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2012年12月16日 (日)

高森会長知ったかぶりの「聞」

前回、「」について少し述べました。親鸞聖人は「」を他力の信心という意味で使われています。

『教行信証』信巻

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

『尊号真像銘文』

「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずと申すなり

『一念多念証文』

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

『唯信鈔文意』

「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。

親鸞聖人は、自力念仏と他力念仏との峻別に力を注がれ、念仏という行よりも念仏の信心を問題にされているのです。もちろんそこには、念仏1つという大前提があってのことです。
高森会長は、信心正因称名報恩を誤解して、念仏と信心とが別の要素のように説明していますが、念仏1つという信心に自力と他力があるのですから、念仏抜きに信心を語ることはできません。
念仏1つという信心に自力と他力があり、親鸞聖人は「」をもって他力を顕わされたのです。

ところが高森会長は、念仏1つどころか善を勧めて、その理由として「」と善とを組み合わせて「聞法善」とか言っているのですから滑稽です。

存覚上人は『浄土見聞集』で、

聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

と言われていますが、聴聞という自力の積み重ねで他力になるのではありません。「他力よりきき」であり、「自力のはからひちりばかりもよりつかざる」なのです。

何から何までずれているのが高森会長です。

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コメント

素晴らしい説法有難うございます。まさに開顕ですね。
十年ほど前のs会批判から比べると、隔世の感があります。ここまで親鸞聖人の教えのエキスを抽出して頂かないと、高森のドグマから会員を解放することはできなかったでのでありましょう。彼の説く二種深心は画餅に過ぎず、誰も食べたことのない高森本人も食べていない、偽物であったのだと。今の世に至って元会員に信心決定者が多く現れ、高森語を理解しつつ飛雲さんの説法を聞くと、如何に親鸞会がこの世間に害悪を垂れ流しているかが浮き彫りになります。

この説法を読めば、未信でも、また高森本人でも「そうか」と理解できる。それでも不浄説法を続けるのか、在籍し続けるのか。その罪過の重みはそれぞれがよくよく自覚するしかありますまい。

投稿: シンジンタロウ | 2012年12月16日 (日) 10時42分

「雑行をしていない者は始まっとらん」などと放言し、念仏一つという大前提すらわかっていない会長と会員は、まさに「始まっとらん」です。自分達こそ親鸞学徒だと胸を張っている滑稽さに乾杯です。

投稿: 黒猫 | 2012年12月16日 (日) 13時44分

シンジンタロウ 様

私は聖教に書かれてある通りにしか述べていません。独特の解釈をしている、と非難されても、聖教に実際に書いてあるのですから、何もやましいところはありません。
一方で高森会長は、独特の曲解が多すぎます。しかし本人はひょっとしたら大真面目に正しい解釈をしていると思い込んでいるのかもしれません。ちょっと信じがたいことですが、高森会長なら有り得ることです。


黒猫 様

真宗は「雑行を捨てていない者は始まっとらん」ですね。雑行は信一念まで捨てられないとか妄想しているのも、救いようのない論理です。

投稿: 飛雲 | 2012年12月16日 (日) 21時40分

浄土の教えを真剣に聞法することは、"善"でなく"念仏"ということでしょうか?

投稿: ショウ | 2013年8月 9日 (金) 17時49分

ショウ 様

今回のエントリーを読んで頂ければお判りいただけると思いますが、まず

「聞」=「信心」

です。

「浄土の教えを真剣に聞法すること」が何にあたるのかですが、本来は「聞」=「信心」のことです。

では信前の「浄土の教えを真剣に聞法すること」は何だ、と思われるかと思いますが、「浄土の教え」とは、
「18願の教え」、「親鸞聖人の教え」という前提で話をすると、これは

「善を捨てて念仏一行に帰す」

のことです。

以上のことから、

「浄土の教えを真剣に聞法すること」=「善を捨てて念仏一行に帰すという教えを聞法すること」
が「善」と考えることは、おかしな話になります。
では念仏と言い換えることができるかと言えば、やや疑問があります。
他力念仏を称えよ、信心を獲よ、という言い方の方がよいと思います。

まとめると、

「浄土の教えを真剣に聞法すること」=「善を捨てて念仏一行に帰すという教えを聞法すること」

は、「信心」そのものであり、信前の立場で言うなら、「信心を獲よ」ということです。

投稿: 飛雲 | 2013年8月 9日 (金) 20時03分

飛雲 様
お答え頂き、有難うございました。

投稿: ショウ | 2013年8月10日 (土) 08時07分

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