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2013年2月19日 (火)

その場凌ぎの思いつき適当教義

高森会長は、親鸞聖人の仰ったことさえ知らないのに、善導大師の仰ったことなど知っている筈もないです。難しい話をしても、とても理解できないでしょうから、高森会長でも判るレベルの話からしていきます。

まず、高森会長の説明では、行者は白道を歩んでいる途中で三定死を迎えて、阿弥陀仏の呼び声を聞くことになっています。
しかし、これは善導大師及び親鸞聖人の御説明とは異なっています。本来の譬えでは、三定死と阿弥陀仏の呼び声を聞くのは、白道に乗る前、東の岸に行者がいる時のことです。三定死の後、阿弥陀仏の呼び声を聞いてから白道に乗るのですから、白道は他力信心のことにしかなりません。

たったこれだけで高森会長のデタラメと無知は証明されました。

以上で終わり。

で、後の説明は不要ですし、教学のない高森会長に理解できる内容でもありません。
ただし、真面目に教学を学びたい人のために少し説明しておきます。

最初に、善導大師は他力・自力という言葉を御著書の中で、1度も使われていません。もう一つ、善導大師は信心を『観無量寿経』に説かれた至誠心・深心・回向発願心の三心で顕わされています。この三心をもって、往生できるかどうかを説明されていると言うことです。具体的には『往生礼讃』

この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。

と仰っています。至誠心・深心・回向発願心の三つが揃えば必ず往生できるが、一つでも欠けると往生できない、ということです。

高森会長の話しか聞いたことがない人には、カルチャーショックを受けるほど、信心の説明が違うと思います。
なぜかというと、善導大師と親鸞聖人とは、信心の説明の仕方が違うのです。
親鸞聖人は曇鸞大師の影響を強く受けられて、他力と自力という観点で往生の可否を説明されていますが、善導大師はそうではありません。
つまり、善導大師は、他力の信心とか自力の信心という観点で二河白道の譬えを創られていないのです。

それを親鸞聖人は善導大師の

この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。

を他力の信心、自力の信心という観点から説明解釈なされました。たとえば『唯信鈔文意』

一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。
(中略)
三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。

と解説なされています。
至誠心・深心・回向発願心の三心が揃ったことを他力の信心、そうでないのを自力の信心となされています。
これを更に『教行信証』の信巻と化土巻で詳しく、善導大師が『散善義』で教えられた三心釈の御文を、他力の信心の部分と自力の信心の部分とに分けて解釈なされているのです。

かなり難しい話になりましたが、話を二河白道の譬えに戻すと、この譬えは回向発願心釈の中に出てきます。そして、この二河白道の譬えは、親鸞聖人は信巻に引かれて、化土巻には引かれていません。

理解力のある人ならもう判られたと思います。

親鸞聖人は、二河白道の譬えは他力の信心を善導大師が顕わされたものだ、と明示なされた訳です。自力の信心の意味を顕わされるために善導大師が創られたものではない、と親鸞聖人は見做されているのです。

今回のエントリーをまとめると、

  1. 三定死も阿弥陀仏の呼び声を聞くのも、白道に乗る前の東の岸でのこと。
  2. 善導大師は、他力の信心・自力の信心という観点でもともと説明をされていない。
  3. 親鸞聖人は、善導大師の三心釈を他力の信心と自力の信心という観点で解釈なされて、二河白道の譬えは他力の信心を善導大師が顕わされたものと見做された。

高森会長は、昔からその場凌ぎの思いつき適当教義を創ってきました。今回もその典型例です。
高森会長レベルでは、今回の話は難しすぎて、到底理解できないと思います。

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コメント

大変わかり易い説明、ありがとうございました。すっきり理解できました。

投稿: mary | 2013年2月19日 (火) 23時20分

教行信証講義の中に、合法の部分では、旅人が白道を戻るという部分もあるから、単に信後だけのことをいわれたのではないというような記載はありませんか。私は、教行信証講義の本はもっておらず、ネットでみただけなので、違うかも知れませんが、そこには、合法の部分では、信前と読める部分もあるということが書かれていました。

投稿: | 2013年2月19日 (火) 23時38分

mary 様

後で、もう少し説明を加えておきます。


名無し 様

『教行信証講義』には、確かにそのように書かれています。
しかし、ほとんど味わいによるものです。信仰の経路も顕わされているいるべきだ、という考えが前提になって論旨を展開していますが、御文をそのまま読めば、そのような意味でないことは判ります。

投稿: 飛雲 | 2013年2月20日 (水) 07時27分

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