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2013年3月

2013年3月31日 (日)

法(18願他力念仏の教え)に依る

親鸞会を辞めて、高森会長から離れたら、真の知識はどこにおられるのか、と思う人もいるでしょうが、これが「」に依っていることだと前回述べました。「」に拘らず、「」が聞ければ誰でもよいですし、「」を伝えてくれる書物でもブログがあればそれを読むことでもよいのです。

往生・獲信するために、真宗の教義を細かいところまで知る必要はありません。肝心要である本願力回向の信心さえ理解できれば、それで十分です。

ただし、往生・獲信と以下の考え

  • 釈尊が説かれたことの99%は善の勧めだ
  • 仏教の根幹は因果の道理だ

を結びつけることは捨て去ってください。

化土巻を読めばそれは一目瞭然です。
親鸞聖人は三願転入の文の次に書かれたのが、以下の文です。

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
ここをもつて経家によりて師釈を披きたるに、「説人の差別を弁ぜば、おほよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには聖弟子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つには変化説なり」(玄義分)と。しかれば四種の所説は信用にたらず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊在世の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。
このようなわけで、釈尊のお説きになった教えにもとづき、祖師の解釈を見てみると、『観経疏』に、「教えを説く人の違いについていうと、すべての経典において教えを説きおこすものは、次の五種だけである。一つには仏、二つには仏弟子、三つには神々や仙人、四つには鬼神、五つには変化である」(玄義分)と述べられている。この五つのうち、信じるべきであるのは仏が説かれた教えであり、他の四種のものが説く教えではない。『無量寿経』も『観無量寿経』も『阿弥陀経』も、すべて釈尊が自ら説かれた教えである。

三願転入との繋がりを考えれば、ここで親鸞聖人が仰りたいことは理解出来ると思います。

  • 釈尊が説かれたことの99%は善の勧めだ
  • 仏教の根幹は因果の道理だ

という考え方は、末法の凡夫には関係ないことですし、それらを説かれた多くの経典は必ずしも仏説とはいえない、とまで仰っているのです。信じるべき経典は浄土三部経である、というのが親鸞聖人の立場であり、聖道経典に何が説かれていようと問題にされていないのです。ただ、浄土三部経に説かれたことと合致する聖道経典内の文を『教行信証』等に引かれているに過ぎません。

そしてこの次に前回の『大智度論』に続くのですから、「法に依る」は浄土三部経に依る、ということであり、浄土三部経の結論である18願他力念仏の教えに依る、ということです。なぜなら、三願転入の文の前に、19願自力修善と20願自力念仏を捨てることを親鸞聖人が仰っているから、三願転入の教えではないのです。

したがって、18願他力念仏だけ、と教える人や書物、ブログが、善知識です。特定固定の人物、書でないことをよく覚えておいてください。

とは言いながらも、高森邪義に毒された会員は、まずは毒抜きをしてくれる人・書・ブログも必要でしょう。

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2013年3月29日 (金)

虎がいない”虎の威を借る狐”状態の高森顕徹会長

最近の親鸞会は自信を喪失しているようです。それは高森会長が、自信を喪失しているからです。白道の件では必死になって虚勢を張っていますが、あれが高森会長の精一杯でしょう。
なぜ自信を喪失してしまったのかと言えば、高森会長の主張の裏付けとなる有る筈の根拠が無かったことを、高森会長が知ったからです。
虎の威を借る狐のつもりが、振り向いてみると、虎がいなかったことに気が付いた狐のような状態です。プライドの高い高森会長にとっては、言い知れぬ恐怖心を抱いていることでしょう。

昔から高森会長の言うことは、悉く親鸞聖人の仰せと相違していますが、重要な項目を10に絞って一年以上も提示してきました。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

ところが高森会長からも親鸞会からも、私に対して何の反論もしてきません。

本願寺でも相当の学者が非難してきている

と言ってみたりして、一退会者に過ぎない私に対してさえも、高森会長は怯えてしまっているのです。

会員もそんな高森会長の態度を見透かして、内心動揺しています。会員にとっても、高森会長という虎の威を借りていただけですので、その虎が猫だったと判ってしまって、どうすべきか迷っているようですが、今更後には引けない、との気持ちが強いので、そのまま会に留まっています。

以前にも述べましたが、親鸞聖人は『大智度論』を引用されて『教行信証』化土巻

法に依りて人に依らざるべし

と教えられています。
当てにならない自称”無二の善知識”という「」に依っていたならば、こうなることは当然有り得ることですから、間違いのない「」に依りなさい、と教えられるのです。
これは親鸞会を退会した人にもよく知っておいてほしいところです。

