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2013年1月

2013年1月29日 (火)

無功徳・無善根・無福徳因縁の高森会長と講師部員

現会員は、前回のエントリーで出した問題に正解できないと思います。
蓮如上人が「係念の宿善」についてしか仰っていなくても、そんなことはお構いなし、ということでしょう。
係念」が20願のお言葉であろうが、「係念の宿善」と最初に出てくる広済和尚著『大経抄』で20願のことと定義しようが、『会報』で「係念の宿善」を自力念仏と説明しようが、何が何でも布施をすることで宿善は厚くなる、と高森会長も言い張るでしょう。お気の毒なことです。
言うまでもなく、、「汎爾の宿善」「係念の宿善」という区分を覚如上人も蓮如上人もなされていませんが、人並みの思考力の無い高森会長と現会員のために、、「汎爾の宿善」「係念の宿善」の区分を前提として、諸善と念仏との関係について、説明しておきます。

釈尊は『阿弥陀経』に諸善について、

少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。

(現代語訳)

わずかな功徳を積むだけでは、とてもその国に生れることはできない。

と説かれ、念仏については

阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。

(現代語訳)

阿弥陀仏の名号を聞き、その名号を心にとどめ、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に思いを乱さないなら、その人が命を終えようとするときに、阿弥陀仏が多くの聖者たちとともにその前に現れてくださるのである。
そこでその人がいよいよ命を終えるとき、心が乱れ惑うことなく、ただちに阿弥陀仏の極楽世界に生れることができる。

と教えられています。

これを親鸞聖人は『教行信証』化土巻に『阿弥陀経』の顕説を

経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き

(現代語訳)

釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ

とされました。
また真門釈に元照律師の『弥陀経義疏』を引かれています。

如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。
むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉

(現代語訳)

釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。

かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>

布施等の諸善は、「少善根」であり、「往生の因にあらず」と嫌い貶められていますが、念仏は「多功徳・多善根・多福徳因縁」とされています。
親鸞聖人はこれを真門釈に引かれていますので、真門自力念仏について「多功徳・多善根・多福徳因縁」と見做されているのです。

つまり、

諸善=「少善根
自力念仏=「多功徳・多善根・多福徳因縁

ということです。具体的に言えば、100万円の財施よりも1回の自力念仏の方が善根も功徳も福徳因縁も多いということです。尤も、高森会長の説では全人類は微塵の善もできないのですから100万円の財施も無功徳・無善根・無福徳因縁で、「多功徳・多善根・多福徳因縁」の自力念仏とは比較するまでもありません。

それではもう一度昨日の問題です。

もし、信心決定の為に宿善を厚くできるのなら、真っ先に何を勧めるべきでしょうか?
 1.諸善
 2.自力念仏

さて、これなら小学生でも判ると思いますが、なおも諸善を選ぶ高森会長と講師部員自身が、無功徳・無善根・無福徳因縁の無宿善です。貴方も彼らと同じですか?

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2013年1月28日 (月)

曖昧模糊とした高森会長の教え

高森会長の珍説”善の勧め”の説明が、親鸞会結成35周年大会を境にして変わっています。35周年大会以前は宿善、35周年大会からは三願転入によって”善の勧め”を捏造してきました。

ところが、最近はまた、宿善による”善の勧め”に方向転換しました。理由は、三願転入によって”善の勧め”を説明するには、最低限、19願を勧められた善知識方のお言葉がなければ成立しないのですが、それが全くないからです。3年前のmixiでの法論で、高森会長以下講師部員の誰一人として、19願を勧められた親鸞聖人のお言葉を出すことができずに逃亡し、トピック自体を削除するという親鸞会はじまって以来の、名実ともに言い訳のしようのない大惨敗を晒す結果に終わったことからも、それは証明済みです。
そこで、様々な意味を持つ宿善での説明に戻すことで、”善の勧め”の正当性を訴えようと試みているのでしょう。

