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2013年4月 1日 (月)

自力と他力の水際が説けない、信前と信後の水際が説けない高森顕徹会長

親鸞会会員も退会者も、「聞く」という行為に非常に拘わる傾向があります。それは、高森会長が聞法善だとか言って、自力の「聞く」という行を強く勧めているからです。このことからも、高森会長には自力と他力の水際が説けない、と言えるでしょう。

真宗では「聞く」ということを大事にするのは言うまでもないことです。それは18願成就文に「」とあるからです。
この「」について、親鸞聖人は判りやすく教えておられます。

『教行信証』信巻

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

と仰っています。
また『一念多念証文』

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

注意深く読まれれば判ると思いますが、「聞く」に2種類あります。
1つは

仏願の生起本末を聞きて
本願をききて

です。
もう1つは

疑心あることなし、これを聞といふなり
疑ふこころなきを「聞」といふなり
またきくといふは、信心をあらはす御のりなり

です。この2つは違います。
前者は

18願の教えを聞く

です。
後者は

無疑心、信心

です。
18願の教えを知らない人にとっては、その教えを知らなければ無疑心にはなりません。そのために、教えを知る、という「聞く」が必要になります。
しかし、18願の教えを十分に知っている人が、無疑心、信心を獲るために18願の教えを聞き重ねていくのではありません。自力の「聞く」ことの延長に信心があると思っている親鸞会出身者が多いのですが、それは間違いです。
親鸞聖人はその間違いを正されるために先ほどの『教行信証』信巻で

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

と仰っているのです。「二河白道の譬え」のところで何度も言ってきました「本願力回向の信心」です。本願力によって回向される信心ですから、自力が全く混じることもないし、自力の延長上に連続してある信心でもないということです。
本願力回向」ですから、自力とは完全に分離されたものなのです。

このことを踏まえれば、「白道」の前段が自力で後段が他力になる、とかお目出度い話はできない筈です。これが、自力と他力の水際ということであり、信前信後の水際を説くと言うことです。「白道」の途中で自力から他力に変わるのでもなく、信前から信後に変化するのでもありません。自力と他力、信前と信後とは相容れない完全に分断されたものなのです。同様に、「聞く」ということも自力の「聞く」と他力の「聞く」とは全く別で延長上にあるものではありません。
この他力の「聞く」ということを存覚上人は『浄土見聞集』で上手く表現されています。

聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

ここまで説明すれば、納得頂けたと思います。

高森会長には、自力と他力の水際が説けない、信前と信後の水際が説けないのです。
それで、「親鸞聖人のみ教えに善のすすめがある」とか「白道の前段後段」とか頓珍漢なことが平気で言えるわけです。言うまでもなく、高森会長は悪知識です。

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コメント

飛雲さんもついに従来よりさらに一歩踏み込んで聞き手の側の問題を問われはじめ、期待とともに注目しております。

思えば高森会長は無視できない突っ込みを受ける度に言うことをコロコロ変えて来ましたが、自力と他力の水際を説かないことに関しては一貫しているんですよね。それこそ「腹の底に響くまで聞き破れ」とか「自力間に合わなんだとわかるまで聞け」とか、いつでも、本当なら現在という時制においてしかありえない信というものを未来の彼方に放逐する説き方をしていますからね。高森会長自身が現在の救いを全く信じていない証拠です。彼には水際なんてわからない。わからないから、「不可思議だ」「レベルが違う」などと言っては言及を避け、一方では(わからないゆえに)後生くらい心がなくなるだの絶対の幸福だの大安心大満足だのと盛って(!)、そのせいで本来シンプルなはずの信ずる一念が、どんどん神秘的なものに聞こえるようになってしまう。まるで鵺ですね。

これはやはり語りのワナとでもいうべきものでしょうね。鵺の伝承は誰も見たことないものに関する伝言ゲームの集積した結果ですが、親鸞会に関わった人たちの場合もちょうどそんな具合に、親鸞会でのコミュニケーションを通じて未来の彼方の救いのイメージを(また同時に善知識=絶対的リーダーという誤ったイメージを)無意識に刷り込まれてしまっている。そのせいで「聞く」という行動そのものに執着が出るのでしょう。まずは、その無意識の構造を自覚して間違ったイメージから脱却するセラピーが必要なのかもしれません。

投稿: dandelion | 2013年4月 2日 (火) 00時53分

dandelion 様

鵺ですか、なるほどと思いました。
今まで私が強調してきたのは、間違ったイメージから脱却するセラピーということになるかもしれません。
高森会長が苦し紛れの言い訳しかできなくなってきたので、少し趣向をかえて書いてみたところです。
御期待に応えられるかわかりませんが、需要に応じて書いていくつもりです。


投稿: 飛雲 | 2013年4月 2日 (火) 21時33分

いつも興味深く読んでおるところ、今度は自力他力の水際を書かれるようで楽しみにしております。親鸞会の話をまともに聞いていると自力の聞法を重ねた先に他力信心があるような思いに囚われてしまう。実は延長線上にあると思っているままが自力であって、他力信心を彼方に追いやっているからいつまで経っても他力に値うこともない。そこを飛雲さんなら明快に書かれるでしょう。

