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2013年7月

2013年7月30日 (火)

見たこともない『観無量寿経』を熟読したかのように嘘をつく高森顕徹会長

親鸞聖人の教えを平気で捻じ曲げ続ける高森顕徹会長の心情は、このようなものでしょう。

世の中には、信じられないようなおかしなことを平気で言う教祖がおる。そんな者達に比べたら、ワシは真面目に教えを説いている。

高森会長の性格を考えれば、これ以上でないことは確かでしょう。
ハッキリ言ってしまえば、親鸞聖人の教えを正しく伝えることに興味がないのです。それで、聖教を読む気持ちすら起きないのです。これが無二の善知識の実態です。

さて、高森流善の勧めの最大の根拠が、『観無量寿経』ですが、言うまでもなく、高森会長は『観無量寿経』を全く見ていないでしょう。読んでいなくても、少しでも見ていれば、最近言い始めた、浄土に生れたいと思う心を起すために善を勧められている、というような愚かな話はできないでしょう。

実際に『観無量寿経』を読んでみると、高森会長の無知が鮮明に知らされます。

頻婆娑羅王は牢から釈尊に対して以下のように懇願しています。

「大目犍連はこれわが親友なり。願はくは慈悲を興して、われに八戒を授けたまへ」

(現代語訳)

「世尊のお弟子の目連尊者はわたしの親しい友でございます。どうかお慈悲をもって尊者をお遣わしになり、わたしに八斎戒をお授けください」

八斎戒とは、戒律のことです。
一方で韋提希は、

「如来世尊、むかしのとき、つねに阿難を遣はし、来らしめてわれを慰問したまひき。われいま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし。願はくは目連と尊者阿難を遣はして、われとあひ見えしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、あなたは以前から、いつも阿難尊者を遣わしてわたしをいたわってくださいましたが、わたしは今深く憂いに沈んでおります。世尊をここにお迎えするなどということは、あまりにも恐れ多いことでありますから、どうか目連尊者と阿難尊者をお遣わしになって、わたしに会わせてください」

と頻婆娑羅王同様に、釈尊ではなくお弟子に来てほしいと要望しています。ここは、高森会長の説明と違いますが、ここではこれ以上は触れません。
しかし、釈尊御自ら韋提希のもとに来られました。そこで韋提希が釈尊に言ったことは、

「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」

です。

頻婆娑羅王と韋提希との違いが判られたでしょうか。

頻婆娑羅王は、「われに八戒を授けたまへ」と戒律を授かりたいと願ったのです。
一方の韋提希は、「わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。」と往生を願ったのです。
判りやすく言えば、頻婆娑羅王は聖道門を求め、韋提希は浄土門を願ったということです。ここですでに、聖道門と浄土門とに分かれています。

釈尊が善を説かれる以前に、韋提希は浄土門を選んでいる訳です。

頻婆娑羅王はその後

そのとき世尊、すなはち微笑したまふに、五色の光ありて仏の口より出づ。一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。

(現代語訳)

すると釈尊はにこやかにほほえまれ、五色の光がその口から輝き出て、その一つ一つが頻婆娑羅王の頭を照らした。そのとき頻婆娑羅王は、王宮の奥深く閉じこめられていたけれども、少ししもさまたげられることなく心の目で遠く釈尊を仰ぎ見て、頭を地につけて礼拝した。すると心がおのずから開かれて、二度とこの迷いの世界に帰ることのない位に至ることができたのである。

と「阿那含」になっています。
阿那含」については、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』には、

梵語アナーガーミンの音写。不還と漢訳する。再び迷いの世界にもどらない者の意。声聞の修道の階位、四果の第三位で、欲界の煩悩をすべて断ち切って、再び欲界に還ってこない位をいう。この果を阿那含果(不還果)といい、この果を得ようとして修行する位を阿那含向(不還向)という。