1月1日号の顕正新聞の論説が、それを代弁しています。

 では、それほど重要な宿善とは何か。全人類の最大関心事でなければならぬであろう。
 ところが驚くべきことに、この「宿善」について詳しく教えられている本が、ほとんど見当たらないのである。
 蓮如上人が、これほど『御文章』で繰り返し訴えていられるにもかかわらず、である。徳川三百年、多くの名だたる真宗学者が現れ、今日の真宗学が構築されているのだが、なぜか「宿善」の解説が曖昧模糊としている。いわば、真宗学の死角になっている。微妙なところがあるからだろう。

曖昧模糊としているのは、高森会長と講師部員の頭の中身なのですが、最近また変なことを言っているようです。

「あさ川進の、宗教と私」
1/21二千畳テレビ講演のお話

には、又聞としてではありますが、

汎爾の宿善=阿弥陀仏に心を掛けない一般の善
釈迦の教えは廃悪修善、釈迦はすべての善をまとめて六度万行と教えられた
六度万行は、どれか1つでもやれば他の5つをやったと同じことになる

一番私たちがやりやすいのが布施
布施=法施と財施
施す相手に三田があり、誰にでも施せば良いというものではない
布施は三輪空の心で行うことが大切

汎爾の宿善は、19願でいうと「修諸功徳」

係念の宿善=阿弥陀仏の極楽浄土に往生したいと思ってやる善
善自体は同じだが、阿弥陀仏一仏に心がかかっているか否かで異なる

19願では「修諸功徳」を「欲生我国」の思いでやりなさい、そしたら助けてあげますといわれている

とあります。「汎爾の宿善」「係念の宿善」などという判ったような判らないような説明を持ちだしています。ちなみに『会報 第三集』には

汎爾の宿善というのは、過去に於て、ひろくおおまかにやってきた世俗的な善業をいい、それは阿弥陀仏の救いを求めてやってきたものではないから、汎爾といわれるのである。これを『大無量寿経』には「清浄有戒者」と説かれ、十九願には「修諸功徳」と教えられている。係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。

と説明しています。「係念の宿善」の説明が先日の二千畳テレビ講演会とは違っています。

この「汎爾の宿善」「係念の宿善」というのは、覚如上人よりも30年程年上の浄土宗の広済和尚が著した『大経抄』に最初に出てきます。

凡於宿善有二種別。一者係念上之宿善二者汎爾宿善。
係念宿善第二十願助其機故近世果遂譬如呑鈎魚在水不久也。
汎爾宿善但任善力無他力故遠劫得聞例如大通結縁輩也。

係念の宿善」は、20願に関するものとして説明しています。
蓮如上人は、「係念の宿善」という言葉は使われていませんが、『御文章』3帖目第12通

されば『大経』にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。

と「係念の宿善」に相当する説明をなされています。高森会長の幻の名著『会報』に従えば、蓮如上人が宿善になったものとして仰っているのは自力念仏のことです。

さて、ここまでのことを踏まえて質問します。

もし、信心決定の為に宿善を厚くできるのなら、真っ先に何を勧めるべきでしょうか?
 1.諸善
 2.自力念仏

思考が残っていれば答えは簡単です。

ところが、自力念仏を全く勧めず、諸善のみ、特に布施を選んで勧める高森会長は、自己矛盾にも気が付かない程の愚か者か、あるいは大嘘付きかのどちらかであることは、疑う余地がありません。

多分両方だと思いますが。

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2013年1月25日 (金)

新しいブログ開設のお知らせ その1

当ブログを開設してから、早3年が経ちました。開設当初は、もっと軽い内容を書くつもりでしたが、様々な法論に関わるうちに、かなり重い内容になって今日に至っています。過去のエントリーを最初から全部読み返される方は、まずいないと思いますので、シリーズもので重要な内容については、当ブログ内で分類するよりも、新たなブログでまとめた方がよいと判断しました。

いろいろな方に御協力を頂いて改善していきたいと思っております。

これまでにも「親鸞会の邪義を正す」「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」がありますが、今回は2年前に『顕真』で連載された「宿善と聴聞と善のすすめ」について糾弾したエントリーをまとめてもらいました。

