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2013年4月20日 (土)

本願寺を非難すればするほど、馬鹿にされる親鸞会

本願寺は信心正因称名報恩を踏みにじって「念仏さえ称えていれば助かる」と教えている、と親鸞会は必死になって非難しています。信心と念仏との関係が判っているのは親鸞会だけだから、本願寺に行くな、との思惑があるのでしょうが、信心正因称名報恩は、親鸞会の専売特許ではありません。当たり前のことですが、本願寺でも信心正因称名報恩についてよく話されます。

ところで、高森会長は思考力が乏しいので、本願寺非難のために自力念仏を否定することが、諸善を勧める親鸞会を否定することになっていると気が付いていないようです。

4月号の顕真に『歎異抄をひらく』をもとにした

弥陀の救いは「信心」一つ

の特集が組まれています。
その中で、念仏に3種あるとして、万行随一の念仏、万行超過の念仏、自然法爾の念仏が挙げられています。『教学聖典』にもありますから、皆さん御存知だと思います。

万行随一の念仏は19願の念仏で、諸善との関係で言えば
念仏>諸善

万行超過の念仏は20願の念仏で、諸善との関係で言えば、
念仏>>>………>>>諸善

ということです。

また顕正新聞に連載されている『こんなことが知りたい』シリーズにも①に

37 称名正因の異安心とはどんなことなのか
 問 称名正因の異安心というのは、どんなことをいうのでしょうか。

があります。
この答えとして以下のようにあります。

 素人は、これらの言葉をちょっと聞くと、大変けっこうなありがたい、念仏さえ称えれば助かる教えのように思いましょうが、多少でも浄土真宗の学問をした者にはとんでもない邪義であり、異安心だということが分かります。
 またこのようなことを認めますと、浄土真宗の安心は根本から転覆するのです。なぜなら、真宗の教義の骨格は、「信心正因、称名報恩」であり、信心一つで助かるのであって、称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです。
(中略)
 わが親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人を貫く浄土真宗の教えは、十九願や二十願の教えではなく、十八願真実の教え、いわゆる、信心正因、称名報恩でありますから、信前信後を問わず、一貫してこの教えを説かねばなりません。
 もちろん、人によって未熟の者もあって、信心正因を勧めても、なかなか、信心決定ということが分かってもらえない場合もありますが、だからといって「念仏称えていたら助かるのだ」といって邪義を教えてはならないのです。

信前は

念仏>諸善
あるいは
念仏>>>………>>>諸善

ですから、信前に念仏を勧めることが邪義なら、諸善を勧めることは当然邪義になります。
親鸞会が善を勧める理屈では「宿善を求めて宿善が厚くなって助かる」「19願を通って18願に入る」ですが、これは善よりも格上の念仏に対して
「念仏を称えて宿善が厚くなって助かる」「19願(20願)の念仏を称える道を通って18願に入る」になる筈です。
したがって、自力念仏を否定するなら、それよりも格下の諸善はなお否定されるべきものです。

苦し紛れに、

善をしなければ信仰は進みません

と言うかもしれませんが、

念仏>諸善
念仏>>>………>>>諸善

ですから、当然

念仏を称えなければ信仰は進みません

でしょう。
念の為言っておきますが、法然上人は信前の人に自力念仏を勧められています。親鸞聖人も自力念仏を勧められた御文は僅かにあります。しかし、諸善を勧められた御文は一箇所もありません。

自力念仏を否定する前に、諸善を否定しなければ、真宗にはならないということです。体制維持のためになりふり構わない親鸞会ですが、真宗の範疇に入らない親鸞会が本願寺を非難する立場にはないのです。

親鸞会は本願寺を非難することで

親鸞会>本願寺

と会員に印象付けたいのでしょうが、浄土真宗の学問をした者からは

本願寺>>>………>>>親鸞会

とますます馬鹿にされています。

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