とあります。要するに頻婆娑羅王は「阿那含」になれる善人であったということです。一方の韋提希は、「阿那含」にはなれない悪人であるから、釈尊が韋提希の求めに応じられて韋提希のもとに行かれて、浄土往生の教えを説かれたということです。善人の頻婆娑羅王には、釈尊が行かれるまでもないことでしたが、悪人の韋提希には釈尊が行かれなければなければならなかったということです。

このように、釈尊は機に応じて法を説かれ、悪人の韋提希にはこの後、諸仏の浄土を見せられて、韋提希に阿弥陀仏の浄土を選ばせている、というのが『観無量寿経』の最初です。

これを『教行信証』総序

しかればすなはち浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。

(現代語訳)

ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。

と韋提希によって、浄土門を説かれる機縁が熟した、と親鸞聖人は仰ったのです。

韋提希にとっては、浄土に生まれたいと思う心と善とは無関係です。

この簡単な話を、親鸞会の会員も自分の目で確かめてもらいたいと思います。

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2013年7月28日 (日)

「深信因果」が何を意味するのかさえも全く知らない無二の善知識

高森顕徹会長は何かの一つ覚えで、”因果の道理”を連呼していますが、浄土門において因果の道理を信じることが何を意味するかさえ知らないのです。

7月1日号の顕正新聞の論説には、

信前信後を問わず、因果の道理を深信する親鸞学徒は、光に向かって日々、努力精進するのは当然であろう。

とあります。「因果の道理を深信する親鸞学徒」と断言していますが、これは言い換えると「上品中生の親鸞学徒」、もっと判りやすく言えば、「善人の親鸞学徒」ということです。全人類は闡提(=因果を撥無する機)を完全に否定していますが、それにも気が付いていないようです。

まず、「因果の道理を深信する」は、散善の行福に当たります。
『観無量寿経』には、行福について

三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。

とあります。
また上品中生においては

深く因果を信じて大乗を謗らず。

とあり、上品下生では

また因果を信じ大乗を謗らず。

と説かれています。
これを善導大師は『散善義』でそれぞれ解説なされています。
まず

三福ともに行ぜざるものをすなはち十悪・邪見・闡提の人と名づく。

とある通り、因果を深信していれば、「十悪・邪見・闡提の人」ではありません。
上品中生については

深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。

とあります。因果の道理を深信しているなら、上品中生の1つの条件を満たしています。
次に上品下生については、『観無量寿経』の「また因果を信じ」について

所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の〔上品中生の〕深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。

とあります。簡単に言えば、因果の道理を信じる時もあれば信じない時もある、深信ではないが浅くでも信じていることをいいます。「因果の道理を深信する親鸞学徒」に当てはまらない、言わば「落ちこぼれの親鸞学徒」ということです。

上品下生でさえ、「因果の道理を深信する親鸞学徒」失格なのですから、況や中品上生・中生・下生の善人は、幽霊会員のことでしょうし、下品上生・中生・下生の悪人など、会員を除名されるでしょう。

しかし、極重の悪人である下品下生が全人類の実機であるとも断言しているのですから、話にならないです。それとも信前は「因果の道理を深信する親鸞学徒」で、信後は「因果の道理を撥無する親鸞学徒」という苦しい言い訳でもいうのでしょうかね。それなら「信前信後を問わず」も嘘になります。

もちろん、「深信因果」は雑行です。信前も信後も必死に雑行を勧めて、いつ雑行を捨てるつもりなのでしょうか?

一応言っておきますが、世俗の因果を18願の救いと無関係と思って信じていれば雑行ではありません。
しかし高森顕徹会長のように、因果の道理を深信して、三願転入の道を進むだの宿善を厚くするだの信仰云々と言っている時点で雑行です。これを親鸞聖人は「仏智不思議を疑う心」と仰って厳しく誡められました

少しは整合性のとれる創作話を考えてください、無二の善知識高森顕徹会長。

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2013年7月26日 (金)

「一向専念無量寿仏」の意味さえ正反対の理解をしている高森顕徹会長

前回の雑行の定義について反論があるかもしれないと待っていましたが、今のところのないので、続きを書きます。

高森顕徹会長も講師部員も会員も、五雑行を捨てて阿弥陀仏一仏に向いてさえいれば、諸善をしていても「一向専念無量寿仏」だと思っているのでしょうが、それはとても恥ずかしい勘違いです。「一向専念無量寿仏」の意味も知らないで、アニメを作っているのですから、本願寺から相手にされなくて当然でしょう。

