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2013年2月

2013年2月25日 (月)

一口問答(白道は自力か他力か 追加)

高森会長の苦しい言い訳に振り回されて、講師部員も特専部員も、そして会員も戸惑っているようです。なぜなら高森会長自身が、親鸞学徒常訓を忘れているからです。

われら親鸞学徒は、 さらに珍しき法をも弘めず 親鸞聖人のみ教えを 我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり

一応、一口問答に追加しておきます。

問い

善導大師が二河白道の譬えで、「能生清浄願往生心」の「」を「生ず」と読んで「白道」を自力だと教えられました。それを親鸞聖人は「能生清浄願往生心」の「」を「生ぜしむ」と読み替えられ、他力だと明らかにされています。

答え

結局のところ、高森会長は親鸞聖人の教えとは異なることを教えていると認めた訳ですね。
参考までに、善導大師は他力・自力という言葉を御著書の中で一度も使われていません。信心についても、他力の信心・自力の信心と区別されて説明されたところもありません。
そこで親鸞聖人が、善導大師が信心について説明された御文について、他力の信心を顕わされた部分と自力の信心を顕わされた部分とに分けられました。親鸞聖人は二河白道の譬え全体を、善導大師が他力の信心を顕わされた部分と明らかにされたのです。
善導大師が仰っていないことをでっち上げ、親鸞聖人の解釈に刃向かって、何が親鸞学徒ですか。親鸞学徒常訓は嘘ですか。

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2013年2月21日 (木)

次は「本会を非難している者は、親鸞聖人の教えられ方で攻撃してきている」と言うかもしれません

高森会長の全く知らない善導大師の三心釈について述べてきましたが、これを曲解して、高森会長は金集め人集めに利用する可能性があります。

善導大師は三心を具すまで、自力で至誠心・深心・回向発願心を求めよと教えておられる。

などと。

こんな考え方をする人が親鸞聖人の時代にもおられたのでしょう。
親鸞聖人は『唯信鈔文意』でその間違いを指摘されています。

『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』の三心は定善・散善を修める自力のものの心であって、そのような自力の心をあらためて、『無量寿経』の真実の信心を得させようと願う方便の深心と至誠心であるとしらなければならない。真実の信心を得ないから、「即不得生」というのである。「即」はそのままでということであり、「不得生」というのは生れることができないということである。信心が欠けているので、そのままでは真実の浄土に生れることはできないというのである。さまざまな行を修めて浄土に往生しようとする自力のものは、他力の信心が欠けている。そのため、生れ変り死に変りしてはかり知れない時を経て、他力の一心を得た後に真実の浄土に生れることができる。だから、そのままでは生れることはできないというのである。たとえ胎宮や辺地などといわれる方便の浄土に生れたとしても、五百年もの時を経なければならず、また億千万の人々の中で、真実の浄土に進むのはまれに一人いるかどうかであると示されている。真実の信心を得ることを十分に心得て、真実の浄土に生れることを願わなければならない。

結論は、『観無量寿経』の三心を獲ようとするのではなく、『大無量寿経』の三信(至心・信楽・欲生我国)を獲ることだけを考えなさい、と仰っているのです。
もっと簡単に言えば、19願・定散二善に心をかけずに、18願・他力念仏だけを求めなさい、と仰ったお言葉です。

高森邪義の完全否定です。

次の講師部講義ではこんな名言が聞かれるかもしれません。

19願、善を勧めるのは間違いだ、と非難してくるのは、本願寺でもかなりの学者と見られる

我々には18願だけでいい、19願は不要、と本会を非難している者は、親鸞聖人の教えられ方で攻撃してきている

高森会のトップは、救いようがないです。

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2013年2月20日 (水)

善導大師の三心釈を知っている筈もない高森顕徹会長

思い込みが激しく、非常識な思いつきを得意とするのが高森会長ですが、善導大師が回向発願心釈の中にある二河白道の譬えで仰った「能生清浄願心」を、親鸞聖人がどう解釈されたのかが、親鸞学徒にとっては一番の問題である筈です。

