教義が間違っていると、判っちゃいるけどやめられない
親鸞会は、いつまで経っても、金集め人集めの教義に執着しています。教団存続のためには、間違っていると判っていても教義を修正することはありえないでしょう。
4月15日号の顕正新聞の論説には、以下のようにあります。
「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて、疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」
(教行信証)
”「聞」とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末を聞いてツユチリほどの疑心もなくなったことをいう”
「聴聞」とは、弥陀の本願を聞くことだと道破されている。弥陀の本願といっても四十八あるが、その中で十方衆生(すべての人)を相手に誓われたのは、十八、十九、二十の三願のみ。弥陀は、この三願で「十方衆生を絶対の幸福に救い摂る」と誓われているのだ。四十八願の中でも、私たちと直に関係のある三願を聞くことが、「聴聞」なのである。
何が何でも三願なのです。丁度3年前、mixiでの三願転入の法論で大惨敗し、何一つ言い返すことができなかったのに、私が提示した10項目の教義批判に1年以上も沈黙しているのに、同じことを言い続け、会員を搾取することしか考えていないのです。
毎度毎度同じですが、一応解説しておきます。
まず、
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて、疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり
ですが、これと同じことを『一念多念証文』でも親鸞聖人は教えられています。
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。
「仏願」とは「本願」のことです。
以前に高森会長も言っていたことがありますが、親鸞聖人が「本願」と仰った時には、18願だけを指します。
最も判りやすいのが『教行信証』です。
行巻に17願のことを「大悲の願」
信巻に18願のことを「至心信楽の本願」
証巻に11願のことを「必至滅度の願」、22願のことを「必至補処の願」
真仏土巻に12・13願のことを「光明・寿命の願」
化土巻に19願のことを「修諸功徳の願」、20願のことを「植諸徳本の願」
と仰っています。「本願」とあるのは、18願だけです。
つまり、「仏願の生起本末」は18願の生起本末であり、18願を聞くことを「聴聞」というのです。
当然なことであり、親鸞会も当然知っているのですが、会員を騙すのに必死です。
ちなみに「私たちと直に関係のある三願」と言っていますが、「私たちと直に関係のある」願は18願だけです。19願は聖道門を断念した人のための願である、と仰ったのが親鸞聖人であり、それがmixiでの法論の結論であったのです。
ついでにもう少し踏み込んで解説するなら、この「聞」が信心を顕すことは親鸞会も教えていることですが、この信心は「疑心有ること無し」「本願をききて疑ふこころなき」であり、これを深信というのです。
深信といえば、親鸞会では二種深信しか知りませんが、善導大師は七深信を教えられ、親鸞聖人も善導大師の解釈を踏襲されています。七深信の中で19願、定散二善についての深信があります。それが第三深信です。
第三深信は『散善義』を引かれた『教行信証』信巻にもあります。
また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。
これは、『観無量寿経』で定散二善を釈尊が説かれたのは、「人をして(浄土を)欣慕せしむ」ためであった、と深信するということです。浄土を欣っていない人、つまり聖道門の人に、浄土を欣わしめるために説かれた、と深信するのですから、浄土を欣慕している人には関係ないことになります。
もし三願を聞くことを「聴聞」というのであれば、19願については聖道門の人を浄土門に導き入れるために建てられた願であるから、すでに浄土門に入っている人には関係が無い願、と聞くことが、「聴聞」になります。
したがって、18願に入るにはまず19願を通らなければならない、という高森会長の話を聞くことは、「聴聞」にはならないということです。
これもmixiでの法論の際に出た内容です。
高森会長も、弘宣局も、講師部員も判っているのです。教団維持と保身のためには、判っちゃいるけどやめられないのです。
それに付き合わされる会員は、本当に哀れです。
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