、仏滅後2600年後の我々は仏法・世俗の二種の善根あることなしの悪人ばかりであるから、機の深信で極重悪人と知らされるのではないですか。
善人がいるのなら、極重悪人唯称仏の教えは善人にはないのですか。
歎異抄一章には善人悪人分けられていますが、では現在定散二善のできる善人がいるのですか。


「薬あり、毒を好め」ということはなくても、やはり善に消極的にならざるをえないと思います。
「親切・言行一致・忍耐・努力・反省・修養」は倫理道徳の善になるのですか。

投稿: デーブ | 2013年8月30日 (金) 22時16分

ネット上で聞書探しましたが原文しかありませんでした…

投稿: デーブ | 2013年8月30日 (金) 22時42分

>浄土真宗の信前の人には
世間・出世・報土の因果のいずれも信じていない人がいる

いると断定しているが、そんなことを言うのは、名号の不思議も誓願も、何もかも信じていないからだ。
歎異抄の第11章を読みましょう。

投稿: シシ | 2013年8月30日 (金) 23時08分

>阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見ておられる、と親鸞会では説明します。

邪見でないと、どうして言えますか。

>歎異抄一章には善人悪人分けられていますが、では現在定散二善のできる善人がいるのですか。

善人がいないなら、善に消極的にならざるをえないですね。

仮に念仏で極悪人と知らされるなら、先ず念仏を称えなきゃいけないです。極悪人とハッキリ分かってから、念仏しなきゃいけないわけじゃない。

投稿: シシ | 2013年8月30日 (金) 23時25分

明らかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。かるがゆへに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人、重軽の悪人、みな同じくひとしく選択大宝海に帰して念仏成仏すべし。

投稿: シシ | 2013年8月30日 (金) 23時59分

>浄土真宗の信前の人には
>世間・出世・報土の因果のいずれも信じていない人がいる
>また断・常見に陥り因縁法を信じていない人がいる
>ということですか?

くだらない話をまだしているのね。

7月1日号の顕正新聞の論説、

【信前信後を問わず、因果の道理を深信する親鸞学徒は、光に向かって日々、努力精進するのは当然であろう。】

これがおかしいといっているのに、藁人形論法ね。
「因果の道理を深信する」=行福
「因果の道理を信じ信ぜず」=行福

「信前に因果の道理を深信している」=上品中生以上の善人 or 因果を撥無する闡提
「信後に因果の道理を深信している」=上品中生以上の善人 or 因果を撥無する闡提

明確に教えてもらえますかね。


>やはり悪人より善人の方が報土往生が遅れるということですね。
>機に生れつきたる善悪の二、報土往生の得ともならず、失ともならざる條、勿論なり。
>ですから悪人より善人の方が報土往生が遅れることはないと思います。

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。(信巻)
雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべき(唯信鈔文意)
自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。(歎異抄)
悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。(口伝鈔)

残念ですが、諸善に心をかけてといる善人は、往生が遅れます。
お聖教に書いてある通りです。
しかし、諸善を捨てたならば、すぐに往生できます。
「報土往生の得ともならず、失ともならざる」のと心をかけるのとは全く別問題。それをすり替えるこれも人形論法ですね。
偽装僧侶のブログで書いた内容で、キミが誰かバレバレ。


>機の深信のお言葉
>現在の自己がハッキリしたとき、過去も未来も明らかになる、それは善因善果悪因悪果自因自果を深信させられるからである。
>因果経三世因果の文で説明される。

嘘言っちゃ困りますね。機の深信のどの語句を指して「善因善果悪因悪果自因自果を深信させられる」のか明示してみなさい。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月31日 (土) 04時51分

>>全人類が極重悪人である経典上の根拠
>唯除五逆誹謗正法(18願)
>阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見ておられる、と親鸞会では説明します。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(尊号真像銘文)

阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見ておられるのではない、と親鸞聖人は説明しています。


>極悪深重の衆生、大慶喜心を獲
>すべての人は、大慶喜心を獲たとき、極悪人と知らされる

日本語がおかしいね。
主語が「極悪深重の衆生」。
すべての人は、大慶喜心を獲たとき、極悪人と知らされる、なんて意味には絶対にらないから、中学生にでも日本語の文法を教えてもらったら如何?


>煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見の
>ゆゑなり。
>煩悩とは悪業のことであるから、煩悩具足・濁悪邪見とは悪人のこと

これは善人悪人の定義を無視しているからね。
悪人の定義は「世俗・仏法の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」で無善を意味する。
善人は善根がある、であって悪根がないではない。

日本語の不自由な人のために簡単に言うと
善人は煩悩によって悪を作るが善をなす人
悪人は煩悩によって悪を作るのみで善は皆無

わかった?

因みに善導大師が仰った機の深信2つ

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし
自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず

比べてみれば、解かる通り、「罪悪生死の凡夫」「煩悩を具足せる凡夫」は「善根薄少」ね。「無善根」ではない。

わかったかな?

>仏滅後2600年後の我々は仏法・世俗の二種の善根あることなしの悪人ばかりである

妄想ね。どこにそんなことが書かれてあるのさ。教えてください。

>善人がいるのなら、極重悪人唯称仏の教えは善人にはないのですか。

日本語の問題ね。

たとえて言えば、学業の落ちこぼれでも、試験で答案用紙に名前を書いたら合格、と言ったら、
学業優秀な人は答案用紙に名前を書いたら合格にならないのか? と言っているくらい馬鹿な問い。


>歎異抄一章には善人悪人分けられていますが、では現在定散二善のできる善人がいるのですか。

信前に因果の道理を深信している親鸞学徒がいると断言しているじゃないの。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月31日 (土) 05時18分

>「親切・言行一致・忍耐・努力・反省・修養」は倫理道徳の善になるのですか。

これは何がいいたいのでしょうか。
日本語の不自由な人の文章は理解できませんね。

参考までに五戒は五常に対応していると言われますけどね。
改邪鈔

「それ出世の法においては五戒と称し、世法にありては五常となづくる仁・義・礼・智・信をまもりて」

出世のために行う五戒は雑行、出世とは無関係に行う五常は雑行ではないってことで、理解できないのでしょうね、日本語の不自由な人には。

投稿: M野さんへ | 2013年8月31日 (土) 07時19分

>やはり悪人より善人の方が報土往生が遅れるということですね。
>機に生れつきたる善悪の二、報土往生の得ともならず、失ともならざる條、勿論なり。
>ですから悪人より善人の方が報土往生が遅れることはないと思います。

これって、馬鹿の証みたいな論理。

たとえばね、就職の時に「学歴は不問」とあって、実際は低学歴に偏った採用になることはありますよね。
結果的に低学歴の人ばかり採用する会社の理由は、「高学歴の人はプライドが高いから」。

修士・博士課程修了の人の就職難は今も変わらないみたいだし。

投稿: M野さんへ | 2013年8月31日 (土) 07時24分

>これって、馬鹿の証みたいな論理

言えてますね。
善悪無関係の救いだけど、それを関係が有ると思うのが善人。
善悪関係ないと思うのに時間がかかるから、善人は往生が遅れる傾向にある。

当然の論理じゃない。

相当に思考がイカレテル。

投稿: 五十三次 | 2013年8月31日 (土) 10時24分

>唯除五逆誹謗正法(18願)

浄土真宗において「唯除」の御文は、五逆謗法罪の「抑止」と「摂取」の二つの意味を持ち、またそれらについては「仮除」ではなく「実除」であり、「永除」ではなく「暫除」であるとされます。「阿弥陀仏は十方衆生を逆謗の屍と見ておられる」のではありません。詳しくは『銘文』をお読みください。


>煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見の
ゆゑなり。

煩悩具足の衆生は「自力では出離できない」という意味です。聖者や善凡夫でさえも煩悩を完全に滅したわけではないので、やはり「自力では出離できない」のですね。
「機の深信」もやはり同じ意味です。そしてそれは、かかる機を本願力によって漏らさず救い給うという「法の深信」と一具であって、それを「ニ種深信」といわれます。また、先に「機の深信」がたつ、というようなことはありません。
「仏滅後2600年後の我々は仏法・世俗の二種の善根あることなしの悪人ばかりであるから――」というのは、阿弥陀仏の本願力回向を差し置いて十方衆生の罪科をあれこれ詮索してこしらえたもの、つまりは「自力の罪悪観」ですから、浄土真宗の御法義にはなじみません。


>「薬あり、毒を好め」ということはなくても、やはり善に消極的にならざるをえないと思います。
「親切・言行一致・忍耐・努力・反省・修養」は倫理道徳の善になるのですか。

親鸞会では「善」ということばに非常に独特の意味を持たせて、かつ六波羅蜜(六度万行)を独自に言い換えてつかわれるようなので、このような疑問が出てくるのだと思います。
「親切・言行一致・忍耐・努力・反省・修養」は世俗の価値観にも通じ、それは一般に「人間関係を円滑にしよう」だとか「社会的地位を得たい」などを目的として修められますが、それって「出離生死」とは無関係なところでなされるものですよね。それを親鸞会では「獲信の善因縁だ」として勧めるのですから、やはりどうしても「雑行」を勧めているのと同じなのです。


>ネット上で聞書探しましたが原文しかありませんでした…

先哲の註釈等をもとに原文を読める程度の日本語古語読解能力がないのであれば、「――の論拠は『○○』の「△△」という部分です」という風にお聖教を扱うのは控えられた方がよろしいかと思います。また、そういう方のために丁寧にわかりやすくみ教えを説かれる方はたくさんいらっしゃいますので、探してみてください。

投稿: 薄縹 | 2013年8月31日 (土) 11時47分

おかしいなあ。みじめやな高森派さんほど勉強している人ならこんな質問に答えるのは簡単だと思っていましたが…
三回も聞いているのに直接答えないのは何か魂胆でもあるのでしょうか。
4.化土巻末に経釈の御文があるが、その御文を紹介された親鸞聖人の目的は、内外廃立である、つまり外道を信じている人に対する御文である。
について議論しているのですよね?
このままでは
決着事項
1内外廃立しなければ、聖浄廃立、真仮廃立はできない
2断・常見を離れて、因縁法を信じなければ内外廃立できない。
3浄土真宗の信前の人には世間・出世・報土の因果のいずれも信じていない人はいない
4真仮廃立とは因縁法を超えた18願を信じよ、ということ。
ということになりますが。

>偽装僧侶のブログで書いた内容で、キミが誰かバレバレ。
誤解ですね

>深信因果
信前…実機は因果を撥無している、仮相では因果の道理を信じている。あくまで仮相なので実際は行福はできない。
信後…因果を撥無しているのも本当。因果を深信しているのも本当。
>二種深信のお言葉
もし善因善果・悪因悪果・自因自果を深信していなければ、現在の自己がハッキリしても、過去の因、未来の果がわからないことになる。
>極悪深重の衆生
親鸞聖人は善悪の凡夫、大慶喜心を獲、とは書かれていません。
>煩悩具足の衆生は
善人は悪業を造ってないとは言っていません
煩悩とは悪業のこと
具足とはそれしかないということ
だから煩悩具足の凡夫とは悪人のこと
清浄の心がなく真実の心がないのだから善はできない。これについてはコメントがありませんでしたが。
>仏滅後2600年後の今日は悪人しかいない
法然上人でさえ「愚痴の法然房・十悪の法然」と仰有っている

