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2013年6月

2013年6月30日 (日)

秘事法門を説き続ける高森顕徹会長

高森顕徹会長の邪義は、衆知の事実になっていますが、高森信者は邪義を受け入れられない、もしくは邪義と知りながら今更後戻りできない、という状態です。

いつも言うように、高森会長の言っていることが親鸞聖人と無関係な高森教なら、勝手にすればいいでしょう。鰯の頭も信心からですので。

しかし、親鸞聖人の本心を高森会長が明らかにしている、という大嘘は止めてもらいたいものです。

全人類が極悪人、という根拠が、『教行信証』信巻・至心釈

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

と説明しています。
昨年の顕真6月号と7月号に「ひと口問答」として載せていた

問い

五逆罪や法謗罪は、造っている人と 造っていない人とがいると親鸞聖人は説かれているのに、全ての人が造っている罪であるいうのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に親鸞聖人は説かれています。
一切の群生海」とは、全ての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということです。親鸞聖人は至る所に説かれていることで、決して珍しい事ではありません。

問い

親鸞聖人は善人と悪人がいると仰っているのに、すべての人は悪人というのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に断言されています。
一切の群生海」とは、すべての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、悪人ということです。
 善人は一人もいないと仰っています。
 これは親鸞聖人の一貫して変わらぬ人間観で、世に轟いていることです。

ですが、今だに言い続けています。

この反論は

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」
親鸞会との問答(五逆・謗法・闡提について)
親鸞会との問答(善人・悪人について)

にまとめてあります。
補足すれば、

極悪人とは、正確には「極重の悪人」のことですが、これは下品下生のことを指しています。下品上生・下品中生も含めて、善導大師は『玄義分』で

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

と定義されています。

雑毒の善ができるなら、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」にはなりませんし、「ただ悪を作ることを知るのみ」でもないです。

現在の日本を見ていると判りにくいかもしれませんが、餓死すれすれの貧困にあえいでいる国では、善とか悪とか言っているような余裕がないのです。親鸞聖人がおられた当時の日本も似たような状況だったと思います。今日食べる食料もないのに、他人に施しができる訳もなく、親切をする余裕もありません。他人から食糧を奪わなければ生きていけないのです。

耳四郎がそうでした。法然上人から仏法を聞いた後でも、生きていくために泥棒を止めることができなかったと言われています。

雑毒の善ができるからせよ、そうすれば極悪人知らされる、とか、何を寝恍けたことを言っているのか、ということです。

まあ、人を騙してお金を巻き上げることしか考えていない人物は、極悪人といえるでしょうが。

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2013年6月27日 (木)

聖教も読んだことがない、理論も支離滅裂な高森顕徹会長

七高僧方、親鸞聖人は、「一生造悪」「極重の悪人」という言葉は使われていますが、それが全人類という意味で仰った箇所もなければ、御自身のことを指して仰ったこともありません。
原文を読めば判りますが、

一生造悪の者でも
極重の悪人でも

助けて下されるのが、阿弥陀仏の18願だということです。
最低最悪の者でも助けることができる阿弥陀仏の本願力回向を顕わされたのですが、それを

親鸞聖人は、全人類のことを一生造悪、極重の悪人と教えられた

と理解するのですから、高森顕徹会長は聖教を読んでいない、と退会者から馬鹿にされるのです。

もし、全人類が一生造悪、極重の悪人であるなら、最初から最後まで念仏しか勧められていないことは、『正信偈』を読めば判る筈ですが、高森会長は『正信偈』もまともに読めないのです。

一生悪を造れども、弘誓に値ひぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといへり。

極重の悪人はただ仏を称すべし。

私たちのことを、「一生造悪」「極重の悪人」と言う布教使はいますが、「一生造悪」「極重の悪人」だから善をしなさい、なんて言う頓珍漢な人は高森会長だけでしょう。

この支離滅裂な理屈が、支離滅裂と判る人は、普通の思考であり、そんな人は親鸞会を辞めていきます。支離滅裂な理屈が筋の通った話、と適当に納得する人が、未だ騙されて、搾取されている会員です。

高森会長の説く教えは、聖教にも全く合いませんし、筋も通っていませんので、高森会長と法論をして勝つことは、実に容易いことです。高森会長が邪教と罵っている教団のトップでも、高森会長より筋の通った話をしています。