高森会長が悪知識だと判ったから、本当の善知識を探そう

となる人が多いのですが、それでは親鸞会の延長で善知識だのみは変わっていません。「」探しではなく「」を探してください。「」とは18願のことです。18願について教えて下されたのが七高僧方であり、親鸞聖人、蓮如上人です。

18願をそのまま聞く、それ以外には何もありません。

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2013年3月23日 (土)

一口問答(白道は自力か他力か 再追加)

駄々を捏ねる高森会長のために、白道の一口問答を再追加しておきます。阿弥陀仏の喚び声は18願そのものとの説明を廻さない限り、高森会長の大嘘は確定です。もちろんこの「廻す」は翻すの意ですよ。

問い

前段なしの後段はあり得ません。善導大師は前段を「諸の行業を廻して直に西方に向う」と仰り、諸善を回向して進むと教えられています。善導大師は三願転入の道程を「二河白道の譬え」で示されているではないですか。

答え

では、後段はどこからですか。
三定死の後、阿弥陀仏の喚び声「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」を聞いた時から後段ではないのですか。阿弥陀仏の喚び声を聞くのは白道に乗る前です。しかも、阿弥陀仏の喚び声は18願そのものと高森会長も教えているではないですか。
なお、「廻して」は翻しての意味であると前にも言った通りです。なぜなら、阿弥陀仏の18願の喚び声を聞いてその通りに従った者が、諸善を回向することはあり得ないからです。これが自他力廃立です。もちろん三願転入の教えを善導大師が否定されたのが「二河白道の譬え」ということです。

(参照)
18願を19願にすり替え、矛盾噴出の高森流「二河白道の譬え」

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2013年3月21日 (木)

「本願力の回向の大信心海」が全く理解できない異安心の高森顕徹会長

高森会長は、『教行信証』さえ読んだことがないのですから、『観無量寿経疏』など見たこともないでしょう。従いまして、『教行信証』と『観無量寿経疏』との関係など、全く知らないことです。
概要だけ言えば、親鸞聖人は信心を『観無量寿経疏』により、回向を『浄土論註』によって、教義を体系化されました。
『観無量寿経疏』に説かれた信心とは、『観無量寿経』にある至誠心・深心・回向発願心の三心のことです。
『浄土論註』に説かれている回向とは、他力回向、本願力回向のことです。『観無量寿経疏』と『浄土論註』とは、説明の仕方、観点が大きく違います。一見すると別の系統の教義と思えるほどです。親鸞聖人は、この2つを『教行信証』で融合されて説明されているのです。

以前にも言いましたが、善導大師は他力・自力という言葉を使われておりません。善導大師が『観無量寿経疏』で教えられた信心についても、他力の信心・自力の信心という区別がありません。それで、親鸞聖人は『浄土論註』の回向の概念を『観無量寿経疏』の信心に当て嵌められて、他力の信心と自力の信心とに分類されました。

ここで、二河白道の譬えは、どこに説かれているのかと言えば、三心の回向発願心を解釈なされたところです。

勘の良い方なら気が付かれたと思いますが、『浄土論註』の回向とこの回向発願心とは、非常に深い関係があります。阿弥陀仏の救いを他力回向、本願力回向でまとめられた親鸞聖人が、回向発願心に着目されたのは当然なことでしょう。

長文になりますが、「二河白道の譬え」を略した『観無量寿経疏』の回向発願心釈全文は以下です。

「三には回向発願心」と。
「回向発願心」といふは、過去および今生の身口意業所修の世・出世の善根と、および他の一切凡聖の身口意業所修の世・出世の善根を随喜せると、この自他の所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心中に回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づく。
また回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし。 この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。 ただこれ決定して一心に捉りて、正直に進み、かの人の語を聞きて、すなはち進退あり、心に怯弱を生ずることを得ざれ。 回顧すれば道より落ちて、すなはち往生の大益を失するなり。

