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2013年7月23日 (火)

高森顕徹会長の「雑行を捨てよとは、自力の心を捨てよであって、善をするなではない」の詭弁を暴く

高森顕徹会長は、雑行と善との関係さえも知りません。それで「雑行を捨てよとは、自力の心を捨てよであって、善をするなではない」と頓珍漢な事を言っています。完全に詭弁です。

蓮如上人は『御文章』3帖目第13通

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

と仰っています。
簡単に言えば、
信前の人も信後の人も心得ておくことは、国の法律を守り、倫理道徳の善に努めなさい。
信心決定するには、雑行・雑善を捨てて阿弥陀仏に一心一向になりなさい。
そうすれば報土に往生できます。

こういうことです。

この蓮如上人の御言葉だけで、高森会長の詭弁が明確になります。

親鸞聖人は雑行の定義を『教行信証』化土巻

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

とされています。
雑行とは、もともと「往生の因種」ではない善を「回心回向」したもの、ということです。
聖道門で教えられる善はたくさんありますが、それは往生をするために修する善ではありません。この世でさとりを開いて出離し、最終的に成仏することを目指しています。したがって、聖道門の善は「往生の因種にあらず」です。しかし、この聖道門の善自体はそのままで、それを浄土往生のためと思ってすると「往生の因種」になります。これが「回心回向の善」であり、「浄土の雑行」になるのです。

具体的に言えば、定善、散善三福中の行福・戒福は、聖道門の善と行は同じですが、心が違います。

では高森会長の誤魔化しに利用される倫理道徳の善はどうなるのかといえば、これも同じです。倫理道徳の善を浄土往生のためと思ってすれば、それは散善三福中の世福になり雑行です。浄土往生とは無関係と思ってすれば、単なる倫理道徳の善で、雑行ではありません。

ここで最初の「雑行を捨てよとは、自力の心を捨てよであって、善をするなではない」に戻りますと、この自力の心が浄土往生のためと思う心のことですから、親鸞会の言う、

  • 宿善
  • 三願転入
  • 善をしなければ信仰が進まない

という考えに相当します。
つまり、「自力の心を捨てよ」は親鸞会の言う上記の考え方を捨てよになり、その「自力の心」を捨てたなら、最初から「雑行」は成立しない訳です。

親鸞会が強要している布施は、この「自力の心」を伴っています行福ですから、雑行でするな、です。一方で、親鸞会の活動のために犠牲にしている親孝行などの倫理道徳の善は、通常「自力の心」を伴いませんので、雑行にはなりません。

結論

「雑行を捨てよとは、自力の心を捨てよであって、善をするなではない」は、親鸞会の勧める善を捨てよであって、倫理道徳の善を疎かにするな。

こういうことです。

偽装勧誘や盗作もしてはいけませんよ、

お判りですか、高森会長。

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コメント

親鸞会では、自力が廃ると同時に他力に入る、
自力は自分では捨てられない(阿弥陀仏の願力によってすたる)、
と教えています。

親鸞会で勧める布施などの善を捨てても自力は捨てられない、
ということでしょうか?
自力についてご教示いただければ幸いです。

投稿: ブルームーン | 2013年7月23日 (火) 09時55分

ブルームーン 様

自力にもいろいろあるということです。

聖道門でさとりを開こうとするのも自力ですが、これは自分で捨てることができます。
雑行をして諸行往生をしようとするのも自力ですが、これも自分で捨てることができます。
この2つは、行が間違っていますので、間違った行を捨てて正しい行である念仏を選択することで、このようなレベルの低い自力は誰でも捨てることができます。

問題は、正しい行である念仏を選んだにも関わらず、その行を自分の善行と考える自力については、自分で捨てることができません。
聞法にしても同じです。聞法を積み重ねることで信心を獲ようとする自力についても、自分で捨てることはできません。

まとめると、親鸞会で勧めているような布施は、最初から行が間違っていますので、そんなレベルの自力は簡単に捨てることができますが、正しい行の念仏、あるいは聞法についての自力は別ですので、これが最後まで残って、阿弥陀仏によって捨てさせられることになります。

投稿: 飛雲 | 2013年7月23日 (火) 10時53分

有り難うございました。
よく分かりました。

投稿: ブルームーン | 2013年7月23日 (火) 21時04分

では、自力の心を捨てるには、どうするべきなのかを教えて頂けませんでしょうか?

投稿: 一年生 | 2013年7月24日 (水) 09時06分

ありがとうございました。
雑行を捨てよ、とは自力の心を捨てよということなんですね。
倫理・道徳の善に励むのは当然ですが、仏教で説かれる善はやるべきでしょうか?
親鸞聖人・蓮如上人の教えを聞いていた人達が、法財施をしていなかったとは考えにくいですが…(宿善になるかならないかは別として)

投稿: とある名無し | 2013年7月24日 (水) 16時46分

一年生 様

自力の心を捨てるには、間違った思いをすべて捨て去ることです。
親鸞会で教えている間違いすべてをまずは捨ててみてください。
そうすれば、自力の心も捨てることができるでしょうが、それさえできなければ話になりません。

投稿: 飛雲 | 2013年7月24日 (水) 21時39分

とある名無し 様

財施とか考えるから迷うのだと思います。
援助であり、支援です。
親鸞聖人は御消息の中で、同行に援助を請われていますが、それが宿善だとか信仰が進むとかという理屈も理由も仰っていません。
獲信、往生とは何の関係もないからです。

投稿: 飛雲 | 2013年7月24日 (水) 21時43分

よく分かりました。
ありがとうございました。

投稿: とある名無し | 2013年7月25日 (木) 00時06分

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