「深信因果」が何を意味するのかさえも全く知らない無二の善知識
高森顕徹会長は何かの一つ覚えで、”因果の道理”を連呼していますが、浄土門において因果の道理を信じることが何を意味するかさえ知らないのです。
7月1日号の顕正新聞の論説には、
信前信後を問わず、因果の道理を深信する親鸞学徒は、光に向かって日々、努力精進するのは当然であろう。
とあります。「因果の道理を深信する親鸞学徒」と断言していますが、これは言い換えると「上品中生の親鸞学徒」、もっと判りやすく言えば、「善人の親鸞学徒」ということです。全人類は闡提(=因果を撥無する機)を完全に否定していますが、それにも気が付いていないようです。
まず、「因果の道理を深信する」は、散善の行福に当たります。
『観無量寿経』には、行福について
三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。
とあります。
また上品中生においては
深く因果を信じて大乗を謗らず。
とあり、上品下生では
また因果を信じ大乗を謗らず。
と説かれています。
これを善導大師は『散善義』でそれぞれ解説なされています。
まず
三福ともに行ぜざるものをすなはち十悪・邪見・闡提の人と名づく。
とある通り、因果を深信していれば、「十悪・邪見・闡提の人」ではありません。
上品中生については
深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。
とあります。因果の道理を深信しているなら、上品中生の1つの条件を満たしています。
次に上品下生については、『観無量寿経』の「また因果を信じ」について
所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の〔上品中生の〕深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。
とあります。簡単に言えば、因果の道理を信じる時もあれば信じない時もある、深信ではないが浅くでも信じていることをいいます。「因果の道理を深信する親鸞学徒」に当てはまらない、言わば「落ちこぼれの親鸞学徒」ということです。
上品下生でさえ、「因果の道理を深信する親鸞学徒」失格なのですから、況や中品上生・中生・下生の善人は、幽霊会員のことでしょうし、下品上生・中生・下生の悪人など、会員を除名されるでしょう。
しかし、極重の悪人である下品下生が全人類の実機であるとも断言しているのですから、話にならないです。それとも信前は「因果の道理を深信する親鸞学徒」で、信後は「因果の道理を撥無する親鸞学徒」という苦しい言い訳でもいうのでしょうかね。それなら「信前信後を問わず」も嘘になります。
もちろん、「深信因果」は雑行です。信前も信後も必死に雑行を勧めて、いつ雑行を捨てるつもりなのでしょうか?
一応言っておきますが、世俗の因果を18願の救いと無関係と思って信じていれば雑行ではありません。
しかし高森顕徹会長のように、因果の道理を深信して、三願転入の道を進むだの宿善を厚くするだの信仰云々と言っている時点で雑行です。これを親鸞聖人は「仏智不思議を疑う心」と仰って厳しく誡められました
少しは整合性のとれる創作話を考えてください、無二の善知識高森顕徹会長。
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コメント
有難うございます。勉強になりました。
善知識方の仰せは素直に聞けば解り易いものですね。
邪見に基づいて複雑怪奇な解釈をつけると「深すぎて解らない」という事態になるようです。
投稿: | 2013年7月28日 (日) 10時29分
名無し 様
もともと、そんなに難しい話ではありません。
一文不知の尼入道でも判る教えですから。
投稿: 飛雲 | 2013年7月28日 (日) 21時00分