一向専念無量寿仏」については法然上人が『選択本願念仏集』で次のように教えておられます。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

(現代語訳)

ところが本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。
「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。もしそうでなければ、一向の言葉がどうしても解釈しがたいであろう。

念仏と善との「兼行」では、「一向」ではありません。「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」ことが「一向」です。つまり法然上人の仰っている「一向」とは念仏だけを専ら修することです。

親鸞聖人も法然上人の教えを継承されて『一念多念証文』

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と仰り、蓮如上人も『御文章』2帖目第9通

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と仰っています。
もちろん、「一向」とは、「余の善にうつらず」のことであり、雑行である「自余の万善万行」に対して、「なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや」なのです。念仏1つと教えられていることであり、諸善を捨てよ、ということです。

ところが高森会長は、諸善を勧めていて、「一向専念無量寿仏」を勧めていると胸を張っているのですから、もの凄いギャグです。右へ行けと親鸞聖人が教えられているから、左へ行くのが正しい、と言っているようなものです。

親鸞会の”雑行の定義”で言えば、

一向専念無量寿仏」とは、”五雑行と言われるものと諸善万行”を捨てること

です。

いつものように高森顕徹会長は、基本的な仏語の意味さえ知らずに、知ったかぶりをしているだけのことです。

19願とか宿善とか言いながら布施等を勧めることは、一向専念無量寿仏」を否定すること

この程度のことも知らないから、高森会長が真宗界で馬鹿にされて当然でしょう。

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2013年7月24日 (水)

高森顕徹会長に騙されて、雑行の定義を知らない人のために

真宗学を学んだことのない高森顕徹会長が、雑行の定義を知る筈もないのですが、高森会長に騙されたままの人も多いので、一応雑行について説明しておきます。

雑行については、善導大師が『散善義』で明確に定義されています。

一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。
もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。

この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。
もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。 もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。

正行以外の諸善をすべて雑行とされています。

善導大師の定義に基づいて、更に詳しく教えて下されたのが法然上人です。『選択本願念仏集』

次に雑行は、すなはち文に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。一には読誦雑行、二には観察雑行、三には礼拝雑行、四には称名雑行、五には讃歎供養雑行なり。
第一に読誦雑行といふは、上の『観経』等の往生浄土の経を除きてのほかの大小乗顕密の諸経において受持し読誦するをことごとく読誦雑行と名づく。第二に観察雑行といふは、上の極楽の依正を除きてのほかの大小、顕密、事理の観行をみなことごとく観察雑行と名づく。第三に礼拝雑行といふは、上の弥陀を礼拝するを除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において礼拝恭敬するをことごとく礼拝雑行と名づく。第四に称名雑行といふは、上の弥陀の名号を称するを除きてのほかの自余の一切の仏・菩薩等およびもろもろの世天等の名号を称するをことごとく称名雑行と名づく。
第五に讃歎供養雑行といふは、上の弥陀仏を除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において讃歎供養するをことごとく讃歎供養雑行と名づく。
このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。

(現代語訳)