親鸞会邪義「宿善と聴聞と善のすすめ」--飛雲より

親鸞会にとっては自信作のつもりだったのでしょうが、お粗末さを指摘し続けると、前触れもなく終了となった「宿善と聴聞と善のすすめ」です。

これも間接的な法論で、親鸞会が逃亡で決着したものですから、御存知ない方は一度目を通されるとよいかもしれません。

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2013年1月23日 (水)

異端はいつまで経っても異端

体罰で自殺した高校生のことが、連日報道されていますが、体罰と親鸞会とは共通点があります。
あくまで一般論としてですが、体罰を含む厳しい指導で成長していく生徒もあります。しかし体罰に嫌気をさして退部する生徒もあります。中には自殺にまで追い込まれる生徒もあります。同じ学生と言っても、人それぞれ能力も家庭環境も忍耐力も違いますから、一律に厳しく教育すればいいということは言えません。
仏教についても同じです。厳しい修行によって悟りをひらく尊い人もありますが、厳しい修行にとてもついていけない人が大多数です。厳しい修行に堪えられる人には聖道門を説かれ、修行に堪えられない人には浄土門を説かれたのです。浄土門でも、聖道門と同じ行で諸行往生を誓われた19願があり、諸行往生も目指せない人には念仏往生の18願が勧められているのです。

この18願念仏往生を勧めるのが浄土真宗であり、親鸞聖人の教えなのですが、戦時中の軍隊経験のある高森会長にはこの単純な理屈が理解できないようで、18願での救いにあうにはどんな人にも一律に厳しい求道が必要、と大嘘を言っているのです。

それで親鸞会の活動についていけなかった何万人という退会者を、聞法の敗残者と切り捨て見下しているのです。体罰で言えば、体罰をしている先生と体罰に堪えている生徒が、退部したり自殺した生徒を罵っているようなものです。極めて悪辣な思想です。悪人正機が全く判っていないのです。

思考停止の会員のために簡単に言えば、親鸞会の活動についていけないような人のために阿弥陀仏が替わりに御修行なされたのです。阿弥陀仏が功徳をすべてを用意なされているのですから、衆生の方で準備するものは何もありません。
尤も、親鸞会の活動に満足しているような人は、18願の救いにあうことは極めて難しいです。なぜなら、18願の救いとは違う方向に進んでいるのですから、他宗教を信じている人が念仏往生を遂げるくらい極めて難しいことです。

さて、親鸞会に対して10項目を示して親鸞会はまともに反論すらできないのですが、それでいて1月15日号の顕正新聞の一面には、こんなことが書いてあります。

『歎異抄をひらく』は3月でご発刊から丸5年になるが、いまだ自称・正統派から反論書がない。彼らがこれまで最も布教の武器としてきたのが『歎異抄』。その解説書を、異端視してきた相手が出版し、23万部も読まれている。この事実を容認すれば、『ひらく』を親鸞聖人の”正統な”み教えと認めたことになり、同時にそれは、正統派を自認する彼ら自身の”異端”への転落を意味している。反論のない5年は限りなく重い。

異端から駄本が出る度に、一々反論などする必要性がなく、ましてや会員が毎月書店で駄本を購入し続けて水増しした発行部数だということも、広く知れ渡っています。異端どころか、異宗、異教としか見做されていない親鸞会を本願寺が相手にする訳もないです。
それでは可哀想だと思って、退会者が異端の相手をして差し上げているのに、陰でこそこそ法論ごっこをしているだけで、退会者の前には絶対に出てこれない高森会長と親鸞会。結局異端は異端でしかないのです。

退会者で、高森会長の説が”正統”だと思っている人は誰もいませんが、この10項目中の、いわゆる”善の勧め”に関する4項目

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

については、高森会長の邪説の影響を受けている人が意外と多いです。それだけ、”善の勧め”については迷いやすい内容です。しかし、親鸞聖人はきっぱりと”善の勧め”を否定されています。

この件に関しては、600を超えるエントリーの大半を費やして説明してきました。しかし、すべて読まれるのは実質無理ですので、読者の方からの要望もありまして、シリーズ化したエントリーについては別のブログで今後まとめたいと思います。要点はそちらで御確認頂きたいと思います。