投稿: 何某、 | 2013年4月 2日 (火) 23時25分

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。この祖師の御自釈は「聞くままが信」であり、「信は聞いたまま」であることを教えられたものです。この中に、2種の聞き方があるというのは、聞即信という伝統的真宗教義の上からすれば、問題があるのではないでしょうか。

投稿: たかぼー | 2013年4月 3日 (水) 12時31分

たかぼーさんへ

>この祖師の御自釈は「聞くままが信」であり、「信は聞いたまま」であることを教えられたものです。

これは飛雲さんもちゃんとかかれてあるではないですか。
その上で、教えを聞くという意味もあるというのが理解できないのですか?

たかぼーさんは、ハッキリ言っておせっかいというよりも、でしゃばりです。
あちこちのブログでコメントしまくり、ほとんどアラシですよ。
少しは自戒してはどうですか?

投稿: | 2013年4月 3日 (水) 14時41分

親鸞会の場合は、親鸞聖人の御言葉上問題があっても、高森驚愕上問題がなければいいとする。
たかぼーさんの場合は、親鸞聖人の御言葉上問題があっても、伝統的真宗教義上問題がなければいいとする。

伝統的真宗教義を基準にして判断するのは、なんだか親鸞会を見ているようで嫌な感じ。
伝統的真宗教義上問題があっても、親鸞聖人の御言葉上問題がなければOKではないの?

伝統的真宗教義以外の考え方を排斥する考え方には、賛同できないね。

それよりも、素直に読んで理解できる解釈の方を私は好むので、飛雲さんの説明が分かりやすいと思うけど。

投稿: 元学徒 | 2013年4月 3日 (水) 15時54分

たかぼー 様

コメント有難うございます。
私は伝統宗学に則って、ブログを書いているつもりはありませんので、伝統宗学上問題がある内容もあると思います。
なぜなら、伝統宗学が正しいと思っていないところは、別の説をとっているからです。
ちなみに御指摘の件は、全国を布教されているある布教使が話をされた内容に基づいています。
この方が理に叶っていると私は判断して、その説を以後採用しています。

もちろん私の説が必ず正しいと主張するつもりもありません。

私は親鸞聖人の仰ったことにできるだけ忠実にというスタンスですので、親鸞聖人や蓮如上人が、
この「仏願の生起本末を聞きて」の「聞」も信心の意味しかない、と仰ったのでなければ、このままでよいと思っております。

投稿: 飛雲 | 2013年4月 3日 (水) 19時14分

何某、様

御期待に応えられたかどうか判りませんが、書いておきました。

投稿: 飛雲 | 2013年4月 3日 (水) 21時07分

横から失礼します。

飛雲さんは今回のエントリーで「「聞く」という行為と信不信のかかわり」を問題にされていて、当然そこには真実信心を頂いた方の他力の「聞」(第十八願成就文の「聞」=聞即信)と信罪福心の自力の「聞」(第二十願文の「聞」≠聞即信)という2種の信相があります――(特に後者をして)「信相」という語を使うのはやや憚られますが――。浄土真宗において両者を明確に峻別され、また自力の信、自力念仏を厳しく誡められたのが親鸞聖人であり、伝統宗学もここに根差していますので、飛雲さんがコメントでおっしゃられたように「ある布教使」がこのような話をされたというのも不思議ではありません。

たかぼーさんは恐らく、「飛雲さんは「「聞即信」の「聞」に2種ある」と主張している」というふうに「読み違え」をなさってはおられませんでしょうか……??


個人的には、高森親鸞会では「自力の延長上に他力がある」という邪義が罷り通っているのでは、と感じられます。「光に向かって進ませていただきます」というような言い回しはその典型でしょう。「光の方からこっちにいらっしゃって、只今も光に照らされ、一寸先も光、南無阿弥陀仏」なのが浄土真宗なのでしょうけれど……

投稿: | 2013年4月 4日 (木) 01時11分

俺は伝統真宗教学を極めているし、それが正しいに決まっているではないかとのお考えがおありならば、親鸞会会員と同じです。
なぜかくも傲慢な態度になるのか。
親鸞会での経験によるものなのかどうかわかりませんが、親鸞聖人の御言葉に素直に従いたいものです。

投稿: 大地 | 2013年4月 4日 (木) 09時50分

飛雲様

ご丁寧なご回答、有り難うございました。宗学を意識した上での見解であるということ、よく理解できました。私もこれをきっかけに広角的視点から検討したいと思います。因みに、その布教師の方のお名前が分かれば、教えてください。

投稿: たかぼー | 2013年4月 4日 (木) 10時14分

たかぼー 様

話を聞いた時に、その布教使独自の説とは私は受け取りませんでしたが、その布教使が宗学と異なることを布教している、と噂がひろまって御迷惑をかけても申し訳ないので、K藤師とだけしておきます。もちろん、その布教使の言われることすべてに賛同しているわけではありません。念の為。