『教行信証』信巻には、

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

と仰り、『浄土文類聚鈔』では

「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。

と仰っています。
」をどう読むかは問題ではなく、「能生清浄願心」を他力の意味でしか親鸞聖人は解釈されていないのです。

善導大師の「衆生貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心」は、『正信偈』でいえば、

すでによく無明の闇を破すといへども、
貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。

と同じ意味です。

二河白道の譬えの他の御文と比べると、より判ると思います。

まさしく水火の中間に一の白道あり。 その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。

自力の信心で煩悩と戦った末に、他力の信心を生ずるではなく、他力の信心は煩悩の中に生ずる、というだけの意味です。まさか『正信偈』の御文を、貪愛・瞋憎の雲霧と戦って、無明の闇を破し、真実信心を獲る、とでも解釈するのなら別ですが。真実信心は煩悩に覆われている、と素直に読むのなら、「衆生貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心」も素直に読めばいいのです。

ついでですから、至誠心釈についても述べておきます。

高森会長の好きな

外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

は、至誠心釈にあります。善導大師は、信心として仰った内容の一部ということです。

これを親鸞聖人は読み替えられて、『教行信証』信巻に引かれています。
つまり、親鸞聖人は、善導大師が他力の信心を顕した部分と解釈されていることになります。更に、化土巻には、読み替えた御文もないし、読み替えられていない御文も引かれていませんので、信前の自力の信心を顕わされたものと、親鸞聖人は見做されていないことは、明白です。

もう一つ言っておくと、至誠心・深心・回向発願心の三心が揃って他力の信心ということは、二心だけ、一心だけ、という状態があるのを前提として善導大師は仰っているのです。そしてそれを親鸞聖人が、二心だけ、一心だけという自力の信心とはどういうものかについて、化土巻で説明されていますので、親鸞聖人も自力の至誠心・深心・回向発願心をもった人がいることを前提とされているということです。つまり、善人が存在するのが前提です。

高森邪義に毒されていると、今回も理解しがたい内容でしょうが、少しでも思考を働かせれば理解できると思います。

もちろん高森会長には理解できないでしょう。

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2013年2月19日 (火)

その場凌ぎの思いつき適当教義

高森会長は、親鸞聖人の仰ったことさえ知らないのに、善導大師の仰ったことなど知っている筈もないです。難しい話をしても、とても理解できないでしょうから、高森会長でも判るレベルの話からしていきます。

まず、高森会長の説明では、行者は白道を歩んでいる途中で三定死を迎えて、阿弥陀仏の呼び声を聞くことになっています。
しかし、これは善導大師及び親鸞聖人の御説明とは異なっています。本来の譬えでは、三定死と阿弥陀仏の呼び声を聞くのは、白道に乗る前、東の岸に行者がいる時のことです。三定死の後、阿弥陀仏の呼び声を聞いてから白道に乗るのですから、白道は他力信心のことにしかなりません。

たったこれだけで高森会長のデタラメと無知は証明されました。

以上で終わり。

で、後の説明は不要ですし、教学のない高森会長に理解できる内容でもありません。
ただし、真面目に教学を学びたい人のために少し説明しておきます。

最初に、善導大師は他力・自力という言葉を御著書の中で、1度も使われていません。もう一つ、善導大師は信心を『観無量寿経』に説かれた至誠心・深心・回向発願心の三心で顕わされています。この三心をもって、往生できるかどうかを説明されていると言うことです。具体的には『往生礼讃』

この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。

と仰っています。至誠心・深心・回向発願心の三つが揃えば必ず往生できるが、一つでも欠けると往生できない、ということです。

高森会長の話しか聞いたことがない人には、カルチャーショックを受けるほど、信心の説明が違うと思います。
なぜかというと、善導大師と親鸞聖人とは、信心の説明の仕方が違うのです。
親鸞聖人は曇鸞大師の影響を強く受けられて、他力と自力という観点で往生の可否を説明されていますが、善導大師はそうではありません。
つまり、善導大師は、他力の信心とか自力の信心という観点で二河白道の譬えを創られていないのです。

それを親鸞聖人は善導大師の

この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。

を他力の信心、自力の信心という観点から説明解釈なされました。たとえば『唯信鈔文意』

一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。
(中略)
三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。

と解説なされています。
至誠心・深心・回向発願心の三心が揃ったことを他力の信心、そうでないのを自力の信心となされています。
これを更に『教行信証』の信巻と化土巻で詳しく、善導大師が『散善義』で教えられた三心釈の御文を、他力の信心の部分と自力の信心の部分とに分けて解釈なされているのです。