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2013年1月20日 (日)

50年以上前からの確信犯

今月号の顕真にも、「ひと口問答」はありませんでした。予想通りです。最初から止めておけばいいものを、親鸞会内部向けになら通用する反論だと自負していた愚かさに、ようやく気が付いたのだと思います。自分の首を絞める根拠を、自分の主張の正しさを装える根拠と勘違いしていたりと、不勉強にも程があるというものです。

高森会長のレベルの低さは当然ですが、東大出身の数人の講師部員に四六時中考えさせても、この程度の詭弁しか思いつかないのですから、相当に惨めです。仏教系の新興宗教はたくさんありますが、教義体系の脆さで言えば、親鸞会は下位グループに属するでしょう。

最近の親鸞会は、根拠も理論もなく、兎にも角にも、”善の勧め”一辺倒です。全国に会館を建てまくっていますが、これは以前にも述べたように、金集めの手段です。全会員のための会館よりも、地域限定の会員のために建てる会館の方が、会員はお金をたくさん出す傾向にあります。同朋の里に建設費10億の会館を建てても10億も集まりませんが、全国まとめて10億の建設費に対して各地の会員から合計15億集めることは容易いからです。
それで会館の建設ラッシュとなっているのですが、それはそのまま親鸞会の懐が厳しさを増していることを物語っています。会員がどれだけ会の要求に堪えられるかによって、会の存続期間が決まるでしょう。

さて、親鸞会の金集め・人集めの手段として使われている宿善ですが、これは親鸞会ができてから間もなく、高森会長が思いついた詭弁でしょう。最初期の顕正新聞にはすでに宿善が出てますから、資金集めに苦労していた会結成当初から、会員を騙してお金を巻き上げる意図が、高森会長にはあったのです。つまり、”善の勧め”については50年以上前からの確信犯です。

それに利用されたのが大沼法竜師です。『方便より真実え 浄土真宗』には次のようにあります。

 一切の善根功徳を、第十九願に、諸の功徳を修して至心に発願して我国に生まれようと願うものを生まれさすと書いてありますが、真宗では、弥陀の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り作用だから、諸善万行や六度万行は修することはいらない、としている。しかも、これを雑行雑修と嫌な名前をつけて捨てさせているのですから、あまり残酷ではありませんか。これを生かして、真宗で使用する方法はないものかと尋ねているのです。これを味方にして利用したら、大いに活躍できますが、敵にまわしたら真宗の損失この上もないことと思います。悪くいえば、善根功徳は積む必要はない、真宗は念仏一つで沢山だといっていますが、それでよいですか、いま少し深く研究して、善根功徳を生かす方法を考えなければ真宗は自滅しますよ。
 私の考えは、往生の一段は仏力不思議で、名号を聞信する独り作用で決まりますが、生活の一段はそれは許されません。
(中略)
因果は厳しく結果を開きます。生活の一段には全力を注いで、身の行ないを慎み、善根を励みなさい。これを至心に発願して、往生の助太刀にしようとするから雑毒の善、虚仮の行、雑行雑修という名をつけて機執まで捨てさすのです。善根そのものは立派な善根功徳だから、実行しなければよい果報は獲られません。

これを高森会長は「独言」で次のように表現しています。

雑行

「もろもろの雑行をなげすてて………」
                     (御文章)

 阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。
“雑行雑修を捨てよ”とはこのことだと教えられている。
 後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決するが、暮らしの実態面はどうか。
 仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。
 在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に攻めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。
 修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。
 原因は厳しく結果を開く。
 善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。

大沼師の表現は誤解しやすく、高森会長がそこに付け込んで更に誤解させる表現にしているのです。
大沼師の言いたいことは、18願の救いには信前信後があり、信前の求道が必要だ、ということであって、それは雑行を勧めているのではありません。

親鸞聖人の教えをここまで貶めた知識は、過去例をみないでしょう。高森会長は、真宗史に確実に名を残すでしょう、悪知識の典型として。

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2013年1月18日 (金)