次に雑行というのは、すなわち文に「この正助の二行を除いて、ほかのいろいろな善根は、ことごとく雑行と名づける」といわれたのがこれである。その意味をいえば、雑行は無数であって、つぶさに述べることはできないが、ただ、今はしばらく五種の正行に対して、もって五種の雑行を示そう。一つには読誦雑行、二つには観察雑行、三つには礼拝雑行、四つには称名雑行、五つには讃嘆供養雑行である。
第一に読誦雑行というのは、上の《観経》などの往生浄土の経 (浄土の三部経) を除いて、他の大乗.小乗、顕教.密教のいろいろな経を受け持たもって読誦するのを、悉く読誦雑行と名づける。
第二に観察雑行というのは、上の極楽の依報.正報を除いて、他の大乗.小乗、顕教.密教における仏の相好などを観ずる行や、直ちに真如の理を観ずる行などを、みな悉く観察雑行と名づける。
第三に礼拝雑行というのは、上の阿弥陀仏を礼拝することを除いて、他のすべての仏.菩薩など、および諸の世天など (梵天.帝釈天.四天王など) を礼拝し敬うのを、悉く礼拝雑行と名づける。
第四に称名雑行というのは、上の阿弥陀仏の名号を称えることを除いて、他のすべての仏.菩薩など、および諸の世天などの名号を称えるのを、悉く称名雑行と名づける。
第五に讃嘆供養雑行というのは、上の阿弥陀仏を除いて、他のすべての仏.菩薩など、および諸の世天などを讃嘆し供養するのを、悉く讃嘆供養雑行と名づける。
このほか、また布施や持戒など数多くの行があるが、みな雑行の言に摂め尽くすことができる。

とあります。
諸善を五正行に対して五雑行で顕わされたものです。諸善と五雑行が別にあるのではありません。同じです。

次に親鸞聖人は『教行信証』化土巻に、

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

(現代語訳)

浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
正とは、読誦.観察.礼拝.称名.讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦.観察.礼拝.讃嘆.供養の五種である。雑行とは、正.助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善.散善や世福.戒福.行福の善を修め、三輩.九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

と教えておられます。
この後に前回述べた

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

と解説を加えられています。

なお、これは『浄土和讃』

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

と同じ意味です。
親鸞会では、これが善を勧められた根拠だととんでもない妄想をしていますが、諸善万行は至心発願(=回心回向)したら、往生浄土の方便の善(=雑行)にならないものはない、という意味です。

更には化土巻で

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。

とまで仰って、

万行=雑行=諸行

と教えて下さっています。

御文は難しいかもしれませんが、雑行の定義は簡単です。

浄土を願って行う諸善万行を雑行といい、その中で五正行に対して五雑行で顕わされることがある。

余りにもお粗末なんですよ、高森教学は。

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2013年7月23日 (火)

高森顕徹会長の「雑行を捨てよとは、自力の心を捨てよであって、善をするなではない」の詭弁を暴く

高森顕徹会長は、雑行と善との関係さえも知りません。それで「雑行を捨てよとは、自力の心を捨てよであって、善をするなではない」と頓珍漢な事を言っています。完全に詭弁です。

蓮如上人は『御文章』3帖目第13通

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

と仰っています。
簡単に言えば、
信前の人も信後の人も心得ておくことは、国の法律を守り、倫理道徳の善に努めなさい。
信心決定するには、雑行・雑善を捨てて阿弥陀仏に一心一向になりなさい。
そうすれば報土に往生できます。

こういうことです。

この蓮如上人の御言葉だけで、高森会長の詭弁が明確になります。

親鸞聖人は雑行の定義を『教行信証』化土巻

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

とされています。
雑行とは、もともと「往生の因種」ではない善を「回心回向」したもの、ということです。
聖道門で教えられる善はたくさんありますが、それは往生をするために修する善ではありません。この世でさとりを開いて出離し、最終的に成仏することを目指しています。したがって、聖道門の善は「往生の因種にあらず」です。しかし、この聖道門の善自体はそのままで、それを浄土往生のためと思ってすると「往生の因種」になります。これが「回心回向の善」であり、「浄土の雑行」になるのです。

具体的に言えば、定善、散善三福中の行福・戒福は、聖道門の善と行は同じですが、心が違います。

では高森会長の誤魔化しに利用される倫理道徳の善はどうなるのかといえば、これも同じです。倫理道徳の善を浄土往生のためと思ってすれば、それは散善三福中の世福になり雑行です。浄土往生とは無関係と思ってすれば、単なる倫理道徳の善で、雑行ではありません。