かなり難しい話になりましたが、話を二河白道の譬えに戻すと、この譬えは回向発願心釈の中に出てきます。そして、この二河白道の譬えは、親鸞聖人は信巻に引かれて、化土巻には引かれていません。

理解力のある人ならもう判られたと思います。

親鸞聖人は、二河白道の譬えは他力の信心を善導大師が顕わされたものだ、と明示なされた訳です。自力の信心の意味を顕わされるために善導大師が創られたものではない、と親鸞聖人は見做されているのです。

今回のエントリーをまとめると、

  1. 三定死も阿弥陀仏の呼び声を聞くのも、白道に乗る前の東の岸でのこと。
  2. 善導大師は、他力の信心・自力の信心という観点でもともと説明をされていない。
  3. 親鸞聖人は、善導大師の三心釈を他力の信心と自力の信心という観点で解釈なされて、二河白道の譬えは他力の信心を善導大師が顕わされたものと見做された。

高森会長は、昔からその場凌ぎの思いつき適当教義を創ってきました。今回もその典型例です。
高森会長レベルでは、今回の話は難しすぎて、到底理解できないと思います。

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2013年2月18日 (月)

小学生でも気が付くような矛盾にさえ気が付かない高森顕徹会長

顕真2月号に、昨年12月に行われた講師部講義(特専部も参加)のことが載っていました。講義の内容を直接載せずに、講師部員・特専部員の手紙でその内容を会員に推測させる、といういつもの秘事法門です。

最初に講義の趣旨について以下のようにあります。

「白道」は自力か、他力か

 講師部・特専部への昨年12月のご講義で、高森先生は、本誌10月号の「ひと口問答」を詳しくご解説くださった。
「白道」を自力の心というのは間違いだ、と非難してくるのは、本願寺でもかなりの学者と見られる。それを、どう破られているのだろうか。

これだけでも読まれれば、退会者なら失笑するでしょう。「白道」を自力の心というのは間違いだ、と非難してくるのは、退会者です。退会者からの非難を、「本願寺でもかなりの学者と見られる」としたいのですから、思いもよらない指摘に高森会長が動揺し、高森会長のプライドが、「本願寺でもかなりの学者と見られる」と言わせたのでしょう。

ちなみに昨年3月18日付けで、私が某弘宣局長宛てに法論の申し込みをした内容にも、

「白道」を自力の心というのは間違いだ

ということを入れています。いつもの10項目の5番目

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

を指していることは言うまでもありません。

もちろん私は一退会者で、「本願寺でもかなりの学者」ではありません。高森会長もそのことを十二分に知っています。

さて、その講義の内容を、講師部員・特専部員に語らせて、都合が悪くなれば、

ワシはそんなことを言っておらん

の逃げ道を作っている卑怯さも相変わらずです。
一応手紙の内容を抜粋します。

K特専部長

 善導大師が、二河白道の譬えで「自力」だと教えられた「白道」を、親鸞聖人は「他力」と読まれたことを教えて頂きました。
 また、高森先生は、「白道」とは「他力」ではないかという非難が来ることをとっくの昔に予測され、相手に打ち込ませるようにご説法なされていたことにも驚きました。

T講師部員

「二河白道の譬え」の「白道」は、自力か、他力か。それは、
「能生清浄願往生心」
  (善導大師・観無量寿経疏)
の「生」の1字で明らかとは、驚きました。
 善導大師は、前段では「生ず」と書かれて自力だと教えられ、それを親鸞聖人は、「生ぜしむ」と読み替えられ、他力だと明らかにされています。

Y講師部員

「能生清浄願往生心」の「生」を、「生ず」と読むか、「生ぜしむ」と読むかで、自力と他力が分かれると教えていただきました。本会を非難している者は、親鸞聖人の読まれ方で攻撃してきていることも分かりました。
 邪を破るには、まず、相手をよく知らねばなりません。

如何でしょうか。高森会長のうろたえぶりが見えるようです。

相手をよく知ることができていないのが、高森会長です。
もう一度私の書いたものを書きます。

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

私は一貫して、親鸞聖人の仰せと高森会長の言っていることが正反対だ、と非難してきました。それが
高森先生は、「白道」とは「他力」ではないかという非難が来ることをとっくの昔に予測され、相手に打ち込ませるようにご説法なされていた
親鸞聖人は、「生ぜしむ」と読み替えられ、他力だと明らかにされています
親鸞聖人の読まれ方で攻撃してきていることも分かりました
と必死になって、誤魔化そうとしています。
つまり、