 問ひていはく、もし解行不同の邪雑人等ありて、来りてあひ惑乱し、あるいは種々の疑難を説きて、「往生を得ず」といひ、あるいはいはく、「なんぢら衆生、曠劫よりこのかたおよび今生の身口意業に、一切凡聖の身の上においてつぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽することあたはず。しかるにこれらの罪は三界の悪道に繋属す。
いかんぞ一生の修福の念仏をもつてすなはちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや」と。
答へていはく、諸仏の教行、数塵沙に越えたり。 稟識の機縁、情に随ひて一にあらず。 たとへば世間の人の眼に見るべく信ずべきがごときは、明よく闇を破し、空よく有を含み、地よく載養し、水よく生潤し、火よく成壊するがごときなり。 かくのごとき等の事をことごとく待対の法と名づく。 すなはち目に見るべし、千差万別なり。 いかにいはんや仏法不思議の力、あに種々の益なからんや。 随ひて一門を出づれば、すなはち一煩悩の門を出づ。 随ひて一門に入れば、すなはち一解脱智慧の門に入る。 これがために縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。 なんぢ、なにをもつてかすなはち有縁の要行にあらざるをもつてわれを障惑するや。
しかるにわが所愛は、すなはちこれわが有縁の行なり。 すなはちなんぢが所求にあらず。 なんぢが所愛は、すなはちこれなんぢが有縁の行なり。 またわが所求にあらず。 このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修すれば、かならず疾く解脱を得。 行者まさに知るべし。 もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、すなはち仏果に至るまで、一切礙なくみな学することを得ん。 もし行を学せんと欲せば、かならず有縁の法によれ。 少しき功労を用ゐるに多く益を得ればなり。

【二河白道譬喩】

 また一切の行者、行住坐臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解をなしつねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。
また「回向」といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化するをまた回向と名づく。

この中で、高森会長の拘る自力回向の部分として親鸞聖人が見做されたのが、一番最初の

「三には回向発願心」と。
「回向発願心」といふは、過去および今生の身口意業所修の世・出世の善根と、および他の一切凡聖の身口意業所修の世・出世の善根を随喜せると、この自他の所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心中に回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づく。

だけです。
回向発願心釈全体の1割にも満たない部分のみ、自力の信心、自力回向とされ、「二河白道の譬え」を含めて、9割以上の部分を他力の信心、他力回向と親鸞聖人が見做されているのです。
ここが親鸞聖人の教えの肝心要と言っても良いところです。
『観無量寿経疏』の信心と『浄土論註』の回向との接点ともいえる最重要ポイントが、回向発願心であり、「二河白道の譬え」になるのです。
親鸞聖人は、真実信心は阿弥陀仏から回向されるものであることを「二河白道の譬え」を使って明らかにされたのですから、「白道」を自力と言うこと自体、親鸞聖人の教えに無知であることを暴露するものです。

実際に『教行信証』信巻には

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。

と仰り、

「白道」
=「能生清浄願心」
=「金剛の真心」
=「本願力の回向の大信心海」

と定義されているのです。

つまり、「白道」を自力回向と見做す発想自体が親鸞聖人にはなかったと思います。その逆で、「白道」こそが、他力回向、本願力回向の信心を最も端的に顕わされたものだ、と思われたため、この「二河白道の譬え」は、多くの御著書に言及があります。もちろん、他力回向、本願力回向の信心として。

今回の話は、真宗教学に無知な高森会長とその弟子には、チンプンカンプンだと思います。異安心の高森会長では、理解できないのも仕方がないでしょう。

無知も自覚できないなら、親鸞聖人の教えに興味のない高森学徒は、「白道」を自力回向、自力の信心とか宣伝して、本願寺から鼻で笑われ続けてくださいな。

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2013年3月20日 (水)

18願を19願にすり替え、矛盾噴出の高森流「二河白道の譬え」

西岸上の人の喚び声は、ただ一度、一声のみです。

「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」

ここで問題です。これは何を顕しているのでしょうか?

1.18願
2.19願
3.18・19・20願の三願

高森会長は何と答えるでしょうか?
高森会長は『教学聖典』なるものまで作って、会員に自慢気に教えています。

汝―――十方衆生
一心――至心・信楽・欲生
正念――乃至十念
直来――若不生者
護汝――不取正覚
不畏――唯除

もう一度聞きます。
なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」は何を顕わされていますか?

もちろん18願です。19願の意味はどこにも含まれていないと高森会長自身が詳説しているではないですか。

つまり、「二河白道の譬え」で、18願だけを喚び声として善導大師が顕わされており、それを高森会長も知っているのです。
そしてこの18願だけの喚び声を聞いて、旅人は「白道」に乗ります。

では、「白道」は18願の道ですか、あるいは最初だけでも19願の道ですか?