以下さえ知っていれば、誰でも高森会長を論破できます。詳しい説明は、

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

高森親鸞会の誤りと浄土真宗の正義

を読まれればいいでしょう。

いつもの10項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
----------------------------------
高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
----------------------------------
高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
----------------------------------
高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
-----------
高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
----------------------------------
高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
--------
高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
----------------------------------
高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

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2013年6月24日 (月)

高森顕徹流詭弁「極重の悪人に善を勧められているのは、善のできない者と知らせるため」

ここ数年、多く親鸞会教義批判ブログができ、それらを見た真面目に親鸞聖人の教えを求める人は、親鸞会を去っていきました。

これに対する親鸞会の対応は、

ネットを見るな

の指導だけです。
高森顕徹会長には、もともと法論ができるような聖教の勉強をしてこなかったから、情報遮断しか退会を食い止める手段がないのです。

高森会長には仏教の基礎も、真宗の基礎もないために、妄想で教義を創作するより仕方がなかったのでしょう。

衆生と、善・念仏と関係については、浄土門も聖道門も同じ立場です。

善人に善を勧められ、悪人には念仏を勧められた

これが仏教の基礎であり、真宗の基礎でもあります。

そのものズバリの根拠は存覚上人の『持名鈔』にある

如来はすなはち良医のごとし。 機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機 には念仏をすすむ。

ですし、『勅修御伝』にある法然上人の御言葉、

口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすすめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。

もそうです。

ところが高森会長は

極重の悪人に善を勧められているのは、善ができると自惚れているから、一度善をやらせてみて善のできない極重の悪人と知らせるためだ

と言います。その根拠が、大沼師の創った瀬戸物の譬えです。
これと機の深信や『歎異抄』の「いずれの行も及びがたき」と結び付けて話をすると、なんとなく筋が通っているように騙されがちですが、これも当然詭弁です。

機の深信にしても『歎異抄』の御言葉にしても、

微塵の善もできない

ではありません。

出離できるだけの善ができない

です。
この違いを弁えておかないと、高森会長に騙されます。
このことがよく判るのは善導大師の『散善義』にある

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。
しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

です。
無始より、多くの仲間と共に悪を廃して善を修してきたが、その中で聖者のさとりまで到達した人は、数えられないくらい多い。しかし、私たち凡夫は、僅かな善しかできなかったから、出離できずに流転してきたのであり、嘆かずにおれない。

こういうことです。ここで善導大師が仰っていることは、

  • 善をして聖者となり出離した人
  • 微微たる善しかできずに出離できない人

の2つに分かれ、善導大師を含めて凡夫は後者であるとの嘆きです。

機の深信も同じですし、「いずれの行も及びがたき」も同じです。

極重の悪人の意味は、どこにもありません。

法を捻じ曲げ続ける高森会長は、極重の悪人で文句ありませんが、善導大師や親鸞聖人、そして他の人まで同類にするのは止めてもらいたいものです。

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2013年6月18日 (火)

高森顕徹会長の話を信じることを、仏智疑惑・仏智不思議を疑う罪という。

最近の高森顕徹会長の話は、

18願で十方衆生を「一生不善の極悪人」と見抜かれ、19願では「力一杯、もろもろの善(功徳)を求めよ」と善を勧められている

です。

高森会長が、教えを修正しようとなど微塵も思っていないことが良く判ります。

教義批判に対して、高森会長が会員を騙すのに必死になっているだけです。

いつもの10項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
----------------------------------
高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
----------------------------------
高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
----------------------------------
高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
-----------
高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
----------------------------------
高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
--------
高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
----------------------------------
高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

はっきり言っておきますが、親鸞聖人の教えを正しく伝えようという気持ちは、高森会長には全くありません。私利私欲を満たすこと以外には、何も考えてはいません。

因果の道理は仏教の根幹、とか言っていますが、因果の道理自体高森会長は知りません。

簡単に解説すると、因果の道理と言った場合に、3つに分かれます。

世間の因果
出世間の因果
報土の因果

このことを分かりやすく教えられたのが、『安心決定鈔』です。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」(玄義分)とほめたまへり。

(現代語訳)

まことに極楽に参りたいと思えば、我々衆生自分にこそ、そのための願を起し行も励まねばならぬのであるのに、その願行は法蔵菩薩のお手元にお励み下されてその出来上がりは我々のものと成就して下された。このように仏のお励み下されたものが、私のものとなるということや、世間や仏法の上に普通いわれる自分のものは自分に造らればならぬという因果の道理には、はるかに超えており、異なっているものである。それで善導大師は『観経疏』玄義分には「別意の弘願」と讃嘆なされてある。

