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2013年2月 6日 (水)

一口問答(機の深信1)

親鸞会の教義は、高森顕徹会長一人が占有しているため、高森会長でなければ”正しい親鸞会教義”を説くことはできませんでした。しかし、最近は弘宣局、教学課も新しい教義の創作に一役買っているようで、余計にややこしいヘンテコ教義になっています。

顕真に連載された「ひと口問答」を読むと、これは高森会長の考えたものではない、とすぐに判ります。mixiでの三願転入法論の大惨敗で懲りたのか、あるいは能力的に無理になったのかもしれません。

さて、

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

については、直接の反論が今後出てくることを期待できませんが、昨年9月号顕真の「ひと口問答」

問い

浄土真宗では、すべての人を「煩悩具足の凡夫」とか「罪悪生死の凡夫」と言われますが、
この「煩悩具足」や「罪悪生死」の中に、五逆罪や法謗罪は入らないと言う人と、入るという人とがありますが、いかがでしょうか。

答え

五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。
それを、『正信偈』には「極重悪人」と教え、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」と言い、
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、
弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれています。

が、反論に近いので、これについて以前に書いたもので、まずは代用しておきます。

問い

五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。

答え

違います。弥陀の本願の正機を悪人正機と教えられますが、これについて法然上人、親鸞聖人の御相伝として「悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」(口伝鈔)と覚如上人は教えられています。
悪人正機とは、言い換えれば善人傍機のことです。当然ながら善人がいるということであり、すべての人が逆謗の機という意味にはなりえません。


問い

極重悪人唯称仏」(正信偈)とありますから、親鸞聖人は全人類のことを「極重悪人」と仰っているではないですか。

答え

これは源信僧都が『観無量寿経』に説かれていることを「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)と仰り、それを親鸞聖人が言い換えられたものです。「極重の悪人」とは下品下生の者のことで、五逆罪を造り、平生に善をしたこともない者が、臨終になって初めて仏教を聞いて、ただ念仏して往生を遂げる、ということをこのように表現されました。一方で、中品下生以上の者は定散二善をして往生を遂げる、と教えられています。
一生造悪」同様、18願は悪人正機だということを仰ったものです。


問い

他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれていますから、すべての人は逆謗の機ではないですか。

答え

煩悩具足」と機の深信について、善導大師は『往生礼讃』に直接仰っていて、親鸞聖人も引用されています。
自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。」(教行信証行巻・信巻)
善導大師は「煩悩を具足せる凡夫」であり、かつ「善根薄少」と仰っていますが、「善根無し」とは仰っていません。善導大師は下輩について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観無量寿経疏)と仰っていますから、善導大師御自身は下輩でない、との告白です。もちろん下品下生の五逆の機ではない、極重の悪人ではない、ということです。


問い

機の深信では「罪悪生死」、『歎異抄』では「罪悪深重」と言われていますから、すべての人は重い罪である五逆罪・謗法罪を造っているということではないですか。

答え

単なる妄想です。『観無量寿経疏』の機の深信「罪悪生死の凡夫」が『法事讃』の機の深信「煩悩を具足せる凡夫」に当たります。「罪悪生死」=「煩悩具足」です。
また「罪悪深重」が、五逆・謗法のこととどこにも書かれていません。
その証拠に、法然上人は「われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず」(往生大要鈔)と仰り、聖覚法印は「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)と法然上人と同じことを言われ、親鸞聖人はこの文を御自身で書写して、同行に送って読むように勧められています。法然上人・聖覚法印・親鸞聖人は、私たちは五逆罪を造っていないと明言されています。
つまり、五逆罪・謗法罪を造っていなくても、「罪悪深重」です。


問い

本願文で機の深信に相当するのが「唯除五逆誹謗正法」と教えられているではないですか。

答え

これも妄想です。二種深信を詳しく解説された存覚上人が、『六要鈔』の中で、法の深信について本願の「若不生者不取正覚」を出されましたが、機の深信については本願文を出されていません。もちろん、善知識方も仰っていません。大沼法竜師が味わいを語った内容を教義と高森会長が勘違いしただけです。
唯除五逆誹謗正法」について親鸞聖人は、「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」(尊号真像銘文)と教えられています。五逆謗法の者も漏れず、ですから、すべての人の中に五逆謗法の者もいる、つまり五逆謗法でない者も多い、ということです。


問い

機の深信とは、逆謗の屍で地獄行き間違いなし、と知らされることではないというなら、何が知らされるのですか。

答え

日本語が理解できるなら、文字通り解釈するだけです。
なお、善導大師は機の深信を更に別の言い方で詳しく説明されています。
わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。」(観無量寿経疏)
私は法友と共に無始より廃悪修善に努めてきた。その中で数えきれない多くの法友が、出離して聖者となったのに、我ら凡夫は未だ出離できず、煩悩がますます盛んになり、微々たる善しかできない、ということです。
逆謗の屍とか地獄行き間違いなしの意味など皆無です。


問い

親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)と仰っていますから、機の深信とは死んだら地獄に堕ちる、とはっきり知らされることではないですか。

答え

前にも言いましたが、この御心は『執持鈔』に詳しく書かれています。「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。」という大前提を仰った後、「われら凡夫かならず地獄におつべし」「決定悪道へゆくべかりつる身」「三悪・四趣の生をひくよりほか」「六趣・四生よりほかはすみかもなく」「三途・八難にこそしづむべけれ」と様々に言い換えられています。
阿弥陀仏に救われても死後のことがはっきりすることはないと仰っているのですから、聖教上に書かれたことを踏まえて臨機応変に、地獄だ、三悪道だ、六道だ、と親鸞聖人が使い分けられているだけです。

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コメント

ちょっと質問です。
会長が昔、地獄の釜の底を叩いて来いと言ってたのですが、これは誰か別の人が言っていたことでないでしょうか?
お聖教にはそんなことどこにも書いてないし会長の実態を知るに付けおそらくこれも誰か味わいとしていったことのパクりだと思うんですが当該の情報はないでしょうか。

投稿: | 2013年2月 8日 (金) 11時41分

名無し 様

地獄の釜の底を叩くという表現は、一般にも使われるものです。大沼師もどこかで使っていたのではないかと思われます。

投稿: 飛雲 | 2013年2月 9日 (土) 07時32分

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