小学生でも答えられるでしょう。

善導大師の譬え話が理解できたところで、次に善導大師の譬えが何を顕わされているのかを善導大師がこの後解説なされていますが、そこで高森会長が今回取り上げたのが、

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

です。顕真にはその高森流解釈が載っています。

諸の行業……十九願の「諸功徳」
廻して……自力廻向

もうトリックが判りましたね。
18願を進めとの喚び声を聞いて旅人が乗った「白道」が、いきなり19願にすり替わっています。「回して(廻して)」を自力回向と強引に解釈していますが、18願だけの喚び声を聞いて、その通りに進む旅人が、西岸上の人から全く聞いたこともない19願を実践するのでしょうか?
ちなみに19願の実践を勧めているのは、「群賊」です。この件につきましては以前に

法論を怖れる「群賊」

で述べました。

なお、「回(廻)」については、「二河白道の譬え」の中に、4度出てきます。

まさしく到り回らんと欲すれば
われいま回らばまた死せん
なんぢ、回り来れ
この人(群賊)喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。

これら4つは、共に、

戻る、翻す

の意味です。自力回向の意味はありません。

では18願だけの喚び声を聞いた旅人の「もろもろの行業を回して」とはどんな意味でしょうか?

当然、群賊等の勧めである19願の行を翻して、捨てて、という意味になります。

高森会長の断章取義など、前後の文を読めば簡単に論破できると何度も言ってきましたが、今回も同様です。

また顕真には、親鸞聖人が自力の「白道」として仰ったお言葉としてこう載せています。

○自力の「白道」……前段

白道とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す。白とは、即ちこれ六度・万行・定散なり。これ即ち自力小善の路なり。
                      (愚禿鈔)

やはり、親鸞聖人の御言葉としてはこれしか出せないでしょう。予想通りです。これにつきましても、以前に詳しく述べていますので、そちらをご覧ください。

文法からも、学問的観点からも、どこから見ても曲がった解釈

一言で言えば、

白道」≠「六度・万行・定散なり。これ即ち自力小善の路なり。

です。その証拠に『愚禿鈔』には

「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。

とありますからね。「自力白道」なんてことは、どこにもないです。参考までに「念道」とは譬えの中の

一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

のことです。「白道」を念じて進むのは、「他力」だと親鸞聖人が解釈なされているのです。

今回の総まとめをすると、

群賊の勧めている19願を、西岸上の人の喚び声である18願とすり替えた悪質な改竄を高森会長がしている

ということです。

今回も難しい話はしていないつもりですが、高森会長には難しかったですかね。

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2013年3月19日 (火)

小学生でも判る矛盾を、改める気の全くない高森顕徹会長

高森会長が、教義上の誤りを認めて軌道修正しているのではないか、と期待している人もあるようですが、今月号の顕真の内容を見れば、高森会長の本心は明らかになります。

先月号同様、1月に行われた講師部講義の内容が、紹介されています。

最初に

「白道」に、自力と他力
三願転入を説かれた「二河譬」

と題して、その後に講義の概要説明があります。

 1月の講師部・特専部へのご講義で、高森先生は、前月に引き続き、本誌の「ひと口問答」について詳説なされた。
「白道」を自力の心というのは間違い、と非難する者は、自力から他力へ、という善導大師、親鸞聖人のみ教えを知らぬ者である。
 善導大師の「二河白道の譬え」と、親鸞聖人の三願転入の教えの関係を受講した講師部員から、高森先生へ寄せられたお手紙を紹介する。

この後4人の講師部員の手紙が紹介されていますが、抜粋しておきます。

N講師部員

「諸の行業を廻して直に西方に向う」と、善導大師が三願転入の道程を、「二河白道の譬え」で示されており、「前段なしの後段はあり得ず」とのお言葉が、三願転入を否定する者を破邪しておられると知り、驚きました。

Y講師部員

白道について、前段と後段があり、自力の白道と他力の白道とが教えられていることを、根拠を挙げてご教導いただきました。

S講師部員

後生の一大事が知らされ、何とか解決したいと阿弥陀仏に向かって初めて自力が起き、自力で求めている人に、自力が廃って一念で他力に入る時があります。自他力廃立、三願転入の教えこそが、善導大師の「二河白道の譬え」であり、聖人のみ教えであることを教えて頂きました。

S講師部員

善導大師も三願転入を、「二河譬」の中に教えられているとお聞きしました。「前段なしの後段はあり得ず、あとは自他力廃立あるのみです」の一行で、三願転入を否定する者を破邪なされていて、ただその深さに驚くばかりです。

