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2013年3月 8日 (金)

「浄土真宗の目的は浄土往生」なら「後生の一大事は往生の一大事」

御要望がありましたので、浄土往生に関する講師部員の手紙の一部を紹介します。

Y講師部員

親鸞聖人と善慧房証空の体失不体失往生の諍論を、アニメ第2巻で見せていただくと、どうしても、善慧房の主張した体失往生は間違いで、親鸞聖人の不体失往生のみが正しいと思ってしまいます。しかし、浄土往生こそは仏教の究極の目的であり、浄土真宗の目的です。

K講師部員

「五重の義が成就しなければ、往生できない」と蓮如上人が仰っているのは、浄土往生のことであり、不体失往生のことと間違えれば浄土真宗にならない、と教えていただきました。

ようやく浄土門の入口くらいにきた、という程度のことです。これを顕真で載せて、教えを変更したことを宣伝しているのですからお目出度いことです。もし、高森会長が最初から浄土往生を説いていてそれを講師部員が聞き誤っていたのならば、顕真で紹介するどころか、厳しい叱責があって、会員にまで手紙が公表されることはないでしょう。当然ながら、高森会長の話を”正しく”理解して、仏教・真宗の目的は必堕無間を回避して絶対の幸福になることだ、と思っている会員ばかりだということです。

ところで、浄土真宗の目的が浄土往生なら、後生の一大事の意味は浄土往生の一大事になるのですが、そこまで考えが及ばないところが高森会長らしいです。後生の一大事を必堕無間の一大事だという根拠が元々ないのです。単なる勘違いだったと高森会長も認めているのです。

参考までに言っておきますと、仏教での当面の目的は出離です。そのことは聖教を読めば普通に判ることです。高森会長の大好きな『散善義』の機の深信でも、

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

ですし、『往生礼讃』にある機の深信でも

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し

とあり、更には『散善義』には更に詳しく

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。

と善導大師は仰っています。もちろん、必堕無間の回避という低レベルの話ではありません。聖道門においては、諸善を実践して聖者の悟りを開いて出離することをまずは目指します。そして最後は成仏が究極の目的になるのです。
真宗においては、浄土往生が出離であり、往生即成仏ですから、真宗の目的は浄土往生、と言える訳です。真宗の目的は必堕無間の回避、なんて話は有り得ないことです。つまり、親鸞聖人の教えられたことは、最初から最後まで最高のレベルしか目指していないのです。

したがいまして、親鸞聖人の教えは最高に明るい教えなのです。必堕無間の恐怖に怯えながら、悲壮感を漂わせて求める道ではありません。蓮如上人は『御文章』1帖目第10通

問うていはく、さてかやうに弥陀如来のわれらごときのものをすくはんと、たびたび願をおこしたまへることのありがたさをこころえわけまゐらせ候ひぬるについて、なにとやうに機をもちて、弥陀をたのみまゐらせ候はんずるやらん、くはしくしめしたまふべきなり。

答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもはば、そのありがたさのあまり念仏を申して、弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。

と教えられている通りです。親鸞会会員の悲壮感など必要ありません。「五十年百年のうちのたのしみ」ではなく「永生の楽果」を求めよ、これが後生の一大事ということです。もちろん、信前の人に対して仰ったことですから、信前においても後生の一大事は往生の一大事に決まっています。

浄土真宗の目的は浄土往生

と認めたのならば、次は

後生の一大事は往生の一大事であり、必堕無間の一大事ではない

と認めることです。そこまで認めれば、真宗もどきにはなれますね。

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コメント

悲壮感ですか。確かに親鸞会会員、特に講師部員にはただならぬ悲壮感を漂わせている人が多いですね。

まあ、これだけダメダメな会の実態が暴露されながら、そこで生き続けるしかないわけだから悲壮感が溢れていても仕方ないのでしょうが。

私も会員時代は悲壮感に取り付かれていました。しかもそういう気持ちに苛まれるほど弥陀の救いに早く遇えるんじゃないかと期待している自分もいました。

人の精神を地獄に突き落として、あるいは地獄だと叩き込んで、助かりたければ俺に従えというやり方はカルトの王道でしょうが、まさに親鸞会はカルトの正統、本道をこれからも突き進むのでしょう。

投稿: | 2013年3月 8日 (金) 17時16分

親鸞会で話を聞き始めて最初の半年、
地獄が気になり、授業に集中できませんでした。

この悩みを当時の先輩に打ち明けたら、
君は宿善が厚いと言われ、
嬉しかったのを覚えています。

その後、親鸞会で言う信心決定は非常に難しいと知り、
絶望感とともに、半ば諦めの気持ちも出てきました。

親鸞会会員の多くは以下の流れに沿っていると思います。

⒈神秘体験への憧れ
⒉地獄の恐怖
⒊神秘体験の諦め
⒋惰性の求道
⒌真宗の教えへの疑念、脱会

私は⒋の段階で正しい親鸞聖人の教えを知り、脱会しましたが、
⒌まていった人は不幸です。
正しい親鸞聖人の教えを知る前に、真宗から離れてしまうのですから。

投稿: | 2013年3月 8日 (金) 20時15分

前の名無し 様

確かに、カルトの正統、カルトの本道と呼ぶにふさわしい教義と組織ですね。


後の名無し 様

なるほど、面白い分析ですね。ただ、5については、真宗の教えを信じながらも、このまま続けていても神秘体験はできないと脱会する人も、昔はかなりいました。しかし今では、真宗の教えを信じるがゆえに、邪宗会から積極的に脱会する人が多くなってきました。

投稿: 飛雲 | 2013年3月 8日 (金) 20時54分

悲壮感といえば元講師さんの「私の◯道」も悲壮感溢れる体験談ですよね。あれは親鸞会の悲壮感を引き摺っているのか、それとも華◯会もそういう雰囲気なのか、どうなんでしょうね。何れにしても助かったのだから、悲壮感は救いの邪魔にはならないということかな。

投稿: | 2013年3月10日 (日) 22時50分

最後の名無し 様

親鸞会の場合は、必堕無間の恐怖からくるものです。カルトにつきものの悲壮感です。
親鸞会以外でも死んだ後、地獄だと説明しているところはありますが、親鸞会のような恐怖を伴っているところはありません。
それよりも浄土往生という明るい希望を目指していますので、本来悲壮感はあり得ないことです。
ただし、浄土往生がなかなか定まらないことに対する焦りの気持ちは出てくることはありますので、その元講師もそのような気持ちであったと思います。

投稿: 飛雲 | 2013年3月11日 (月) 07時04分

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