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2013年8月

2013年8月28日 (水)

宿善論が間違っているのは、破綻した因果の道理によるからだと気付かない高森顕徹会長

因果の道理で阿弥陀仏の18願を理解しようとすること自体が仏智不思議を疑う心なのですが、救いに遇うまでの道程を因果の道理で説明しようというのが、高森流宿善論です。

高森流宿善論が間違っているのも、高森流因果の道理を根拠にしているからです。

源信僧都は『往生要集』に教えておられます。

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざるなり」と。{略抄}

また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。《平等覚経》に説かれている。

善男・善女があって、無量清浄仏のみ名を聞いて、喜び踊り、身の毛がよだって抜けるように思う人は、みな悉く過去世にすでに仏道を修めているものである。もしまた人があって、仏を疑って信じないものは、みな悪道から来て、その罪がまだ尽きないもので、なおまだ解脱を得ることができないのである。

また《大集経》の第七巻に説かれている。

もし衆生があって、すでに無量無辺の仏の所において、もろもろの徳本を植えたものは、この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。中略 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。たとい聞くことができたとしても、まだ必ずしも信ずることはできないのである。

これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

生死の因縁は不可思議なり」です。五逆の者のように、「薄徳のもの」でも「聞くことを得るも、その縁知りがたし」で、過去世の功徳が少ない者であっても、18願念仏往生を聞いて信じることができるので、その理由を知ることは難しいと源信僧都でさえ仰っています。

また

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

源信僧都のような方でさえも、過去世の因縁について知ることは難しい、と繰り返し仰っています。「道理に違せり」「これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。」と明言をさけておられます。宿善とは、過去世において善をしてきたかどうか、という単純なことではないと、源信僧都は仰っているのです。
そんなことなど、もちろん知らない高森会長は因果の道理で、未だに信心決定までの道程を説明してます。

一応言っておきますが、全人類が極重の悪人ならば、全人類は「薄徳のもの」になります。「薄徳の」全人類が18願の教えに遇うのですから、高森流因果の道理はここでも破綻しています。

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2013年8月23日 (金)

世間事の範疇でしか18願を理解できない高森顕徹会長

高森顕徹会長は、阿弥陀仏の救いを因果の道理で説明する際に、たとえで話をします

二束三文の炭素が、高温高圧という強い縁によってダイヤに変わるようなものだ。

この話を聞くと、納得する人が多いと思います。しかし、納得するということは、不可思議でもなければ、超世希有でもありません。凡夫の智慧で思議できることであり、世の中に例のある話になってしまいます。ここで大問題は、因はあくまで我々にあるということです。

往生の因、成仏の因を、我々が持っているというのは、親鸞聖人の教えではありません。

『教行信証』信巻に親鸞聖人は

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

と仰っています。
ここを、当然ながら高森会長は読んだこともないでしょう。

往生の因、成仏の因になる行と信は、阿弥陀仏が用意なされて、それを我々に回向し与えてくださっているのです。我々に因がないのを阿弥陀仏が因を与えて下さる、これを本願力回向というのです。

このことを象徴的に顕わされたのが白道であり、親鸞聖人は白道を「本願力の回向の大信心海」と仰っています。
あるいは、信巻に引かれた『涅槃経』の阿闍世の物語に出てくる「無根の信」です。

ダイヤの譬えでいうなら、炭素を持っていないのにダイヤができるのです。
だから、不可思議の願力であり、超世希有の正法になるのです。

高森会長のいうような因果の道理に完全に反しているのが、18願ですから、18願で救われたいと思うなら、高森会長の因果の道理の話を聞いてはならないのです。聞けば聞くほど、本願力回向を疑い、仏智不思議を疑うことになるからです。

本願力回向が全く理解できていないから、高森会長は、白道を自力の求道心とか、我々のなした善を宿善に変えて下さる、とか愚かな珍釈を連発するのです。

以前に何度も出しましたが、『安心決定鈔』の以下のところを何度も読んでみてください。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。

異安心集団の親鸞会から、身も心も解放されなければ、この『安心決定鈔』も理解できないでしょう。

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2013年8月20日 (火)

雑行・自力の心・仏智不思議を疑う心を必死に勧める高森顕徹会長

ここ最近、高森顕徹会長が話をしていることは、因果の道理です。因果の道理なら、誰でも納得し、非難されることもないだろう、という考えでしょうが、この考え方こそが、異安心の証拠です。

「深信因果」が何を意味するのかさえも全く知らない無二の善知識

でも述べましたが、まず、因果の道理を信じることは行福の1つになります。因果の道理を深信することは、上品中生の条件の1つであり、因果の道理を浅信することでも、上品下生の条件の1つになります。当然ながら、これは雑行です。
因果の道理を浅くでも信じていれば、十悪・邪見・闡提の人ではありません。つまり、善人です。

