20願を通ったことがない異安心を自ら証明した高森顕徹会長
信一念の時しか雑行を捨てることができない、という邪説を唱えている親鸞会ですが、ここで自己矛盾に気が付いていません。
20願とは、雑行を捨てて念仏一行になることをいいます。もちろん自力の念仏ですが。
20願文に雑行のことは当然出てきません。
親鸞聖人が20願について仰った御言葉は、幾つもあります。
『教行信証』化土巻に
経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。
(現代語訳)
釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。
あるいは、同じく化土巻・真門釈に『散善義』を引かれて
〈仏告阿難汝好持是語〉より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願の意を望まんには、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称するにあり
(現代語訳)
『観無量寿経』の<仏、阿難に告げたまはく、なんぢ、よくこの語を持(たも)て>、すなわち<そなたはこの言葉をしかりと心にとどめるがよい>と述べられているところからは、阿弥陀仏の名号を阿難に託して、はるか後の世まで伝え広めることを明らかにされたものである。『観無量寿経』にはここまで定善・散善の利益が説かれているけれども、阿弥陀仏の本願のおこころからすると、釈尊の思召しは、人々に阿弥陀仏の名号をただひとすじに称えさせることにある
また『法事讃』を引かれて
極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、おそらくは生じがたし。ゆゑに如来、要法を選びて教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり
(現代語訳)
極楽は変ることのないさとりの世界である。人それぞれの縁にしたがって修めるような自力の善根によっては生れることができない。だから釈尊は本願の名号を選びとって、ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった
など、他にもたくさんの御文があります。すべて、20願についてです。
雑行との関係が最もよく判るのが、『三経往生文類』で
弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。
(現代語訳)
「弥陀経往生」 というのは、 植諸徳本の願 (第二十願) によって 「不果遂者」 と誓われた真門に入り、 あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。
です。
一言で言えば、雑行を捨てなければ20願には入れないのです。
ならば、高森顕徹会長は、雑行を信前に捨てることができないと断言していますので、20願を通っていないことになります。
三願転入せずしては蟻一匹助からない
と豪語していたのですから、20願を通っていない高森会長は、助かっていない、ということになります。
高森会長も、講師部員も、本願寺僧侶を偽装した者も、高森会長の異安心を自ら証明してしまったのですから、実にお粗末です。
親鸞会の知能など、この程度のものです。
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コメント
雑行に二つあるのは、ご存知ですか?そのどちらのことを言われているのか、判断が出来ていないのでは?
投稿: 一年生 | 2013年7月24日 (水) 13時00分
一年生 様
雑行に2つあると仰った親鸞聖人の御言葉を挙げてみてください。蓮如上人でもいいですよ。
残念ながらありません。
高森会長が諸善を勧める口実に2つに分けただけです。
勉強してください。
投稿: 飛雲 | 2013年7月24日 (水) 21時49分
高森教からすると高森雑行と本願寺雑行と言いたいんじゃないですか
何種類あろうと専修念仏の尊さには及ばないのです。
投稿: 新人ア太郎 | 2013年7月24日 (水) 23時06分