如何でしょうか。高森会長が、親鸞聖人の教えを正しく伝えようと言う気のさらさらないことが良く判ります。
高森会長が根拠していることは、「前段なしの後段はあり得ず」という妄想だけです。
顕真には親鸞聖人の御言葉も出してありますが、それは次回にまわして、今回は善導大師の御言葉から説明しておきます。

高森会長の言う「前段」は信前、「後段」は信後を指していることは明白ですが、それを善導大師の譬えで探してみてください。『散善義』の原文は以下です。

たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。 忽然として中路に二の河あるを見る。 一にはこれ火の河、南にあり。 二にはこれ水の河、北にあり。 二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。 南北辺なし。
まさしく水火の中間に一の白道あり。 闊さ四五寸ばかりなるべし。 この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。 水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。 この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。 多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。 この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。
「この河は南北に辺畔を見ず。 中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。 二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。 今日さだめて死すること疑はず。 まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。 まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。 まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。 時に当りて惶怖することまたいふべからず。
すなはちみづから思念す。 「われいま回らばまた死せん。 住まらばまた死せん。 去かばまた死せん。 一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。 すでにこの道あり。 かならず度るべし」と。
この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。
また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。
あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。 この道嶮悪にして過ぐることを得ず。 かならず死すること疑はず。 われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。 この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。 一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。 善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。

少し長いので、簡潔にまとめたものが『安心問答』にありますので、引用しておきます。

1.旅人が、無人の荒野を旅していました。
2.群賊悪獣に追われて、死を畏れて西に向かいました。
3.西に向かうと、水の河、火の河が突然として現れます。
4.群賊悪獣に追われて、帰るも死、とどまるも死、先にゆけばまた水火の二河に落ちて死んでしまう。
5.旅人は、そこで、どのみち行き場がないのなら、むしろ前に進んで行こうと決心をします。
6.東の岸に、この道を進めと勧める声と、同時に西の岸にいる人が「直ちに来たれ」と喚ぶ声をたちまちに聞きます。
7.その声を聞いた旅人は、疑いや恐れる心がなくなり、白道を進んでいきます。
8.白道を進み始めると、群賊悪獣が「帰ってこい」と誘惑します。
9.それらの声に惑わされることなく、旅人は白道を進み、西の岸に着きました。

さて、「前段」と「後段」を分ける一念はどこにあるでしょうか。2通り考えられます。

A.三定死と西の岸にいる人の声を聞いた時で分けるならば、「前段」は「白道」に乗る前、「後段」は「白道」に乗った後
B.「白道」を進んでいる途中とすると、「前段」「後段」を分ける一念がない。

どうですか?少しでも思考が残っていれば簡単な話です。
高森会長の話では、「白道」を進んでいる途中に、三定死と西岸上にいる人の声を聞いた時があることになっています。この時点で矛盾して、完全に破綻しているのです。
もし、高森会長が何が何でもを主張したいのであれば、まだ「自力の白道」である19願にさえ入っていない時に、三定死があり、西岸上の人の声を聞くことになります。さらにいえば、高森会長の力説する火に触ったよりも明らかな一念の体験を、善導大師は表現されていないことになります。

再度簡単にまとめますと、

A.三定死、西岸上の人の声を聞くという一念の体験
B.「前段なしの後段はあり得ず」の、「自力の白道」から「他力の白道」へという三願転入の教え

高森会長の最重要視するこの2本柱は、両立しないことを善導大師が明らかになされているのです。

こんなことは二河白道の譬えを読んで話の順番を覚える知能があれば、小学生でもこんな矛盾した話はしないでしょう。
講師部員もこの矛盾に気が付いているのです。それで講師部員の手紙には異口同音に、

高森先生からお聞かせいただかなければ、とても真意は判らないことも知らされました

と言っているのです。
完全に秘事法門です。

善導大師がどんな譬え話を創られたかなど知ったことではない、ワシが言っている内容に善導大師の譬えを合わせるのだ

高森会長が、善鸞と同じ気持ちであることは、皆さんもよく判られたと思います。

高森会長の秘事を破邪するのは、赤子の手を捻るよりも容易いことです。

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2013年3月18日 (月)

法論から逃げ続けて丸一年、高森顕徹会長のお粗末さ

昨年の3月18日に某弘宣局長に、書面とメールで法論を正式に申し込みました。それから丸1年が経過しました。

以下がその時に書いたエントリーです。

昨日、ある集まりに、弘宣局長とK講師、他2名の講師部員が乗り込んできて、親鸞会の邪義を喚き散らしていったそうです。その際に、私が弘宣局に書面で正式に法論を申し込めば、検討する、と弘宣局長は言っていたそうです。