投稿: デーブ | 2013年8月31日 (土) 20時42分

機の深信は「自力では出離できない」ということですが、それとともに実機が知らされるのではないですか。

法の深信より機の深信が先にたつということはないと思います。

善について正しく理解した上であれば、浄土真宗の人は倫理道徳的善および仏法伝える活動やお布施に消極的になることはない、ということですか。
諸善が蓋ということは、最近親鸞会でよく聞く御文「これにつけても、人間は老少不定と聞くときは、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、急ぎいかなる菩提・涅槃をもねがうべき事なり」の、功徳・善根も蓋になるということですか。
先哲の注釈や解説付きのサイトがあれば教えて貰えませんか。
親鸞会では物(時間・体力・お金)を仏法の為に使うことが報謝になる、と聞きましたが。

投稿: デーブ | 2013年8月31日 (土) 20時43分

>唯除五逆誹謗正法

そのまま書き下して読めば、五逆の罪を犯した者と正しい法を誹謗した者は、18願の救いからは除くという意味。

つまりは五逆罪と、因果の道理をなきものにすることとが、非常に重い罪であることを警告しています。

ところで、御和讃に「釈迦弥陀は慈悲の父母」とありますが、親鸞会では絵像・木像を地獄行きに繋がるとして捨てています。
これは慈母のごとき仏の身体を傷つける行為で、五逆の罪の一つです。その行為は途方もなく重い罪であると知らなくてはなりません。

投稿: シシ | 2013年8月31日 (土) 21時22分

慈母 ⇒ 悲母

投稿: シシ | 2013年8月31日 (土) 21時28分

>おかしいなあ。みじめやな高森派さんほど勉強している人ならこんな質問に答えるのは簡単だと思っていましたが…
>三回も聞いているのに直接答えないのは何か魂胆でもあるのでしょうか。
>4.化土巻末に経釈の御文があるが、その御文を紹介された親鸞聖人の目的は、内外廃立である、つまり外道を信じている人に対する御文である。

何が言いたいのかさっぱりわからない。
何を答えてほしい訳?

他人のコメントも理解できない訳ね。
そりゃそうでしょうよ、その程度の日本語の能力しかないものね。


>1内外廃立しなければ、聖浄廃立、真仮廃立はできない

これはOKね。

>2断・常見を離れて、因縁法を信じなければ内外廃立できない。

これは違うと何度も何度も書いたけど理解できない訳ね。

>3浄土真宗の信前の人には世間・出世・報土の因果のいずれも信じていない人はいない

これも違うね。

>4真仮廃立とは因縁法を超えた18願を信じよ、ということ。

これはOKね。


ここまで書いたら、理解できる?

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月31日 (土) 21時36分

>>偽装僧侶のブログで書いた内容で、キミが誰かバレバレ。
>誤解ですね

はは、笑うしかないね。

>>深信因果
>信前…実機は因果を撥無している、仮相では因果の道理を信じている。あくまで仮相なので実際は行福はできない。
>信後…因果を撥無しているのも本当。因果を深信しているのも本当。

この根拠がないから妄想と言ったんだけど、解からないのね。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月31日 (土) 21時37分

>>二種深信のお言葉
>もし善因善果・悪因悪果・自因自果を深信していなければ、現在の自己がハッキリしても、過去の因、未来の果がわからないことになる。

解からないけどね。
『執持鈔』に

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。

死後にどこに行くかわからないと仰っているけど、これは未来の果が解からないってことでしょ。

何が解かるかと言えば、出離できていないこと、今度も出離できないこと、これ以上は解からないね。


>>極悪深重の衆生
>親鸞聖人は善悪の凡夫、大慶喜心を獲、とは書かれていません。

前に

>すべての人は、大慶喜心を獲たとき、極悪人と知らされる

日本語がおかしいね。
主語が「極悪深重の衆生」。
すべての人は、大慶喜心を獲たとき、極悪人と知らされる、なんて意味には絶対にらないから、中学生にでも日本語の文法を教えてもらったら如何?

