« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013年5月

2013年5月31日 (金)

結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。

親鸞聖人は『教行信証』信巻で、五逆と謗法について詳しく教えられています。

それ諸大乗によるに、難化の機を説けり。いま『大経』には「唯除五逆誹謗正法」といひ、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人」とのたまへり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。

(現代語訳)

さて、さまざまな大乗の教典によると、救われがたい人々について説かれている。いま『無量寿経』には、「ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」と説かれ、『如来会』には、「ただし、無間地獄に堕ちるような悪い行いの罪をつくったり、正しい法および聖者たちを謗るものだけは除かれる」と説かれている。また『観無量寿経』には、五逆のものの往生は説かれているが、謗法のものについては説かれていない。『涅槃経』には、治しがたい病の人々とその病とが説かれている。これらの仏の教えについて、どのように考えたらよいであろうか。

阿弥陀仏の本願で、五逆の者・謗法の者は救われるのかどうかについての問いです。
その答えを曇鸞大師と善導大師のお言葉を引用されて説明されています。

まず曇鸞大師ですが、『浄土論註』

 問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
 答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。

簡単に言えば、

五逆罪のみを犯しても、謗法罪を犯していないものは往生できる。
しかし、謗法罪を犯している者は、たとえ五逆罪を犯してなくても絶対に往生できない。

ということです。一言で言えば、

謗法罪を犯している者は絶対に往生できないが、謗法罪を犯していない者は往生できる。

では、謗法罪を犯している者は未来永劫往生できないのかといえば、それを善導大師の『法事讃』で

仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く

と仰っているのを引用されています。
曇鸞大師の解釈通りに、五逆と十悪の者は往生できますが、謗法に闡提を加えた者は往生できない。ただし回心すれば往生できる、ということです。

ここから、

謗法・闡提の者は往生できない

しかし、

回心して阿弥陀仏の本願を信じるようになれば、五逆と十悪の者同様に往生できる

ということです。

これが、親鸞聖人の解釈です。
それで『浄土文類聚鈔』にも

惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く。

と仰っているのです。

闡提については真仏土巻で、『涅槃経』を引かれて

善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり

(現代語訳)

善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである

と定相あることなしであるから、闡提もいつまでも闡提ではなく、いつか闡提でなくなる時がきて仏教を信じ求めることがあると釈尊が教えて下されているのです。

ちなみに『末灯鈔』には

往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。

と仰っています。

信心を獲て往生が定まった人は、決して師を謗ったり善知識を軽蔑するようなことはしない、と仰っています。親鸞会ではこの御文を、信後でも謗法罪を造ると親鸞聖人が仰った根拠として説明していますが、逆です。

高校生でもこれくらいの古語は読めると思いますが。

親鸞聖人の五逆謗法闡提に対するお考えは一貫しています。

全人類が五逆謗法闡提の者だなんて、親鸞聖人が仰る訳がないです。ないから、関係ない御文を無茶苦茶な理屈で、親鸞聖人が仰っていることに決めつけているだけのことです。

退会者を偽装した者の言葉がしっかりと当てはまります。

結局、祖師の御文は無かったんですね。真宗じゃないってことですよ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013年5月30日 (木)

「○○の主張は日蓮と同じ」の「○○」は高森顕徹会長のことですが

高森顕徹会長の主張は日蓮のパクリ、というお粗末さです。
高森邪説の「一切衆生必堕無間」は、日蓮著の『撰時抄』にある

教主釈尊の金言まことならば多宝仏の証明たがずば十方の諸仏の舌相一定ならば今日本国の一切の衆生無間地獄に堕ちん事疑うべしや

をアレンジしたものです。

これと『歎異抄』の「地獄一定」を結び付けて、高森風の機の深信が形成されたのでしょう。

実に高森会長らしい発想です。

ところで、本願寺の主張は高森会長と同じと言ってみたり、本願寺勧学の主張は日蓮と同じで間違っていると言ってみたりのぶれまくりで、親鸞会は断末魔の様相を呈してきました。