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

を完全に認めてしまっているのです。善導大師云々以前の問題です。
そのために前々回に

御一代記聞書

前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。

と釘を刺しておいたのです。「開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ」を自ら否定しているのですから、高森会長は最高級の漫才師です。

今回は難しいことを敢えて書きませんでした。書いても理解できないでしょうから。

今回のことで皆さんにもはっきりしたと思います。
小学生でも気が付くような矛盾にさえ気が付かない智慧を体得しているのが、高森顕徹という人物だということを。

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2013年2月16日 (土)

一口問答(善知識への無条件服従3)

問い

親鸞聖人の教え・解釈に従うのは当たり前です。蓮如上人は「開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ」(御一代記聞書)と仰っているのですから、教え・解釈以外のことについても、従っていくのが求道者のあるべき姿ではないですか。

答え

親鸞聖人は『大智度論』に記された釈尊のお言葉を引用されています。「今日より法に依りて人に依らざるべし(中略)法に依るとは、法に十二部あり、この法に随ふべし、人に随ふべからず。」(教行信証化土巻) 聖教に書かれた教えに従うのであって、教えと関係ない指示に従ってはならない、ということです。
聖教に書かかれてもいないことを平気で言いふらし、「阿弥陀仏・親鸞聖人の御心が判るのは高森先生だけだ」と弟子に言わせている人物には、決して従ってはならないのです。

(参照)
朝令暮改の人に随ふべからず

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2013年2月14日 (木)

一口問答(善知識への無条件服従2)

問い

では、「前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。」(御一代記聞書)は、間違いなく蓮如上人のお言葉です。納得できなくても、親鸞聖人のなされた通りに無条件で従うということではないですか。

答え

蓮如上人が「大勢至の化身なり」と尊敬されていた存覚上人の『六要鈔』を引用して、他所では、「しかるに『六要鈔』には三心の字訓そのほか、「勘得せず」とあそばし、「聖人(親鸞)の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候ふ。まことに聖意はかりがたきむねをあらはし、自力をすてて他力を仰ぐ本意にも叶ひまうし候ふ物をや。」(御一代記聞書)とあります。存覚上人でさえ、親鸞聖人の解釈について、「判らない」と言われているのだから、聖人のお心は本当にはかりがたいが、親鸞聖人の解釈に従うべきだ、ということです。
従うのは、親鸞聖人の教え、解釈です。

(参照)
「聖人の宏才仰ぐべし」と高森会長の「深い御心」との違い

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2013年2月13日 (水)

一口問答(善知識への無条件服従1)

最近の親鸞会は、教義について尋ねられることを極度に恐れています。退会者からはもちろんのこと、会員からも教義については質問をできるだけ受け付けない、質問には答えない姿勢が目立ってきました。
高森会長・講師部員共に、教義と詭弁にも完全に自信を喪失しているようです。実に脆いものです。高森会長60年の積み重ねなど、退会者の2、3年の勉強で吹き飛んでしまうのですから。

ここまでくれば、親鸞会と法論して勝つことは、読者の皆さんなら容易いかもしれません。しかし、法論をされるならば、いつもの10項目に限って行ってください。他でもおかしい所ばかりですが、元々が曖昧な表現ですので、詭弁で適当に誤魔化されて、最後まで追い詰められずに終わる可能性もあります。講師部員に対しても、会員に対しても、10項目の「一口問答」だけを頭に入れられれば十分でしょう。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

では、最後の10項目目の「一口問答」です。

問い

善知識の仰せなりとも、成るまじなんど思ふは、大きなるあさましきことなり。成らざることなりとも、仰せならば成るべきと存ずべし。(中略)しかれば道宗、近江の湖を一人してうめよと仰せ候ふとも、畏まりたると申すべく候ふ。仰せにて候はば、成らぬことあるべきかと申され候ふ。」(御一代記聞書)と蓮如上人も仰っているように、善知識に無条件服従するのは、求道者として当然の心構えではないですか。

答え

よく読んでください。ここに蓮如上人のお言葉は全くありません。『御一代記聞書』で蓮如上人の仰ったところには、「前々住上人」という主語か、「仰せられ候ふ」という尊敬語が使われています。ここにはそれがありません。従って、ここは編者の意見と道宗の言葉のみです。