滑稽な高森会長と親鸞会

親鸞会は30年前の宿善論争で、本願寺に勝った、と今でも会員に宣伝しています。
また顕正新聞の一面に、

[真実開顕へ刻む時]
○年○ヵ月

『歎異抄をひらく』が出てから、毎年、十冊以上出版されていた『歎異抄』の解説書が、出なくなった。
これは、それからの年月である。

と嘘を書き続けています。
高森会長と親鸞会の滑稽さには、哀れみを感じます。

さて、本願寺に勝ったと言っている高森流宿善論について、7回にわたって「一口問答」を書いてきました。一通り読まれれ、理解できる知恵を持っている方なら、高森会長の不勉強に呆れかえると思います。
『歎異抄をひらく』の駄本ぶりについても、何度も述べてきましたが、親鸞会からは全く反論できずです。なぜなら、『正信偈』の意味さえも頓珍漢な理解しかできていないからです。『正信偈』の意味だけでも知っていれば、あんな愚かな解釈はできないでしょうが、そんな愚かな解釈を、「これまで誰も明らかにできなかった真実」とこれまた宣伝しているお目出度さです。
何百年に一度現われるかどうかの善知識」と崇め奉ってきた高森会長が、この程度の人物とは信じたくないかもしれませんが、これが現実です。

いつもの10項目のうち、2011年9月29日に以下の6項目で最初に提示しました。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

次の4項目を加えて10項目にしたのが2011年12月16日です。

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

最初の6項目の提示から1年4ヵ月、10項目の提示からは1年1ヵ月経っています。
それから、直接質問しても反論できず、陰でこそこそ反論したように偽装するのが精一杯です。

親鸞会の陰での反論については

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

でまとめてありますので、御存知無い方はそちらをお読みください。

いつまでお山の大将でいられることやら。

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2013年1月17日 (木)

一口問答(宿善7)

高森会長と親鸞会は、根拠や教えの捏造が大好きです。無常の虎の譬えが『仏説譬喩経』に説かれているとか、未だに高森会長は話をしているのですから、余程の厚顔無恥です。間違いを知らない時なら仕方がないですが、完全な間違いを指摘されてもなお、間違いを修正しようとする気がないのですから、高森会長にとって仏教も真宗も後生の一大事もどうでもいいのでしょう。
金集めと人集めの集団としか考えていないことがよく判ります。

問い

法然上人は、「頓機の者は少なく、漸機の者は多し」(和語灯録)と仰っているように、「頓機」は弥陀の救いに頓くあえる宿善の厚い人、「漸機」は救いにあうのが遅い宿善の薄い人があると教えられているではないですか。

答え

根拠の捏造です。『和語灯録』にそんなことは全く書かれていません。「頓機」「漸機」とあるは『往生浄土用心』ですが、そこには「頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように」とあります。教えの理解に早い人と遅い人があるが、理解の遅い人も浄土往生できる、という意味です。
判りやすくいえば、「漸機」の人は「漸機」のままで、「頓機」にならなくても救われることを仰っているのです

(参照)
『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り1

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2013年1月15日 (火)

一口問答(宿善6)

問い

蓮如上人は『御文章』で「いずれの経釈によるとも、既に宿善に限れりと見えたり」(3帖目第12通)、「弥陀に帰命すというとも、信心獲得すと言うとも、宿善にあらずということなし」(4帖目第1通)、「無宿善の機に至りては力及ばず」(4帖目第8通)、「まことに宿善まかせ」(4帖目第15通)と、信心決定は宿善の有無によって決すると教えられているではないですか。

答え

蓮如上人が仰っている宿善は、過去世の善根の意味ではありません。
たとえば3帖目第12通には、「それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。」とあります。親鸞聖人の教えを信じられる人が宿善の有る人で、親鸞聖人の教えを信じられない人は宿善の無い人になります。
要するに蓮如上人が仰っていることは、信心決定は親鸞聖人の教えを信じられるかどうかによって決する、ということです。

(参照)
「難信」と宿善との関係

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2013年1月13日 (日)