ここで最初の「雑行を捨てよとは、自力の心を捨てよであって、善をするなではない」に戻りますと、この自力の心が浄土往生のためと思う心のことですから、親鸞会の言う、

  • 宿善
  • 三願転入
  • 善をしなければ信仰が進まない

という考えに相当します。
つまり、「自力の心を捨てよ」は親鸞会の言う上記の考え方を捨てよになり、その「自力の心」を捨てたなら、最初から「雑行」は成立しない訳です。

親鸞会が強要している布施は、この「自力の心」を伴っています行福ですから、雑行でするな、です。一方で、親鸞会の活動のために犠牲にしている親孝行などの倫理道徳の善は、通常「自力の心」を伴いませんので、雑行にはなりません。

結論

「雑行を捨てよとは、自力の心を捨てよであって、善をするなではない」は、親鸞会の勧める善を捨てよであって、倫理道徳の善を疎かにするな。

こういうことです。

偽装勧誘や盗作もしてはいけませんよ、

お判りですか、高森会長。

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2013年7月21日 (日)

会員の選択の自由を奪う高森顕徹会長の手口

前々回、存覚上人が

雑行を棄てて」=「(法然上人の)門下に入りて

と解釈されていることを紹介しましたが、ここから言えることは、法然上人が雑行を勧めておられなかった、ということです。
当然と言えば当然なのですが、親鸞会はこの程度のことさえ、認めようとはしません。

法然上人の『選択本願念仏集』の結論である三選の文は、

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

です。
ここで仰っていることは、直ちに出離したいのなら

1.聖道門を捨てて浄土門に入りなさい
2.雑行を捨てて正行に帰しなさい
3.助業を傍らに置いて正定業の念仏を専修しなさい


という3つのことを実践しなさいということです。

1は、諸行によってこの世でさとりを開いて聖者となり成仏を目指す聖道門を捨てて、死後に浄土往生して成仏する浄土門を選びなさい、です。阿弥陀仏の本願を聞いている時点で、1の条件はクリアしています。

2は、本来聖道門における諸行はそのままで浄土を願って修すれば雑行となりますが、その雑行を捨てて、往生の正しい行である正行を修しなさい、です。これは1と関係していますが、雑行は聖道門の延長ですから、聖道門の考え方から脱却すれば、2の条件もクリアできます。親鸞聖人が法然上人の門下に入られた時点で、これを親鸞聖人はクリアされているのです。

3は、正しい往生行の中でも読誦・観察・礼拝・讚歎供養の4つは、18願に誓われた行ではないので、18願に誓われた念仏一行を専ら修しなさい、です。念仏称えることで往生させてみせると誓われた18願通りになることで、これが「本願に帰す」になる訳です。

このように法然上人は判りやすく3段階で、「本願に帰す」ことを教えられたのですが、親鸞会はこれが理解できない、というよりも理解したくないのです。

聖道門と浄土門のどちらを選択するかは、自分の意思です。この世でさとりが開け、いつか成仏できると思う人は聖道門を選ぶでしょうが、歴史に名を残した先達でさえ現実としてできなかったのに自分ができる筈が無いと思う人は浄土門を選びます。聖道門を実践しなければ浄土門を選択できないのではありません。

ならば同様に、雑行と正行のどちらを選択するかも、自分の意思で決定できるのです。助業と正定業の選択も同じです。

要するに、正定業の念仏一行を選択して、他を捨てるのは、その人本人の意思でなされるものであって、自分の意思で捨てることができないのではありません。

以上のことは、何も難しいことではありませんが、高森顕徹会長の詭弁に騙されると、雑行を強要されることになります。

聖教を少し読むだけで、高森会長の嘘は見抜けるのですが、聖教を読むことさえ禁止された会員には、正邪選択の自由も奪われてしまっているのです。

高森会長の極めて悪質な騙しの手口が、ここでも判るでしょう。

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2013年7月18日 (木)

20願を通ったことがない異安心を自ら証明した高森顕徹会長

信一念の時しか雑行を捨てることができない、という邪説を唱えている親鸞会ですが、ここで自己矛盾に気が付いていません。
20願とは、雑行を捨てて念仏一行になることをいいます。もちろん自力の念仏ですが。
20願文に雑行のことは当然出てきません。