無勉強の高森会長もその弟子も知らないでしょうが、今の真宗学における二種深信の説明は存覚上人の説に依っています。
存覚上人と言えば、親鸞会は非常に軽んじていますが、蓮如上人は釈迦の化身とか勢至菩薩の化身とまで大絶賛されている方です。

存覚上人の『六要鈔』に二種深信についての以下の記述があります。

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

機の深信についてのみ抽出すると

「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。

です。存覚上人は機の深信の説明として、「正しく有善・無善を論ぜず」としています。善が有るか無いかは論じない、ということです。もし「地獄一定」を言いたのであれば、当然ながら、有善・無善を論ずる必要があります。

つまり、存覚上人は機の深信を「地獄一定」と捉えていないことが判ります。その後の説明をみると、それはより明らかになります。

自の功を仮らず」「自力の功なきこと」とあるように、自力無功としか言われていません。

ここで例の本願寺出版社の『真宗の教義と安心』をみると、

・自らの力が浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知すること
・自らのはからいを捨てさる(捨機)ということ
・自らの力がなんの役にも立たないと知って、はからいを捨てさるということ
・自らの力がなんの役にも立たないと自力のすたるところ

となっています。
存覚上人の説明そのままです。

私は、機の深信について、善知識方と存覚上人のお言葉を通してしか説明したことはありませんので、本願寺の説と私の説明が同じなのは、偶然ではなく必然です。

しかし、高森会長もその弟子達も、そんなことは知る由もなく、
存覚上人を軽視したり、「本願寺は間違いばかり教えている」と言いながら、「高森先生の主張は本願寺と同じだから正しい」と言ってみたり、本当に支離滅裂です。

一応言っておきますが、私は本願寺の誰誰が言っているから正しい、などと言ったことは一度もありません。600にも及ぶエントリーの中で、ほんの数回、参考程度に真宗の学者の説を紹介したに過ぎません。
私からすれば、真宗の学者の説が間違っていると言われても、「ああそうですか」としか思いません。もちろん、本当に間違っていたらの話ですが。

兎にも角にも、嵐のような教義批判に第三者という立場を偽装して必死になって誤魔化していますから、すべてが無茶苦茶です。

こんな団体を存続させる理由は見当たりません。団体名から「浄土真宗」「親鸞」の名を削除するか、潰れるか、そのどちらかしかないと思っています。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013年5月29日 (水)

高森顕徹会長とその弟子達の無知を証明しておきます

機の深信は説明するまでもなく善導大師のお言葉です。

親鸞聖人は『教行信証』信巻に、『散善義』の機の深信を引いておられます。

決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

もう一つ、善導大師の『往生礼讃』を信巻に引かれています。

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

出離できず常に流転している凡夫のことを、共に仰ったものです。流転とは、六道を巡ることで、「地獄一定」の意味はありません。

善導大師はこの機の深信を詳しく仰ったのが、『散善義』にあります。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏をもって明鏡に望むがようである。

善導大師の仰る機の深信とは、出離して聖者となられた多くの方がある一方で、出離できずに流転し続ける凡夫が、自分の相だということです。

聖者は初地以上で、初地まで至っていない人はすべて凡夫ですから、凡夫といってもある程度のさとりを開いた善凡夫から、さとりどころか悪しか造っていない悪凡夫もいます。

聖者から、善凡夫、悪凡夫も含めて、親鸞聖人が御自身のお言葉で機の深信について語られたのが、信巻の信楽釈にあります。

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

(現代語訳)

ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。

さて、このどこに「地獄一定」の意味があるというのでしょうか?