一口問答(宿善5)

問い

仏智を体得せられた高森先生が「諸善は信心獲得の因縁なり」と教えられているのです。善をしないで信心獲得することは、ありえないです。

答え

善導大師は悪人の定義を「仏法・世俗の二種の善根あることなし。」(観無量寿経疏)とされています。高森会長の好きな「あることなし」です。過去世においても善をしてこなかった悪人が、念仏で往生できる、と善導大師が教えられたのですが、高森会長の説では、悪人は18願によっても救われることは絶対にないことになります。しかも、全人類は悪人、と高森会長は断言しています。
親鸞聖人が、「阿弥陀仏の浄土から出られた方」と尊敬された善導大師の解釈を完全否定する智慧を体得したのが、高森会長ということですね。

(参照)
かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず

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2013年1月12日 (土)

一口問答(宿善4)

問い

では信心決定の遅速は、過去世の善根の厚薄以外に何で決まると言うのですか。

答え

このことについて源信僧都は「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」(往生要集)と仰っています。また「上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。」(同)とも仰っています。
過去世の善根の厚薄で18願の教えを聞いたり聞けなかったりするような単純なものではないということです。
源信僧都でさえ判らないと仰ることを明言できるのは、仏智でも体得したつもりでしょうか。

(参照)
「生死の因縁は不可思議なり」と仰る源信僧都、「諸善は信心獲得の因縁なり」と断言する高森会長

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2013年1月11日 (金)

一口問答(宿善3)

最近の親鸞会の引き籠り状態は酷いものです。聖教上のお言葉を出すと、殻の外には決して出ようとしません。高森会長も講師部員も、そして会員までもです。親鸞会が、聖教上のお言葉を武器にして、外でやりたい放題暴れまわっていたのは、遠い昔のこととなりました。

問い

蓮如上人は、「陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。」(御一代記聞書)と仰っているように、宿善の厚薄によって、早く救われるか遅く救われるか決まるのではないですか。

答え

これは蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』の一節を言い換えられたものです。「仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。」とあるように、『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」とは、『安心決定鈔』の「衆生がこのことわりをしること不同」の言い換えですから、ここでの「宿善」とは「信心決定」のことです。
実際、『御一代記聞書』には「当流には信をとることを宿善といふ。」ともあります。
過去世の善根の厚薄によって、信心決定の遅速が決まるということではありません。信心決定に遅速があるから往生にも遅速がある、という意味です。

(参照)
弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり

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2013年1月 9日 (水)

一口問答(宿善2)

一般の講師部員とは比較にならない程、高森会長と縁の深い幹部が、つい先日亡くなったと聞きました。過労が原因と思われます。
高森会長に、”本当の親鸞聖人のみ教え”と騙されて、親鸞聖人の教えとは正反対の教えを聞かされて亡くなっていく会員は、非常に哀れです。
生前は、命懸けの求道をしている、と誉められてはいなかったと思いますが、結果的には命懸けの求道であったにも関わらず、「微塵の善もできない者」と知らされることなく亡くなっていったことでしょう。当たり前です。親鸞会の言う善を実践してきたのですから、「自分なりに善をしてきた」と知らされるだけで「微塵の善もできない者」と知らされることなど、永久にありません。

さて、親鸞会の会員が善に拘る理由は、高森会長の説く因果の道理にあります。

善をしてこなかった者より、善をしてきた者の方が早く救われるに決まっている

という思考がそれです。言い換えると

宿善の薄い者より、宿善の厚い者が先に救われるに決まっている

という高森流因果の道理に基づいた宿善論です。

では、本題に入ります。

問い

因果の道理から言っても、宿善の薄い者より、宿善の厚い者が先に救われるに決まっているではないですか。

答え

覚如上人は親鸞聖人のお言葉を承けられて、「宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。」(口伝鈔)と教えられました。
宿善を過去世の善根という意味で、宿善の厚薄は過去の因とし、往生という大きな利益は阿弥陀仏のお力にすべてをお任せするのであって、宿善の厚薄で往生できるかどうか決まるのではない、ということです。つまり、高森会長の説く因果の道理と18願の救いとは無関係です。

