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2012年12月25日 (火)

親鸞聖人が強調された「欣慕浄土の善根」を無視し続ける高森会長と親鸞会

親鸞会は、法論に連戦連勝(?)することで、教義の正当性を会の内外にアピールしてきました。今でも『歎異抄をひらく』の反論本が出ていないとか、お目出度いことを言っているのですが、実際に親鸞会を攻撃してきた相手に対しては、逃げの一手です。3年近く前になりますが、mixiでの三願転入の法論で、完膚なきまでに叩きのめされてからは、公式な法論は厳禁になりました。

何のことはありません、高森会長も親鸞会も、真宗教義には全くの無知であったのです。高森会長が学んだ教義は、味わい中心の大沼師の教学と創価学会の教義です。そんな無知の人物が、真宗教義を語ってきたのですから、お笑いです。

さて、前回少し述べた第三深信ですが、この善導大師の解釈について『教行信証』化土巻

これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

これらはみな自力の行であって、 辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。 だから、 浄土に生れても仏を見たてまつることができず、 教えを聞くことができず、 菩薩や声聞たちを見ることもできない。 阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

とあります。19願、定散二善の実践に励んでも化土往生しかできないが、ではなぜそんな教えを説かれたのかと言えば、欣慕のためである、ということです。

同じことを『教行信証』化土巻・隠顕釈に、

しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と教えられています。
19願、定散二善は、欣慕浄土の善根なのです。つまり、浄土を願っていない聖道門の人に、浄土を願わせるためのものである、ということです。

また『三経往生文類』にも、

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

とやはり同じことを仰っています。
浄土を願っていない聖道門の人には、浄土を願わせる欣慕浄土善根必要です。浄土を願わない者が往生することはないからです。そのための19願、定散二善という方便だと親鸞聖人は繰り返し仰っているのです。

こんな簡単な話が理解できない、というよりも理解したくないのが高森会長と親鸞会の面々です。

では、方便の19願、定散二善のままで終わってしまったならばどうなるのか、について

これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。

しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。

と仰っているのです。つまり、聖道門の人を浄土門に導くための方便である19願、定散二善ではあるけれども、そこに留まっていたならば化土往生にしかならないということです。

だから、報土往生の18願、他力念仏に帰しなさいと繰り返し教えられたのです。

それを、親鸞聖人が19願、定散二善を勧められていると大ウソをつきまくって大恥を晒したのが、mixiでの三願転入の法論でした。

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