と書いたけど、中学生に教えてもらってきたの?

どこに、「すべての人は、大慶喜心を獲たとき、極悪人と知らされる」という意味になる単語、語句、文があるのか明示せよ。


>>煩悩具足の衆生は
>善人は悪業を造ってないとは言っていません
>煩悩とは悪業のこと
>具足とはそれしかないということ
>だから煩悩具足の凡夫とは悪人のこと
>清浄の心がなく真実の心がないのだから善はできない。これについてはコメントがありませんでしたが。

他人のコメントを全く理解できない愚かさがここでも露呈しているね。

善人は煩悩によって悪を作るが善をなす人
悪人は煩悩によって悪を作るのみで善は皆無

煩悩具足したまま善を行う。この善を有漏善という。
観経疏のいは、常没の凡夫(煩悩具足の凡夫)が善をすると教えられているんだけど。
飛雲さんにコテンパンにやられたのを忘れてしまったようだね。

>>仏滅後2600年後の今日は悪人しかいない
>法然上人でさえ「愚痴の法然房・十悪の法然」と仰有っている

解かっていないね。
もう一度いうよ、煩悩をもったまま善をするのが善人。この善は有漏善。
有漏善は悪じゃないよ、善だよ。
十悪を犯していても、善ができないなんてことはないよ。

何度でも悪人の定義

「世俗・仏法二種の善根あることなし。ただ悪を作ることをしるのみ。」

悪人は有漏善、言い換えると雑毒の善さえもできない人のこと。
善人とは、悪を作るが、雑毒の善をなす人。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月31日 (土) 21時55分

と言う訳で、何度でも完全決着事項

1.因果の道理を深信することおよび浅信することは、行福であり、雑行である。

2.因果の道理を深信する人および浅信する人は、闡提ではなく、極重の悪人でもないので、全人類が闡提および極重の悪人という高森会長の説は間違い。

3.親鸞聖人は、因果の道理を往生と関連付けて考えることを自力の心および仏智不思議を疑う心と仰っているので、因果の道理を往生と関連付けて考えることは捨てなければならない。つまり、高森会長の教えを捨てなければ、獲信できない。

4.化土巻末に経釈の御文があるが、その御文を紹介された親鸞聖人の目的は、内外廃立である、つまり外道を信じている人に対する御文であり、因果の道理を深信するように勧められたものではない。

5、高森会長の言う因果の道理の説明は往生と関連付けているし、ダイヤの譬えは完全に間違いである。

6.智覚禅師は上品上生の往生を遂げられたと、法然上人も親鸞聖人も認めておられますが、智覚禅師は因果の道理を深信された人であり、因果の道理を深信する衆生は存在する。

7.諸善は間に合わぬから、捨てよと教えてれているだけで、諸善を勧められた親鸞聖人のお言葉は皆無である。

8.昭和55年に紅楳英顕氏が質問したことに対して、高森会長は未だに答えていない。

9.「仏法・世俗の二種の善根あることなし。」(観経疏)の悪人の定義から、聖道門も19願も通らずに、念仏だけで往生を遂げることができる。また「この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。」(選択本願念仏集)と教えられているので、悪人に善は勧められていないし、善と言う方便もない。それが「極重の悪人は他の方便なし」(往生要集)の意味である。

10.「悪人より善人の方が報土往生が遅れることはない」は、馬鹿の証みたいな論理である。善知識方は、18願の救いは善悪無関係と教えられているが、悪人正機・善人傍機のために、善人の往生が遅れる傾向にあると仰っている。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月31日 (土) 21時59分

1.仏教と外道どちらを選びますか?

  仏教

2.では聖道門と浄土門とどちらを選びますか?

  浄土門

3.最後に真と仮とどちらを選びますか?