全人類は極重の悪人とか言いながら、因果の道理を信じている親鸞会会員は極重の悪人ではないことになります。

次に、親鸞聖人はこの因果の道理についてどのように考えられていたのかを見てみます。

『教行信証』化土巻・真門釈

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

と仰っています。20願自力念仏のことを仰ったものです。『愚禿鈔』にも

また弥陀念仏について、二種あり。
 一には正行定心念仏、
 二には正行散心念仏なり。
  弥陀定散の念仏、これを浄土の真門といふ、また一向専修と名づくるなりと、知るべし。

とあります。念仏でさえも、「罪福を信ずる心」で称えたならば、「自力の専心」とされた訳です。つまり、因果の道理を信じる心は自力なのですから、捨てものです。

『正像末和讃』誡疑讃には、

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

仏智の不思議を疑惑して
 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば
 胎生といふとときたまふ

などと教えられています。19願自力諸善、20願自力念仏ともに、因果の道理を信じているから、化土にしか往生できないのであり、それは仏智不思議を疑う心だと言いきっておられます。

以上をまとめると、因果の道理を信じることは雑行であり、自力の心であり、仏智不思議を疑う心ということになります。すべて、「捨てよ」と言われているものです。

18願は、因果の道理に超異しているので、因果の道理の範疇で考えているうちは18願の意味すら理解することができません。

高森会長は、常に、親鸞聖人の教えと正反対のことを教えます。親鸞聖人が「捨てよ」と仰ったものを、高森会長は「せよ」と拾わせます。
高森会長の話を聞いて、救われないのは当然なことでしょう。

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2013年8月14日 (水)

本願力回向を知らず、仏智不思議を否定し、超選民思想宝くじ信心の高森教

親鸞会では、会員のことを、「選ばれた人の中の選ばれた人の中の選ばれた人」というように言うことがあります。獲信者においては、その会員の中で、理不尽な指導のふるい落としに耐え忍び、サバイバルゲームで最後まで生き残った中で更に選ばれたスーパーエリートだけがなれるものだと皆思い込んでいます。完全な超選民思想です。

高森顕徹会長の出身である華光会を非難する時に使う、「バーゲン信心」がそれを如実に物語っています。

しかし、この「バーゲン信心」という非難こそ、阿弥陀仏の仏智不思議を疑う心であり、親鸞聖人の教えのまさに根基ともいえる本願力回向を破壊するものです。

まず、「バーゲン信心」とは、大安売りで容易く手に入れることのできる信心、ということで、親鸞会のような宝くじ信心とは対極に当たるといいたいのでしょうが、親鸞聖人の教えを少しでも学んだならば、高森会長の異安心に気が付くでしょう。

なぜなら、他力信心は「バーゲン信心」どころか「無料配給信心」といっても過言ではありません。「バーゲン」では全員が買える訳ではありません。限られた品しかありませんし、そもそもそれを買うだけのお金を持っていない人は買えません。
これでは「十方衆生」を救うと誓われた18願と相違しています。
ましてや、親鸞会の宝くじ信心では、18願の「十方衆生」など大嘘です。
親鸞聖人は18願の「唯除五逆誹謗正法」を解釈なされて、『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と仰っています。
18願から漏れているものはいない、ということで、18願の「十方衆生」の意を「唯除五逆誹謗正法」で補足なされていることが判ります。
ちなみに、19願には「唯除五逆誹謗正法」がありませんので、19願には「十方衆生」とあっても漏れている悪人がいることになります。
3年前のmixiでの法論で、高森会長が大惨敗した内容です。

阿弥陀仏は嘘偽りなく、誰彼関係なく救うために、「バーゲン」ではなく、無料で配給なされたのが、本願力回向なのです。

この回向とは、仏が修行をなされて得られる功徳を、我がものとなされることなく、衆生に分け与えることをいいます。つまり、親鸞会のいう他因自果、自因他果を教えられたのが、回向です。

阿弥陀仏が超載永劫の御修行によって得られた功徳を、誰彼関係なく条件なく無料で分け与えて下されることを、本願力回向というのです。

従って、獲信者がたくさんいることを「バーゲン信心」とか言っている時点で、外道なのです。

これが高森教の教義の実態です。

いつもの10項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

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2013年8月 9日 (金)

