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2012年12月 8日 (土)

善知識の能といふは、諸善を捨てて念仏一行になれと、ひとをすすむべきばかりなり

下品下生の往生を理解すると、真宗教義の基礎ができます。しかし、下品下生の往生が理解できないと、真宗は始まりません。親鸞会は、真宗を名乗っていますが、真宗が始まっていないのです。

五重の義では、宿善の次に善知識ですが、下品下生の者に善知識が勧められたことは何でしょうか?
念仏だけです。
『観無量寿経』でも、もちろん『玄義分』においても

命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。

と、念仏だけしか善知識は教えられていないのです。これが善知識の役割です。
親鸞会でも言葉だけは知っている『御文章』2帖目第11通

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり

にもある通り、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と教える方が善知識なのです。
ところがこの「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」を読めないのが、高森会長です。阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に仕えてはならない、としか理解していないのですが、実にお粗末です。

高森会長のために「一向専念無量寿仏」の意味を教えてあげます

でも教えてあげた通り、諸仏とともに諸善を捨てて念仏一行になれを「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と仰っているのです。
法然上人のお言葉でいうなら、

諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ『選択本願念仏集』

親鸞聖人のお言葉なら

一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。(『一念多念証文』

蓮如上人のお言葉では

南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや(『御文章』2帖目第9通

です。
つまり、諸善を勧めることは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」とは正反対だということです。

実際に、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が諸善を勧められたお言葉は皆無です。

捨てよとは教えられているが不要とは教えられていない

とか、小学生のようなだだを捏ねるのが精一杯でしょう。
高森会長がどんな根拠をだそうが、すべて、

高森会長は悪知識

を証明する根拠にしかならないのです。

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コメント

講師も学徒も会全体として一人も反論できない教義にしがみつく理由はなんでしょうね?昔は、会に直接関係なかった岩波仏教辞典や教科書にも異議を呈していたのに。

投稿: | 2012年12月 9日 (日) 13時08分

冷静に読ませてもらったら、「どちらがウソか」分かりそうな感じですね。私にはまだ、リハビリが必要ですが感謝しています。

投稿: | 2012年12月 9日 (日) 20時04分

以前の会長は、無二の善知識を演じているうちに、本物の無二の善知識になったのだと勘違いしていたのではないかと思います。ところがここ数年の、怒涛のような教義批判で、白昼夢から現実に引き戻されたのでしょう。
講師部員と会員は騙されている側ですから、自分が騙されたと認めることはプライドが許さないのでしょう。
退会しても、こんなところまで騙されていたとは、思わないことも多いです。

投稿: 飛雲 | 2012年12月10日 (月) 20時25分

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