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2012年12月10日 (月)

念仏軽視の高森会長には判らない他力念仏と自力念仏

『観無量寿経』に説かれた下品下生の往生について理解できれば、親鸞会に提示している以下のことは容易に判ることです。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

ただし、5の白道と7の19願については『観無量寿経』に関連したこととは言いながらも、真宗学をもう少し勉強しないと判らないことでしょう。

さて、下品下生の往生という基礎の上に組み立てられたのが真宗学ですが、その骨組みとなるのが自力念仏と他力念仏との峻別です。そのことがよく判るのが、『三経往生文類』です。

『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。 これを双樹林下往生と申すなり。

とあります。
中品下生以上には諸善が説かれ、下品上生以下に念仏が勧められているのですが、その念仏が「自力の称名念仏」であると、それは「観経往生」であり、「方便化土の往生」「双樹林下往生」と仰っているのです。

下品下生の意味も、もちろん知らない高森会長

のところで紹介した『唯信鈔文意』のお言葉は他力念仏です。
つまり、五逆の者が臨終に十回の念仏で往生するといっても、

他力念仏 → 報土往生
自力念仏 → 化土往生

という違いのあることを親鸞聖人は教えられているのです。『阿弥陀経』に説かれている念仏についても同様です。
もちろん自力念仏では無間地獄に堕ちるなどと教える外道とは、次元の違う教えです。これが信心ということになるのですが、それはあくまで基礎である下品下生の往生ということが判った上でのことです。そうでないと

念仏1つで助かると言うのは間違いで、信心1つで助かるが正しい

とかいう高森会長のような頓珍漢な教えになるのです。
一応説明しておきますと、念仏と信心との関係を判るように言うと

念仏1つで助かるという信心1つで助かる

ということです。言葉は違っても、「念仏1つで助かる」と「信心1つで助かる」とは同じことです。その信心に他力の信心と自力の信心があることを詳しく教えて下されたのが親鸞聖です。『末灯鈔』にも

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

と教えられている通りです。「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」が他力の信心です。
一方で自力の信心とは『正像末和讃』誡疑讃

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

とある通りです。「罪福信じ善本をたの」むことが自力の信心ですから、高森会長が何かの1つ覚えでいっている”因果の道理”を強調すればするほど、自力の信心から離れられなくなります。
尤も、高森会長は念仏自体を軽視していますので、親鸞会においては自力念仏を問題にする必要はないでしょう。善を勧めていて、浄土真宗になっていないのですから。

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コメント

>念仏1つで助かるという信心1つで助かる

ん~。何ともエクセレントな文章ですね。有り難うございます。

投稿: 黒猫 | 2012年12月11日 (火) 00時13分

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

投稿: 凡夫 | 2012年12月11日 (火) 12時30分

親鸞会では念仏を称える位なら善をせよという風潮がありましたね。

会員時代は念仏なんてお勤めの時くらいしか称えてなかったです。

自分は信前なのに念仏称えていいのかな、信前だから念仏ばかり称えていては駄目だ、もっと善に励まねば…こんなように考えている会員さんもいるんじゃないかと思います。

投稿: | 2012年12月11日 (火) 21時57分

お久しぶりです。
退会してそろそろ1年経とうとしていますが、会のほうは相変わらずのようですね。
本当に退会して良かったと思っております。


私事ですが、先日母の実家に行った際に、とどろきが置いてありびっくりしました。
見ると、お試しセットのようなもので安心しましたが、厳重にやめるように言いました。
郡上なので富山から近いからでしょうか、危ないところでした。
祖母がそれを見たのが1年前だったら大いにすすめていたでしょう。
本当にぞっとしています。


改めて邪教から抜け出せた縁をありがたく存じます。
こちらは今物凄い多忙で、なかなか法話の機会も持てませんが、今度も活動頑張ってください。

投稿: speed | 2012年12月12日 (水) 05時25分

コメント頂いた皆様

コメント有難うございます。
親鸞会は念仏を軽視していて、浄土門にさえ入っていないです。
仕事の片手間でしか勉強もブログの更新もできませんが、できる限り続けていきたいと思っております。

投稿: 飛雲 | 2012年12月13日 (木) 20時37分

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