善導大師に論破された聖道諸師の解釈を信じながら、「我独り仏の正意に明らかなり」と勘違いしている高森顕徹会長

五逆罪の者が臨終に念仏を10回称えて往生する、と説かれた『観無量寿経』下品下生の往生を、文面通りに受け取れなかったのが、聖道門の諸師です。
天台大師が顕したと伝えられる『浄土十疑論』には

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

とあります。要するに、過去世における善業が強いが故に、善知識に遇って10回の念仏で往生を遂げたのだという解釈です。ここに親鸞会の言う宿善の概念が持ち込まれているのです。つまり、親鸞会の宿善論の原点は、天台大師伝著の『浄土十疑論』にあるといえます。

また、善導大師は『玄義分』の中で、下品下生を含む下輩について、当時の聖道門の解釈を以下のように紹介されています。

下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 ともに同じく一位にして往生を求願すとは、いまだかならずしもしからず、知るべし。

臨終に初めて往生を願ったのではなく、過去世および平生に大乗を学び始めた凡夫だという解釈です。上記の宿善論と似通った論理です。

それに対して善導大師は反論なされました。

『玄義分』

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗始学の十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗始学の十信位の人ということができようか。もし他師らのような考えをするならば、みずから利益を失い他をあやまらせて、害をなすことがいよいよ甚だしい。

と仰っています。
下品上生、下品中生、下品下生について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」と明言なされています。
過去世にも、仏道修行したことがないだけでなく、倫理道徳の善さえもしてこなかった、つまり、下品上生、下品中生、下品下生の悪人は、過去世の善根がないのです。過去世の善根がないのですから、高森理論では”無宿善の者”です。

ここまで読まれればお判りいただけると思いますが、高森会長の理論は、善導大師に論破された聖道諸師の理論そのままです。

なぜ、高森会長はこんな簡単な誤りをしたのかと言えば、阿弥陀仏のお力を過小評価しているからです。もっとハッキリ言えば、18願の誓いだけでは足りないから、善を補う必要があると考える、仏智不思議を疑う心があるからです。これを疑情ともいいます。

『正信偈』の

善導独明仏正意

の意味も知らず、仏智不思議を疑う心、疑情があることを公言する高森会長の話を聞いて、善導大師の御心が判ると思いますか?仏智不思議を疑う心、疑情が無くなることがあると思いますか?

親鸞聖人の教えを悉く否定する高森会長を悪知識として見限って、往生への道が開かれるというものです。

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2013年8月 4日 (日)

『観無量寿経』といえば韋提希のことという短絡思考の高森顕徹会長

聖道門においても浄土門においても、『観無量寿経』で最も注目される点は、下品下生の往生です。
高森顕徹会長は、『観無量寿経』といえば韋提希のこと、としか語れないところが、無知を証明しています。
高森会長は、親鸞聖人が『教行信証』で何を強調されているかも知らないのです。

親鸞聖人は『教行信証』の1割も費やしているのが、『涅槃経』に説かれた阿闍世のことです。『観無量寿経』の韋提希ではなく、なぜ阿闍世なのかと言えば、阿闍世は五逆の者であるからです。『観無量寿経』で五逆の者である下品下生の往生が確かに説かれていますが、その実例として親鸞聖人は阿闍世を取り上げられているのです。

阿弥陀仏の18願によって、五逆罪を犯した最下の者でも救われることを阿闍世を通して説明されている訳です。

高森会長の知らない下品下生の往生とは、平生に善を全くせず、仏法を聞いてこなかった五逆の者が、臨終になって初めて仏法を聞こうと思い、善知識から念仏を勧められるままに、10回の念仏を称えて往生する、ということです。

このことを簡潔に説明されているのが『選択本願念仏集』

下品上生は、これ十悪の罪人なり。臨終の一念に罪滅して生ずることを得。下品中生は、これ破戒の罪人なり。臨終に仏の依正の功徳を聞きて、罪滅して生ずることを得。
下品下生は、これ五逆の罪人なり。臨終の十念に罪滅して生ずることを得。
この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

です。

善の勧めも無ければ、三願転入も関係ない話です。『観無量寿経』で最重要とも言える下品下生の往生だけで、高森邪義は簡単に論破できます。

このことを端的に仰ったのが、『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

です。
『正信偈』では

極重悪人唯称仏

です。
極重の悪人とは下品下生の者のことですが、善という方便なしでただ念仏を称えて往生できるのが、18願です。

ある会員が、この「極重悪人唯称仏」について講師部員に説明を求めたところ、称名報恩だからとか、訳の分からないことしか言えなかったそうです。
師が下品下生の往生さえ知らないのですから、弟子が説明できないのも当然でしょう。

『正信偈』さえまともに読めない高森会長は、真宗学について、本当に何も知らないのです。

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