  真

順調にいけば、聖道門も仮の浄土門に迷うこともありませんが。
親鸞会は、2で聖道門をまず選ばせ、3で仮を選ばせてから、真を説くという遠回りをさせていることがよくわかりました。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月31日 (土) 22時00分

>>深信因果
>信前…実機は因果を撥無している、仮相では因果の道理を信じている。あくまで仮相なので実際は行福はできない。
>信後…因果を撥無しているのも本当。因果を深信しているのも本当。


ワロタ。

信前も信後も
深信=撥無
ってことでしょ。

じゃあやっぱり、深信といっても、疑い無くハッキリしている、なんていう親鸞会の言っていることはデタラメってことね。

で、行福のできた智覚禅師のことは認めているので、深信因果とは真宗では行福のできること意外に意味はない。

誤魔化しが下手過ぎてワロタ。

投稿: M野さんへ | 2013年8月31日 (土) 22時07分

「この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。」(選択本願念仏集)

ということは、平生の時は仏教を信じていない状態。

臨終に仏教を信じ、浄土門を信じ、真実18願を信じたと言うこと。
臨終に、因果の道理を信じるという道程はないよ。だって、因果の道理を深信することも、浅信することも行福なんだから。
悪人は、「善根あることなし」で深信因果は善根だから、深信因果することは無始より金輪際ありえないんでしょ。
深信因果をせずに、18願を深信した。

これ以上の説明が必要?

アホをこれ以上晒したいの?

投稿: M野さんへ | 2013年8月31日 (土) 22時18分

六師外道たちへ

「自力の行者をば、如来とひとしといふことはあるべからず」(『弥陀如来名号徳』)

投稿: シシ | 2013年8月31日 (土) 22時22分

>内外廃立

源空(法然)聖人の『選択集』の三選の文の最初にあるように、

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

「すみやかに生死を離れんと欲」う、というのが内外廃立ですよ。
「人生の目的」とか「絶対の幸福」といったことばに惑わされてはいけません。


>機の深信は「自力では出離できない」ということですが、それとともに実機が知らされるのではないですか。

親鸞会では「実機」とか「実相」などの語を軽々しく「転用」し過ぎだと思います。それらの語が浄土真宗の御法義の歴史上どのような意味を持ち、どのように使われていたかを、まず知らねばなりません。


>善について正しく理解した上であれば、浄土真宗の人は倫理道徳的善および仏法伝える活動やお布施に消極的になることはない、ということですか。
諸善が蓋ということは、最近親鸞会でよく聞く御文「これにつけても、人間は老少不定と聞くときは、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、急ぎいかなる菩提・涅槃をもねがうべき事なり」の、功徳・善根も蓋になるということですか。

相変わらずデーブさんはかたくなに「お念仏」を勧めることについて語られませんね……。真実信心を獲た他力念仏の行者は、お念仏を申しつつ「世の生業(なりわい)に いそし」むのです。それにつけては倫理道徳的善は必要になってきますし、「自信教人信」のとおり南無阿弥陀仏のみ教えを伝え、またそのために懇志――ここでは誤解を防ぐため「布施」という語は使わないようにします――をおさめたり、あるいは募ったりします。これらは「それでもって(それを自分の功徳として)仏果にいたらんとする行為」ではありませんので、「雑行」でもなければ蓋でもありません。

挙げられた御文の功徳・善根については、その御文全体を読むとわかりますが、蓋になってしまいます。現に私たちに至りとどけられている南無阿弥陀仏のいわれを聞き、疑いなく身をまかせてともにお念仏申しましょう、ということを勧められているのであって、そのために諸善万行をせよ、ということでは決してありません。


>先哲の注釈や解説付きのサイトがあれば教えて貰えませんか。

サイトなら、例えば以下のようなものがあります。

http://labo.wikidharma.org/index.php/WikiArc:%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97%E8%81%96%E5%85%B8%E7%9B%AE%E6%AC%A1

ただ私が言いたかったのは、「一度親鸞会の外に出て、いろいろな方の法話をお聴聞したり、いろいろな本を読んだりしてみてはいかがでしょうか」ということなのですけれどね。


