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2013年2月18日 (月)

小学生でも気が付くような矛盾にさえ気が付かない高森顕徹会長

顕真2月号に、昨年12月に行われた講師部講義(特専部も参加)のことが載っていました。講義の内容を直接載せずに、講師部員・特専部員の手紙でその内容を会員に推測させる、といういつもの秘事法門です。

最初に講義の趣旨について以下のようにあります。

「白道」は自力か、他力か

 講師部・特専部への昨年12月のご講義で、高森先生は、本誌10月号の「ひと口問答」を詳しくご解説くださった。
「白道」を自力の心というのは間違いだ、と非難してくるのは、本願寺でもかなりの学者と見られる。それを、どう破られているのだろうか。

これだけでも読まれれば、退会者なら失笑するでしょう。「白道」を自力の心というのは間違いだ、と非難してくるのは、退会者です。退会者からの非難を、「本願寺でもかなりの学者と見られる」としたいのですから、思いもよらない指摘に高森会長が動揺し、高森会長のプライドが、「本願寺でもかなりの学者と見られる」と言わせたのでしょう。

ちなみに昨年3月18日付けで、私が某弘宣局長宛てに法論の申し込みをした内容にも、

「白道」を自力の心というのは間違いだ

ということを入れています。いつもの10項目の5番目

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

を指していることは言うまでもありません。

もちろん私は一退会者で、「本願寺でもかなりの学者」ではありません。高森会長もそのことを十二分に知っています。

さて、その講義の内容を、講師部員・特専部員に語らせて、都合が悪くなれば、

ワシはそんなことを言っておらん

の逃げ道を作っている卑怯さも相変わらずです。
一応手紙の内容を抜粋します。

K特専部長

 善導大師が、二河白道の譬えで「自力」だと教えられた「白道」を、親鸞聖人は「他力」と読まれたことを教えて頂きました。
 また、高森先生は、「白道」とは「他力」ではないかという非難が来ることをとっくの昔に予測され、相手に打ち込ませるようにご説法なされていたことにも驚きました。

T講師部員

「二河白道の譬え」の「白道」は、自力か、他力か。それは、
「能生清浄願往生心」
  (善導大師・観無量寿経疏)
の「生」の1字で明らかとは、驚きました。
 善導大師は、前段では「生ず」と書かれて自力だと教えられ、それを親鸞聖人は、「生ぜしむ」と読み替えられ、他力だと明らかにされています。

Y講師部員

「能生清浄願往生心」の「生」を、「生ず」と読むか、「生ぜしむ」と読むかで、自力と他力が分かれると教えていただきました。本会を非難している者は、親鸞聖人の読まれ方で攻撃してきていることも分かりました。
 邪を破るには、まず、相手をよく知らねばなりません。

如何でしょうか。高森会長のうろたえぶりが見えるようです。

相手をよく知ることができていないのが、高森会長です。
もう一度私の書いたものを書きます。

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

私は一貫して、親鸞聖人の仰せと高森会長の言っていることが正反対だ、と非難してきました。それが
高森先生は、「白道」とは「他力」ではないかという非難が来ることをとっくの昔に予測され、相手に打ち込ませるようにご説法なされていた
親鸞聖人は、「生ぜしむ」と読み替えられ、他力だと明らかにされています
親鸞聖人の読まれ方で攻撃してきていることも分かりました
と必死になって、誤魔化そうとしています。
つまり、

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

を完全に認めてしまっているのです。善導大師云々以前の問題です。
そのために前々回に

御一代記聞書

前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。

と釘を刺しておいたのです。「開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ」を自ら否定しているのですから、高森会長は最高級の漫才師です。

今回は難しいことを敢えて書きませんでした。書いても理解できないでしょうから。

今回のことで皆さんにもはっきりしたと思います。
小学生でも気が付くような矛盾にさえ気が付かない智慧を体得しているのが、高森顕徹という人物だということを。

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コメント

笑えました。
高森会長の負け惜しみには、本当に笑えました。

普通なら逆でしょう。
浄土真宗親鸞会を名乗り、親鸞聖人の教えを間違ってお伝えしたなら腹を切ってお詫びするとまで宣言していたのなら、非難してきたものに対して
「善導大師の読まれ方で攻撃してきている」
とか言って、
「善導大師の御文を親鸞聖人が解釈された通りに従うのが親鸞学徒」
と言う筈なのにね。

こんな輩を今でも信じている会員が哀れです。

投稿: 笑えた | 2013年2月18日 (月) 21時44分

笑えた 様

多くの人が同じく笑えました。
そして気持ちです。

投稿: 飛雲 | 2013年2月19日 (火) 21時43分

「中間の白道といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ずるに喩ふ。」
(浄土文類聚鈔)真宗聖典(法蔵館)より

浄土文類聚鈔では善導大師が前段で著されたものが引用されている。
そこには「生ずる」とあるから自力だ。

というような事を現役さんから聞きましたが、
法蔵館の真宗聖典以外の発行物を何冊か見てみると、
「生ずる」だったり、「生ぜしむる」だったりしてバラバラでした。

浄土文類聚鈔って、原文は漢文でしたよね?
そこに送り仮名があるのかないのかまでは調べていませんが、
結局、編纂者によって送り仮名が「生ずる」になったり、
「生ぜしむる」になったりしているようでした。

この送り仮名を根拠に「自力だ!」って言うのは無理があるような…。

それ以前に、前後の文脈みれば、ここが自力について言及されている箇所だとすると
おかしな事になると思うんですが、誰も疑問に思わないんですかね?

投稿: 送り仮名が根拠? | 2013年2月19日 (火) 22時14分

送り仮名が根拠? 様

その通りですね。
実際、『浄土文類聚鈔』には、この直後に

ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。

とあり、「生」を含めて、「凡夫自力の心にあらず」とされていますからね。
彼らにとって、前後に何が書いてあるかなど関係ないのですから、せめて「親鸞学徒」「浄土真宗」「親鸞会」という名称を使わないようにしてもらいたいものです。

投稿: 飛雲 | 2013年2月20日 (水) 07時09分

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