親鸞聖人は、

急作急修して頭燃を灸ふがごとく」修善に励んでも、雑毒の善しかできないから、報土往生はできない

と仰っているのです。

聖者も善凡夫も雑毒の善しかできないということであって、無善だとは仰っていませんし、地獄に堕ちるかどうかという低レベルの話もされていません。

具体的に言えば、

初地まで至られた龍樹菩薩は、聖者であり、出離された方ですが、それでも報土往生できる真実の善はできませんでした。もちろん「地獄一定」とは無関係です。

上品上生の往生を遂げた智覚禅師も、地獄に堕ちる方ではありませんが、報土往生できる真実の善を修することはできませんでした。

五逆罪・謗法罪を造って、雑毒の善もしていない下品下生の者は、報土往生は勿論できないし、必堕無間ですから、「地獄一定」と言えます。

この三者を共通で「地獄一定」と言っているのですから、無知を曝け出しているだけです。

今回のエントリーは、仏教の常識が判っていれば、簡単な話です。

しかし、仏教の勉強も真宗の勉強も全くしていない高森顕徹会長とその弟子には、この程度のことさえも理解できないでしょう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013年5月28日 (火)

聖教上の根拠なし・嘘・断章取義・隠れての反論しかできない親鸞会

親鸞会も高森顕徹会長も、外部からの批判には何一つ答えることができません。
しかしあれだけ威勢の良いことを言った手前、外部からの批判に答えていることにしなければならないので、苦労しているようです。

外部者が直接読むことのできない顕真に、「ひと口問答」を連載してこっそり反論を装うも、当然のようにボコボコにされ、
講師部特専部講義で「白道」について秘密の反論をして、その内容を自信満々顕真に紹介するも、完膚なきまでに叩きのめされてしまいました。

この内容は、すべて

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」

にまとめてありますので、まだ見られていない方は、見ておいてください。

そこで苦肉の策として、親鸞会とは関係ない人物が親鸞会と高森会長の説を擁護する手口を思いつきました。法論に負けても親鸞会と高森会長に傷が付かないようにする汚い作戦です。

以前にもそれをしていて、私が反論すると何も言い返せず、しかも会員の評判も悪かったことから中断していたのですが、また復活させたとある方から教えて頂きました。

本願寺が間違っていると散々非難しておきながら、本願寺の説と高森会長の説が一致しているから、高森会長は正しい、との理屈です。しかもそれを会員に読ませるのですから、情けないの一言です。

機の深信について書いているようですが、高森会長の説を裏付ける根拠が本願寺出版社の『真宗の教義と安心』の断章取義です。

この書物に以下の一節があります。

機の深信とは、自らが地獄一定の存在であると、機の真実を信知すること

これが、私の機の深信の説明と違うと言っているのです。ちなみに聖教上の根拠は全くありません。

さて、『真宗の教義と安心』には実際にどう書かれてあるか皆さんにも紹介しておきます。

「真偽検証」
「地獄一定」という言葉は同じでも、その意味するところが違う

にも取り上げられています。

 機の深信とは、自らが地獄一定の存在であると、機の真実を信知することであり、法の深信とは、本願はそのような機をまちがいなく救う法であると、法の真実を信知することである。
 この二種深信は互いに矛盾した事実(地獄一定、往生決定)の信知と理解されやすい。しかし、機の深信の意味するところは自らの力が浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知することであり、法の深信の意味するところは、出離ひとえに阿弥陀仏の救済の力にあると信知することである。すなわち、機の深信は自らのはからいを捨てさる(捨機)ということであり、また法の深信は阿弥陀仏の救済にすべてをまかせる(託法)ということである。このように二種深信は矛盾した信ではない。自らの力がなんの役にも立たないと知って、はからいを捨てさるということは阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということであり、阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということは自らの力がなんの役にも立たないと自力のすたるところであって、これは別なことではなく、『高僧和讃』にも、

 煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ(五九一)

とうたわれている。

如何でしょうか。中学生レベルの国語の能力があればお判りになると思います。

機の深信の説明として

・自らの力が浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知すること
・自らのはからいを捨てさる(捨機)ということ
・自らの力がなんの役にも立たないと知って、はからいを捨てさるということ
・自らの力がなんの役にも立たないと自力のすたるところ

の4通りの言い方をされています。
私がこれまで説明してきた通りのことです。

先の

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」
親鸞会との問答(機の深信について)

にもまとめてありますから、不審に思われる方は、御確認下さい。

ある会員も怒っていました。

なぜ親鸞会は自分で反論せずに、本願寺僧侶の反論を会員に読ませるのか!!