そこで本日、法論申し込みの書面を書留で送付しました。それに加えて以下のメールも送っておきました。

W 様

御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様
御無沙汰しております、○○です。
昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。
法論の条件は、
1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする
以上の4点です。
かつて親鸞会は公約していた筈です。
親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。
これが口先だけであったとは、言わせません。
私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。
1.獲信していない人の死後はどうなるか
親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間
2.五逆罪・謗法罪について
親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている
3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である
4.獲信のために善は必要か
親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない
5.白道とは
親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力
6.定散二善について
親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ
7.19願について
親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ
8.宿善について
親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない
9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる
10.善知識に無条件服従しなければならないか
親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ
なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。
                                           ○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。
なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。
目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。
○○○○

法論の実現も、返事も期待しておりませんが、万が一法論が実現すれば、また退会者が増える縁になるでしょうから、喜ばしいことです。

御存知の通り、親鸞会側から何の連絡もありません。途中で返事を催促してもダンマリです。

ただし、完全にダンマリでは気まずいと思ったのか、会員からの質問があったからか、顕真に「ひと口問答」なるものを掲載し始めましたが、それも途中で終わってしまいました。白道に関しては、昨年末の講師部講義で、見苦しい言い訳をしていたことも、お知らせした通りです。
これが、無二の善知識と呼ばれている、正確には呼ばせている高森会長の実像です。
こんな簡単なことさえも知らない。なぜなら、聖教を読んだことがないからです。
本願寺には相手にされていませんので、法論は成立しませんが、親鸞会は私を相手に、「ひと口問答」で間接的な法論を展開してしまったのですから、相手にしないという言い訳さえも通用しません。
また、わざと打ち込ませた、というのが関の山でしょう。恥ずかしい人物です。
なお、顕真の「ひと口問答」とそれに対する再反論は

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

にまとめてあります。

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2013年3月16日 (土)

一口問答(善知識への無条件服従7)

問い

私たちが助からないのは疑情一つ」と教える人が真の知識です。

答え

親鸞聖人は、19願・20願、そして罪福の因果の道理を信じていることを、「仏智疑惑」と仰っています。『教行信証』化土巻にそのことは書かれていますが、もっと判りやすいのが、『正像末和讃』です。「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて」「自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば」「仏智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は」などと仰っています。
つまり、「疑情」「仏智疑惑」を勧めて、「私たちが助からないのは疑情が足りないからだ」と叫んでいるのが高森会長ということです。
会員が助からないのは高森会長に服従しているから」と教える人が真の知識です。

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2013年3月15日 (金)

一口問答(善知識への無条件服従6)

問い

善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。」(御文章2帖目第11通)と蓮如上人が仰っているように、阿弥陀仏一仏に向け、と教える善知識に従うのが当然ではありませんか。

答え

ならば、高森会長と講師部員に従ってはならないということですね。
諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。」(選択本願念仏集)、「一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。」(一念多念証文)と教えられていますように、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」とは、諸善を捨てて念仏一行になれ、ということです。
諸善を勧める悪知識には、従ってはなりません。

(参照)
善知識の能といふは、諸善を捨てて念仏一行になれと、ひとをすすむべきばかりなり

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2013年3月14日 (木)

一口問答(善知識への無条件服従5)

問い

なぜ、「さとりを得る大因縁」「さとりの道の全因縁」である「善知識」が、同行になるのですか。ここは、教授の善知識ではないですか。

答え

源信僧都が、この「善知識」の意味は同行、と仰っているからです。なお、サンスクリット経典を見ても、同行・善友の意味になっています。
親鸞聖人は『涅槃経』を引用されて、同様の内容を釈尊のお言葉で紹介されています。「一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提に近づく因縁のためには、善友を先とするにはしかず。(中略)このゆゑに日に近づきにたり、善友にしくことなし」(教行信証信巻) さとりに「近づく因縁」は「善友」です。

(参照)
一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提に近づく因縁のためには、善友を先とするにはしかず

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2013年3月13日 (水)

一口問答(善知識への無条件服従4)

下手な芸人よりもおもしろい講師部講義のお陰で、「一口問答(善知識への無条件服従)」が中断しておりましたが、続きを書きます。

問い

釈尊は、「善知識はこれさとりを得る大因縁なり」とか「善知識はさとりの道の全因縁である」と教えられています。善知識に無条件服従せずして、どうして獲信できるというのですか。

