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2013年5月31日 (金)

結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。

親鸞聖人は『教行信証』信巻で、五逆と謗法について詳しく教えられています。

それ諸大乗によるに、難化の機を説けり。いま『大経』には「唯除五逆誹謗正法」といひ、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人」とのたまへり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。

(現代語訳)

さて、さまざまな大乗の教典によると、救われがたい人々について説かれている。いま『無量寿経』には、「ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」と説かれ、『如来会』には、「ただし、無間地獄に堕ちるような悪い行いの罪をつくったり、正しい法および聖者たちを謗るものだけは除かれる」と説かれている。また『観無量寿経』には、五逆のものの往生は説かれているが、謗法のものについては説かれていない。『涅槃経』には、治しがたい病の人々とその病とが説かれている。これらの仏の教えについて、どのように考えたらよいであろうか。

阿弥陀仏の本願で、五逆の者・謗法の者は救われるのかどうかについての問いです。
その答えを曇鸞大師と善導大師のお言葉を引用されて説明されています。

まず曇鸞大師ですが、『浄土論註』

 問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
 答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。

簡単に言えば、

五逆罪のみを犯しても、謗法罪を犯していないものは往生できる。
しかし、謗法罪を犯している者は、たとえ五逆罪を犯してなくても絶対に往生できない。

ということです。一言で言えば、

謗法罪を犯している者は絶対に往生できないが、謗法罪を犯していない者は往生できる。

では、謗法罪を犯している者は未来永劫往生できないのかといえば、それを善導大師の『法事讃』で

仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く

と仰っているのを引用されています。
曇鸞大師の解釈通りに、五逆と十悪の者は往生できますが、謗法に闡提を加えた者は往生できない。ただし回心すれば往生できる、ということです。

ここから、

謗法・闡提の者は往生できない

しかし、

回心して阿弥陀仏の本願を信じるようになれば、五逆と十悪の者同様に往生できる

ということです。

これが、親鸞聖人の解釈です。
それで『浄土文類聚鈔』にも

惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く。

と仰っているのです。

闡提については真仏土巻で、『涅槃経』を引かれて

善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり

(現代語訳)

善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである

と定相あることなしであるから、闡提もいつまでも闡提ではなく、いつか闡提でなくなる時がきて仏教を信じ求めることがあると釈尊が教えて下されているのです。

ちなみに『末灯鈔』には

往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。

と仰っています。

信心を獲て往生が定まった人は、決して師を謗ったり善知識を軽蔑するようなことはしない、と仰っています。親鸞会ではこの御文を、信後でも謗法罪を造ると親鸞聖人が仰った根拠として説明していますが、逆です。

高校生でもこれくらいの古語は読めると思いますが。

親鸞聖人の五逆謗法闡提に対するお考えは一貫しています。

全人類が五逆謗法闡提の者だなんて、親鸞聖人が仰る訳がないです。ないから、関係ない御文を無茶苦茶な理屈で、親鸞聖人が仰っていることに決めつけているだけのことです。

退会者を偽装した者の言葉がしっかりと当てはまります。

結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。

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法論」カテゴリの記事

コメント

にちゃんねるでいつも書かれてありますよね。

105 :神も仏も名無しさん:2013/05/20(月) 07:36:01.30 ID:DZGJKvcB
>>103
どうりで、偽装退会者ブログはダラダラ文章を書いているんだね。

仕方が無いよね、以下のように日本語もわからず、数も数えられないんだから、M野はね。

1.「かたし」は「難しい」ではなく、「不可能」「可能性0」の意味。

2.「2通り」は「1通り」「万人共通」の意味。

3.「ごとし」は「同等」ではなく「同一」の意味。

4.「夕方」を「真昼間」と言う。

5.「過ぎたる」=「及ばざる」で、「プラス」=「マイナス」の意味。

投稿: M野涙目 | 2013年5月31日 (金) 23時17分

エー?知りませんでしたが、その末灯鈔のお言葉、往生の金剛心のおこることは~をあの会では信後でも謗法罪を造ると親鸞聖人が仰った根拠などと教えていたんですか?!
ケッサク(笑) どう解釈したらそんな正反対の意味になるのか。
古文といえど簡単な文ですよね。いやはや驚いたというか呆れたというか。