(参照)
「聖人の宏才仰ぐべし」と高森会長の「深い御心」との違い

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2013年2月10日 (日)

一口問答(機の深信3)

問い

機の深信とは、過去・現在・未来の三世における自己の相が、ハッキリすることです。

答え

機の深信に当たるお言葉として曇鸞大師は、「われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。」(讃阿弥陀仏偈)と仰っています。また親鸞聖人は、「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ」(高僧和讃)と仰っています。
つまり、曇鸞大師・善導大師・親鸞聖人が仰っていることは、煩悩によって輪廻し、自力では出離できない、ということです。
三世が判るとか、ハッキリするとかいう、大袈裟なものではありません。

(参照)
パクリで大学者気取りも、聖教を読んだことのない無知を晒しただけの高森会長

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2013年2月 9日 (土)

一口問答(機の深信2)

問い

自分の罪悪を取り詰めていくと、必堕無間、逆謗の機と知らされるのです。

答え

自分の罪悪を取り詰めて、必堕無間に怯える阿闍世に対して、釈尊が仰ったことが『涅槃経』に説かれ、それを『教行信証』信巻に大変詳しく紹介されています。
最初に釈尊は「いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。」と仰り、地獄に堕ちる罪ではない、と阿闍世の過剰な罪悪観を否定されています。その後、釈尊は空で罪悪について諄々と説かれ、阿闍世は「無根の信」を生じます。
つまり、釈尊は阿闍世の過剰な罪悪観を取り除く説法をされて、阿闍世は救われているのです。罪悪を押し付ける高森会長とは正反対です。

(参照)
善悪の定義も知らないのに、知ったかぶりの高森会長

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2013年2月 6日 (水)

一口問答(機の深信1)

親鸞会の教義は、高森顕徹会長一人が占有しているため、高森会長でなければ”正しい親鸞会教義”を説くことはできませんでした。しかし、最近は弘宣局、教学課も新しい教義の創作に一役買っているようで、余計にややこしいヘンテコ教義になっています。

顕真に連載された「ひと口問答」を読むと、これは高森会長の考えたものではない、とすぐに判ります。mixiでの三願転入法論の大惨敗で懲りたのか、あるいは能力的に無理になったのかもしれません。

さて、

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

については、直接の反論が今後出てくることを期待できませんが、昨年9月号顕真の「ひと口問答」

問い

浄土真宗では、すべての人を「煩悩具足の凡夫」とか「罪悪生死の凡夫」と言われますが、
この「煩悩具足」や「罪悪生死」の中に、五逆罪や法謗罪は入らないと言う人と、入るという人とがありますが、いかがでしょうか。

答え

五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。
それを、『正信偈』には「極重悪人」と教え、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」と言い、
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、
弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれています。

が、反論に近いので、これについて以前に書いたもので、まずは代用しておきます。

問い

五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。

答え

違います。弥陀の本願の正機を悪人正機と教えられますが、これについて法然上人、親鸞聖人の御相伝として「悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」(口伝鈔)と覚如上人は教えられています。
悪人正機とは、言い換えれば善人傍機のことです。当然ながら善人がいるということであり、すべての人が逆謗の機という意味にはなりえません。


問い

極重悪人唯称仏」(正信偈)とありますから、親鸞聖人は全人類のことを「極重悪人」と仰っているではないですか。

答え

これは源信僧都が『観無量寿経』に説かれていることを「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)と仰り、それを親鸞聖人が言い換えられたものです。「極重の悪人」とは下品下生の者のことで、五逆罪を造り、平生に善をしたこともない者が、臨終になって初めて仏教を聞いて、ただ念仏して往生を遂げる、ということをこのように表現されました。一方で、中品下生以上の者は定散二善をして往生を遂げる、と教えられています。
一生造悪」同様、18願は悪人正機だということを仰ったものです。


問い

他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれていますから、すべての人は逆謗の機ではないですか。

答え

煩悩具足」と機の深信について、善導大師は『往生礼讃』に直接仰っていて、親鸞聖人も引用されています。
自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。」(教行信証行巻・信巻)
善導大師は「煩悩を具足せる凡夫」であり、かつ「善根薄少」と仰っていますが、「善根無し」とは仰っていません。善導大師は下輩について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観無量寿経疏)と仰っていますから、善導大師御自身は下輩でない、との告白です。もちろん下品下生の五逆の機ではない、極重の悪人ではない、ということです。


