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2013年1月29日 (火)

無功徳・無善根・無福徳因縁の高森会長と講師部員

現会員は、前回のエントリーで出した問題に正解できないと思います。
蓮如上人が「係念の宿善」についてしか仰っていなくても、そんなことはお構いなし、ということでしょう。
係念」が20願のお言葉であろうが、「係念の宿善」と最初に出てくる広済和尚著『大経抄』で20願のことと定義しようが、『会報』で「係念の宿善」を自力念仏と説明しようが、何が何でも布施をすることで宿善は厚くなる、と高森会長も言い張るでしょう。お気の毒なことです。
言うまでもなく、、「汎爾の宿善」「係念の宿善」という区分を覚如上人も蓮如上人もなされていませんが、人並みの思考力の無い高森会長と現会員のために、、「汎爾の宿善」「係念の宿善」の区分を前提として、諸善と念仏との関係について、説明しておきます。

釈尊は『阿弥陀経』に諸善について、

少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。

(現代語訳)

わずかな功徳を積むだけでは、とてもその国に生れることはできない。

と説かれ、念仏については

阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。

(現代語訳)

阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、その人が命を終えようとするときに、阿弥陀仏が多くの聖者たちとともにその前に現れてくださるのである。
そこでその人がいよいよ命を終えるとき、心が乱れ惑うことなく、ただちに阿弥陀仏の極楽世界に生れることができる。

と教えられています。

これを親鸞聖人は『教行信証』化土巻に『阿弥陀経』の顕説を

経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き

(現代語訳)

釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ

とされました。
また真門釈に元照律師の『弥陀経義疏』を引かれています。

如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。
むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉

(現代語訳)

釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。

かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>

布施等の諸善は、「少善根」であり、「往生の因にあらず」と嫌い貶められていますが、念仏は「多功徳・多善根・多福徳因縁」とされています。
親鸞聖人はこれを真門釈に引かれていますので、真門自力念仏について「多功徳・多善根・多福徳因縁」と見做されているのです。

つまり、

諸善=「少善根
自力念仏=「多功徳・多善根・多福徳因縁

ということです。具体的に言えば、100万円の財施よりも1回の自力念仏の方が善根も功徳も福徳因縁も多いということです。尤も、高森会長の説では全人類は微塵の善もできないのですから100万円の財施も無功徳・無善根・無福徳因縁で、「多功徳・多善根・多福徳因縁」の自力念仏とは比較するまでもありません。

それではもう一度昨日の問題です。

もし、信心決定の為に宿善を厚くできるのなら、真っ先に何を勧めるべきでしょうか?
 1.諸善
 2.自力念仏

さて、これなら小学生でも判ると思いますが、なおも諸善を選ぶ高森会長と講師部員自身が、無功徳・無善根・無福徳因縁の無宿善です。貴方も彼らと同じですか?

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コメント

昔会長が100万円貸したら利子付けて返すといっているのに本当かどうか疑わしいとおもうでしょ、のようなことを呆話で話してました。その利子というのを阿弥陀仏の救いに引き当てて。
単なるたとえ話とおもってたのですがあれは会長の本意として実際の現金100万円であって献金を促すための表現だったわけです。親鸞会に献金すれば救われますよと。
カルト教祖はこのような姑息で卑怯な人を欺くための狡猾な表現をすると思います。
会長には念仏より100万円のほうが大事というのがよく分かります。

投稿: | 2013年1月30日 (水) 07時38分

高森流宿善理解のミソは、いっさい善はできないけれども、善ができないと腹の底から(!)わかるためには善に励まなければならないという、否定的なポーズで自力修善を推奨する詭弁的論理にあるのでしょう。ならば、無駄なわけだから、無功徳・無善根・無福徳因縁なのは彼ら的にも当然ということになりそうですが、彼らはそうは言わない。または、そう言ったところでそれが彼ら流の宿善ポイント制度の否定を伴わないところに親鸞会活動の論理的破綻がありますね。

だいいち、いらないとわかるためにやる、つまり否定に行き着くために肯定するなんて理屈が通るのだったら、あらゆる廃立を骨抜きにできます。高森会長の言うことにも変遷がありますが、まあそれにしても、言い負けたくない一心でその場しのぎの理屈を弄しつづけた結果なのか、それとも利益誘導のために詭弁を考え続けた結果なのか知りませんけれども、実にけったいな主張に行き着いたものです。

そもそも、無駄だと知るために親鸞会活動のすべてがあるのだったら、「親鸞会活動はいっさい無駄だとわかった、だから親鸞会をやめます」と言うのが親鸞会教義的に正しいことになるんですけどね(苦笑。まあ、それでも難癖つけて認めないんでしょうね彼らは。

投稿: dandelion | 2013年1月31日 (木) 21時02分

名無し 様
dandelion 様

高森会長にとって、矛盾しているかどうか論理的かどうかなど、どうでもいいのでしょう。自分の言うことを信じる会員がいれば、なんでもありという考えです。
高森会長を信奉する会員は、いいカモだということです。

投稿: 飛雲 | 2013年2月 1日 (金) 20時29分

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