世間の因果とは、倫理道徳の話で、仕事をしたら報酬が得られる、勉強をしたら成績が上がる、といったものです。高森会長がよくする話です。

出世間の因果とは、仏教で教えられる善を修することで、さとりを得る、という聖道門の論理で、19願、20願もこれに当たります。

最後の報土の因果とは、阿弥陀仏の18願のことで、世間・出世間の因果を超えた因果です。阿弥陀仏が御修行なされて、その結果得られる功徳を衆生に分け与えて下さる、ということです。高森会長が万に一つ、億に一つ、兆に一つもないと断言した他因自果、自因他果のことです。

高森会長は、報土の因果について知らず、世間・出世間の因果で報土の因果を説明しようとするから、言っていることが破綻しているのです。

前回言いました、仏智疑惑とは、まさに高森会長の理解を指します。

『正像末和讃』誡疑讃

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

と教えられている通りです。

報土の因果と世間・出世間の因果と関係があるように思うことが、仏智疑惑・仏智不思議を疑うことになるのです。

要するに、高森会長の因果の道理の話を聞けば聞くほど、仏智疑惑・仏智不思議を疑う心が大きくなりますから、18願で救われなくしているのです。

一応言っておきますが、世間の因果については、通常は報土の因果と関連付けて考えることはありませんので、世間の因果について信じることは仏智疑惑・仏智不思議を疑うことになりません。ただし、高森会長のように、世間の因果と報土の因果とを関連付ける無茶苦茶な論理を信じれば、仏智疑惑・仏智不思議を疑うことになります。

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2013年6月16日 (日)

謗法罪と仏智疑惑の違いさえ理解すること「あたはず」の高森顕徹会長と退会偽装者

親鸞会は、謗法罪と仏智疑惑との区別もつかないほどの無知です。

聖教を読んだことのない高森顕徹会長は、釈尊や善知識方が死後のことをどのように仰っているか、何も知りません。退会偽装者ももちろん知りません。

さて、死後のことについて最も詳しく教えられているのが源信僧都の『往生要集』です。衆生が死後に行く世界について、以下のように書かれています。

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

問う。信じない者は、どのような罪の報を得るのであるか。

答える。《称揚諸仏功徳経》の下巻に説かれている。

もし、阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、謗り毀つ者があるならば、五劫のあいだ地獄に堕ちて、つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。

答える。もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。

《無量寿経》に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。

宮殿」とは、化土のことです。

謗法罪の者は地獄ですが、「かの土を願ひ、かの業を修する」仏智疑惑の者は化土往生です。親鸞聖人も『正像末和讃』誡疑讃

仏智疑惑のつみにより
 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ
 年歳劫数をふるととく

仏智疑惑のつみゆゑに
 五百歳まで牢獄に
 かたくいましめおはします
 これを胎生とときたまふ

などなど、他でも至る所で教えておられます。

仏智疑惑と謗法罪の違いは、真宗では常識ですが、親鸞会は真宗ではないから判らないのも仕方がないです。誰もが例外なく謗法罪を造っているという妄想から、仏智疑惑を謗法罪と考えるカルト思考です。

聖教から判ることは、

謗法の者―地獄
一般の者―悪道
浄土を願う自力の者―化土往生
深信の者―報土往生

ということです。深信の者以外は無間地獄、などという愚かな教えはありません。
従って、浄土を求めながらも他力になれない人は、化土往生というのが、浄土仏教の常識です。

以上のように、「一切衆生必堕無間」など、真宗とは無関係の教えです。化土往生も完全に否定し、それを親鸞聖人の教えだと断言しているのですから、救いようがないです。

ところで、親鸞会の会員は浄土を願っているでしょうか?
熱心な会員は必堕無間からの逃避を願っていますが、それは浄土を願っているのではありませんので、化土往生もできません。

退会偽装者など、自己の保身しか考えておらず、念仏1つと説く者を謗り続けていますので、「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するもの」です。

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2013年6月14日 (金)

