« 新しいブログ開設のお知らせ その1 | トップページ | 無功徳・無善根・無福徳因縁の高森会長と講師部員 »

2013年1月28日 (月)

曖昧模糊とした高森会長の教え

高森会長の珍説”善の勧め”の説明が、親鸞会結成35周年大会を境にして変わっています。35周年大会以前は宿善、35周年大会からは三願転入によって”善の勧め”を捏造してきました。

ところが、最近はまた、宿善による”善の勧め”に方向転換しました。理由は、三願転入によって”善の勧め”を説明するには、最低限、19願を勧められた善知識方のお言葉がなければ成立しないのですが、それが全くないからです。3年前のmixiでの法論で、高森会長以下講師部員の誰一人として、19願を勧められた親鸞聖人のお言葉を出すことができずに逃亡し、トピック自体を削除するという親鸞会はじまって以来の、名実ともに言い訳のしようのない大惨敗を晒す結果に終わったことからも、それは証明済みです。
そこで、様々な意味を持つ宿善での説明に戻すことで、”善の勧め”の正当性を訴えようと試みているのでしょう。

1月1日号の顕正新聞の論説が、それを代弁しています。

 では、それほど重要な宿善とは何か。全人類の最大関心事でなければならぬであろう。
 ところが驚くべきことに、この「宿善」について詳しく教えられている本が、ほとんど見当たらないのである。
 蓮如上人が、これほど『御文章』で繰り返し訴えていられるにもかかわらず、である。徳川三百年、多くの名だたる真宗学者が現れ、今日の真宗学が構築されているのだが、なぜか「宿善」の解説が曖昧模糊としている。いわば、真宗学の死角になっている。微妙なところがあるからだろう。

曖昧模糊としているのは、高森会長と講師部員の頭の中身なのですが、最近また変なことを言っているようです。

「あさ川進の、宗教と私」
1/21二千畳テレビ講演のお話

には、又聞としてではありますが、

汎爾の宿善=阿弥陀仏に心を掛けない一般の善
釈迦の教えは廃悪修善、釈迦はすべての善をまとめて六度万行と教えられた
六度万行は、どれか1つでもやれば他の5つをやったと同じことになる

一番私たちがやりやすいのが布施
布施=法施と財施
施す相手に三田があり、誰にでも施せば良いというものではない
布施は三輪空の心で行うことが大切

汎爾の宿善は、19願でいうと「修諸功徳」

係念の宿善=阿弥陀仏の極楽浄土に往生したいと思ってやる善
善自体は同じだが、阿弥陀仏一仏に心がかかっているか否かで異なる

19願では「修諸功徳」を「欲生我国」の思いでやりなさい、そしたら助けてあげますといわれている

とあります。「汎爾の宿善」「係念の宿善」などという判ったような判らないような説明を持ちだしています。ちなみに『会報 第三集』には

汎爾の宿善というのは、過去に於て、ひろくおおまかにやってきた世俗的な善業をいい、それは阿弥陀仏の救いを求めてやってきたものではないから、汎爾といわれるのである。これを『大無量寿経』には「清浄有戒者」と説かれ、十九願には「修諸功徳」と教えられている。係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。

と説明しています。「係念の宿善」の説明が先日の二千畳テレビ講演会とは違っています。

この「汎爾の宿善」「係念の宿善」というのは、覚如上人よりも30年程年上の浄土宗の広済和尚が著した『大経抄』に最初に出てきます。

凡於宿善有二種別。一者係念上之宿善二者汎爾宿善。
係念宿善第二十願助其機故近世果遂譬如呑鈎魚在水不久也。
汎爾宿善但任善力無他力故遠劫得聞例如大通結縁輩也。

係念の宿善」は、20願に関するものとして説明しています。
蓮如上人は、「係念の宿善」という言葉は使われていませんが、『御文章』3帖目第12通

されば『大経』にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。

と「係念の宿善」に相当する説明をなされています。高森会長の幻の名著『会報』に従えば、蓮如上人が宿善になったものとして仰っているのは自力念仏のことです。

さて、ここまでのことを踏まえて質問します。

もし、信心決定の為に宿善を厚くできるのなら、真っ先に何を勧めるべきでしょうか?
 1.諸善
 2.自力念仏

思考が残っていれば答えは簡単です。

ところが、自力念仏を全く勧めず、諸善のみ、特に布施を選んで勧める高森会長は、自己矛盾にも気が付かない程の愚か者か、あるいは大嘘付きかのどちらかであることは、疑う余地がありません。

多分両方だと思いますが。

|

« 新しいブログ開設のお知らせ その1 | トップページ | 無功徳・無善根・無福徳因縁の高森会長と講師部員 »

コメント

私が会員であった頃、どうして親鸞会では会員が自力念仏を称えることを勧めないのか疑問でした。
再び、親鸞聖人のみ教えを聞くようになった頃、元講師部の方にこのことを質問しました。
「念仏では会長が儲からないからです」と答えられ、長年の疑問が解決しました。

投稿: 雑草 | 2013年1月29日 (火) 13時06分

雑草 様

「念仏では会長が儲からないからです」は、明答でしょう。

投稿: 飛雲 | 2013年1月29日 (火) 21時46分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 新しいブログ開設のお知らせ その1 | トップページ | 無功徳・無善根・無福徳因縁の高森会長と講師部員 »