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2013年7月26日 (金)

「一向専念無量寿仏」の意味さえ正反対の理解をしている高森顕徹会長

前回の雑行の定義について反論があるかもしれないと待っていましたが、今のところのないので、続きを書きます。

高森顕徹会長も講師部員も会員も、五雑行を捨てて阿弥陀仏一仏に向いてさえいれば、諸善をしていても「一向専念無量寿仏」だと思っているのでしょうが、それはとても恥ずかしい勘違いです。「一向専念無量寿仏」の意味も知らないで、アニメを作っているのですから、本願寺から相手にされなくて当然でしょう。

一向専念無量寿仏」については法然上人が『選択本願念仏集』で次のように教えておられます。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

(現代語訳)

ところが本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。
「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。もしそうでなければ、一向の言葉がどうしても解釈しがたいであろう。

念仏と善との「兼行」では、「一向」ではありません。「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」ことが「一向」です。つまり法然上人の仰っている「一向」とは念仏だけを専ら修することです。

親鸞聖人も法然上人の教えを継承されて『一念多念証文』

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と仰り、蓮如上人も『御文章』2帖目第9通

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と仰っています。
もちろん、「一向」とは、「余の善にうつらず」のことであり、雑行である「自余の万善万行」に対して、「なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや」なのです。念仏1つと教えられていることであり、諸善を捨てよ、ということです。

ところが高森会長は、諸善を勧めていて、「一向専念無量寿仏」を勧めていると胸を張っているのですから、もの凄いギャグです。右へ行けと親鸞聖人が教えられているから、左へ行くのが正しい、と言っているようなものです。

親鸞会の”雑行の定義”で言えば、

一向専念無量寿仏」とは、”五雑行と言われるものと諸善万行”を捨てること

です。

いつものように高森顕徹会長は、基本的な仏語の意味さえ知らずに、知ったかぶりをしているだけのことです。

19願とか宿善とか言いながら布施等を勧めることは、一向専念無量寿仏」を否定すること

この程度のことも知らないから、高森会長が真宗界で馬鹿にされて当然でしょう。

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