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2013年5月25日 (土)

無二の善知識の種と仕掛け

親鸞会は、様々な意味で年々衰えが目立ってきました。高森会長の年齢的なこともあるでしょうが、絶対正しい筈の教義が、悉く間違っていたと広く知れ渡ったことが、最大の原因でしょう。

高森会長は、常識を超えた存在だと思われてきました。世間を知らない高森会長が、世間常識から大きく外れているのは当然としても、教義解釈までも真宗の常識から逸脱していることが、高森会長の偉大さの証明とされてきました。

これに多くの人が騙されてしまいました。

高森会長が真宗の常識から逸脱しているのは、単に高森会長が真宗の常識を勉強してこなかったからです。更に悪いことに、高森会長は常識から逸脱していることを恥ずかしいと思うのではなく、逆に誇りに思う、という性格であったがために、真宗学を学ぼうとする気持ちさえ起らなかったのでしょう。

その高森会長の非常識と性格が選んだのが、大沼法竜師の独特な味わい解釈でした。

三願転入も、善の勧めも、みな大沼師からのフルパクリです。

ただし、大沼師の場合は、常識的な真宗教義を身につけた上で、自由な味わいを述べているので、言葉は同じでも、高森会長とは意味が違います。

大沼師の言う三願転入も善の勧めも、獲信・往生のための19願・諸善は否定しています。それを知ってか知らずか大沼師フルパクリで大学者を気取っているのが、高森会長の実像です。

大沼師の『方便より真実え 浄土真宗』は、高森会長の一番の愛読書でしょう。

 真宗では、方便の二願は第十八願に誘導する階段と説かずに、むしろ邪魔物のように無視しておらるるが、方便の二願を捨て、第十八願がどうして真実であると知ることができますか、第十八願の真実を真実と知らすための方便の願ではないのですか。三願は孤立した願ですか、関連した願ですかと問うているのです。
(中略)
 だから聖人は、三願は孤立した願と扱うてはおられません。方便の二願を並べて、真実の第十八願に趣入する道程を見ておられます。
 至心信楽欲生と    十方諸有をすすめてぞ
 不思議の誓願あらはして真実報土の因とする。(第十八願)
 至心発願欲生と    十方衆生を方便し
 衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける。(第十九願)
 至心回向欲生と    十方衆生を方便し
 名号の真門ひらきてぞ 不果遂者と願じける。(第二十願)
 三願転入が入信の順路でございます。これが方便から真実に帰入する道程であります。

『本願寺なぜ答えぬ』を始め、今でもよく使われるフレーズ

三願は孤立したものでない

の原点はここにありますし、

十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する、十方衆生の道程と、みておられることがよくわかる。

もそうですし、『本願寺なぜ答えぬ』に出した三つの御和讃も、ここからきています。
もちろん、この「十方衆生」に着目したのも、元は大沼師です。

同じく『方便より真実え 浄土真宗』に

 彌陀の本願に十方衆生を救うという摂生の願が三つあると前にいったでしょう。第十八願が絶対他力の随自意の願で、この王本願の独り作用で救おうとしても、私たちの自力の執着が捨たらないから、その心を見抜いて、それならどれだけ自力ができるかやってみよと第十九願の随他意(凡夫の心に随うた願)の方便の願を建て、自力の行を自力の心で勤めてみて、自己の無能を知らして、もう一歩進めて、第二十願の随他意の方便の願を建て、他力の行(名号)を自力の心で励む、他力の中の自力なりまで進ますのが、親の念力です。(中略)
この第十九願の自力の中の自力なりを、上人が雑行といわれ、第二十願の他力の中の自力を雑修といわれ、この二願の相手の機は、自力の機執が捨たらないから「自力の心を振り捨てて」といわれ、第十八願の他力の中の他力こそ専修正行だから、この境地まで進みなさいと進められたのが、「もろもろの雑行雑修自力の心をふり捨てて」と仰せられたので、上人が勝手なことを仰せられたのではなく、彌陀の三願の真意を諦得したうえで述べられたのです。