>親鸞会では物(時間・体力・お金)を仏法の為に使うことが報謝になる、と聞きましたが。

「信心正因 称名報恩」ということについて、今一度深くお考えください。

投稿: 薄縹 | 2013年8月31日 (土) 22時55分

深信因果は行福

これは常識。
しかし、親鸞会では「信前信後を問わず因果の道理を深信する親鸞学徒」と書いたものだから、
わけのわからない擁護に必死になっているんだね。

深信因果に因果撥無の意味があるなら、根拠を示してから言えというもの。

投稿: ダラマキノ | 2013年8月31日 (土) 23時36分

飛雲さんが偽装退会者ブログに私が書いた決着事項を紹介してくださいました。
この中で関連する部分だけピックアップしておきます。

4.デーブさんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。

5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。

6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。

7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。

10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、デーブさんの断章取義が確定。

11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。

12.結局、「常没の凡夫には善ができない」とデーブさんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。

13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。

17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。

19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。

22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。

27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年8月31日 (土) 23時53分

>深信因果をせずに、18願を深信した。

自力じゃん。

投稿: シシ | 2013年9月 1日 (日) 00時38分

観経疏の深心釈に二種深信を含む七深信が示されています。
この七深信の内容で、深信因果についての言及がないのですが。

>信後…因果を撥無しているのも本当。因果を深信しているのも本当。

こんな意味の内容は、当然、ない。

結局、深信因果と真実の信心を示す

深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。(観経疏)

とは無関係ということ。関係ありそうなものとしては第三深信の

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。(観経疏)

ですね。
この「『観経』に三福九品・定散二善」の中に深信因果が含まれるので、深信因果で言い換えてみると、

また決定して深く、釈迦仏深信因果を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

深信因果は、浄土を願っていない人に浄土を願わしめるためのもの、となります。
なぜならこの深信因果は、聖道門でも教えられる行の1つであり、それを回向したのが、観経の散善に当たる深信因果なので、聖道門を信じている人を浄土門に導き入れるための方便という意味でしかない、と深信したこと。

獲信したら深信因果させられるとか、妄想以外の何物でもない。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年9月 1日 (日) 05時50分

第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。

これって他力じゃん。

投稿: ジュウロク | 2013年9月 1日 (日) 06時07分

》みじめやな高森派さん

つまり信前には因果を信じることもあるけど、信後には必ず因果を否定する外道になるということですか?

》ジュウロクさん

第一の深信を忘れていませんか?

投稿: シシ | 2013年9月 1日 (日) 09時32分

シシさんも、日本語の能力が欠落しているようです。

あなたのコメント

>>深信因果をせずに、18願を深信した。

>自力じゃん。

って、分かってるの?
深信因果をするしないは救いとは無関係。
「18願を深信した」に相当するのが「第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。」

それと、私へのコメントではないけど、

>信後には必ず因果を否定する外道になるということですか?

誰がそんなバカなことをいっているの?
コメントを控えられることをお勧めします。

投稿: ジュウロク | 2013年9月 1日 (日) 10時10分

どうも日本語の不自由な人が若干いるようで。

因果の道理を信じる信じないについて簡単にいうと

1.因果の道理を深信する-行福
2.因果の道理を信じ信ぜず-行福
3.因果の道理を知ってはいるが信じているのでも否定するのでもない
4.因果の道理を撥無、否定する-闡提

3と4を混同しているのは、情けない。

投稿: M野さんへ | 2013年9月 1日 (日) 10時48分

》ジュウロクさん

「深信した」のだから、自力です。
それと、私のコメントを無視しないでください。

》みじめやな高森派さん

知っているのに信じないなら、本当に知っているとは言えないでしょう。
信じないなら、無いと信じているわけで、因果を知らないということです。

投稿: シシ | 2013年9月 1日 (日) 11時36分

「決定して乗彼願力を深信する」

これも自力かと聞いているのですが。

第一深信も「深信する」ですが、自力か?