(参照)
宿善の概念も、聖道門とそっくりな高森会長

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2013年1月 8日 (火)

一口問答(宿善1)

いつもの10項目から判る親鸞聖人の教えを簡単にまとめると、

五逆謗法の極重の悪人もいれば、十悪の軽度の悪人もいる。善のできる善人もいれば、聖者の位にまで至った菩薩もある。もちろん死後が一律に必堕無間なんてことはあり得ない。
善人に対して善が説かれ、悪人に対しては最初から最後まで念仏しか勧められていない。しかし、善人といえども念仏でしか報土往生はできない。つまり、自力では報土往生はできない。このように知らされることが機の深信であり、これを説く人が善知識である。

ということです。
高森会長の教えていることとは、まるっきり反対です。

さて、理性の残っている人なら、上記のことは概ね理解できるでしょうが、最後に引っ掛かるのが、過去世の行いです。この迷いに付け込んだのが高森会長です。いわゆる宿善論というものです。この宿善論についての一口問答を書いていきます。

問い

宿善とは宿世の善根ということで、過去世に善をどれだけしてきたかによって、早く救われるかどうか決まってくるから、現在世でも善をしていくことが早く救われる近道です。

答え

宿善の理解がデタラメです。通仏教では宿善は宿世の善根という意味ですが、この意味での宿善と18願の救いとは関係ありません。
法然上人は「弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおほしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せす、つみのふかきあさきも返りみす、たた名号となふるものの、往生するそと信しおほしめすへく候。」(拾遺語灯録)と仰っています。
親鸞聖人のお言葉として覚如上人が「機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。」(口伝鈔)と紹介されています。
宿世の善根は、報土往生のプラスにもマイナスにもならないと断言されています。

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2013年1月 6日 (日)

高森会長を是とする親鸞会会員、高森会長を非とする退会者

親鸞会の現会員の考え方は、

高森会長が絶対間違いのない善知識で、他は悪知識。
高森会長が親鸞聖人の仰せと異なることを言っているようでも、すべて親鸞聖人の本当の御心を理解して現代の我々に判るように説明を変えられているだけ。

というようなものです。
では、高森会長が正しいという証拠はあるのか、といつもの10項目を示して尋ねてみても、

親鸞聖人がどう仰っていようが関係ない、高森会長の教えていることがすべて正しい

としか答えられないのです。
これでは議論もできませんし、会話もまともに成立しません。日頃から馬鹿にしている「鰯の頭も信心から」そのままです。

大体、高森会長がどんな人物なのか会員は伝聞でしか知らないのです。支部長や担当講師などから間接的に高森会長の人物像を聞いているだけですが、その支部長・担当講師でさえも高森会長と少人数で話をしたこともないのですから、高森会長の傍にいる人物からの間接的な情報を会員に伝えているだけです。

結局のところ、高森会長の真の姿を知っているのは、ほんの一握りの側近だけです。

そんな知りもしない人物を、最高の人格者、最高の教学を備えた方、と崇めているのですから、「鰯の頭も信心から」と先に言った通りではありませんか。

インターネットの発達によって、高森会長の人格がおかしいことは、会員にも広く知れるところとなっていますが、教学については、

あの本願寺と法論をして、本願寺を黙らせた。法論に全戦全勝の凄い方。

ということを根拠にしている会員がほとんどだと思いますが、実際は違います。本願寺が黙ったのは事実ですが、それと法論に勝ったこととは同じではありません。

こんな無茶苦茶な相手では法論にならない

と呆れても、黙ります。その理由の1つが、高森会長には真宗の常識も社会常識も欠けていますので、高森会長は突飛なことを言い続けるからでしょう。

外部の人間には、高森会長の思考がまるで理解できないと思います。しかし、長年高森会長の話を聞いてきた退会者には、高森会長の思考と論理はおおむね判ります。それで退会者との法論では、高森会長及び親鸞会は、ただの1度も法論に勝てず、すべて沈黙逃亡しています。相手の沈黙をもって、法論の勝利を宣言してきた親鸞会にとっては、完全な敗北が続いているのです。その先駆けがmixi上での三願転入の法論でした。その前後にも講師部員単独であったり、後ろに弘宣局や教学課がいたりした法論もありましたが、すべて沈黙逃亡です。