投稿: 飛雲 | 2013年4月 4日 (木) 12時23分

飛雲様

了解しました。

投稿: たかぼー | 2013年4月 4日 (木) 15時13分

>自力と他力の水際が説けない、信前と信後の水際が説けない高森顕徹会長


>親鸞会会員も退会者も、「聞く」という行為に非常に拘わる傾向があります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「聞く」で無く「聴聞」
>それは、高森会長が聞法善だとか言って、自力の「聞く」という行を強く勧めているからです。・・・・・・・・・・・・・「聞く」で無く「聴く」
>このことからも、高森会長には自力と他力の水際が説けない、と言えるでしょう。

>真宗では「聞く」ということを大事にするのは言うまでもないことです。それは18願成就文に「聞」とあるからです。
>この「聞」について、親鸞聖人は判りやすく教えておられます。

>『教行信証』信巻に


>しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

>と仰っています。
>また『一念多念証文』に


>「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、
>本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

>注意深く読まれれば判ると思いますが、「聞く」に2種類あります。
>1つは


>仏願の生起本末を聞きて
>本願をききて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここにも2種類有る「聞く」と「聴く」

>です。
>もう1つは


>疑心あることなし、これを聞といふなり
>疑ふこころなきを「聞」といふなり
>またきくといふは、信心をあらはす御のりなり

>です。この2つは違います。
>前者は


>18願の教えを聞く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本願頼みの教え。釈迦の教えをきくのを「聴」という。

********************************************

「弥陀の呼び声」を聞く聞即信の一念まで、釈迦の教えをきくのを「聴」という。
それは「弥陀の呼び声」を聞くまでの善知識方の教導を聴くことである。

「聞」は、「弥陀の呼び声」を聞く「聞即信」の「聞」である。


********************************************


>です。
>後者は

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>無疑心、信心

>です。
>18願の教えを知らない人にとっては、その教えを知らなければ無疑心にはなりません。
>そのために、教えを知る、という「聞く」が必要になります。
>しかし、18願の教えを十分に知っている人が、無疑心、
>信心を獲るために18願の教えを聞き重ねていくのではありません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前者は18願の教えを聞く・・チンプンカンプン
>自力の「聞く」ことの延長に信心があると思っている親鸞会出身者が多いのですが、それは間違いです。

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>親鸞聖人はその間違いを正されるために先ほどの『教行信証』信巻で

>「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

>と仰っているのです。「二河白道の譬え」のところで何度も言ってきました「本願力回向の信心」です。
>本願力によって回向される信心ですから、自力が全く混じることもないし、『自力の延長上に連続してある信心』(親鸞会でも言わん)でもないということです。
>「本願力回向」ですから、自力とは完全に分離されたものなのです。

>このことを踏まえれば、
>「白道」の前段(親鸞会でも言わん)が自力で後段(親鸞会でも言わん)が他力になる、とかお目出度い話(親鸞会でも言わん)はできない筈です。

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>これが、自力と他力の水際ということであり、信前信後の水際を説くと言うことです。
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>「白道」の途中で自力から他力に変わる(親鸞会でも言わん)のでもなく、信前から信後に変化する(親鸞会でも言わん)のでもありません。
>自力と他力、信前と信後とは相容れない完全に分断されたものなのです。


>同様に、「聞く」ということも自力の「聞く」と他力の「聞く」とは全く別で延長上にあるものではありません。

>この他力の「聞く」ということを存覚上人は『浄土見聞集』で上手く表現されています。


>聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。
>思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、
>ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

>ここまで説明(真仮知らない者の説明)すれば、納得(真仮知らない者の納得、ぼんやりと納得した気でいる)頂けたと思います。

>高森会長には、自力と他力の水際が説けない、信前と信後の水際が説けないのです。・・・・・・・・・・・・・・説いているけど水際ハッキリ聴けてない者の言い分。

>それで、「親鸞聖人のみ教えに善のすすめがある」とか「白道の前段後段」とか頓珍漢なことが平気で言えるわけです。・・・釈迦の教え知らん者、善導の譬え0歩の者

>言うまでもなく、高森会長は悪知識(という悪友)です。

投稿: ゲスト | 2018年8月21日 (火) 14時24分

ゲスト様

訳の判らないことを書いていますが、要するに、私の書いた内容が理解できないということですね。

理解力が劣っているようですので、簡潔に言うと、

聴聞においても、自力と他力の水際を説けないのが高森会長だということです。
>説いているけど水際ハッキリ聴けてない者の言い分。
ではなく、説いていない、というより説けないのが高森会長。

その証拠に高森会長に

>聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。
>思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、
>ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

これについて説明してもらいなさい。
これは本願寺との論争の際に本願寺側からの反論で出した御文です。

これを無視したのが高森会長。

嘘だと思うなら、高森会長に質問してみましょう。

その答えを報告してくださいね。待っています。

投稿: 飛雲 | 2018年8月21日 (火) 15時47分

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