謗法罪の意味も理解すること「あたはず」の高森顕徹会長・退会偽装者

謗法罪についてまとめておきます。

謗法罪の定義については、曇鸞大師が『浄土論註』で教えられて、それを親鸞聖人は『教行信証』信巻で引かれています。

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。

答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

仏はいない、仏の説かれた教えもない、菩薩はいない、菩薩の説かれた教えもない、と堅く信じることを謗法罪と、曇鸞大師・親鸞聖人は仰っています。

では謗法罪を造っている者は往生できるのかどうかについてこの前に、

問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。

答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。

とあります。
五逆罪を造っても謗法罪を造っていなければ往生できるが、たとえ謗法罪だけを造って他の罪がなくても、絶対に往生できない、ということです。もちろん、この五逆罪の中に謗法罪が含まれている訳もありません。

正常な知能があれば判ることですが、「無仏・無仏法」と思っている者が往生できるなら、仏教を聞く必要もないし、仏教自体が往生には不要になります。
具体的にいえば、念仏誹謗している者が、念仏を誹謗しているままで往生できるなら、『正像末和讃』

念仏誹謗の有情は
 阿鼻地獄に堕在して
 八万劫中大苦悩
 ひまなくうくとぞときたまふ

も無意味になります。無間地獄に堕ちるどころか往生できるのですから。

では、謗法罪を造っている者は永久に往生できないのかと言えば、それについて親鸞聖人は善導大師の『法事讃』を信巻に引かれて

仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く

と教えられています。
絶対に往生できない謗法と闡提も、「回心」すれば往生できるが、「回心」しなければ往生できない、ということです。国語の能力が少しでもあれば、この「回心」は「無仏・無仏法」という心を翻すこと、つまり「有仏・有仏法」と仏教を信じるようになることを指します。

そのことを覚如上人は『口伝鈔』

謗法罪はまた仏法を信ずるこころのなきよりおこるものなれば、もとよりそのうつはものにあらず。もし改悔せば、生るべきものなり。しかれば、「謗法闡提回心皆往」と釈せらるる、このゆゑなり。

と仰っています。

謗法闡提回心皆往」の意味について、
謗法罪とは仏法を信じるこころがないので、阿弥陀仏の本願に救われることはないが、もし悔い改めるならば、往生できる、
と判りやすく教えられています。

回心」=「改悔

になります。

今回は簡単な国語のレクチャーだったと思いますが、高森顕徹会長によって親鸞会思考に染まりきった頭では、やはり理解すること「あたはず」なのでしょう。

哀れなものです。

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2013年6月13日 (木)

今回も高森顕徹会長と退会偽装者には理解することあたはずの内容

予言したとおり、親鸞会に染まった頭では前回のエントリーが理解することあたはずでした。

当然なことです。

「かたし」「ごとし」「2通り」の意味さえ知らない知能で、前回のエントリーが理解できたら奇跡でしょう。

さて、親鸞聖人は、衆生の機について、『唯信鈔文意』で詳しく教えられています。

「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきき、信ずるなり。「持」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり。「浄戒」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。

「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。

(現代語訳)

「不簡多聞持浄戒」というのは、「多聞」とは、聖教を広く多く聞き、信じることである。「持」は、「たもつ」ということである。「たもつ」というのは、習い学ぶ心を失わず、散漫にならないことである。「浄戒」とは、大乗・小乗のさまざまな戒律のことであり、五戒、八戒、十善戒、小乗の具足戒、三千の威義、六万の斎行、『梵網経』に説かれる五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒など、出家のものや在家のものが守るすべての戒律をいう。そしてこれらをたもつことを「持」というのである。このようなさまざまな戒律をたもっている立派な人々であっても、本願他力の真実信心を得て、はじめて真実の浄土に往生を遂げることができるのである。自らの力によってそれぞれが戒律を守ることで得る善根、それぞれの自力の信心や自力の善根では、真実の浄土には生れることができないというのである。

「不簡破戒罪根深」というのは、「破戒」とは、これまでに示したような出家のものや在家のものの守るべきさまざまな戒律を受けていながら、それを破り、捨ててしまったもののことであり、このようなものを嫌わないというのである。「罪根深」というのは、十悪、五逆の罪を犯した悪人、仏法を謗るものや一闡提などの罪人のことであり、総じて善根の少ないもの、悪い行いの多いもの、善い心が浅いもの、悪い心が深いもの、このような嘆かわしいさまざまな罪深い人のことを「深」といっているのであり、すなわち「深」は「ふかい」という言葉である。総じて、善い人も、悪い人も、身分の高い人も、低い人も、無碍光仏の誓願においては、嫌うことなく選び捨てることなく、これらの人々をみなお導きになることを第一とし、根本とするのである。他力真実の信心を得れば必ず真実の浄土に生れると教えてくださっていることこそ、浄土真実の教えの本意であると知らなければならないというのである。

と、親鸞聖人は、善人と悪人を分けて説明されています。

よきひと
=「多聞持浄戒」の人

あしきひと
=「破戒罪根深」の人

です。「あしきひと」「破戒罪根深」の人を更に分ければ、

破戒」の人
=「よろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの

罪根深」の人
=「十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人
=「善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの

となります。
つまり、親鸞聖人は善人と悪人とをこのように定義されて、悪人も細かく区別されています。十方衆生が、五逆、謗法、闡提という意味で仰っていないことは、明らかです。

『唯信鈔文意』はもちろん『唯信鈔』を解説なされたものですから、「あしきひと」「破戒罪根深」の人についてもともとの『唯信鈔』では、

仏いかばかりのちからましますとしりてか、罪悪の身なればすくはれがたしとおもふべき。五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。罪ふかくはいよいよ極楽をねがふべし。「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といへり。善すくなくはますます弥陀を念ずべし。

と書かれてあります。
私たちは五逆罪までは犯していませんが、「罪悪の身」です。しかし、当ブログの読者は、五逆の者でさえないのですから、仏法を積極的に謗る謗法の者でもありませんし、仏法を求める心のない闡提でもありません。

では「多聞持浄戒」の人は、自力で真実の報土に生まれられるのかどうかについて先の『唯信鈔文意』で

みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。

と仰っています。

善人であっても、報土には往けません。

ですから、善人悪人関係なく、他力念仏に帰して、報土に往生しなさい、と仰っているのです。

善人がいないとか妄想に浸っている親鸞会には、驚天動地の御文でしょう。もちろん理解できれば。

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2013年6月12日 (水)

「凡夫」の意味さえ、高森顕徹会長・退会偽装者には、理解すること「あたはず」

下品についての説明は、曇鸞大師の『浄土論註』にもあります。

下品の凡夫ただ正法を誹謗せざれば、仏を信ずる因縁をもつてみな往生を得と。

下品の凡夫は、謗法罪を造らず、仏を信ずる因縁によって、みな往生できるということです。謗法罪を造っている者は、往生できないのは、言うまでもありません。

また、上品と下品を比較して以下のように仰っています。

この十七種の荘厳成就を観ずれば、よく真実の浄信を生じて、必定してかの安楽仏土に生ずることを得。

問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。一には、 おそらくは往生を得ざらん。二には、おそらくはさらに生ずとも惑ひを生ぜん。

答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。
(中略)
かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

この十七種の荘厳成就を観ずるならば、能く真実の信心をおこして、まちがいなくかの安楽国土に往生できるのである。

問うていう。上にいうてあるような生即無生の道理をさとるということは上品の往生者にいうことである。下下品の人のごときは、ただ十念念仏によって往生するので、こういうのは実消実滅の執着を持っているのではないか。ただ実生を執ずるならば二つの疑いに堕ちる。一つに、恐らくはこういう実消実滅を執ずる凡夫は往生を得ないであろう。二つに、往生しても更に生死相対の惑いを生ずるであろう。

答えていう。たとえば清浄なる摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、珠の力で水が浄らかになるようなものである。もし凡夫人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があっても、かの阿弥陀如来の法性真如にかなったこの上なき清浄の名号を聞いて、これを濁った心の中にいただくならば、念々の中に罪が滅し清浄の徳を得て、往生が得られる。
(中略)
かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、実消実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

上品の者は、「生は無生なりと知る」ことができても、下下品の者は、「生は無生なりと知る」ことができない。しかし、「無量生死の罪濁」であっても念仏によって罪が消えて往生できて、下品の者も煩悩も滅せられる。

ということです。

ここで、「無量生死の罪濁」とあるのは、上品の者に対して、下下品もしくは下品の者について仰っていることは、少しの国語の能力があればお判りになると思います。

これを善導大師は踏襲されて、『定善義』

如来はるかに末代罪濁の凡夫の相を立てて心を住むるすらなほ得ることあたはず、いかにいはんや相を離れて事を求むるは、術通なき人の空に居して舎を立つるがごとしと知りたまへり。

と仰っています。

『浄土論註』でいえば、上品の者のように「十七種の荘厳成就を観」じて、「生は無生なりと知る」ことのできる人があるのに対して、下下品もしくは下品の「罪濁の凡夫」には、定善はとてもできないということです。

これを親鸞聖人もそのまま踏襲されて、『教行信証』化土巻

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。

と仰っています。
常没の凡愚」は前回のエントリーでも述べたように、上品・中品・下品を含んだ凡夫のことですから、「定心修しがたし」「散心行じがたし」「立相住心なほ成じがたき」と「かたし」で統一されています。不可能ではないからです。
それに対して「末代罪濁の凡夫」という下下品もしくは下品については「得ることあたはじ」と「かたし」と表現が変わっています。ここの「あたはじ」は不可能の意味です。

このように、主語によって、「かたし」「あたはず」と言い換えられているのですが、国語の能力が不足している人には到底理解できないでしょう。

要するに、善のできる善凡夫と善のできない悪凡夫について、曇鸞大師・善導大師・親鸞聖人は明確に区別されているということです。

今回は、相当にレベルの高い話をしてきましたので、高森顕徹会長・講師部員・退会偽装者には、「理解しがたし」よりも「理解することあたはず」というべきでしょうね。

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2013年6月11日 (火)

根拠のない妄想の世界にいる高森顕徹会長・退会偽装者との法論は、必ず逃亡か悪口雑言で終わる

会員や退会者からよく尋ねられます。

なぜ高森会長や講師部員は、根拠のないことを自信一杯話ができるのですか

答えは簡単です。

詐欺師は根拠のないことを絶対的な自信があるように装って話をします。全く同じです。

実際に、高森顕徹会長・講師部員・退会偽装者に、その主張の根拠を示すように求めると、出しません。正確には出せません。無いからです。

根拠のないことを自信一杯話をするには、妄想を真実と思い込む必要があります。

つまり、高森会長も退会偽装者も、完全に妄想の世界に入り込んでいるのですから、親鸞聖人の教えと違うのは当然なのです。

そのことを指摘すると、悪口雑言を言って誤魔化します。まさにカルト宗教そのままです。

悪口雑言の負け犬の遠吠えしか言えなくなったら、打つ手なしということですから、今回も退会偽装者の大惨敗で終わりです。

さて、九品について、整理しておきます。

『玄義分』では、九品について

上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

となっています。

上品上生・上品中生・上品下生が、行福のできる凡夫です。
中品上生・中品中生が、戒福のできる凡夫です。
中品下生が、世福のできる凡夫です。


以上が善凡夫です。

一方で下品上生・下品中生・下品下生については

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

となっていまして、

下品上生・下品中生・下品下生が、無善造悪の凡夫です。これが悪凡夫です。

これら九品をまとめて

またこの『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、総じてこれ仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、九品をして差別せしむることを致す。
(中略)
いまの時の善悪の凡夫をして同じく九品に沾はしめんと欲す。

と善導大師は仰っています。

つまり、
仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫
=「いまの時の善悪の凡夫
=善のできる凡夫と悪しかできない凡夫

ということです。実に簡単な国語の問題です。
どこをどう読んだら、

仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=下品下生にも入らない闡提

となるのでしょうか。
「かたし」「ごとし」の意味さえ知らない高森会長・講師部員・退会偽装者に、聖教が理解できはずもないでしょう。

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2013年6月10日 (月)

デタラメを言う高森顕徹会長や退会偽装者が、「本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり」

『教行信証』真仏土巻に引かれた『涅槃経』の闡提について、解説してほしいとの御要望がありましたので、少し書いておきます。

またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

 「釈尊が仰せになる。<善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである>と。

釈尊が衆生の根性について、闡提を例に出して教えて下されたことろです。
衆生には、上根・中根・下根の別があるが、下根が中根になったり、中根が上根になったり、その逆もあるということです。それは定まったものではないからです。
闡提を例に出すと、

定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。

ですが、これは

根性が定まったものではないから、「善根を断ず」=闡提、「還りて(善根を)生ず」=闡提ではない、と変わるのだ、ということです。

闡提とは断善根とも言われますので、善根を生じたら闡提ではなくなる、ということです。ここでいう善根とは、仏法を求めようとする心、阿弥陀仏の本願を信じる心と理解すればよいでしょう。

ですから親鸞聖人は、『高僧和讃』善導讃

本願毀滅のともがらは
 生盲闡提となづけたり
 大地微塵劫をへて
 ながく三塗にしづむなり

(現代語訳)

本願を討ち滅ぼそうとする人は、
ものごとの見えない人であり教えを聞かない人と名づけられた。
想像もできない時間を経て、
長い間地獄餓鬼畜生の世界に沈むのである。

と仰っています。
毀滅」の左訓には

そしるにとりても、わがする法は勝り、またひとのする法は賤しといふを毀滅といふなり

とあります。つまり闡提とは、親鸞聖人の教えを真面目に信じている人のことではありません。更に、闡提の者の死後については、「ながく三塗にしづむなり」という表現をなされています。もちろん必堕無間という意味ではありません。

ここまで説明しても、

全人類は闡提の一機と『涅槃経』に説かれている

と喚き散らしているのですから、会話が成立しません。

高森顕徹会長や退会偽装者の妄想こそが、「本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり」にあたります。

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2013年6月 8日 (土)

高森顕徹会長も講師部員も想定通りの反論(?)しかできない

高森顕徹会長も講師部員も、想定通りにしか反論しませんので、法論に勝つことは実に容易いです。

例の退会者偽装ブログについては、相手をしてくださる方がありますので、任せておけばいいでしょう。

コメント欄にもあります通り、今回の結論は、

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・真実の経の大経には、三輩が説かれている。

・真実の経の大経には、衆生は闡提の一機と説かれていない。

・涅槃経には、上根・中根・下根と分けられていると親鸞聖人が教えられている。

・存覚上人は、上根・下根と分けられたり、善人・悪人と明確に分けられている。

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です。

大経の根拠を出せと言っても出せないのですから、存覚上人の説をとらないと言いながら、存覚上人の『六要鈔』を出してくるところが、流石です。

真実の経は大経のみ → 根拠は涅槃経
存覚上人の説はとらない → 根拠は存覚上人

『六要鈔』しか出してこないことは最初から判っていましたので、2番目を言いたいが為に、ちょっと罠に嵌めてあげたのですが、本人は気が付いていないでしょう。

いつも言っているように、親鸞会と法論して勝つには、親鸞会が出してきた根拠の前後を読めばいいだけです。

今回は、M野さんの相手をしておきましたさんのコメントで十分でしょう。

補足すれば、『六要鈔』の解説は、定善の機が九品の中に入るのかどうかの話ですから、最初から的外れです。

さて、私はこれまで親鸞聖人と高森会長との違いとして、10項目を挙げて、親鸞会に提示してきましたが、何一つ直接反論してきません。反論できないから、内輪で反論を偽装していたり、退会者や僧侶を偽装してブログを書くのが関の山です。

いつもの10項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

この10項目の中で、善の勧めについては、ない知恵を絞って、必死になって下劣な漫画で会員の洗脳を試みています。

親鸞聖人が、往生・獲信のために善を勧められたことは一箇所もありません。当然なことで今更説明するまでもないでしょう。

これに対して親鸞会は、善の勧めの根拠がないので、お勤めや聞法が勧められている、ということをしきりと言っています。

問答としては実に頓珍漢です。簡単に言えばこういうことです。

問い

布施等の善を勧めらた根拠がないではないか?

答え

お勤めや聞法が勧められているではないか。

親鸞会らしい詭弁です。

このことについては

「善知識方は五正行を勧められている」は本当?

で述べてありますので、親鸞会の詭弁に騙されそうな方は読んでおいてください。

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2013年6月 7日 (金)

真実の経では「三輩」、方便の経では「三根」、一方妄想では「闡提の一機」

親鸞会の言っていることは、高森会長をはじめ講師部員も、支離滅裂、羊頭狗肉です。

「真実の経は『大経』のみ」と知っているのか?

と言いながら、他の経典を平気で出し、しかも妄想解釈。
どれだけ能力が低いか、中学生以上の知能があればこんなことは恥ずかしくて言えないでしょう。

参考までに真実の経である『大無量寿経』には、衆生の機を3つ(上輩・中輩・下輩)に分けて説かれています。

上輩

 仏、阿難に告げたまはく、「十方世界の諸天・人民、それ心を至して、かの国に生れんと願ずることあらん。おほよそ三輩あり。それ上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。これらの衆生、寿終らんときに臨んで、無量寿仏は、もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に随ひてその国に往生す。すなはち七宝の華のなかより自然に化生して不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。このゆゑに阿難、それ衆生ありて今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし」と。

中輩

 仏、阿難に語りたまはく、「それ中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはち化仏に随ひてその国に往生して不退転に住せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん」と。

下輩

 仏、阿難に告げたまはく、「それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとくならん」と。

方便の経である『涅槃経』でも、衆生を3つの機(上根・中根・下根)に分けられていると親鸞聖人が『教行信証』真仏土巻に教えられています。

〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。

ところが、妄想では、方便の経である『涅槃経』には、衆生は

闡提の一機

だと説かれているそうです。

「真実の経は『大経』のみ」と知っているのか?

とか喚いている人物が言っていることです。

『大経』を引用するとか、親鸞聖人の解釈を引用するとかして妖しい解釈でもするのなら、妖頭妖肉くらいにはなるでしょうが。

師からして、

親鸞会を攻撃している者は、親鸞聖人の読み方で攻撃してきている

と言うくらいですから、この師にしてこの弟子あり、ということでしょう。

師の相手は私がしますから、かわいそうな弟子の相手を誰かしてあげて下さい。

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2013年6月 5日 (水)

黙っていれば攻撃されないのに、懲りない人

退会者を装って親鸞会を擁護するM講師のブログが更新されていましたが、私への反論はありませんでした。

代わりに、そのブログでコメントされた方へのデタラメ反論をエントリーに書いているようですが、そのデタラメを指摘しようとしたら、何を書いてもすべて拒否されたそうです。

コメントを拒否する禁止キーワードは、全ての日本語ということなのでしょう。もしかしたら英語で書いたら拒否されないかもしれませんが。

それで、コメントを書こうとされた、みじめやな高森派さんから、当ブログにコメントを頂きましたので、紹介しておきます。

黙っていれば、あれで終わったのに、懲りない人です。

偽装退会者ブログで、おかしなことを言い続けているので、コメントをしようとしたら、何を書いてもすべて拒否されました。

禁止キーワードは、すべてでしょう。コメントに書きたかったことは以下のことです。

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願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

     (高僧和讃)

訳はね、

本願力によって成就した報土には
自力の信心と行では行けないので、
大小聖人(一切善人)みなともに、
阿弥陀如来の本願に乗るのである

わかるかな。
化土巻も当然同じことを仰っている。

大小聖人・一切善人は、自力の信心と行に拘っていると報土には行けない、ということで、高僧和讃の前半だけを仰ったもの。

高僧和讃の後半には、

 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

と書かれてある。

相変わらずだね。

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2013年6月 3日 (月)

新しいブログ開設のお知らせ その6

新しいブログができました。

親鸞会法論惨敗の記録4~飛雲より

2010年2月19日、当ブログのコメント欄に、M野講師ではないと否定する1会員を名乗る人物が、コメントを書いてきたことから始まった法論を抜粋したものです。

親鸞聖人が19願を勧められた根拠があるのか、との問いに、

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなをもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり
            
(正像末和讃)

を、その1会員を名乗る人物が出してきたことで、この御和讃が本当に19願を勧められた根拠になるのかについて議論が交わされました。

当然ながら、1会員を名乗る人物の惨敗で終わっています。

結論だけ言えば、この御和讃は、20願成就文を親鸞聖人が言い換えられたものですから、親鸞聖人が19願を勧められる意図は全くありません。

いつも言うように、国語の能力の問題です。

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2013年6月 1日 (土)

退会偽装者のお粗末さが、親鸞会の凋落を象徴している

高森顕徹会長も、講師部員も、国語の能力が著しく欠落しています。その実例をこれまで数多く上げてきましたが、象徴的なのが退会者を装っている人物でしょう。2chでも馬鹿にされて、前回エントリーのコメント欄にもそのことが出てます。

小学生でも間違えないようなことを平気で主張するのは、人格や感覚に問題があるのではなく、能力の問題でしょう。間違っていると思っていないのですから。

そんな人物の相手をまともにしても仕方がないので、これもコメント欄に書かれた法論の決着事項を紹介しておきます。

過去に本物の退会者と法論をして反論できず決着したことを、何度も蒸し返して同じことしか言えないのです。

解説は不要だと思いますが、御要望があればします。

M野さんとの法論の記録です。

全く反論できない、みじめな高森派の記録。

1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。

2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。

3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。

4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。

5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。

6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。

7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。

8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは  生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。

9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。

10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。

11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。

12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。

13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。

14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。

15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。

16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。

17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。

18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。

19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。

20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。

21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。

22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。

23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。

24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。

25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。

26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。

27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。

28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。

29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。

30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。

31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。

32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。

33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決着。

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