答え

相変わらずの断章取義です。
この2つは『往生要集』に引用されたお言葉ですが、その前提として源信僧都は「同行の、ともに嶮を渉るがごときを須ゐる。 すなはち臨終に至るまで、たがひにあひ勧励せよ。」(往生要集)と仰っています。けわしい道を共に渉るようにする同行をもとめて、そうして臨終に至るまで、互に勧め励ましあいなさい、ということです。つまり、ここでいう善知識とは同行のことであり、当然ながら、同行である善知識に無条件服従しなければならない、という意味にはなりません。

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2013年3月 8日 (金)

「浄土真宗の目的は浄土往生」なら「後生の一大事は往生の一大事」

御要望がありましたので、浄土往生に関する講師部員の手紙の一部を紹介します。

Y講師部員

親鸞聖人と善慧房証空の体失不体失往生の諍論を、アニメ第2巻で見せていただくと、どうしても、善慧房の主張した体失往生は間違いで、親鸞聖人の不体失往生のみが正しいと思ってしまいます。しかし、浄土往生こそは仏教の究極の目的であり、浄土真宗の目的です。

K講師部員

「五重の義が成就しなければ、往生できない」と蓮如上人が仰っているのは、浄土往生のことであり、不体失往生のことと間違えれば浄土真宗にならない、と教えていただきました。

ようやく浄土門の入口くらいにきた、という程度のことです。これを顕真で載せて、教えを変更したことを宣伝しているのですからお目出度いことです。もし、高森会長が最初から浄土往生を説いていてそれを講師部員が聞き誤っていたのならば、顕真で紹介するどころか、厳しい叱責があって、会員にまで手紙が公表されることはないでしょう。当然ながら、高森会長の話を”正しく”理解して、仏教・真宗の目的は必堕無間を回避して絶対の幸福になることだ、と思っている会員ばかりだということです。

ところで、浄土真宗の目的が浄土往生なら、後生の一大事の意味は浄土往生の一大事になるのですが、そこまで考えが及ばないところが高森会長らしいです。後生の一大事を必堕無間の一大事だという根拠が元々ないのです。単なる勘違いだったと高森会長も認めているのです。

参考までに言っておきますと、仏教での当面の目的は出離です。そのことは聖教を読めば普通に判ることです。高森会長の大好きな『散善義』の機の深信でも、

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

ですし、『往生礼讃』にある機の深信でも

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し

とあり、更には『散善義』には更に詳しく

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。

と善導大師は仰っています。もちろん、必堕無間の回避という低レベルの話ではありません。聖道門においては、諸善を実践して聖者の悟りを開いて出離することをまずは目指します。そして最後は成仏が究極の目的になるのです。
真宗においては、浄土往生が出離であり、往生即成仏ですから、真宗の目的は浄土往生、と言える訳です。真宗の目的は必堕無間の回避、なんて話は有り得ないことです。つまり、親鸞聖人の教えられたことは、最初から最後まで最高のレベルしか目指していないのです。

したがいまして、親鸞聖人の教えは最高に明るい教えなのです。必堕無間の恐怖に怯えながら、悲壮感を漂わせて求める道ではありません。蓮如上人は『御文章』1帖目第10通

問うていはく、さてかやうに弥陀如来のわれらごときのものをすくはんと、たびたび願をおこしたまへることのありがたさをこころえわけまゐらせ候ひぬるについて、なにとやうに機をもちて、弥陀をたのみまゐらせ候はんずるやらん、くはしくしめしたまふべきなり。

答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもはば、そのありがたさのあまり念仏を申して、弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。

と教えられている通りです。親鸞会会員の悲壮感など必要ありません。「五十年百年のうちのたのしみ」ではなく「永生の楽果」を求めよ、これが後生の一大事ということです。もちろん、信前の人に対して仰ったことですから、信前においても後生の一大事は往生の一大事に決まっています。

浄土真宗の目的は浄土往生

と認めたのならば、次は

後生の一大事は往生の一大事であり、必堕無間の一大事ではない

と認めることです。そこまで認めれば、真宗もどきにはなれますね。

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2013年3月 6日 (水)

「浄土真宗の目的は浄土往生」だそうです

高森会長は、嵐のような教義批判に対して直接反論することはありません。なぜなら、その批判が的を射過ぎていて、浄土真宗とは懸け離れた珍説を説いてきたことを、高森会長自身が認めざるをえないからです。それで、少しずつ珍説を修正してきています。

