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2013年6月12日 (水)

「凡夫」の意味さえ、高森顕徹会長・退会偽装者には、理解すること「あたはず」

下品についての説明は、曇鸞大師の『浄土論註』にもあります。

下品の凡夫ただ正法を誹謗せざれば、仏を信ずる因縁をもつてみな往生を得と。

下品の凡夫は、謗法罪を造らず、仏を信ずる因縁によって、みな往生できるということです。謗法罪を造っている者は、往生できないのは、言うまでもありません。

また、上品と下品を比較して以下のように仰っています。

この十七種の荘厳成就を観ずれば、よく真実の浄信を生じて、必定してかの安楽仏土に生ずることを得。

問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。一には、 おそらくは往生を得ざらん。二には、おそらくはさらに生ずとも惑ひを生ぜん。

答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。
(中略)
かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

この十七種の荘厳成就を観ずるならば、能く真実の信心をおこして、まちがいなくかの安楽国土に往生できるのである。

問うていう。上にいうてあるような生即無生の道理をさとるということは上品の往生者にいうことである。下下品の人のごときは、ただ十念念仏によって往生するので、こういうのは実消実滅の執着を持っているのではないか。ただ実生を執ずるならば二つの疑いに堕ちる。一つに、恐らくはこういう実消実滅を執ずる凡夫は往生を得ないであろう。二つに、往生しても更に生死相対の惑いを生ずるであろう。

答えていう。たとえば清浄なる摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、珠の力で水が浄らかになるようなものである。もし凡夫人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があっても、かの阿弥陀如来の法性真如にかなったこの上なき清浄の名号を聞いて、これを濁った心の中にいただくならば、念々の中に罪が滅し清浄の徳を得て、往生が得られる。
(中略)
かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、実消実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

上品の者は、「生は無生なりと知る」ことができても、下下品の者は、「生は無生なりと知る」ことができない。しかし、「無量生死の罪濁」であっても念仏によって罪が消えて往生できて、下品の者も煩悩も滅せられる。

ということです。

ここで、「無量生死の罪濁」とあるのは、上品の者に対して、下下品もしくは下品の者について仰っていることは、少しの国語の能力があればお判りになると思います。

これを善導大師は踏襲されて、『定善義』

如来はるかに末代罪濁の凡夫の相を立てて心を住むるすらなほ得ることあたはず、いかにいはんや相を離れて事を求むるは、術通なき人の空に居して舎を立つるがごとしと知りたまへり。

と仰っています。

『浄土論註』でいえば、上品の者のように「十七種の荘厳成就を観」じて、「生は無生なりと知る」ことのできる人があるのに対して、下下品もしくは下品の「罪濁の凡夫」には、定善はとてもできないということです。

これを親鸞聖人もそのまま踏襲されて、『教行信証』化土巻

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。

と仰っています。
常没の凡愚」は前回のエントリーでも述べたように、上品・中品・下品を含んだ凡夫のことですから、「定心修しがたし」「散心行じがたし」「立相住心なほ成じがたき」と「かたし」で統一されています。不可能ではないからです。
それに対して「末代罪濁の凡夫」という下下品もしくは下品については「得ることあたはじ」と「かたし」と表現が変わっています。ここの「あたはじ」は不可能の意味です。

このように、主語によって、「かたし」「あたはず」と言い換えられているのですが、国語の能力が不足している人には到底理解できないでしょう。

要するに、善のできる善凡夫と善のできない悪凡夫について、曇鸞大師・善導大師・親鸞聖人は明確に区別されているということです。

今回は、相当にレベルの高い話をしてきましたので、高森顕徹会長・講師部員・退会偽装者には、「理解しがたし」よりも「理解することあたはず」というべきでしょうね。

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