問い

機の深信では「罪悪生死」、『歎異抄』では「罪悪深重」と言われていますから、すべての人は重い罪である五逆罪・謗法罪を造っているということではないですか。

答え

単なる妄想です。『観無量寿経疏』の機の深信「罪悪生死の凡夫」が『法事讃』の機の深信「煩悩を具足せる凡夫」に当たります。「罪悪生死」=「煩悩具足」です。
また「罪悪深重」が、五逆・謗法のこととどこにも書かれていません。
その証拠に、法然上人は「われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず」(往生大要鈔)と仰り、聖覚法印は「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)と法然上人と同じことを言われ、親鸞聖人はこの文を御自身で書写して、同行に送って読むように勧められています。法然上人・聖覚法印・親鸞聖人は、私たちは五逆罪を造っていないと明言されています。
つまり、五逆罪・謗法罪を造っていなくても、「罪悪深重」です。


問い

本願文で機の深信に相当するのが「唯除五逆誹謗正法」と教えられているではないですか。

答え

これも妄想です。二種深信を詳しく解説された存覚上人が、『六要鈔』の中で、法の深信について本願の「若不生者不取正覚」を出されましたが、機の深信については本願文を出されていません。もちろん、善知識方も仰っていません。大沼法竜師が味わいを語った内容を教義と高森会長が勘違いしただけです。
唯除五逆誹謗正法」について親鸞聖人は、「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」(尊号真像銘文)と教えられています。五逆謗法の者も漏れず、ですから、すべての人の中に五逆謗法の者もいる、つまり五逆謗法でない者も多い、ということです。


問い

機の深信とは、逆謗の屍で地獄行き間違いなし、と知らされることではないというなら、何が知らされるのですか。

答え

日本語が理解できるなら、文字通り解釈するだけです。
なお、善導大師は機の深信を更に別の言い方で詳しく説明されています。
わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。」(観無量寿経疏)
私は法友と共に無始より廃悪修善に努めてきた。その中で数えきれない多くの法友が、出離して聖者となったのに、我ら凡夫は未だ出離できず、煩悩がますます盛んになり、微々たる善しかできない、ということです。
逆謗の屍とか地獄行き間違いなしの意味など皆無です。


問い

親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)と仰っていますから、機の深信とは死んだら地獄に堕ちる、とはっきり知らされることではないですか。

答え

前にも言いましたが、この御心は『執持鈔』に詳しく書かれています。「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。」という大前提を仰った後、「われら凡夫かならず地獄におつべし」「決定悪道へゆくべかりつる身」「三悪・四趣の生をひくよりほか」「六趣・四生よりほかはすみかもなく」「三途・八難にこそしづむべけれ」と様々に言い換えられています。
阿弥陀仏に救われても死後のことがはっきりすることはないと仰っているのですから、聖教上に書かれたことを踏まえて臨機応変に、地獄だ、三悪道だ、六道だ、と親鸞聖人が使い分けられているだけです。

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2013年2月 3日 (日)

新しいブログ開設のお知らせ その2

今から3年程前、mixi上で三願転入の法論がなされました。結果は御存知の通り、親鸞会の沈黙逃亡、トピック削除という、大惨敗でした。トピックが削除されてしまいましたので、mixi上では当時のやり取りを見ることはできません。しかし、多くの場所に断片的にその記録が残されています。

当ブログでも、当時は集中的に取り上げてきましたので、関連エントリーを読んで頂ければある程度の内容まで把握できると思います。

そこで、それらを抽出して、別のブログを作ってもらいました。

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2013年2月 1日 (金)

なりふり構わず金集め人集めに必死になっている高森会長

宿善を厚くする方法として、

1.聴聞
2.勤行
3.六度万行の実践

そして聴聞の心構えは

1.骨折って聞け
2.衣食忘れて聞け
3.間断なく聞け
4.聞けない時は思い出せ

と高森会長は教えていますが、これは香樹院師からのパクリとその改竄です。香樹院師は、決して宿善が厚くなる方法として言われたものではないですし、その上一部改竄までして、トンデモ教義を創作しています。

参考までに香樹院師の教えた内容を紹介しておきます。
加藤智学編『香樹院講師語録』より

禅僧弘海曰く。予かつて師に問う、
私、浄土真宗の教えに帰し、
御講師に随い聴聞いたせども、
未だ心に聞え申さず、如何致すべく候や、と。
師の仰せに、
汝まづ聖教を熟覧せよ、と。