投稿: | 2013年6月 1日 (土) 00時54分

M野さんとの法論の記録です。

全く反論できない、みじめな高森派の記録。


1.管理人さんが「教義のコメントには反論をしてきた」と自信満々に言ってきたが、反論できずに無視してきたコメントがいくつもあり、大嘘をついていた。

2.管理人さんが、「真宗学では全人類が闡提という解釈」と自信満々に言ってきたが、実は真宗学を学んでおらず、大嘘をついていた。

3.管理人さんの主張は「善ができるのは還相の菩薩のみ」というであり、聖道門は還相の菩薩のための教えというのと同様に、定散二善も還相の菩薩のための教えとなる。よって悪凡夫・逆悪の機・極重悪人には聖道門が関係ないのと同様、定散二善も関係がない。つまり、逆謗の機に定散二善を勧められたという高森顕徹会長の教えは、管理人さんによって完全に否定された。

4.管理人さんの考えでは、雑毒の善は悪ではなく、善導大師の仰る「仏法・世俗の二種の善根」に入るので、雑毒の善ができる人は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の下輩ではない。つまり、雑毒の善ができる人は、中輩か上輩である。

5.親鸞聖人は常没の凡愚でも雑毒の善のできることを認めておられるので、常没の凡愚にも「仏法・世俗の二種の善根」のある人が少なからず存在する。つまり、常没の凡愚には定散二善をすることは「かたし」難しいということであって、「不可」可能性ゼロではない。

6.親鸞聖人は御本典において『涅槃経』を引用されて、下根である闡提の者が、中根・上根という闡提ではない者に変わることを示されている上、他の御著書でも闡提は悪人の一部の機としてしか表現されていない。

7.親鸞聖人は御本典において、曇鸞大師の「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」を引用された後、善導大師の「謗法・闡提、回心すればみな往く」を引用されているので、謗法・闡提の者がそのままでは救われず、謗法・闡提の者でなくなって救われると教えられた。つまり、全人類が闡提という考えは、親鸞聖人には無い。

8.管理人さんは、闡提は無間業と主張しているが、親鸞聖人は「本願毀滅のともがらは  生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)と無間業ではないと否定されている。

9.管理人さんは、大乗の五逆罪を無間業と主張しているが、親鸞聖人は三乗の五逆罪について御本典で「無間業と名づく」と明言された後、大乗の五逆罪についてはそのようなお言葉は一切ない。つまり、大乗の五逆罪が無間業という根拠は皆無である。

10.因果を深く信じる必要があるのは、上品上生と上品中生だけで、上品下生以下には、「因果の道理に疑いを生じてはならない」という前提は当てはまらない。つまり、管理人さんの断章取義が確定。

11.上品上生は「大乗を修学する上善の凡夫人なり」(観経疏)、上品中生は「大乗次善の凡夫人なり」(観経疏) とあるように、因果を深く信じた凡夫と善導大師は定義されているので、因果を深く信じた凡夫が存在する前提でしか善導大師は仰っていない。

12.結局、「常没の凡夫には善ができない」と管理人さんは喚いていますが、親鸞聖人は「定散諸機」と「逆悪の機」を明確に区別されて、結局、「常没の凡夫には善ができる者とできない者がある」としか仰ってない。しかも善のできる凡夫である定散諸機に対して定散二善を勧められている、と親鸞聖人が仰ったことで、決着。

13.いろいろ書いてみるが結局、「全人類が闡提、自性が闡提」という親鸞聖人の御文は無いわけです。
結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。
で決着。

14.曇鸞大師・親鸞聖人は、正法を誹謗する者は阿弥陀仏に救われないと断言され、親鸞聖人は信心決定した人は、師を謗り善知識を軽んずることはある筈がない、とお手紙でこれまた断言されている。謗法の者は謗法のままでは救われない、ということで決着。

15.七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と、管理人さん及び高森会長は、教義が根本的に異なり、安心も別なので、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人から見ると、管理人さんと高森会長は異安心で決着。

16.念仏誹謗の有情が、そのまま救われるというのが管理人さんの考え方、つまり、管理人さんは、阿弥陀仏に救われるのに聴聞も必要ない、三願転入などナンセンス、と親鸞会のいう求道を完全に否定した。

17.「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)、「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり」(正信偈大意)と、明白に「定散諸機」と「逆悪の機」もしくは「五逆の機」が別と教えられている。「定散諸機」と「極重悪人」が同じと仰った根拠は皆無で決着。

18.「肩たたき」は「孝養」に当たる。「第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。 曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。 ゆゑに世俗の善と名づく。」(散善義)と教えられている通り、「孝養」の「肩たたき」は散善になる、で決着。

