高森顕徹会長の話を信じることを、仏智疑惑・仏智不思議を疑う罪という。
最近の高森顕徹会長の話は、
18願で十方衆生を「一生不善の極悪人」と見抜かれ、19願では「力一杯、もろもろの善(功徳)を求めよ」と善を勧められている
です。
高森会長が、教えを修正しようとなど微塵も思っていないことが良く判ります。
教義批判に対して、高森会長が会員を騙すのに必死になっているだけです。
いつもの10項目
1.獲信していない人の死後はどうなるか
親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間2.五逆罪・謗法罪について
親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている3.善人と悪人について
親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である4.獲信のために善は必要か
親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない5.白道とは
親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力6.定散二善について
親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ
7.19願について
親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ
8.宿善について
親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない9.機の深信について
親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる10.善知識に無条件服従しなければならないか
親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ
『歎異抄』について
第1章
1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは
親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは
親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている3.「悪をもおそるべからず」とは
親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ第2章
4.「ただ念仏して」の「ただ」とは
親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天5.「総じてもつて存知せざるなり」とは
親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か
親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定第3章
7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは
親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない
はっきり言っておきますが、親鸞聖人の教えを正しく伝えようという気持ちは、高森会長には全くありません。私利私欲を満たすこと以外には、何も考えてはいません。
因果の道理は仏教の根幹、とか言っていますが、因果の道理自体高森会長は知りません。
簡単に解説すると、因果の道理と言った場合に、3つに分かれます。
世間の因果
出世間の因果
報土の因果
このことを分かりやすく教えられたのが、『安心決定鈔』です。
まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」(玄義分)とほめたまへり。
(現代語訳)
まことに極楽に参りたいと思えば、我々衆生自分にこそ、そのための願を起し行も励まねばならぬのであるのに、その願行は法蔵菩薩のお手元にお励み下されてその出来上がりは我々のものと成就して下された。このように仏のお励み下されたものが、私のものとなるということや、世間や仏法の上に普通いわれる自分のものは自分に造らればならぬという因果の道理には、はるかに超えており、異なっているものである。それで善導大師は『観経疏』玄義分には「別意の弘願」と讃嘆なされてある。
世間の因果とは、倫理道徳の話で、仕事をしたら報酬が得られる、勉強をしたら成績が上がる、といったものです。高森会長がよくする話です。
出世間の因果とは、仏教で教えられる善を修することで、さとりを得る、という聖道門の論理で、19願、20願もこれに当たります。
最後の報土の因果とは、阿弥陀仏の18願のことで、世間・出世間の因果を超えた因果です。阿弥陀仏が御修行なされて、その結果得られる功徳を衆生に分け与えて下さる、ということです。高森会長が万に一つ、億に一つ、兆に一つもないと断言した他因自果、自因他果のことです。
高森会長は、報土の因果について知らず、世間・出世間の因果で報土の因果を説明しようとするから、言っていることが破綻しているのです。
前回言いました、仏智疑惑とは、まさに高森会長の理解を指します。
罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける仏智不思議をうたがひて
罪福信ずる有情は
宮殿にかならずうまるれば
胎生のものとときたまふ
と教えられている通りです。
報土の因果と世間・出世間の因果と関係があるように思うことが、仏智疑惑・仏智不思議を疑うことになるのです。
要するに、高森会長の因果の道理の話を聞けば聞くほど、仏智疑惑・仏智不思議を疑う心が大きくなりますから、18願で救われなくしているのです。
一応言っておきますが、世間の因果については、通常は報土の因果と関連付けて考えることはありませんので、世間の因果について信じることは仏智疑惑・仏智不思議を疑うことになりません。ただし、高森会長のように、世間の因果と報土の因果とを関連付ける無茶苦茶な論理を信じれば、仏智疑惑・仏智不思議を疑うことになります。
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コメント
親鸞聖人は「罪福心」を戒められているのに、親鸞会は「罪福心の強い人が獲信に近い人」と教え、獲信のためには罪福心を深めてゆかねばならないと教える。これはもう、ズレているどころか真逆の教義です。廃立がサカシマです。
獲信した人ならば、「こんな有り難い他因自果があったとは・・・」という感慨があるものだろうと思いますが、高森会長からそんな言葉を聞いたことはないですね。いつも「万に一つ、億に一つもない」と言ってましたから。もっともそのように言わないと親鸞会教義が成り立たないですから~~~、残念っ!
投稿: | 2013年6月19日 (水) 20時43分
名無し 様
同感です。
投稿: 飛雲 | 2013年6月20日 (木) 21時10分