親鸞聖人が20願について仰った御言葉は、幾つもあります。
『教行信証』化土巻

経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。

(現代語訳)

釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。

あるいは、同じく化土巻・真門釈に『散善義』を引かれて

〈仏告阿難汝好持是語〉より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願の意を望まんには、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称するにあり

(現代語訳)

『観無量寿経』の<仏、阿難に告げたまはく、なんぢ、よくこの語を持(たも)て>、すなわち<そなたはこの言葉をしかりと心にとどめるがよい>と述べられているところからは、阿弥陀仏の名号を阿難に託して、はるか後の世まで伝え広めることを明らかにされたものである。『観無量寿経』にはここまで定善・散善の利益が説かれているけれども、阿弥陀仏の本願のおこころからすると、釈尊の思召しは、人々に阿弥陀仏の名号をただひとすじに称えさせることにある

また『法事讃』を引かれて

極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、おそらくは生じがたし。ゆゑに如来、要法を選びて教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり

(現代語訳)

極楽は変ることのないさとりの世界である。人それぞれの縁にしたがって修めるような自力の善根によっては生れることができない。だから釈尊は本願の名号を選びとって、ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった

など、他にもたくさんの御文があります。すべて、20願についてです。

雑行との関係が最もよく判るのが、『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

(現代語訳)

「弥陀経往生」 というのは、 植諸徳本の願 (第二十願) によって 「不果遂者」 と誓われた真門に入り、 あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。

です。

一言で言えば、雑行を捨てなければ20願には入れないのです。

ならば、高森顕徹会長は、雑行を信前に捨てることができないと断言していますので、20願を通っていないことになります。

三願転入せずしては蟻一匹助からない

と豪語していたのですから、20願を通っていない高森会長は、助かっていない、ということになります。

高森会長も、講師部員も、本願寺僧侶を偽装した者も、高森会長の異安心を自ら証明してしまったのですから、実にお粗末です。

親鸞会の知能など、この程度のものです。

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2013年7月17日 (水)

雑行の意味さえ知らない高森顕徹会長

親鸞会は、雑行の意味についても知りません。
蓮如上人は

雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ

と『御文章』に何度も書き記しておられますが、

蓮如上人が「雑行をすてて」と仰っていることは、他力に帰すと同時なのだ、という勝手な解釈をしています。

蓮如上人の教学を語る上で、存覚上人を抜きにすることはできません。

『御一代記聞書』158に

前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。
こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

とあります。
蓮如上人は、存覚上人のことを釈尊の化身、勢至菩薩の化身とも敬っておられ、その著書も最大限の敬意を表して、そのまま受け入れられたのです。

では親鸞聖人が仰った有名な御言葉

建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。

を存覚上人はどのように解釈なされているのか。
『六要鈔』では、

「建仁」等とは、元年辛酉、大祖聖人六十九歳、鈔主聖人二十九歳。始めて門下に入りて即ち宗旨を伝う。

とあります。
雑行を棄てて」=「(法然上人の)門下に入りて
です。
法然上人の門下に入ったことと、他力に帰したこととは同時ではありません。

蓮如上人にこのことを尋ねてみるとどう答えられるでしょうか。

名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なり

でしょう。

高森顕徹会長以下、講師部員はこんなことさえ知らないのです。

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2013年7月11日 (木)

高森顕徹会長の現状を察知された伊藤康善師

高森顕徹会長が邪義を垂れ流し続け、邪義を修正する気の全くないのは、どんな気持ちなのか、とよく尋ねられます。一言で言えば、私利私欲を満たすことしか考えていないのでしょう。

その具体的例を、皆さんも御存知のことでしょう。

覚如上人は、『口伝鈔』に、このようなことを書かれています。

そのとき聖人(源空)のたまはく、「法師には三つの髻あり、いはゆる勝他・利養・名聞これなり。この三箇年のあひだ源空がのぶるところの法文をしるし集めて随身す。本国にくだりて人をしへたげんとす、これ勝他にあらずや。それにつけてよき学生といはれんとおもふ、これ名聞をねがふところなり。これによりて檀越をのぞむこと、詮ずるところ利養のためなり。この三つの髻を剃りすてずは、法師といひがたし。よつて、さ申しつるなり」と[云々]。