たとえば、例の年末の講師部講義では、「白道」のことだけでなく、

浄土真宗の目的は浄土往生

と、これまでに説いたことのない尤もらしい話をしたのです。その話に講師部員・特専部員が驚いて手紙を書き、それを顕真に大々的に載せているのですから、お笑いです。

高森会長の話を聞いてきた人なら判ると思いますが、高森会長が浄土往生の話をしてきたことは皆無と言っても過言ではありません。

人生の目的
=無碍の一道
=絶対の幸福

こんな幼稚な話ばかりで、肝心要の浄土往生が完全に抜けていたのです。
ところが当ブログをはじめ、多くの批判ブログで浄土往生を中心に親鸞聖人が教義を展開されていることを説明していますので、高森会長もようやく、浄土真宗の基礎の基礎の基礎から間違っていたことに気が付いて、教えを修正してきた訳です。

浄土真宗を名乗りながら浄土を説かないとは、超一流のボケでしょう。

そんな基礎の基礎の基礎を、今頃修正しているのですから、高森会長が浄土真宗の教えにまで変更するには、曠劫多生かかるでしょう。その証拠に、”善の勧め”は相変わらずです。ただし、一般の会員向けに、あからさまな金集め人集めの話を高森会長はしません。講師部員の口を通して、人を選んであからさまな金集め人集めを強要してきます。

カルト教義の3本柱は、

1.地獄の強調
2.金集め人集めの強制
3.指導者への無条件服従

ですが、1と3については、以前よりも表現は和らいでいます。しかし、親鸞会を存続させるためには、2は必要不可欠ですから、高森会長が善の勧めを修正することはあり得ないでしょう。

浄土往生を言い始めたくらいで、浄土真宗は名乗れませんよ、高森会長。
実際、本願寺は以前にもまして、高森会長を他宗扱いしています。異端扱いではないです、他宗扱いです。
もちろん、他宗の開祖の『歎異抄をひらく』など鼻で笑われているのですが、

未だに反論がない

と会内部で大騒ぎして、会員でもさえも白けているのですから、なんとも惨めなものです。

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2013年3月 1日 (金)

本願力回向を否定し、仏智不思議を疑う罪を肯定する高森顕徹会長

親鸞聖人の教えられたことを一言で言えば、本願力回向の教えと言われます。阿弥陀仏が兆載永劫の御修行によって成就された功徳を衆生に与えられることをいいます。つまり、往生のために衆生の側で何かを加えたり添える必要がないということです。高森会長が知らない真宗の超常識です。

高森会長が因果の道理から善を勧めれば勧めるほど、本願力回向を否定することになります。なぜなら、阿弥陀仏が兆載永劫の御修行による功徳では足りないと言っていることになるからです。
高森会長自身だけではなく、会員にも仏智不思議の本願力回向を疑わせる恐ろしい罪を造らせているのです。親鸞聖人は、御著書の中で何回もそのことを誡められ、高森会長の説を完全に否定されています。最も判りやすいのが、『正像末和讃』誡疑讃

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

です。罪福の因果の道理を信じて善を行っている人は、本願力回向を疑っているから、本願力回向によって往ける報土ではなく、その人の自業自得で、七宝の獄という化土に往くことになる、と教えられたものです。

親鸞聖人の教えの肝心要の本願力回向を顕したのが、例の「白道」なのです。

『教行信証』信巻に、

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

と教えられていることは、前にも紹介しました。親鸞聖人が最も仰りたかった「本願力の回向の大信心海」を「能生清浄願心」=「白道」で顕わされているのですから、

ワシは親鸞聖人の読み方ではなく、善導大師の読み方で教えてきただけだ

といくら虚勢を張って誤魔化そうとしても、それは本願力回向の否定、親鸞聖人の教えの否定、仏智不思議を疑う罪の肯定でしかないのです。

親鸞会の会員も退会者も、「本願力の回向の大信心海」を獲たいと思うのであれば、本願力回向と反する高森会長の説く因果の道理を頭から消し去ることです。もっと言えば、「本願力の回向の大信心海」を獲るために努力するのではなく、本願力回向を否定する努力を止めることです。具体的には、19願、定散二善を捨てるのはもちろんのこと、聞法善などという訳の判らない概念も捨て去ることです。

いつも示しています10項目は、この本願力回向を肯定する親鸞聖人と、否定する高森会長との差といってもよいでしょう。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

簡単に言えば

親鸞聖人 本願力回向の教え
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 本願力回向の否定(仏智不思議を疑う罪の肯定)

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