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2013年6月10日 (月)

デタラメを言う高森顕徹会長や退会偽装者が、「本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり」

『教行信証』真仏土巻に引かれた『涅槃経』の闡提について、解説してほしいとの御要望がありましたので、少し書いておきます。

またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

 「釈尊が仰せになる。<善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである>と。

釈尊が衆生の根性について、闡提を例に出して教えて下されたことろです。
衆生には、上根・中根・下根の別があるが、下根が中根になったり、中根が上根になったり、その逆もあるということです。それは定まったものではないからです。
闡提を例に出すと、

定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。

ですが、これは

根性が定まったものではないから、「善根を断ず」=闡提、「還りて(善根を)生ず」=闡提ではない、と変わるのだ、ということです。

闡提とは断善根とも言われますので、善根を生じたら闡提ではなくなる、ということです。ここでいう善根とは、仏法を求めようとする心、阿弥陀仏の本願を信じる心と理解すればよいでしょう。

ですから親鸞聖人は、『高僧和讃』善導讃

本願毀滅のともがらは
 生盲闡提となづけたり
 大地微塵劫をへて
 ながく三塗にしづむなり

(現代語訳)

本願を討ち滅ぼそうとする人は、
ものごとの見えない人であり教えを聞かない人と名づけられた。
想像もできない時間を経て、
長い間地獄餓鬼畜生の世界に沈むのである。

と仰っています。
毀滅」の左訓には

そしるにとりても、わがする法は勝り、またひとのする法は賤しといふを毀滅といふなり

とあります。つまり闡提とは、親鸞聖人の教えを真面目に信じている人のことではありません。更に、闡提の者の死後については、「ながく三塗にしづむなり」という表現をなされています。もちろん必堕無間という意味ではありません。

ここまで説明しても、

全人類は闡提の一機と『涅槃経』に説かれている

と喚き散らしているのですから、会話が成立しません。

高森顕徹会長や退会偽装者の妄想こそが、「本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり」にあたります。

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