« 本願寺を非難すればするほど、馬鹿にされる親鸞会 | トップページ | 教義が間違っていると、判っちゃいるけどやめられない »

2013年4月25日 (木)

衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし

高森会長は、会員の前に立ちはだかって、阿弥陀仏と会員が直接接することができないようにしています。会員も、そして退会者の中でも、善知識とはそのような存在と思っている人がありますが、大きな思い違いです。

親鸞聖人は『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて釈尊の御言葉を紹介されています。

善男子、衆生の仏性は現在に無なりといへども、無といふべからず。虚空のごとし。性は無なりといへども、現在に無といふことを得ず。一切衆生また無常なりといへども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆゑにわれこの『経』のなかにおいて、「衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし」と説く。非内非外にして、それ虚空のごとくして有なり。内外は虚空なれども、名づけて一とし、常とせず。また一切処有といふことを得ず。虚空はまた非内非外なりといへども、しかれどももろもろの衆生ことごとくみなこれあり。衆生の仏性もまたまたかくのごとし。

(現代語訳)

善良なものよ、衆生の仏性は、現在には見ることはできないけれども、ないということはできない。虚空のようである。その本性はとらえることができないけれども、現在にないとはいえない。すべての衆生は、また無常であるけれども、仏性は常住であって変らない。だから、わたしはこの経に、「衆生の仏性は、内にあるのでも外にあるのでもなく、それは虚空のようである」と説くのである。内にあるのでも外にあるのでもなく、虚空のように存在するのである。内とか外とかいうのなら、虚空のようだといっても、一であるとも常住であるともいうことができず、すべてのところに存在するということもできない。虚空は、また内にあるのでも外にあるのでもないけれども、すべての衆生にことごとくある。衆生の仏性もまた同じである。

空で仏性を説明されていますので、判り辛いかもしれません。「仏性」とは、仏になれる性質が衆生の中にあるということではありません。善知識という仲介者によって外から衆生にもたらされるものでもありません。
それが「衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし」です。

至る所に仏性は行き届いているのです。いわば空気のようなものです。私たちは仏性の中に包み込まれていると言えます。

この仏性を獲ることを信心を獲るというのです。『教行信証』信巻・信楽釈に『涅槃経』を引かれて

一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。

(現代語訳)

すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大信心は仏性であり、仏性はそのまま如来である

とありますように、一切衆生が他力の信心を阿弥陀仏から賜わるから、「一切衆生悉有仏性」なのですが、「衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし」で、人や物を介して獲るのではありません。

更には『唯信鈔文意』

仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり

と仰っているのです。仏性も如来も「微塵世界にみちみちたまへり」なのです。仏性、他力の信心の中に我々が包み込まれている、それが判ったことを他力の信心を獲たというのです。ですからいつでもどこでも、他力の信心を獲られるのです。

ところがこれと無帰命安心との違いが、有の見に凝り固まった親鸞会には判らないのです。

親鸞聖人は、「一切衆生悉有仏性」を強調されて教えられています。それに対して真逆の「一切衆生必堕無間」を強調しているのが高森会長です。

会員も、そして退会者も、高森邪義の呪縛から解放されない限り、、「衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし」が判らないでしょう。

|

« 本願寺を非難すればするほど、馬鹿にされる親鸞会 | トップページ | 教義が間違っていると、判っちゃいるけどやめられない »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 本願寺を非難すればするほど、馬鹿にされる親鸞会 | トップページ | 教義が間違っていると、判っちゃいるけどやめられない »