これは史実と異なると指摘されていますが、法然上人が仰ったとされるその内容を汲み取って頂くために敢えて紹介しておきます。

出家した人には、髻はありません。ない筈の髻が残っているとたとえをもって、法然上人が仰ったとされています。

ここで、華光会の伊藤康善師が高森会長に対して言われようとした話と置き換えてみると、実にぴったりきます。

高森会長が、華光会で学んで、華光会から独立して富山に戻ろうとしたところ、伊藤康善師から、「君には三つの髻がある。それは勝他・利養・名聞だ。私が教えてきたこと及び私の書籍を携えて、富山に戻って、真宗の僧侶を言い負かそうとする、これは勝他ではないのか。大沼法竜師の教えも学んで、すばらしい学者といわれたいと思う、これを名誉を願っているというのだ。これらによって、信者を集めようとすること、結局は自己の利益追及のためである。勝他・利養・名聞の三つの髻を剃り落さずしては、布教師とはいえない。」と叱りつけられた。

親鸞会を作った時に、伊藤康善師が高森会長に諌めの手紙を出されたり、直接会いに富山まで行かれたりしたそうですが、その時の伊藤康善師が言われたかったことに極めて近いでしょう。
ただし実際は、伊藤康善師に会おうともせず、忠告を聞こうともしなかったそうですので、会話が成立せず、そこは違います。

勝他・名聞は、本願寺との論争、盗作等で、説明は不要でしょう。
利養については、会長御殿と呼ばれる各会館に設けられている超豪華な会長室がその典型ですが、高森会長がホテルで宿泊する際も、当然一番高い部屋に泊ります。

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2013年7月 7日 (日)

高森顕徹流邪義の意図

微塵の善もできない者と知らせるために、善をするように勧められている」というのが、高森顕徹流邪義です。もちろん、これも大沼師からのパクリ損ないです。

もし、この理論が正しいとするならば、「微塵の善もできない者」とは「最もレベル度の低い善さえもできない者」の意味になる筈です。
なぜなら、「最もレベルの高い善はできないが、少しレベルをさげればできるかもしれない」という思いは、必ず出てきます。

『観無量寿経』で言えば、
定善が最もレベルが高く、定善のできない者のために釈尊は散善を説かれています。
散善の中でも、行福が一番レベルが高く、次に戒福、そして一番レベルの低いのが世福です。

レベルの高い順番に並べると、

定善>行福>戒福>世福

になります。

したがって、「微塵の善もできない者」と知らせるために善を勧めるならば、世福を勧めなければなりません。定善ができなくても、行福はできるかもしれません。行福ができなくても、戒福はできるかもしれません。戒福ができなくても、世福ができるなら、「微塵の善もできない者」は否定されてしまします。

ここまでは単純な理屈です。誰でも理解できる内容だと思います。

ところがこの単純な理屈が全く理解できないのが、高森会長であり、講師部員であり、会員です。

韋提希は、定善を実践しようとして定善ができず、「微塵の善もできない者」と知らされたことになっています。おかしいではないですか?

親鸞会では会員に勧められている善は建前上六度万行で実際は布施だけですが、これは行福です。命懸けで行福をしようとしてできなかったら、「微塵の善もできない者」と知らされることになっています。おかしくないですか?