日本語が未熟過ぎるからコメントしない方が良いですよ。

投稿: ジュウロク | 2013年9月 1日 (日) 11時51分

無宗教の人はいうでしょう。

キリスト教を知っていますが、信じていません。

本当に知っているのですが、信じていません。
信じないからといって、その教えが無いと信じているわけではありません。

因果も同じこと。知っている上で信じるのは、行福です。

日本語が未熟過ぎる。

投稿: ジュウロク | 2013年9月 1日 (日) 11時53分

宇宙人のことが話題になることがあります。

その内容をよく知っています。

しかし、信じていません。本当に知っていますが信じていません。かといって否定もしていません。


こんな簡単な論理も理解できないから、コメントしない方が恥かかなくてすみますよ。

投稿: ジュウロク | 2013年9月 1日 (日) 12時00分

「深信した」は自力で、「深信する」は他力?

かなりいかれてますね。

投稿: ジュウロク | 2013年9月 1日 (日) 12時01分

荒らしは、デーブさんを喜ばせるだけ。
無視に限りますよ。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年9月 1日 (日) 12時17分

苦情がきています。

言われていることが、判らないコメントは、荒らしとして削除しますので、ご了承ください。

投稿: 飛雲 | 2013年9月 1日 (日) 12時47分

親鸞会の因果論、悪人論、宿善論…はどうも誤りのようですね。
他の教義議論についてはまだ不審がありますが。
なお私が偽装僧侶、偽装退会者、講師部員でないのは本当ですよ。
飛雲さんを藁人形論法と非難したことについては謝罪します
>お念仏
親鸞会ではあまり念仏をすすめないので、私もそうなるのだと思いますし、私自身他力念仏をすすめるというのがどういうことか、実際のところよく分かっていないと思います。
>サイトなら、例えば以下のようなものがあります。
感謝します。
>ただ私が言いたかったのは、「一度親鸞会の外に出て、いろいろな方の法話をお聴聞したり、いろいろな本を読んだりしてみてはいかがでしょうか」ということなのですけれどね。
親鸞聖人の教えを学びたいと思っていますが、親鸞会にいると金銭的・時間的・環境的に、いろんな人の法話を聞いたりいろんな本を読むのは難しいのは事実でしょうね。勉強といえば原文を読むくらいでしょうか。

投稿: デーブ | 2013年9月 1日 (日) 23時34分

そろそろ各地で秋季彼岸会が勤められます。本来は彼岸の入り~中日~明け、と七日間の法要ですが、ところにより一日のみの場合も多いようです。また、すでに報恩講の「お取り越し」も始まっています。各寺院あるいは各家庭各地域ごとに法要を厳修し、法話をお聴聞し、宗祖の恩徳をしのび、もってますますお念仏申す日暮を送らせていただこうと営まれる浄土真宗の伝統が、今も生きています。「お念仏」についてはそのような場でお聴聞させていただくのが一番だと思います。本山の御正忌報恩講についてはインターネットでの中継もされます(残念ながらタイムシフト再生等はないようですが)。特に「改悔批判」は、浄土真宗の「安心・報謝・師徳・法度」について、「領解文」にもとづいて詳しくお聞かせいただくことが出来ますから、ぜひ暇を見つけてお聴聞されてください。

それとあんまり「勉強勉強!」と肩ひじ張ると、いきおいテクスト批判めいたことに終始してしまい、お聖教に記された「南無阿弥陀仏」のみ教えが、現に私(たち)にはたらきかけておられるということに思いがいかなくなってしまいます。そのことを「教え「を」学ぶではなく、教え「に」学ぶのであるよ」と、よくいわれます。

投稿: 薄縹 | 2013年9月 3日 (火) 13時19分

ありがとうございます。

投稿: デーブ | 2013年9月 4日 (水) 22時41分

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