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2013年1月20日 (日)

50年以上前からの確信犯

今月号の顕真にも、「ひと口問答」はありませんでした。予想通りです。最初から止めておけばいいものを、親鸞会内部向けになら通用する反論だと自負していた愚かさに、ようやく気が付いたのだと思います。自分の首を絞める根拠を、自分の主張の正しさを装える根拠と勘違いしていたりと、不勉強にも程があるというものです。

高森会長のレベルの低さは当然ですが、東大出身の数人の講師部員に四六時中考えさせても、この程度の詭弁しか思いつかないのですから、相当に惨めです。仏教系の新興宗教はたくさんありますが、教義体系の脆さで言えば、親鸞会は下位グループに属するでしょう。

最近の親鸞会は、根拠も理論もなく、兎にも角にも、”善の勧め”一辺倒です。全国に会館を建てまくっていますが、これは以前にも述べたように、金集めの手段です。全会員のための会館よりも、地域限定の会員のために建てる会館の方が、会員はお金をたくさん出す傾向にあります。同朋の里に建設費10億の会館を建てても10億も集まりませんが、全国まとめて10億の建設費に対して各地の会員から合計15億集めることは容易いからです。
それで会館の建設ラッシュとなっているのですが、それはそのまま親鸞会の懐が厳しさを増していることを物語っています。会員がどれだけ会の要求に堪えられるかによって、会の存続期間が決まるでしょう。

さて、親鸞会の金集め・人集めの手段として使われている宿善ですが、これは親鸞会ができてから間もなく、高森会長が思いついた詭弁でしょう。最初期の顕正新聞にはすでに宿善が出てますから、資金集めに苦労していた会結成当初から、会員を騙してお金を巻き上げる意図が、高森会長にはあったのです。つまり、”善の勧め”については50年以上前からの確信犯です。

それに利用されたのが大沼法竜師です。『方便より真実え 浄土真宗』には次のようにあります。

 一切の善根功徳を、第十九願に、諸の功徳を修して至心に発願して我国に生まれようと願うものを生まれさすと書いてありますが、真宗では、弥陀の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り作用だから、諸善万行や六度万行は修することはいらない、としている。しかも、これを雑行雑修と嫌な名前をつけて捨てさせているのですから、あまり残酷ではありませんか。これを生かして、真宗で使用する方法はないものかと尋ねているのです。これを味方にして利用したら、大いに活躍できますが、敵にまわしたら真宗の損失この上もないことと思います。悪くいえば、善根功徳は積む必要はない、真宗は念仏一つで沢山だといっていますが、それでよいですか、いま少し深く研究して、善根功徳を生かす方法を考えなければ真宗は自滅しますよ。
 私の考えは、往生の一段は仏力不思議で、名号を聞信する独り作用で決まりますが、生活の一段はそれは許されません。
(中略)
因果は厳しく結果を開きます。生活の一段には全力を注いで、身の行ないを慎み、善根を励みなさい。これを至心に発願して、往生の助太刀にしようとするから雑毒の善、虚仮の行、雑行雑修という名をつけて機執まで捨てさすのです。善根そのものは立派な善根功徳だから、実行しなければよい果報は獲られません。

これを高森会長は「独言」で次のように表現しています。

雑行

「もろもろの雑行をなげすてて………」
                     (御文章)

 阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。
“雑行雑修を捨てよ”とはこのことだと教えられている。
 後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決するが、暮らしの実態面はどうか。
 仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。
 在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に攻めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。
 修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。
 原因は厳しく結果を開く。
 善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。

大沼師の表現は誤解しやすく、高森会長がそこに付け込んで更に誤解させる表現にしているのです。
大沼師の言いたいことは、18願の救いには信前信後があり、信前の求道が必要だ、ということであって、それは雑行を勧めているのではありません。

親鸞聖人の教えをここまで貶めた知識は、過去例をみないでしょう。高森会長は、真宗史に確実に名を残すでしょう、悪知識の典型として。

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コメント

いつもながら立て板に水を流すが如くの解説に感心します。顕正新聞の縮小版にも矛盾だらけの高森会長です。高森会長「善知識たのみではだめで、阿弥陀仏たのみです・・・」そう言いながら会長自身が阿弥陀仏より自身を重視させています。私は矛盾と違和感を感じていました。一体高森会長の目的は何でしょうか。

投稿: 過去に会員 | 2013年1月21日 (月) 18時37分

過去に会員 様

高森会長が親鸞会を作った最初の動機は、華光会では増井悟朗師に一生頭が上がらないコンプレックス解消のためです。
それに本願寺派から僧籍を剥奪されたことの恨みから、本願寺非難をエスカレートさせていきます。華光会と本願寺を見返したい、の思いから金集め人集めを活発化させ、更には同年代の池田氏への対抗心と嫉妬も入り混じり、よく言えば新興宗教化、悪く言えばカルト化を進めたのだろうと思われます。

投稿: 飛雲 | 2013年1月21日 (月) 20時40分

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