なぜなら、最もレベルの低い、簡単な世福はできるかもしれないという”自惚れ”は、世福をしてみないとなくならないでしょう。
世福の代表は親孝行ですが、親鸞会では、

・親に反対されても、
・親から勘当されても、
・酷い例では親が自殺までして親鸞会を辞めるように抗議しても、

親鸞会で勧められる布施を優先するように指導されています。
布施を辞めれば、親孝行できる可能性は高くなりますが、無視し続けています。

これでは、世福さえもできない「微塵の善もできない者」と知らされることなど永久にありません。

補足すれば、韋提希が最初に実践しようとしたと親鸞会が説明する日想観は、定善十三観の中で、最も簡単なレベルの低い善です。しかし、韋提希は日想観ができなかったのに、日想観よりもレベルの高い水想観、更に地想観、…に挑戦していることになりますが、これもおかしいでしょう。
その証拠に『観無量寿経』地想観に、

この想成ずるとき、一々にこれを観じて、きはめて了々ならしめよ。
閉目・開目に散失せしめざれ。ただ睡時を除きて、つねにこの事を憶へ。かくのごとく想ふものを名づけて、ほぼ極楽国地を見るとす。

(現代語訳)

さてこの観が成就したなら、さらにそのようすを一つ一つ想い描き、それがきわめてはっきりと見えるようにして、目を閉じても開いても目の前から消え失せないようにしなければならない。そしてただ眠っているときを除いて、常にこのことを想い続けるがよい。このように想い描くことができれば、ほぼ極楽世界の大地を見たということができる。

とあります。
この想成ずる」は前の水想観のことですから、水想観ができたら地想観に進むという順番です。
もちろん

地想観>水想観>日想観

です。

不勉強の高森会長が『観無量寿経』を読んだことがないのは、当然でしょうが、理屈だけは通しておけば、恥をかかなくても済むのです。

高森会長にでも理解できるように結論を書いておきます。

「微塵の善もできない者」と知らされるために善を勧めるなら、世福を最も勧める筈です。世福を勧めずに、定善でもなく戒福でもなく行福のしかも布施だけを強く勧めるのは、高森会長の意図は違う所にある、ということです。

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2013年7月 3日 (水)

高森顕徹会長を喜ばせる財施は永久にできない

全国の会館建設で、財務状況が若干改善されたものの、自転車操業から抜け出せず、会員の負担は年々重くなってきています。

昔、高森顕徹会長は、「邪教に比べたら親鸞会の金集めは生ぬるい」と言っていましたが、今やその邪教を遥かに上回るなりふり構わぬ金集めがなされています。

通常なら、その異常さに気が付くのでしょうが、善の勧めなる妄想でマインドコントロールされた会員は、泣きながら耐え忍んでいます。

その心情は、「命懸けで善をしたならば、微塵の善もできないことが知らされて、自力が廃る」というものでしょうが、こんな変な理屈は親鸞会内だけでしか通用しません。

よく、「親孝行をすれば、親孝行のできないことが知らされる」と言いますが、この意味するところは、親孝行して親を喜ばせようとすると、親が子供に気を遣って、却って親に苦労させることになり、本当の意味で親孝行にならないことです。親孝行という行為自体ができないのでもなければ、親孝行したいという気持ちが嘘なのでもありません。

同様に、善をして善が微塵もできないと知らされるのではなく、中途半端な善しかできないと知らされるだけです。善をしたのですから、これだけの善ができたという実績が積み上がるだけです。

聖道門において、命懸けで善をするのは、成仏が目的です。19願諸行往生においては、報土往生が目的です。これらを目指している人が、成仏できる真実の善ができない、報土往生できる真実の善ができない、と知らされることはあるでしょう。
しかし、18願念仏往生を目指している人が、命懸けで善をして何を知らされたいのでしょうか。

善が微塵もできないと知らされることはありませんし、そもそもそんなことを知らされる必要がありません。

善人は善人のまま、悪人は悪人のまま救うと誓われたのが、18願です。

善によって初地まで至られた龍樹菩薩は菩薩のまま救われたのです。善根薄少で出離できないと仰った善導大師は出離できないまま、いずれの行も及びがたいと仰った親鸞聖人は行の及ばないまま、泥棒さえ止めることのできなかった耳四郎は泥棒のまま、父親を殺した阿闍世は五逆罪のまま、みな等しく救われたのです。

菩薩も善凡夫も悪凡夫も共通して知らされることは、『高僧和讃』

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

です。

会員も気が付いて欲しいものです。

親鸞会に財施をして知らされることは、高森会長を喜ばせる財施は永久にできない

ということを。

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