優秀な頭脳を集めている筈なのに、なぜにここまで脆いのか

と思われるかもしれませんが、答えは簡単です。いくら優秀な人材がいたとしても、最初に書いた

高森会長が絶対間違いのない善知識で、他は悪知識。
高森会長が親鸞聖人の仰せと異なることを言っているようでも、すべて親鸞聖人の本当の御心を理解して現代の我々に判るように説明を変えられているだけ。

この考え方から脱することができないからです。もともと真宗学を勉強したこともない高森会長を是、として出発してはすべて裏目に出ます。
退会者は、高森会長を非、として出発すると聖教が正しく理解できるようになります。

くどいようですが、以下の10項目を念頭に入れて聖教を読むと、難しい御文も簡単に理解できます。当ブログも、この通りに書いていますので、これをよくよく理解しておいてください。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

今後、顕真の「ひと口問答」がまた始まるのかどうか判りませんが、8番目の宿善のところから、親鸞会の反論を想定して「一口問答」を再開していきます。

6番目までのまとめは

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

にありますので、そちらをご覧ください。

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2013年1月 3日 (木)

高森会長から末端の会員まで、高森学徒サークル

新年となりましたが、親鸞会の体質はますます酷くなる一方です。
退会された方の中には、この年末年始を利用して、現会員と連絡をとろうとしたり、実際に会って話をした方もあるようですが、そこで感じられたことは、以前の”破邪顕正の闘士たれ”の心意気が現会員からは完全に失われてしまったことです。

高森会長が法論から逃げ回り、幹部講師が法論を無視せざるを得ないのは、間違った教えを説いている確信犯ですから、いわば当然かもしれませんが、話を聞いている多くの会員も、高森会長の説く教えが親鸞聖人の教えとは異なっていることに薄々気が付いているのです。

結局のところ、外部情報を完全に遮断された会員は別として、それなりに外部情報を得ている多くの会員は、親鸞聖人の教えを信じているのではなく、高森会長の教えを信じているだけなのです。それでは新興宗教と何ら変わりないので、”浄土真宗”、”親鸞聖人”という権威付けをしているのが、高森会長から末端の会員までの姿です。

後生の一大事の解決、と叫んでみたところで、そんな夢のような話に興味はなく、絶対の幸福、とかいう空想の世界に何となく憧れて、親鸞会という反社会的集団の中でのサークル活動に勤しむことが、唯一の生き甲斐になっているに過ぎません。
親鸞学徒の誇りの欠片もありません。高森学徒の自覚しかないのです。

親鸞会は上から下まで、完全に落ちぶれてしまっています。

様々な経緯があってこのような状態になっているのですが、直接的にはmixiでの三願転入の法論での、消し難い大惨敗が影響しているようです。

チューリップ法論までは、勝利を装うことができて、大々的に勝利宣言をして宣伝にまで使ってきましたが、mixiでの法論ではそれさえもできない状態であったからです。
その後は御存知の通り、様々な立場で法論に挑むも、一度として勝利を装うことができませんでした。高森会長も講師部員も会員も、現在は法論恐怖症に陥っているのです。その雰囲気に嫌気をさして、時々、親鸞会批判のブログでコメントをしてくる会員がありますが、結果はいつも同じです。

私は高森会長に変わって欲しいとは思っていませんし、幹部講師が心を入れ替えることも期待していません。確信犯ですから無理です。しかし、本当に外部情報を知らない会員には、何とかこの事実を知らせたいと思っています。

情報提供と情報遮断との攻防という、レベルの低い争いになっていますが、今年もブログを更新して攻め続けます。ただし、同じことの繰り返しも多くなりますので、古くからの読者の方には申し訳ありませんが、その点御了承下さい。基本は今年も変わらず以下です。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

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