とありまして、”摂生の願”も”蓮如上人の三願転入の根拠”さえも、やはり大沼師です。
宿善の厚薄も大沼師が言っていますし、高森会長の説く”善のすすめ”は、すべて大沼師からの盗作です。盗作でないと考えられていた『本願寺なぜ答えぬ』も、かなりの部分で盗作しています。本願寺に対する悪口、”死に本願寺、干餓死本願寺”でさえも、大沼師の盗作です。

無二の善知識の、種も仕掛けも判ってしまえば、高森会長は俗人以下と気が付くでしょう。それが親鸞会の衰退を招いているのです。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2013年5月19日 (日)

高森顕徹会長のパクリの証明「摂生の願」

最近の高森会長の話は、宿善、三願転入ばかりです。会員に勧められていることは、種々の財施が中心です。
一時期、"同朋の里通信"と化していた顕正新聞・顕真が、今では"全国の会館通信"となっています。なぜなら、同朋の里での金集めは終了したので、次なる金集めの名目を大々的に宣伝しなければならないからです。

ここまであからさまな金集めを推進しなければならないほど、親鸞会は追い込まれているのです。年々、会員の負担が重くなっているのは確かです。

さて、いつもの三願の話を、未だに高森会長は物知り顔でしているようです。

18願・19願・20願のことを、高森会長は「摂生の願」と呼んでいます。

皆んさん、「摂生の願」という言葉を聞かれたことがあるでしょうか?
その根拠はなんでしょうか?

「摂生の願」という言葉は、善知識方の御著書にはありませんし、真宗学でも使われていません。

では、「摂生の願」とは高森会長の造語なのでしょうか?

答えは、大沼法竜師からのパクリです。
大沼師の著書『親の念願 親の遺訓』に、

法蔵菩薩の四十八願の中に、衆生摂生の本願は三つあるのです。

とあります。

真宗学では聞いたことのない、変わった話は、大抵大沼師からのパクリです。大沼師は、真宗学から外れたことを言うことがよくあります。ほとんどは個人的な味わいとして、言われていることですが、「摂生の願」については、大沼師の造語か、勘違いだと思われます。

それを何の確認もなく自信満々に会員に説明しているところが、いかにも高森会長らしいところです。

誰しも勘違いはあるでしょうが、高森会長の場合は、勘違いではありません。
高森会長が真宗学を学ぶことは金輪際ないでしょうが、大きな間違いを正す気もなく言い続けることでしょう。

鰯の頭も信心から

ですから、こんな高森会長を信じる人がいても不思議ではないですが、親鸞聖人の教えを信じることと高森会長の言っていることを信じるのは、相入れません。

いつもの10項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
----------------------------------
高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
----------------------------------
高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
----------------------------------
高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
-----------
高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
----------------------------------
高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
--------
高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
----------------------------------
高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013年5月16日 (木)

新しいブログ開設のお知らせ その5

親鸞会を退会して、親鸞会を非難している人には、概ね2通りに分かれます。

1つは、反社会的な行為を繰り返すことに対して、主に非難する人です。もう1つは、親鸞聖人の教えを捻じ曲げたことに対して、主に非難する人です。

反社会的行為について主に非難する人は、以前から多くいました。ここ最近は、親鸞聖人の教えを捻じ曲げていることに憤慨して、親鸞会を教義面から糾弾する人が増えてきました。退会しても、真面目に親鸞聖人の教えに向き合う人が増えれば、当然の流れだと思います。

さて、親鸞会の邪義は隠しようのない酷い状態で、以前には退会者と何度も法論が行われてきました。

今回取り上げるのは、2010年の10月に行われた、A県担当のM講師との法論の記録です。M講師は、高森会長からの法論禁止の指導を無視して単独で行ったものと思われますが、僅か2回のやりとりで逃亡しました。

内容は3つで、

・三願転入の教え
・化土往生
・逆謗

で、これまでの総まとめのようなものです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013年5月13日 (月)

