法(18願他力念仏の教え)に依る
親鸞会を辞めて、高森会長から離れたら、真の知識はどこにおられるのか、と思う人もいるでしょうが、これが「人」に依っていることだと前回述べました。「人」に拘らず、「法」が聞ければ誰でもよいですし、「法」を伝えてくれる書物でもブログがあればそれを読むことでもよいのです。
往生・獲信するために、真宗の教義を細かいところまで知る必要はありません。肝心要である本願力回向の信心さえ理解できれば、それで十分です。
ただし、往生・獲信と以下の考え
- 釈尊が説かれたことの99%は善の勧めだ
- 仏教の根幹は因果の道理だ
を結びつけることは捨て去ってください。
化土巻を読めばそれは一目瞭然です。
親鸞聖人は三願転入の文の次に書かれたのが、以下の文です。
まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
ここをもつて経家によりて師釈を披きたるに、「説人の差別を弁ぜば、おほよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには聖弟子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つには変化説なり」(玄義分)と。しかれば四種の所説は信用にたらず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。(現代語訳)
いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊在世の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。
このようなわけで、釈尊のお説きになった教えにもとづき、祖師の解釈を見てみると、『観経疏』に、「教えを説く人の違いについていうと、すべての経典において教えを説きおこすものは、次の五種だけである。一つには仏、二つには仏弟子、三つには神々や仙人、四つには鬼神、五つには変化である」(玄義分)と述べられている。この五つのうち、信じるべきであるのは仏が説かれた教えであり、他の四種のものが説く教えではない。『無量寿経』も『観無量寿経』も『阿弥陀経』も、すべて釈尊が自ら説かれた教えである。
三願転入との繋がりを考えれば、ここで親鸞聖人が仰りたいことは理解出来ると思います。
- 釈尊が説かれたことの99%は善の勧めだ
- 仏教の根幹は因果の道理だ
という考え方は、末法の凡夫には関係ないことですし、それらを説かれた多くの経典は必ずしも仏説とはいえない、とまで仰っているのです。信じるべき経典は浄土三部経である、というのが親鸞聖人の立場であり、聖道経典に何が説かれていようと問題にされていないのです。ただ、浄土三部経に説かれたことと合致する聖道経典内の文を『教行信証』等に引かれているに過ぎません。
そしてこの次に前回の『大智度論』に続くのですから、「法に依る」は浄土三部経に依る、ということであり、浄土三部経の結論である18願他力念仏の教えに依る、ということです。なぜなら、三願転入の文の前に、19願自力修善と20願自力念仏を捨てることを親鸞聖人が仰っているから、三願転入の教えではないのです。
したがって、18願他力念仏だけ、と教える人や書物、ブログが、善知識です。特定固定の人物、書でないことをよく覚えておいてください。
とは言いながらも、高森邪義に毒された会員は、まずは毒抜きをしてくれる人・書・ブログも必要でしょう。
最近のコメント