則ち命のごとく拝見候いしが、文義はわかれども、
我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。
再び、如何せんと問い参らす。
師曰く、よく聞くべし、と。

予聞いて云わく、
よく聞くとは如何聞くべきや。
師曰く、骨折って聞くべし。

予云わく、
骨折るとは、遠路を厭わず聞き歩くことに候や、
衣食も思わず聞くことに候や。
師曰く、しかり。

予また問うて云わく、
しからば、それほどに苦行せねば聞えぬならば、
今までの禅家の求法と何の別ありや。
師呵して曰く、
汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、
よく思え、今度佛果を得る一大事なり。
しかるに切に求法の志なき者は、
これを聞き得ることをえんや、ああうつけ者かな、と。

予云わく、
しからば身命を顧みぬ志にて、聞くことなりや。
師曰く、
もっともしかり。切に求むる志なくして、
何ぞ大事を聞きえんや。
また曰く、常に絶え間なく聞くべし、と。

予問い参らするよう、
それはその志にて聴聞つかまつれども、
法縁の常になきを如何致すべきや、と。
師その時に、
何ぞ愚鈍なることを云うぞ。法話なき時は、
聞きたることを常に思うべし。
聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。
また曰く、
汝眼あり、常に聖教を拝見すべし、
これまた法を聞くなり。
もしまた世事にかかりあい、聞見常に縁なき時は、
口に常に名号を称すべし、これまた法を聞くなり。
汝信を得ざるは業障の故なり。
さればいよいよ志を励まし、かくの如く常に心を砕き、
よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に限るなり、と。

予問うて云わく、
法話を聞くことと、
自ら聖教を読んで我が耳に聞くということとは、
有り難く承りぬ。ただ、念佛するを聞くと申すは、
われ称えて我が声を聞くことに候や。
師大喝して曰く、
汝何事をか云う。我が称える念佛というものいづこにありや。
称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることをえん。
称えさせる人ありて称えさせ給う念佛なれば、
そもそもこの念佛は、何のために成就して、
何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、
即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。

予、この一語心肝に徹し、はっと受けたり。
心に思うよう。
我至成佛道、名聲超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚。
また第十七の願に、我が名を諸佛にほめられんとの誓いは、
名号を信ぜさせんとの御意なり。
かつまた、常に聞くと申すことは、
ただ法話のみを聞くことと思いしは誤りなりき。

あわれ、志の薄かりしことよと恥ぢ入り、
今まで禅門において、知識より、
汝今をも知れぬ命なれば、昼夜十二時思惟して、
この公安を拈底せよ、しばらくも忘るることなかれ、
と云われしことを思い浮かべ、
聞思して遅慮するなかれ、との祖訓を、
見聞集に尽したまいしことを感悟し、
それより常に法話なき時は聖教を拝聴し、
朝夕は『大經』、『正信偈』、『和讃』、『御文』を拝読し、
また常恒に念佛を拝聴し奉るに、
われ今称うる念佛には、御主ありて称えさせ給うなり。
しかればただ称えさせるを詮としたまわず。
称えさせ給うは、助け給わんために、
一声をも称えさせて下さるることよと思えば、
それより称えることについて、
尊く称えさせてくださるる身となりしなり。
このこと今に耳にありて、忘るる能わず、
と申されけり。

聴聞の心構えについては高森会長の説明と合っていますが、聴聞できない時には
常に聖教を拝見すべし」と「口に常に名号を称すべし」です。
聖教の拝読と念仏です。当然ながら諸善の勧めはありません。

香樹院師は、聖教の拝読も念仏も聴聞の代わりと位置付けていますので、聴聞のみを勧めているということで筋が通っています。

それを理解できなかったのか、理解した上での改竄なのか、高森会長は諸善の実践で宿善が厚くなるという邪義を創作したのです。

なお、親鸞聖人は往生・獲信のために諸善を勧められた箇所は、皆無であり、それどころか「多功徳・多善根・多福徳因縁」の自力念仏さえも勧められた箇所はほとんどありません。自力念仏を厳しく誡められたお言葉ばかりです。

つまり、親鸞聖人には、宿善が厚くなって救われると言う発想自体がないのです。ないものをあるかのように偽装して、金集め人集めになりふり構わず必死になっているのが高森会長だということです。

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