新しいブログ開設のお知らせ その4

かねてより御要望のあった、O講師との法論の記録についての当ブログのエントリーを抽出してもらいました。

以下のブログです。


化土往生がメインの法論ですが、高森会長の信心についても言及があり、O講師は何一つ反論できませんでした。

高森会長の体験ですべて成り立っている教義ですので、聖教上の根拠を求められるとお手上げ状態なのが、よく判る法論でもあります。

| | コメント (0)

2013年5月 8日 (水)

余りにも無教学な高森顕徹会長

覚如上人の御著書には、『歎異抄』と重なる内容の記述がいくつも見られます。そのために、以前は、覚如上人が『歎異抄』の著者ではないかとの説があったくらいです。しかし、その説は否定されて、『歎異抄』の著者は唯円というのが定説になっています。
覚如上人は、その唯円に会って直接話を聞かれていますので、『歎異抄』とはやや異なる表現をされています。

したがって、『歎異抄』の解釈をしようとするならば、覚如上人の御著書との比較が必要になりますが、高森会長はそれをしていません。

なぜなら、読んでいないからです。

このこと1つとってみても、高森会長が如何に無教学であるかがよく判ります。

覚如上人の御著書でさえ読んでいないのですから、難しい『教行信証』を読んでいることは絶対にない、と断言できます。『教行信証』を読んでいたら、あそこまで愚かな教義にはならなかったでしょう。

高森会長は、大沼師と伊藤師の著書を読んで、そこに引用されていた聖教上の文を書き留めて、それを使いまわすことで大学者を装っているに過ぎません。もちろん、その御文の意味も知らずにです。

『歎異抄をひらく』に出てくる根拠も全く同様です。『教行信証』をもって解釈したとか言いながら、ほとんど関係のない『教行信証』の御文の引用で支離滅裂の解釈になっています。

前回出した7項目については、これまで当ブログで何度も言ってきたことですから、読者の皆さんはお判りのことでしょう。

これまで言及してこなかったことで「高森親鸞会の誤りと浄土真宗の正義」にも取り上げられていることの中に、「無碍の一道」があります。

『歎異抄をひらく』に見る親鸞会の間違い【11】《念仏者は無碍の一道なり》

です。

「無碍の一道」については、『教行信証』を読んでいたら、『浄土論註』更には『華厳経』との関連に気が付く筈です。しかし、それが全くないのですから、高森会長も講師部員も『教行信証』を全く読んでいないことが判ります。

親鸞聖人は『教行信証』の中で、『華厳経』を直接あるいは間接的に多く引用されていますので、親鸞聖人の教えを語る上で、『華厳経』は重要な経典と言えます。

ところが高森会長から話を聞いたことのある方なら判ると思いますが、高森会長は七大経という創作教義の中で、『華厳経』を最初に説かれた最も難解な経典というだけです。

それを聞いたなら、『華厳経』は親鸞聖人の教えとは関係ない、と思うでしょう。高森会長も直接は言いませんが、そう思い込んでいることは間違いないです。なぜなら、菩薩しか理解できない最も難解な経典なのですから、知る必要がないと勘違いしているでしょう。

ただ、今回「高森親鸞会の誤りと浄土真宗の正義」に『華厳経』のことが書かれたため、突如、したり顔で『華厳経』の話がでてくるかもしれません。

その際は100%パクリですから、著作権侵害で訴えられるかも?

| | コメント (0)

2013年5月 5日 (日)

『歎異抄をひらく』の反論まとめ

5年以上も誰も反論できないと宣伝されている『歎異抄をひらく』ですが、皆さん御存知のように本格的な反論が、”本願寺でもかなりの学者に違いない”方によってなされています。

「高森親鸞会の誤りと浄土真宗の正義」

です。

当ブログでも、断片的に『歎異抄をひらく』の間違いを指摘してきましたが、上記のブログでは体系的にまとめられていますので、もし読まれていない方は一度読んでおかれれば、高森会長が如何に文法に疎く、教学に昏いか判ることでしょう。