19.仮相は「定善の機」「散善の機」「十悪の機」「五逆の機」「闡提の機」と様々であるが、実相は「自力では出離できない者」という一機である、で決着。

20.善知識に遇うには、過去世の因縁が必ずあった。しかし、その因縁とはどんなことであるかについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰り、過去世の善根に限らない、不可思議な因縁ということで、決着。

21.釈尊は韋提希の請いに応じて定善の方法を説かれた。その表現は「観ぜしめたまふ」となっているが、韋提希の獲信後でも、その表現は変わっていない。つまり、釈尊は韋提希に定善をするように勧められた訳ではない。その証拠に、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観、というようにステップアップしていくので、日想観さえできない韋提希に釈尊がより難しい水想観を勧めることは有り得ない。よって、釈尊は韋提希に定善をするように勧められたのでもないし、韋提希が実践してもいない、で決着。

22.「深信因果」は散善の1つの行であり、もちろん諸行往生の行である。しかし、本願力回向とは相反する「深信因果」は、仏智不思議を疑う罪になるので、18願念仏往生のためには「深信因果」を含めた散善を捨てなければならない。もちろん、散善にならない倫理道徳の善は、世間の幸福には必要なものなので、往生と無関係に世俗の因果を信じて倫理道徳の善に励むように勧められている。これと「深信因果」とを混同しているのが管理人さん、ということで決着。

23.「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」といへり。」(化土巻)
この御文は、 「末代罪濁の凡夫」が下品生のことを指しているから、
常没の凡愚凡夫(善悪の凡夫)には、定善散善をすることは難しい(が不可能ではない)。悪凡夫には定善をすることは不可能である。
ということで、管理人さん「親鸞聖人は凡夫には定散二善をすることは不可能と教えられた」の主張は完全に否定された。

24.「しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 」 (信巻)を「この「難」はすべて可能性ゼロの「不可能」という意味です。」なんて主張は、日本語として有り得ないので、完全に間違いだったで決着。

25.親鸞聖人は雑行のことを「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり」(化土巻)と仰っているように、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は同じ」とは、「聖道門の修善と浄土門の19願で勧める修善は【行が】同じ」ということで、【行が】同じでも、回心回向の心が違うこと。
つまり、梯氏への非難「六要の伝承を曲げて、また歴代の先輩の見解を捨てて、教えを曲げたい真意はどこにあるのでしょうか」とは、管理人さん自身への非難となるで決着。

26.「九品は方便」とは、管理人さんの解釈「九品の別があるのは方便で、下品下生の一機しかないが真実 」ではなく、親鸞聖人の解釈「九品は欣慕浄土のための方便で、念仏が真実 」「九品の往生は方便化土、念仏往生が真実報土」が正しいで決着。つまり、「九品の別がないのが真実だ」というのは、管理人さんの完全な妄想だった。

27.善導大師が仰り、親鸞聖人も引用されている『往生礼讃』の機の深信では、「善根薄少」 であり、下輩(悪人)の定義である「善根あることなし」とは明らかに違うので、機の深信に悪人の意味はない、で決着。

28.法然上人が「断善闡提のごとくなる者」と仰ったのは、「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の「ごとし」と同じで、「同一」ではなく、「類似」の意味であり、小学生以上の国語力をもっていれば、
「断善闡提のごとくなる者」≠「断善闡提の者」
となるのは管理人さんも認めざるとえなかったで、完全決着。

29.『山科御坊之事並其時代事』に「木像本尊(安阿作)」とあり、明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実と管理人さんは認めた、で決着。

30.『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像を本尊とされている様子が描かれていることを管理人さんは認めた、で決着。

31.二河白道の譬えは信巻に引用されているが、化土巻には引用されていない。信巻は隠彰、化土巻は顕説。つまり、二河白道の譬えに顕説の意味はない、で決着。

32.白道について『愚禿鈔』では「他力白道を念ぜよ」とあり、「白道」は「他力」と断言なされていることを管理人さんは否定することができなかった、で決着。

33.管理人さんは、「一切衆生=善機のみ」「不可=可能」と誰も言っていないことを捏造して話をすり替えた、極めて悪質な人物、で決着。

投稿: みじめやな高森派 | 2013年6月 1日 (土) 08時13分

M野涙目 様
みじめやな高森派 様

紹介させて頂きました。

名無し 様

呆れるほどの能力しか持ち合わせていないのですよ。

投稿: 飛雲 | 2013年6月 3日 (月) 21時38分

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