ただし、学術論文ですから、高森会長をはじめ、講師部員、幹部会員が読んでも理解できないところも多いと思います。

それで特に重要なところだけ、簡潔にまとめておきました。

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
----------------------------------
高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
----------------------------------
高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
----------------------------------
高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
-----------
高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
----------------------------------
高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
--------
高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
----------------------------------
高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

これなら、高森会長でも親鸞聖人の仰っていることとの違いが判るでしょう。

私がいつも示している10項目には答えられないのですから、この7項目について先に反論してもらっても構いません。反論とは、親鸞会お得意の体験至上主義ではなく、聖教上の根拠をもってのことです。

聖教を読んだことがないし、読めない高森会長には無理でしょうけど。

| | コメント (2)

2013年5月 1日 (水)

仏教、浄土門、真宗を語る資格のない高森顕徹会長

19願がすべての人に関係がある、と親鸞会が主張する唯一の根拠が「十方衆生」ですが、その意味について正しく理解できていないために、3年前のmixi法論で、大恥をかいたのです。

十方衆生」あるいはその同義語の「一切衆生」等は、多くの経典に普通に出てくる熟語です。「十方衆生」「一切衆生」とある経典すべてが、私たちに関係あるという発想は普通の人には起きないと思います。

承元の法難のきっかけとなった『興福寺奏状』や、法然上人を激しく非難した明恵高弁の『摧邪輪』などを読んでみれば判りますが、法然上人が19願をほとんど無視されたことに対して怒りをぶつけています。その際に、

19願に「十方衆生」とあるからすべての人に関係あるだろう

という論理展開をした人はありません。もちろん、法然上人も19願の「十方衆生」には何も触れられていません。

一方で、法然上人を非難した聖道諸師は、18願について悪人を仏教へ導くための方便としか見做していませんでした。

18願に「十方衆生」とあるから聖道門の我々にも関係がある

とは全く思っていなかったわけです。

そして、これら聖道諸師に対して親鸞聖人が反論されたのですが、その際にも

18願に「十方衆生」とあるから聖道門の人にも関係がある

という論理を使われてはいません。

要するに、聖道門であっても浄土門であっても、

「十方衆生」とあるからすべての人に直接関係がある

という理屈は元々ないのです。

一切衆生」といえば有名なのが、『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」です。この「一切衆生」に闡提が含まれるのかどうかで、かつて問題になったことがあります。

ウィキペディア「一闡提」にも書かれていることです。

このように、涅槃経の前半部では一闡提は成仏しない者とされるが、涅槃経後半部になって一闡提でも仏性は有るので成仏できる可能性はあり、その救済の可能性を最終的に説いている。
竺道生は、いまだ法顕訳の泥?経(涅槃経の前半部)しか伝わっていなかった頃、そこに説かれていた「一切衆生悉有仏性」(一切の生きとし生けるものはことごとく仏と成ることができる性質がある)という経文にインスパイアされ、一闡提の成仏を先んじて説いたが、他の学僧から認められず排斥され蘇州の虎丘寺に流された。そこで道生は、山川の石に向かって闡提成仏の義を唱えるや石が首肯(くびをうなずいて)し、飛び上がって喜んだという伝説がある。しかして後に曇無讖訳の北本涅槃経(後半部)が伝えられるや、そこに闡提の成仏が説かれていたことから、道生の先見の明に学僧衆が皆感嘆したといわれる。

このように、「一切衆生」とあるからそこに洩れる者がある筈が無い、という単純な発想は昔からないということです。

親鸞聖人は『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と仰っていますが、「十方衆生」とあるから無条件で「十方一切の衆生みなもれず」ではなく、「唯除五逆誹謗正法」とあるから「十方一切の衆生みなもれず」と教えられています。

逆に言えば、「唯除五逆誹謗正法」がない19願の「十方衆生」は「十方一切の衆生みなもれず」ではないということです。

仏教の常識もない、法然上人が非難攻撃された理由も知らない、親鸞聖人の御著書も読んだことが無い高森会長には、もともと仏教、浄土門、真宗を語る資格はないのです。

| | コメント (8)

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »